第十七章 旅路へ

風吹く高台から、海を眺めて

 灰色の空の下では、真っ白な城壁も、いまひとつだった。

 よく晴れた日の朝には、いかにも堂々として見えるものなのだ。門から大勢の旅人を吐き出し、また迎え入れるその姿は、美しいだけでなく、頼もしさを感じさせる。だが、今日に限っては、なんとなくしょげ返っているような雰囲気があった。それに出入りする旅人も少なく、どうにもよそよそしさが漂う。


 そんなピュリスの北門の前で、馬車は速度を緩めた。


 短くも長かった帰りの旅も、これで終わりだ。

 俺は後に続くもう一台の馬車を見やる。


 ウェルモルドの投降で、今回の内紛における戦闘行為がほぼすべて終結した。彼は即日斬首され、第二軍には武装解除、及び待機命令が下された。

 ついで王都内の貴族達の身柄の確保が始まった。これを機に政敵をまとめて葬り去るつもりのタンディラールは、移動の自由を許さなかったのだ。そして、彼らのほとんどはいまだに王都を離れられない。建前としては、戴冠式と論功行賞が終わるまで。


 だが、サフィスについては別だった。後宮まで駆けつけて生死を共にしたのだし、下僕達も反逆者相手に死力を尽くした。よって信用面の問題はない。

 一方、ピュリスの統治上の問題もあった。配下の兵の大半を率いて駆けつけたバルドが戦死したため、今のピュリスには管理者がいない。既にサフィスに先んじること一日、海竜兵団の中で健全な状態にあるものは既に帰路についているが、代わりの軍団長が赴任するまでは、サフィスが彼らの指揮官を兼任しなければならない。

 そういうわけで、タンディラールは多忙な中、サフィスのために一台の馬車を用意した。立派な黒塗りの、王家が旅行用に使うものだ。しかも御者までつけてくれた。だが……


 王子の配慮は、不足していた。今のサフィスには、自分より大事な荷物があったのだ。

 その辺をイフロースはよく承知していた。混乱が収まったばかりの王都で、彼は買い物に出かけた。スラムのあの一室で、無残な妻の亡骸を抱きかかえて咽び泣く彼のために、大きく頑丈な柩を用意したのだ。

 今は秋だが、冬場でも何日も経てば遺体は腐敗していく。そしてサフィスは、妻を王都に葬るつもりはなかった。それに子供達も傍にいない。ピュリスまでの五日間で、エレイアラの遺体は、すっかり駄目になってしまうだろう。それこそ、生前の美貌を思い出せなくなるくらいに。だから、ここで密閉するほかない。本当なら、子供達には最後に母の顔を見せてやりたいのだが、それは叶わぬことだ。


 多くの人が買い求める中、よくこれだけのものを確保できたと思う。用意した柩は、確かに良い品だった。ただその分、重く、また嵩張る代物だった。

 それにタンディラールが用意した馬車の中には、乗客がくつろげるように、上質な絨毯やクッション、椅子などが付属していた。そんな中に運び入れるなどできるはずもなく。


 結果がこれだ。

 イフロースは、とりあえずの馬と馬車とを用意した。そこに柩を運び込み、自ら御者を務めた。そしてサフィスは……片時たりとも妻の傍を離れようとしなかった。

 だから俺はこの五日間、上等な馬車の一室を一人きりで占拠していたことになる。荷物番も必要だから、どうしてもこうなった。まったく、居心地がいいのか、悪いのか。


 馬車が門をくぐると、あの見慣れた風景が目に映った。北門付近の、あの円形の広場だ。

 白亜のピュリスとは言いながらも、北門周辺から東は、別に真っ白というわけではない。新市街まで白一色に染めるには、石材が不足したためだ。だから、頭上の曇天と同じく、どうにもパッとしない、くすんだ色になっている。もっとも、これはこれで悪くないし、落ち着きがあっていいと思う。

 ここに来ると、毎度のことながら「帰ってきた」という実感がわく。


 それにしても、本当なら二週間かからず済むはずだった小旅行が、まるまる一ヶ月の大事件になってしまった。もうすぐ黄玉の月だ。ノーラは元気にしているだろうか?


 馬車が右折し、官邸の東門に向かう道をとった。ここも、今ではすっかり見慣れた道だ。そして、数々の思い出がある。

 俺が官邸を出されて、薬屋の店長に据えられた時。馬車に揺られてアイビィとここを下った。グルービーの手によるピュリス襲撃の際には、ここを駆け上がったものだった。この門の前で、ウィーが警備員と話し込んでいたこともあったっけ。今にして思えば、あれは例の「下着狩り」の件を語っていたのだろう。恥ずかしそうにしていたし。


 本館の前で、馬車が足を止めた。俺は急いで飛び降りる。物音を聞きつけて、大勢の人が外へと出てきた。

 まず、カーンとメイド長。続いてランとウィム。ナギアとリリアーナ。イーナ女史やセーン料理長も。これまた見慣れた人達だ。縁があって、この場所で一緒に暮らした。


 後ろの馬車から、サフィスが静かに降り立ち、居並ぶ彼らの前に出てきた。その足取りは相変わらず重かったが、顔には、上辺だけの弱々しい笑みがくっついていた。

 周囲は静まり返っていた。無数の視線が集まる中、サフィスはポツリと話し出した。


「皆、苦労をかけた。私の不明でこのようなことになった。まずは詫びたい」


 不思議なほど、力みのない声だった。

 演技ではないのだ。中庭での毎朝の挨拶でも、きれいごとなら口にしてきた。フランクで、下僕に近しい主人という虚像を見せ付けてきた。だが、今のこれは、明らかに別物だ。


「そして、礼を言わせて欲しい。おかげで私はここにいる。だが、それより何より、最後まで妻の傍にいてくれたこと。これに感謝したい」


 そう言うと、彼は頭を垂れた。

 今までのサフィスであれば、まず考えられない振る舞いだった。それほどまでに、あの動乱とエレイアラの死は、衝撃だったのだ。


「慌しくて済まないが、明日にでも妻を……眠らせようと思う。みんなで見送ってやりたい。忙しいだろうが、都合をつけて欲しい」


 その一言を待って、イフロースが前に出た。


「では」


 彼がカーンに目配せする。

 それを受けて、家宰代行を務めていた彼が号令を下す。


「各自、とりあえずは持ち場に。追って指示する」


 それで人々はばらばらと引き下がっていった。リリアーナが何か言いたげにしていたが、ナギアに手を引かれて去っていく。


「ファルス」


 頭上から声がして、振り返る。サフィスだった。


「教えて欲しいことがある」

「なんでしょうか」


 一瞬、自分の秘密について訊かれるのかと思ったが、すぐそれはないとわかった。

 サフィスの表情が、いつになく穏やかで、優しげだったからだ。


「私は、この街をよく知らないんだ」

「はっ……?」

「ああ、もちろん仕事柄、地図も見るし、あがってくる数字にも目は通している。そういうことではなくて……あまり散歩したことがない」

「はい」


 何を言おうとしているのか、やっと理解が追いついてきた。


「お前なら、街中にも詳しいだろう? 一番きれいな場所を、教えて欲しい」


 美しいといえる場所なら、無数にある。大通りから眺める街の西側は、白い山のようだし、真っ白な城壁も立派なものだ。だが、彼が求めるのはそういう美しさではない。


「思い出のある場所が一番かと思いますが」


 彼は、エレイアラの墓所を探しているのだ。


「それは難しいな」


 だが、サフィスは首を振った。


「妻との思い出は……この官邸の中を除けば、あとは結婚式を挙げた王都か、留学時代の帝都くらいしかない。それも帝都にいた頃の私は、彼女とは何にもなかったからな……ああ」


 彼は記憶を遡り、嘆息し、苦笑して首を振った。


「つくづくひどい夫だったな、私は」


 言葉もない。

 では、なるべくいい場所を選ぶしかない。


「えっと、では」

「ああ」

「……街の南側、東側の波止場と、西側の軍港の間。女神神殿がある辺りですね。あそこは、今は道路工事も進んでいますが、奥まった場所、海のすぐ近くはまだ、空き地があったかと思います。所有者は確認していませんが、恐らく神殿の管理かと」

「ほう」

「晴れた日には、高台の上から、青空の下の水平線を眺めることができます。海風が清々しい、いい場所ですよ。僕のお気に入りでした」

「いいな」


 これも懐かしい。ガッシュ達相手に剣術の練習をしたのもあそこだ。クローマーと戦ったのも、それと……アイビィと最後に眺めた海も、あの場所からだった。

 気がつけば、この街のあちこちに思い出が刻まれている。


 だが、彼は真顔に戻って、少し考えるような素振りを見せた。それから言った。


「そこを借りていいか、ファルス」

「は、はい」

「そうか、助かる。ありがとう」


 それだけ言うと、彼は踵を返して去っていこうとした。墓所の手配をするためだ。


 借りていいか。俺のお気に入りの場所だから。ファルスにもそこに思い出があるのに、勝手に踏み込んで墓なんか建てていいのか。

 あのサフィスが、そんな配慮をするようになったのか。


「閣下」


 ふと、足を止めたサフィスが、振り返った。


「明日は……晴れるといいですね」


 初めて見るような穏やかな笑顔を浮かべると、彼はまた前を向き、去っていった。


 明日はすぐまた官邸に戻らなければいけないが、今日に限っては一時帰宅が許された。それで俺は、歩いて自宅に引き返したのだが……

 鍵がかかっていた。


 はて? ノーラは? 仕事中だろうか? 神殿、それとも酒場か。

 家に立ち入るも、違和感をおぼえる。どうも人気がない。ふと、胸騒ぎがして、部屋から部屋へと見て回る。キッチンの竈を確認して、確信した。少なくともここ数日、ここには人がいなかった。

 そうなると、心配なのは屋上だ。


 一気に上まで駆け上がって、並べられた二本の植木を確認する。

 問題なかった。ピュリスでも雨が降る日もあったはず。どちらも枯れそうな様子はない。


 いったいどういうことだ?

 ノーラが誘拐されたとか? まさかとは思うが、それならザリナも気付くはずだが。おかしい。

 とにかく、自分の部屋に戻って……


 ……自室の机の上に、メモがあった。


『ノーラさんは預かりました。返して欲しくば教会へ。なお、男は臭いので、身を清めてから来るように。 ……リン・ウォカエー』


 脱力してその場に突っ伏した。


 まったく。

 俺がいないと思って、調子に乗りやがって。あのロリコン司祭は。こっちは長旅で疲れてるってのに。

 正直、後にしたいが、やはり心配なので、今行かなくては。まぁ、実害はないだろうが。


 そういうわけで、わざわざ街の南側まで来ておいてから、また北門付近まで歩いて戻ることになった。ずっと座りっぱなしだったこともあって、歩き詰めになっても、足はさほどきつくはない。ただ、全体的な疲労感ならあるので、微妙にしんどくはある。


 家々が立ち並ぶ中に、ぽっかりと庭を伴う教会があった。くすんだ色の建物が多い街の北側でも、セリパス教会のそれは、特に陰気に見えた。平らな庭。その空間をポツポツと埋める、生命の躍動を感じさせない暗い色合いの庭木。ピュリスにしては背の低い建物。その正面にある、人を拒むような、いかつい木の扉。教会のシンボルマークの形にデザインされた金属の板が、今日も来客を威嚇していた。


「ごめんください」


 何度か立ち寄ったことがあるが、ここには罠がある。迂闊に立ち入るのは危険だ。

 しばらくして、中から物音が聞こえてきた。燭台を手にしたリンがやってきたのだ。


「やっと来ましたか、面倒事を惹き起こす罪人よ」

「それ、もう、正式なセリパス教会の挨拶から外れてますよね?」


 俺の抗議になど耳も貸さず、彼女はさっさと歩いていってしまう。それでついていくと、空気の冷たい地下、この教会の居間に辿り着いた。


「帰ってきましたよ、ノーラさん」


 ソファには、サディスとノーラが腰掛けていた。だが、この一声で目を見開いて立ち上がる。

 言葉はない。じっと俺を見つめて、瞬きするばかりだ。


「だから言ったでしょう? ファルスがそう簡単に死んだりなんかしないと」

「どういうことですか」

「私と正義の女神に感謝なさい」


 振り返ると、彼女はカンテラを持っていないほうの手を腰に当て、ない胸を反らしながら、説明し始めた。


「先日、ピュリスの海竜兵団が王都に向けて出動したでしょう」

「あ、はい」

「それと同時に、総督官邸のほうにも連絡が入って、要するに子爵とその従者達の安否も不明だったわけですよ」

「そうですね。いろいろ大変なことになりまして」

「で、王都で何か起きたらしいと聞いて……」


 リンはノーラをじっと見た。


「私が気付かなければ、彼女は一人で王都に向かっていましたよ?」

「は?」

「北門付近で、重い荷物を背負って歩いているのを、たまたま見かけたのです。それと気付いて、慌てて止めましたが」


 そういうことか。

 予定の日を過ぎても、ファルスが帰ってこない。しかも軍隊が動くほどの異常事態が王都で起きた。俺に何かあったかもしれない、と思ったわけだ。


「ノーラ」

「なぁに?」

「確かに王都では大変なことが起きていたけど……そんなところに、一人で乗り込んでいっても、何にもならないってわかるでしょ?」

「こればかりはファルスの言う通りです。少女が一人で……おお、汚い男達のいい餌食です」


 普段なら、リンのこのフォローも、これだからロリコンは……と言いたくなるところだが、今回に限ってはそうでもない。それくらい、動乱の最中の王都は危険だった。


「……でも」

「でもも何もありません。目を離したら、また出て行こうとしかねないから、こうやって教会に留め置いたのです。わかりましたか、ファルス。感謝なさい」

「ありがとうございました」


 俺は素直に頭を下げた。

 あのメモは、すると、彼女が書いたのをサディスあたりが運んでくれたのだろう。家の鍵はノーラが持っていたのだし。


「……やけに素直ですね?」

「いや、助かりました、本当に」

「もっと何か、ないのですか。てっきりいやらしい言葉の一つや二つは飛んでくるのではないかと覚悟していたのですが」


 お前はロリコンだから、チャンスだと思ったんだろう。とか。いくらでも思いつくが、結果論で言えば、間違いなくこれでよかった。

 しかし……


 どうもノーラは危なっかしい。


「それより、いったい何があったのですか」

「内紛です」

「それは想像がつきますが」

「王位を継げないフミール王子が、タンディラールの挑発に乗って、挙兵しました。そこにティンティナブラム伯の軍勢まで殺到して、大混乱に」


 簡単に言うと、これだけだ。


「それはさぞ、大変だったことでしょうね」

「貴族にも、多数の犠牲者が出たと思います」


 横でノーラは、表情を引き締めて話を聞いている。やはりファルスは危険な場所にいたのだと。


「結局、それはどういう形で片付きましたか? まさかまだ、問題が残っているなんてことは」

「内乱そのものは終わりました。ただ、二つほど」

「それは、何が」

「一つは……数日後に、また王都に行かなければいけません」


 この言葉に、ノーラが息を呑んだ。

 すぐ俺の肩を掴み、揺らしながら叫んだ。


「だ、だめ! ファルス、そんなところ、行っちゃ」

「ノーラ、さすがにもう、安全だよ」

「そうです、落ち着きなさい」


 諭されて、彼女は不承不承、手を離した。


「何のためですか」

「正式な戴冠式と……今回の内乱における論功行賞ですね。閣下も呼ばれているので」


 そして、俺も呼ばれているらしい。

 今回の反乱の中心人物であるウェルモルドに手傷を負わせ、ルースレスを討ち取ったとされているのが俺だ。さすがに、王家としても存在を無視するのは難しい。


「もう一つは」

「閣下の奥様が……エレイアラ様が、亡くなりました。明日、葬式です」


 今度は、リンが顔色を変えた。


「あのご夫人が……」


 深い交流があったわけでもないが、顔見知りが死んだとなれば、やはりどこか感情を揺るがされる。ましてエレイアラは幼少期の養育係がセリパス教徒だったこともあり、そちら寄りの女神教信者だったわけで、リンからすれば、官邸内の人間の中では、付き合いやすい相手の一人だったのではないか。


「それはどこでですか」

「まだわかりませんが、街の南側の空き地になるかもです。確かあそこは女神神殿の敷地なので……墓地としての利用をザリナさんが許可すれば」

「なるほど、わかりました。司祭としては顔を出せませんが、都合がつけば、個人としてはお見送りさせていただくかもしれません」


 サフィスはリンから聖献身者銀勲章なるバッジをもらってはいるが、セリパス教徒ではないから、葬式は女神神殿が仕切ることになるだろう。そこに濃紺色の僧衣に身を包んだリンが行くというのもデリカシーがない。


「よろしければおいでください。賑やかなほうが、きっと奥様も喜ばれます」


 教会を辞去して、俺とノーラは家路についた。


「……本当に驚いたよ。次からは、せめてちゃんと大人に相談してから、ああいうことはやるんだ」

「うん。ごめんなさい」


 帰り道で、俺は軽く彼女に説教した。

 だが、これで安心かというと……


 普段はどうということはない。人付き合いが下手で、けれども物覚えはよく、真面目な……まぁ普通の少女だ。なのに俺が関わると、突拍子もない行動に出かねない。しかもこの「行動」、もしそこに死のリスクがあっても、構わずノーラは突っ込んでいこうとする。

 原因はやはり、あのリンガ村に隠れ住んでいた女神か。とはいえ神託を受けるなんて、確かに人生をひっくり返すほどの大事件だ。前世でも、ただの農民の娘だったのが神の啓示を受けて、いきなり歴史に残る英雄なんかになっちゃったなんて歴史もあったのだし。だから、ノーラがおかしいとか、狂っているとか、そういうことではないのだが。

 これは何か対策をするべきかもしれない。


 ともあれ、その日は俺も疲れ果てていた。

 酒場や神殿、以前に管理していた売春宿など、知り合いのところに顔を出してから、帰って休んだ。


 翌朝。

 目覚めて、カーテンを引き開ける。

 雲が多く、風が強いが、辛うじて青空が垣間見えた。


 一度官邸に集合して、その後、揃って荷車と馬車に続いた。


 この世界の葬式は、女神教が仕切る場合、かなりシンプルなやり方になる。

 神殿から派遣された人、もしくは遺族の関係者などが、柩を運ぶ荷車を用意する。その後を、白塗りの馬車が続く。基本的にこれは、屋根がないタイプだ。そこには、遺族に近しい人が腰掛ける。その後を、葬式に参加する人が続いて歩くのだ。

 なおドレスコードだが、実は決まりがない。どんな格好で来ても許される。ただ、フォレスティアでは一般的に、男性は黒、女性は白い服を着てくることが多い。

 なので、長い行列を目にした時などには、故人とまったく関係ない人が、いきなり最後尾についてくることもあったりする。これはこれで、悪くもなんともない。むしろ、信仰に篤い人なら、何の縁もなくてもそうすることがある。


「……馬車を止めてくれ」


 唐突にサフィスが言い出した。

 何があったのかと、皆が見上げる。


「済まないが、東門から行くことにしよう」


 総督官邸の正式な出入口は、南門だ。だから、そこから奥方を送り出すのが正しい。特に指示されなくても、誰もがそう思っていたはずだ。

 では、なぜこんなことを? だが、今のサフィスに、妻を軽んじる気持ちはない。


「閣下、なぜですか」

「イフロース、他意はない。なに、王都で式を挙げて、父のいるここに改めて挨拶に来た時にな」


 穏やかな表情で、サフィスは語った。


「私がわざわざ南門まで回りこんで、正面から入ろうとしたので、エレイアラに言われたのだ。我が家なら、どこから入ろうと構わないではないですか、とな」


 昨夜一晩、彼は妻との思い出と向き合ったのかもしれない。

 見栄っ張りだったサフィスのことだ。ピュリス総督である父の権威をより大きく見せようと、わざわざ南門まで回りこんで入ろうとしたのだろう。確かに、この官邸の正門はそこだから。

 けれども彼らは王都から、つまり北門を通ってやってきたのだ。遠回りになる。普通に東門から入ればいいのだ。


 今、ここを出るにあたって、彼女なら、なんと言うだろうか? 大袈裟に南門から外に出るより、道が通じている東門から、楽に大通りに出たほうがいいと思うのではないか。

 ここは、我が家だ。彼女にとっての家なのだ。ならば、どこから入ってもいいし、出てもいい。彼女に相応しい見送り方がいいに決まっている。この葬列は、まさに彼女のためにこそあるのだから。


「失礼致しました」

「ゆっくり行こう。せかせかしても、いいことなど何もない」


 荷車が大通りに出て、そこに白い馬車が続き、大勢の使用人が歩いているのを見かけると、街の人達も注目した。事情を詳しく知らなくても、それが弔いであることはわかる。それでポツポツと、最後尾についてくる人が出てきた。

 その中に、白いワンピースを身につけ、金髪の少女を連れた女もいた。俺は目配せだけして、また前を向いた。

 葬列が俺の家の前を通ると、ノーラが外で待っていた。無言で俺の横に並び、歩き出した。


 神殿が融通を利かせてくれたらしい。

 あの崖沿いの一角には、石造りの立派な墓所が築かれていた。ただの墓石ではなくて、丈の低い東屋のようなデザインのものだ。一般人の墓の場合には、単に墓石が置かれるのみだが、富裕層や貴族となると、こうして墓石を覆う屋根まで据えつける。もちろん、墓石屋のほうでもすぐに作れるようなものではないので、注文があれば即引き渡せるよう、前もって用意している。それを昨日、ここまで運び込んだのだろう。

 では、柩は? この東屋の下に、突貫工事で穴を掘り、狭く短い階段を作りこんである。そこまで運び込めばいいわけだ。これも一般人の墓の場合はもう少し簡素で、墓石の根元に大きく穴を掘っておいて、埋めるだけだ。


 墓所を前に、白衣の神官達がようやく動き出した。墓石のすぐ前まで荷馬車に任せるわけにはいかない。ここからは彼らが担いでいくのだ。

 ただ、さっさと埋めてしまって終わりというわけではない。故人と最後の別れを惜しむ時間は必要だ。だから、別に動いている人が、墓石の前にシートを敷く。そこに柩を一時的に置くのだ。


 狭い崖沿いの空き地に、大勢の人が詰め掛けた。サフィスは少し離れたところに立って、柩の中の妻に挨拶する人々を見守っている。


「ファルス」


 斜め上からの声に、俺は彼を見上げる。


「ここはいい風が吹くな」


 笑顔だった。


「……はい」

「本当にいい場所だ。私も気に入ったよ」

「きっと奥様にも、気に入っていただけます」

「そうだな。きっと、そうだ」


 それが作り物なのは、誰にでもすぐわかる。彼は涙さえ流していない。だが、血が滲むほどに固く拳を握り締めている。

 心を覗き見るまでもない。彼はこう思っているのだ。一度くらい、ここに連れてきてやればよかった、と。


 人々の挨拶が途切れると、後ろに控えた十人くらいの神官達が、低い声で歌いだした。

 この人数も、やはり貴族の妻だからだ。一般人の葬式では、せいぜい一人か二人しか、神官を手配しないものだ。


 この歌が終わると、いよいよ柩を納めておしまいとなる。

 神妙な顔つきの神官達がそっと柩を持ち上げ、狭い階段を降りていく。


 ……そして、墓所への出入り口が今、閉じられた。


 サフィスは、無言で参列した人々に一礼した。

 これで終わり。終わってしまった。


「閣下、お帰りの馬車を」

「イフロース」


 葬式用の馬車と、帰宅用の馬車は分けるのが普通だ。死者を見送った気分を引き継がないため。悲しみをこの場に置いて済ませるため。そんな理由があるためだ。

 しかし、サフィスは首を振った。


「いらん」

「しかし、では、お帰りは」

「歩いて帰れる。それに、もう少しゆっくりしたい」

「ですが……」

「なに、私を今更狙う者も、もうおるまい」


 これ以上、強くは言えない。

 彼も悟って引き下がった。


「では、お嬢様と若君には」

「ああ、頼む」


 俺も一礼すると、ノーラを促してその場を去った。

 最後に一度だけ振り返った。


 サフィスは、遠い水平線を眺めているようだった。だがその実、その目には何物も映されてはいなかった。

 現実にはいもしないエレイアラの姿を思い浮かべながら、あそこに立っている。


 だが、彼女の魂は、ここにはもう存在しない。

 あの暗闇を通って、紫色の大広間に辿り着き、またどこかの世界に落ちていく。そしてもう、以前のことは何も覚えていない。


 人生の狭間を目にした俺でなくても、そんなことは知っている。知っていて、なお離れられない。

 自宅の開かずの間を思い出す。人はなんと愚かしいのか。失うまでは気付きもせず、失ってからは抜け殻にしがみつく。

 なんと空しいことではないか? 俺もまた、このままでは死ぬ。死んでまた、この苦しみを繰り返す。


 サフィスはただ、立ち尽くしていた。

 表情は穏やかで、涙一つ見せない。だが、その胸にはもう、取り返しのつかない大穴が空いている。それが透けて見えてしまう。


 彼もまた「なくしてしまった」のだ。

 そしてもう、二度と戻らない。

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