伯爵の最期

 空が赤かった。頭上の黒雲で、辺りは夜を思わせるほどに暗いのに。だが西の空には遠く、赤すぎるほどに赤い空が広がっていた。

 風は止まっていた。不気味なほどに静かだった。足元の小石がかすかな物音をたてるだけ。


 ウェルモルドと別れ、俺は一人、あてどもなく彷徨い歩いていた。


 俺はどこへ行こうとしているのだろうか? 自分でもわからない。

 ただ、はっきりしていることがある。自分は無力だ。誰一人救えない。


 エレイアラは死んだ。ウィーは最愛の人を失った。善を求め理想を追ったウェルモルドもまた、自ら死の運命を選んだ。


 俺は何のために、もう一度生まれ変わったのか。

 死後の世界に永遠に留まり続ければよかったはずなのに。だが、今になってそれを言い出しても、何も始まらない。


 俺は何を望んでいる? わからない。わからないが、こうして体が動いているということは、何か、求める結果があるのだ。

 ただ、それが見つからない。そして、無性に苛立つばかりだった。


 いつか高みに至る希望の灯火、か。

 彼はそう言ったが、俺には荷が重過ぎる。


 俺はもう、日が沈むのも見たくはない。日が昇るのも。そよ風を胸いっぱい吸い込みたいとも思わないし、花の香りを嗅ぎたいとも思わない。

 望むのは、墓石だ。光の差さない、何千年もの間、朽ちず変わらずただ残るだけの、石作りの玄室。そこに静かに横たわって、眠り続けたい。そして、二度と目覚めたくはない。


 なのにどうして。

 この世界は俺を放っておいてくれないんだ。

 大事なものは何一つ残してくれないくせに、騒音と苦痛、面倒な仕事、そしてガラクタばかり押し付けてくる。生きているうちはずっとそればかりで、死んだらまた、生きなければいけない。

 渦巻く苦しみの中で、また。


 だから俺は……

 無性に何もかもを壊したくなる。


 ……目的もなく歩くうち、俺は市民の壁の南門の前に立っていた。

 少し前までは危険地帯だった。息を殺して夜間に通り抜けるしかなかったのに。カーンは無事、リリアーナ達をピュリスに送り届けただろうか? まだ到着はしていないだろうが。

 門の下に足を踏み入れる。ガランとしていた。瓦礫や木片が細々と散らばっている。人気はない。


 唐突にトンネルが途切れた。途端に空が目に入る。南の彼方から続々と黒雲が押し寄せてきていた。その合間から、時折赤い空が垣間見える。物凄い勢いで上空の雲が流れていた。なのに、地上はほぼ無風だった。

 目の前には、あちこち破壊された流民街。特に大通り付近がひどい。そして、相変わらず人の気配はなかった。


 ……いや。


 昨日の早朝と変わりなく、そこに一人の男がいた。

 荷車の上の檻の中。


 飲まず食わずで、丸三日。それでもオディウスはまだ生きていた。ただ、相当に衰弱してはいるようだ。

 ある意味、この男も強運だ。ルースレスもとっくに死んだし、伯爵軍も壊滅したのに、一人だけ生き残っている。今までずっとこの荷台が無視され続けてきたというのも、驚くべきことだ。


「……す、け……て」


 小さなかすれ声が聞こえる。

 昨日、俺が見捨てたことなど、もう覚えていないのかもしれない。いや、それどころではないのだ。とにかく、このままでは死んでしまう。人が通りかかったら、救いを求めるしかない。

 特に用事があるわけでもなく、俺は檻に近付いた。悪臭は昨日よりましになっていた。もう排泄するものもないのだろう。


「……お、おぉ……」


 もともと醜悪だったその顔が、更に醜くなっていた。肌には生気がなく、眼窩は落ち窪んでいた。まるで亡者のようなおぞましさを身に纏いながら、オディウスはなおも助命を求めた。


「たの、む……ここ、から、出して、くれェ……」


 こいつを殺せば、タンディラールは報奨金をくれるだろうか。

 そんな風に思った。


「何も、食べて、ないんじゃ……み、水、だけでも……」


 その言葉、そっくりそのまま返してやりたい。

 お前が治めていたティンティナブリアの領民は、どれだけ苦しんだ? サディスのように売り飛ばされた娘が、どれだけいたか。ガリナのように、自分自身を売りに出した人もいる。

 しかも、それだけで済めば、まだ幸運だった。俺はゴキブリを食べて飢えをしのいだ。だが、それすら無意味な努力だった。リンガ村の最期がどれほど壮絶だったか。子供を交換し合って食べた村民の苦しみは、言葉で言い表せるものではない。

 飢え死にするなら、すればいい。あれよりは、ずっと楽な死に方だ。恵まれているじゃないか。


 ……そうだ。

 それでは「幸せすぎる」。そんなの認められない。


 ならば、この剣で?

 いいや。そんな、一瞬の痛みですべてを終わらせるなんて、もっとよくない。絶対に駄目だ。


 スッと刃を走らせる。

 ブツンと縄が切れた。


 ガタンと荷台が揺れる。檻の横の木組みが横倒しになり、人が通れる隙間ができた。


「お、おお! た、助かった!」


 一転して喜色満面、オディウスは外に出ようとして……思った以上に足腰に力が入らず、転んで地面に転がった。


「うっ! くっ! お、起こして、くれ」


 汚い虫けらみたいだ。這いつくばってジタバタする彼を見てそう思ったが、すぐ打ち消した。

 虫けらに失礼だ。こんな奴より、ゴキブリのほうが何倍も尊敬に値する。


「はぁ、はぁ、た、助けてくれてもいいではないか」


 わかってはいたが、感謝の言葉など一つもない。もちろん、そんなのはまるで期待していない。

 俺は無言で背を向けた。


「あっ! ま、待て! どこへ行くのだ」


 思った通り、ついてきた。

 こいつは生まれてこの方、自分で何かをなしたことがない。貴族の次男坊に生まれ、地位欲しさに兄を謀殺してからは、ずっと地方領主の地位に甘んじてきた。

 だから、苦しいということがどんなものか、知らないのだ。或いはこれが彼にとっての初体験なのかもしれない。だから、口ではなんと言おうと、内心では不安でたまらない。人に頼らなければ、ただの一歩すら踏み出せない。


 ドス黒い感情が内心に渦巻く。自然とそれが心地よく思われた。


「どこへ、行くのだ……はぁ、はぁ、もう少し、ゆっくり、歩いて、くれんか、のう」


 せっかく自由になったのだから、一人でどこへなりとも行けばいいのに。オディウスは今、生き延びるという意味で、最高のチャンスを手にしている。地方に留まり、滅多に王都に顔を出さなかった彼を見分けられるのは、ごく一部の人間に限られる。つまり、逃げ放題だ。彼にそれだけの勇気と行動力があればだが、今すぐ王都の東から広がる森林地帯に立ち入り、最短距離で領地に引き返せばいい。居城に戻っても、ろくに兵力は残っていまいが、多少の財貨はあるはずだ。それを持って、なんとか帝都にでも亡命すれば……

 だが、こいつはそれをしない。できないというだけでなく、しないのだ。


 だから、自分から網の中に落ちていく。


 伯爵軍の居残り組に荒らされた区域に入った。泥の壁を打ち壊され、家の柱だった木材があちこちで露出している。火をつけられたところもあり、そこは今は黒い焦げ目になっている。そういう場所には、たまに、手足を固く丸めたままの真っ黒な遺体も転がっている。

 市民の壁の内側にもスラムはあったが、こちらのは、古くて新しいスラムだ。古い、というのは、もともと流民街自体がスラムだったから。新しい、というのは、ここに新規流入した本物の流民がいるから。つまり、ティンティナブリアからの不法移民達だ。


 ともすれば、倒壊した家屋のせいで、むしろ狭くなった道を、俺は進む。伯爵も、無言のまま、必死でついてくる。そうして、ようやく広場らしき場所に出た。


 黒々とした上空に負けないほど、そこは陰鬱な空間だった。

 昨日の朝、イフロース達とここを通り抜けた際には、焚き火の周りに居座る兵士達と、彼らに強姦され、或いは殺された人達とが転がっていた。今は瓦礫の上に、同じくらいの数の人々が、力なくしゃがみこんでいる。

 もともと汚い衣服は、この数日間の災難のせいで更に汚れ、煤で黒く汚れた顔には深い喪失感が刻まれている。例外はいない。

 彼らの横には、昨日と変わらず、裸のまま転がされた女性の遺体がまだあった。弔う必要を感じるような親しい人がもういないせいなのか、家族ですら疲れ果てて手をつける気になれないのか、それはわからない。

 焚き火はほとんど燃え尽きていた。奥のほうで少しだけ、燻り続けているのが見える。


 そんな彼らが、顔をあげて、上目遣いでこちらをじろりと見た。


「な、なんだ、こいつらは」


 オディウスは、俺に尋ねた。

 そして、俺もそれを待っていたのだ。


「ティンティナブリアからの流民ですよ」


 さて、あとは彼らに任せよう。

 彼らの苦しみを生み出した張本人、オディウスがここにいるのだと、そう宣言して……


「な、なんだと! けしからん! わ、わしの領地を勝手に出て、こんなところにおったのか!」


 ところが、俺が何か言い出す前に、伯爵は勝手に逆上し始めた。そして、いきなり背筋を伸ばし、ふんぞり返って、大声で喚き始めたのだ。


「貴様ら! 何をボサッとしておるのだ! 愚民ども!」


 いきなりのことに、彼らはただ、胡乱げに伯爵を眺めるばかりだ。それがまた、彼の怒りを煽ったらしい。


「仕えるべき主人に対して、その礼儀のなさはなんだ! ええ? 勝手にこんなところに住みよって! 誰の許可を得た!」


 これは……

 何もしなくても、勝手に片付くかもしれない。俺はすっと下がって、距離をとった。


「食料をもってこい! もちろん、飲み水もだ! それから、着替えに体を洗う水もいるぞ! どうした? さっさとせんか!」


 この惨状が見えていないのか。

 食料。水。そんなものがここにあるなら、誰もこんな風にしゃがみこんでいたりなんか、しない。

 ヒステリックに喚き散らす伯爵に、徐々に視線が集まり始めた。


「今、わしに従った者は、特別に赦免を与えよう! ティンティナブリアに帰って今まで通り、暮らすことを許す! さぁ、早くしろ!」


 その単語、「ティンティナブリア」に人々は反応した。あそこに「帰って」「暮らす」……それは、地獄のような日々だった。


「わしが誰だかわからんか! 馬鹿者どもが! いいか、わしは、オディウス・フィルシー・ティンティナブラム! お前達の領主だぞ!」


 この言葉に、腰を浮かせる男がいた。一人、また一人。

 ゆらりと立ち上がり、無表情のまま、近寄っていく。


「そうだ、さっさと……な、なんだ、貴様ら」


 男達の様子がおかしいのに、彼はやっと気付いたらしい。


「……伯爵?」


 彼を取り囲む一人が、そう尋ねる。


「そ、そうだ」

「ティンティナブリアの?」

「そうだ」

「キガ村の領主?」

「その通りだと言っておる!」


 男達の目に、暗い光が宿った。見る間に距離を詰め、オディウスの衣服を思い思いに引っ掴む。


「こ、これ! な、何をする」

「こいつだ」

「こいつが……」

「よ、よくも、よくもっ」


 最初、彼らはみんな、オディウスを殴りつけようと、一度は拳を握り締めた。だが、何か思うところがあるのか、すぐにそれを引っ込めた。

 いや、俺にはわかっている。殴り殺すなんて「もったいない」。考えることはみな同じだ。


「う、うおっ」


 それでも、掴んだ手を離す人はいない。あっという間にオディウスは瓦礫の上に引き倒された。


「なぁ、どうする?」


 誰かが尋ねる。


「うーん」

「殴ってもいいか?」

「いいけどな……」

「俺らの分がなくなるし」


 彼らの相談が理解できないらしいオディウスは、仰向けにされたまま、目を回していた。


「わ、わしは食べ物を持ってこいと言ったはずだ……」


 状況にそぐわない見当外れの一言に、彼らは目を見合わせた。


「そういえばさ」

「腹減った」

「俺も言おうと思ってた」


 意見の一致に、彼らは目を輝かせた。


「それじゃ、早速」

「いただきます」

「夕食にゃあちっと早ぇぞ、ははっ」


 彼らは思い思いに……伯爵の体に噛み付いた。


「あぎゃあっ! な、何を、何をす……ぎゃあっ!」


 ようやく気持ちいい声が聞こえてきた。だが、まだまだこれからだ。


「固ぇなぁ、この肉。食いちぎれねぇよ」

「おっかしいなぁ、いいエサ食ってたはずなのに」

「あれよ。家畜でも、食い時ってのがあらぁな。歳食うまで大事にしすぎた牛なんか、こんな感じだわ」

「言われてみりゃあ、そうだな」

「ぎゃああぁっ!」


 彼らも、俺が今、感じているような得体の知れない快感、高揚を味わっているはずだ。しかし、見事に自制心を発揮して、ちゃんと手加減をしている。

 まだまだ。もっと。長引かせなくては。衝動に負けて、快楽を一瞬で終わらせてはいけない。こういうのは、みんなでじっくり楽しむものだ。独りよがりは避けるべきだ。


「ひぃ、ひぃぃ……お、お前」


 激痛に喘ぎながらも、オディウスは俺を見て、喚いた。


「どういうことだ! お、お前は、トヴィーティ子爵のっ」

「はい、下僕ですね」

「だったら! わしを、助けっ」


 この言葉に、男達は一斉に振り向いた。俺が伯爵の味方をするかもしれない、と思ったのだろう。

 それで俺は、スルッと剣を抜き放った。


「ああ、皆さん、落ち着いて……大丈夫です。そのまま、そのままで」


 何人かは立ち上がって俺を食い止めようとしたが、俺はそれを笑顔で制した。俺の剣が彼らにではなく、オディウスに向けられているのがわかったためか、邪魔をしようとするのはいなかった。ただ、少し心配そうな目でこちらを見てはいる。


「お前、なにやっ……ひぎいっ!」


 ピッ、と鋭く腱を断ち切った。最小限の出血で済むように。


「ぎっ、がっ、や、やめぶぃっ!」

「はい、いいですよ」


 俺は剣を引いて、後ろに下がった。


「皆さん、生のままで召し上がろうだなんて……包丁くらい、入れたほうがいいですよ」

「ははっ」

「ボウズ、助かった!」

「言われてみりゃ、そうだな」


 狂気さえ感じさせる満面の笑みで、彼らは俺に感謝の意を示した。


「あっ、駄目ですよ、そこはゆっくり……」

「ぼげぁばばあがああ!」

「大出血しちゃったら、もう終わっちゃいますから」

「おう、そうだな、悪ぃ、気ぃつけるわ」


 口元がオディウスの赤黒い血で汚れても、彼らは一向、気にしなかった。楽しくてならないかのように、口元を血塗れにしながら笑っている。


「そうだ! なぁ、焼こうぜ」

「おっ、いいな、それ」

「俺は生のままでじっくりがいいんだけどな」

「じゃあ、半分! 半分焼く!」

「おーし、押さえてろ」


 誰かが、兵士達の捨てていった槍の穂先を、燠火で熱して戻ってきた。


「はいはい、どいてー」


 ジュウッ、と音がして、肉が焦げる臭いがした。


「ぶあああ!」

「ヒュウ! いいね」

「んじゃ、改めてー」


 この分なら、大丈夫だろう。


「じゃ、皆さん、後始末はお願いしますねー」


 何人かは、俺の挨拶に手を挙げて応えたが、すぐにまた、楽しい食事に戻っていった。もう、余計なものなど眼中に入らないし、邪魔もされたくないだろう。俺としても、彼らにはぜひとも楽しんで欲しい。


 俺は立ち去りながら、背中から響いてくる絶叫に、やっと若干の爽快感を覚えた。ほっとした、と言ってもいい。


 ああ、一つ片付いた。


 だが、頭上の黒雲は、なおもその濃さを増すばかりだった。

 わかっている。

 本当にやるべきことは、これからなのだと。


 あと一人。

 それがこの道を通って、南に抜けていこうとしている。


 半壊した家々が、その骨組みを思い思いに突き出す、荒れ果てた一角。

 そこに奴がいた。

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