理想家の希望
昼を過ぎても、なお空は暗かった。頭上に分厚い雲が垂れ込めている。そればかりか、南のほうから更に黒い雲がじわりと押し寄せてきている。空気が湿り気を帯びて、少しずつ冷たくなっているのがわかる。
王都の紛争も、ようやく終結に向かいつつあった。西側で戦闘を繰り広げていた傭兵団は、中核を占めていたドゥーイを失い、午前中には投降したらしい。
俺は、死体の山の上で眠るキースが太子派の兵に発見されるのを見届けてから、子爵家の別邸に引き返した。仮眠をとって目覚めた頃には、聖林兵団が貴族の壁の内側を制圧していた。つまり、別邸に留まる限りにおいては安全ということだ。もっとも、その恩恵を享受していたのは俺一人。サフィスもイフロースもいまだ王宮にいるはずだし、リリアーナ達もピュリスに向かう途中だろう。
ここで仕事は終わり。紛争も終わるに任せればいいわけだ。
だが、なお決着はついていない。
兵士の壁の近く、市街地の東側にバリケードが築き上げられていた。内に篭るのは、ウェルモルド率いる第二軍だ。
対峙していた海竜兵団は? 荒れ果てた街路を歩きつつ、ちらと後ろを見る。なんというざまだ。負傷者多数。戦意を失って、路傍にしゃがみこんでいる。自慢の槍と大盾も、壁に立てかけたままだ。しかし、これは兵士達の勇気が足りなかったせいではない。指揮官を失ったためだ。
今は、第五軍とスーディア兵が、出口を塞いでいる。だが、積極的に攻撃を加える気配はない。この状況で、ウェルモルドに補給や援軍のあてがあるわけもなく、よって力攻めに出る必要性が薄いためだ。バルドみたいに手柄を焦る男ならいざ知らず、ゴーファトもジャルクも、そんな必要を感じてはいまい。
俺はこの最前線に、わざわざ出てきた。
功績が欲しいわけではない。納得したかったからだ。
魔術によって眩惑された兵士達は、俺が通り過ぎても咎めなかった。そして、意識を読み取れば、目指す人物がどこにいるかもすぐわかる。
黒く塗られた柱に、白い土壁が美しい家。その扉をそっと引く。
中にも、もちろん兵士達はいる。だが、彼らは次々と床に突っ伏した。眠くなったらしい。警備に四人しかつけておらず、それもあちこちバラバラに立っていたのでは、『誘眠』の術のいい的だ。
一階の奥の寝室。その扉を俺は静かに開けた。
「……やぁ」
訪問者に一瞬驚き、彼は目を瞠ったが、すぐに冷静さを取り戻した。
室内は薄暗かった。窓は板を張られた上に釘打ちされていて、外の光がほとんど入ってこない。その代わり、枕元にランタンが置かれており、それが室内を橙色に染めている。
ずっと締め切られたままだったのだろう。空気は生温かく、澱んでいた。ツンとくる傷薬の臭いが立ち込めている。
「……今度は僕の腕じゃなくて、首を切り落としにきたのかな、ははっ」
ウェルモルドは、少し困った顔で、そう言って力なく笑った。
「お前はもう終わりだ」
俺は低い声で宣告する。
「傭兵団は、伯爵軍に寝返った末に、今朝、投降した。暴走して王宮を荒らしているその伯爵軍自体、今は聖林兵団に攻め込まれている。だが、指揮官はもう死んだ。こちらも降伏するのは時間の問題だろう。残っているのは、ここだけだ」
「そうか」
そう言われても、彼は顔色を変えなかった。既に知っていたか、そうでなくても想定内の状況なのだろう。
「なら、僕も、もうすぐ討ち取られるか、捕まるかだな」
「そういうことになる。ここに来る途中で見た。どの道路もスーディア兵でいっぱいだ。脱出はまず無理だろう」
「わかっているよ」
避け得ぬ死を前に、彼は落ち着き払っていた。
こちらに向けていた顔を、またまっすぐ天井に向け、目を閉じた。
「それで君は? わざわざ何しにきたのかな」
「……抵抗する気もないのか」
「はは」
よく見ると、彼の天然パーマの黒髪の奥に、うっすらと汗の滴が浮かんでいた。
「熱が出ちゃってね、実はもう、フラフラなんだ」
俺が腕を切断したせいか。重傷を負うと、出血もするし、体力も落ちる。しかも傷口も衛生的とはいえないから、しばしばこういうことにもなる。
「一度はよくなりかけたんだけどね、ちょっと無理したせいかな……海竜兵団を押し返すところまでは、なんとかなったんだけど」
「戦うのはもちろん、逃げるのも無理、か」
「そういうことだね」
つまり、俺がここで剣を振り下ろせば、本当に彼は終わる。それにどうも、彼は既に死を受け入れているようなふしがある。
「……殺す前に、訊きたいことがある」
「いいとも、なんだい」
「なぜこんな真似を仕出かした」
声にも自然と力みが出る。
この動乱で、どれだけの人が死んだ?
「成り行き、かな」
「成り行き? そんな適当な理由でっ」
「担ぎ上げられた、と言ったら、納得してくれるかな」
長子派の連中が、彼に動くよう、なんらか圧力をかけた?
「僕は諦めてたんだ。タンディラール王子には嫌われてたみたいだし。それに僕が陛下に見出された時には、まだフミール殿下が次代の王になるはずだったからね……僕は、長子派というより、もともとフミール殿下の補佐のために拾い上げられた人間だったから、後見人になる貴族もいなかったし、そもそも先がなかった」
「おとなしくクビになるつもりだった?」
「そうだよ。もう忘れたのかい? 君には言ったつもりになってたんだけどな」
「いや……」
流民街のスラムを一緒にまわりながら、自分にはもう「社会を変える機会がない」と言っていた。それは覚えている。
それにまた、動乱初期の、あの拙さも印象に残っている。なぜ後宮の要塞化を防げなかった? 謀反という大事を起こすには、用意周到だったとはとても言えない。
「無謀とは思わなかったのか」
「思ってたよ。だけどもう、止まりそうになかった。スパイがね、タンディラールにはもう、即位する資格がないんだって、言いふらしてたみたいで」
「スパイ?」
「ああ。隠れ長子派ってやつ? だってそうだろう? 腐敗した汚職だらけの貴族達にしてみれば、やり手のタンディラールより、フミールのほうがずっと組しやすい。だから、表向きは太子派でも、実は長子派でしたなんてのが、ワンサカいるわけさ。ほら、例えば、財務大臣のショーク伯とか」
納得できる話ではある。
「それで、実は長子派の貴族達は……僕より先に知ってたんだ。彼が王冠を失っていたらしいってことをね」
「それを信じた、と」
「僕は、そのスパイだってのも信用してなかった。だけど、タンディラールが実際に王様になったら、いろいろまずいことも表に出てくるかもしれないし……ほら、人ってのは、自分に都合のいいことを信じたがるものなんだよ」
ウェルモルドの判断は、きっと正しかった。
「……実は、後宮の中に王冠があったといったら、どう思う?」
「ははっ! やっぱりね! 君、見たのかい?」
「あれが複製品でなければ」
「あー、やっぱりなぁ……」
悪戯に引っかかった子供みたいな顔で、彼はそう呟いた。
「スパイのはずが、スパイのスパイってところか。ややこしいね」
「その、さっきから言ってるスパイというのは、誰のことだ?」
「……誰だと思う? ヒントをあげよう。この騒ぎが収まったら、縛り首になる人だよ」
追及する値打ちもない、か。
一連の事情を思い浮かべて、反吐が出そうになった。
「だけどもう、みんな先走っちゃって。腐った貴族どもも、こういう時だけは素早いんだ。気付いた時にはもう、傭兵団が疾風兵団の詰所を襲っていたよ」
「食い止めようとは思わなかったのか」
「思ったよ。でももう、岳峰兵団の投石器も設置済みで、どうしたって流血は避けられそうになかった。それで、魔が差したんだな……もしかしたら、これでこの国をきれいにできるかもしれない、と」
はて?
腐った貴族どもの後押しでこの国を浄化する?
俺の顔に出たのだろう。
彼はすぐ言い足した。
「言いたいことはわかるよ。僕はね、タンディラール王子を倒したら、返す刀で長子派の貴族も皆殺しにするつもりだったんだ」
「なんだって」
「そして、フミール殿下を推戴して、なんとか国体を保つ。改革は、僕や僕が選んだ人物を要職に据えて行う」
傀儡にするつもりだった、と。
実際、彼は自分の主人をまるで評価していなかった。
「だってそうだ。僕が動かなくても、他の人がやる。それで万一、フミール殿下の側が勝ったらどうなる? タンディラールが王になるより、ずっとひどいことになるよ。最悪というのは、僕が負けることじゃない。まともな人が上にいない国ができてしまうことだったんだ」
言われてみれば、わからないでもない。
フミールよりはタンディラールのほうが、ずっと王としての資質がある。だから、負けた場合はまともな王が上に立つ。もちろん、ウェルモルドが勝ったら、実権は彼が握る。
それがもし、私腹を肥やすばかりの人物が支配者になったら。彼は、自分が立ち上がるしかないと考えたのだ。
「殿下は、王様になれればそれで満足の人だったからね。ちょうどよかったといえば、そうなんだよ」
「できると思ったのか」
「難しいとは思っていた。でも、事が始まった以上、それに縋るしかなかった……けど、短い夢だったね」
寝転がったまま、彼は力なく首を振った。
「すぐわかった。後宮を包囲した時に、しっかり準備してあるんだなって……誘い込まれただけだってことが」
「自力では陥とせないとわかって、援軍を待ったんだな」
「そう。長子派貴族が、焦らなくてもティンティナブラム伯の軍が来るからって……でも、僕は心配しかなかったよ」
いきなりの内紛だったとはいえ、初期には彼は善戦した。
第四軍の半分を吸収し、第一軍を半壊させ、健全な第三軍を後宮に押し込めた。この動乱が、そもそもタンディラールの自作自演でなければ、これで決着はついていた。
「で、案の定」
「見事に裏切られたね。フミール王子の身柄を奪い取ると、もう僕らなんかには用がないってね。ちょうどその時、僕は、ほら、君に片腕を切られて、寝込んでたからさ。何もできなかった」
残った腕で、掌をヒラヒラさせながら彼は、おどけつつそう言った。
これで、一連の出来事については、一通り聞き出せたことになる。
もともと決起するつもりはなかった。だが、気付けばお膳立てされていて、既に動乱が始まってしまっていた。長子派の貴族としても、そこまでしなければ彼が動かないとわかっていたのだろう。それなら最初からウェルモルドをあてにしないで自分でやれば、と思うのだが、そこはそれ、そういうところが腐敗した貴族たる所以なのだろう。
それでウェルモルドとしては、もう犠牲が避けられないのなら、最善の形を目指そうとしたわけだ。ただ、この動乱自体がどうもタンディラールの策略らしく、途中から思うようにいかなくなってしまった。特に、最悪のタイミングで俺に腕を切り落とされ、ろくに指揮ができないうちにルースレスの横暴を許す結果となった。
結局、事態を収拾できずに、事ここに至る、と。
「惨めだな」
「そうだね」
「やる値打ちのあることだったのか」
「難しいことを訊くね」
皮肉っぽく眉を吊り上げて、彼は首を起こした。
「フミールが王になれば、そんなにいい未来が待ってたと思うのか」
「ああ」
ぶんぶんと首を振って、彼ははっきり否定する。
「ぶっちゃけ、彼は王の器じゃない。陰謀ばかりの陰湿な男だよ。だいたい、彼が最初に後継者として扱われていたのだって、半ば脅しみたいなものだったんだしね」
「脅し?」
「ああ……どうせだから喋っちゃおうか。彼は共犯者なんだよ」
「共犯? なんの?」
「先代の陛下……セニリタート王のお父上、スイキャスト二世を毒殺したのは、フミール殿下なんだ」
「はぁっ!?」
ここにきて、またも新事実だ。
「それに味をしめて、今度は弟君のマオット殿下まで毒殺した。まぁ、それで逆に今度は、陛下が殿下を見限ってしまわれたんだけどね」
「ちょ、ちょっと、なんで」
メチャクチャじゃないか。
どうなっている? 王家は。内紛なんかなくても、身内で殺し合いばかり。
「ん? ああ、僕が拾われたのは、二十年くらい前だからね。ちょうど出来事があったばかりだったから、知ってるんだ」
「そ、そうじゃなくて、なんで? なんで殺したりなんか」
「えっと、それはね。まずマオット殿下の暗殺については、簡単な話だ。単純に、何をやらせても駄目なフミール殿下より、出来が良かったからね。それに、フミールは妾腹、それに対してマオット殿下も、その弟だったタンディラールも、どちらも王妃様の子供だったから……自分の地位を奪われると思ったんだよ」
「ま、まぁ」
「ところがどっこい! 逆にそれで、陛下がフミール殿下に呆れ果てたってわけ。で、最終的にはタンディラール殿下を立太子しちゃってね」
「なるほど……」
フミール、パッとしない男だとは思っていたが、性根はクズだったか。
「でも、スイキャスト二世陛下の暗殺については、これは陛下の命令だった」
「それはなぜ?」
「うーん、これは……」
残った腕で頭をポリポリかきながら、彼は説明を渋った。
「……首突っ込むと、怖いよ? サハリア人の『報復攻撃』ってさ」
「えっ」
「簡単に言うと、首を挿げ替えて、仲直りしたんだよ。フォレスティス王家の側からね」
「はぁっ!?」
自国の王を自ら殺すことで。
王家はサハリア側への謝罪としたのか。でも、相手は誰だ?
「ま、それで王家もトーキア特別統治領を手に入れたんだし、利益はあったんだけど」
「トーキア? トック男爵領!?」
ここにきて。
その話が出てくるとは。
「知ってるのかい? ……ああ」
ふっ、と儚げに笑って、彼は言った。
「そうか。君はあの、ミルーク・ネッキャメルの奴隷だったね。でも、まさか彼が、秘密を漏らすなんて」
「い、いや」
俺は若干、戸惑いながら、答えた。
「ミルークは……ミルークさんは、詳しくは教えてくれなかった。ただ、銀の指輪を渡して、弟のティズに会え、と」
「へぇ!? ははっ」
彼は面白がって笑った。
「それならさっさと行けばよかったのに……いや、行けなかったのか。今となっては、多分、あまり違いもないだろうし」
「なんのこと」
「ああ、いい。これは彼なりの『取引』だよ。僕が首を突っ込むことじゃない」
戸惑う俺を他所に、ウェルモルドは元の話題について語り始めた。
「暗殺と、セニリタート陛下の即位が二十一年前。これで一応、表面上は、フォレスティス王家と赤の血盟との間の諍いは終わった。だけど、宙ぶらりんになったのが、間に立たされたウォー家だ。それでネッキャメル氏族との間でいざこざがあって、報復攻撃が起きた。十六年前のことだ。王家は、これも看過することにした。まぁ、僕はその頃、その辺の聖林兵団にいたからね。後始末にも関わった」
開いた口が塞がらない。
彼はどこまで知っているのだろう?
「で、まぁ、男爵領の復興に携わっていた王家が、そのまま正式に王領として組み込んだのがちょうど十年前。……僕が妻に三行半を突きつけられたのも、この時さ」
「か、関係が」
「大有りだよ。僕の妻、いや元妻はね、赤の血盟の敵側の部族出身だったんだ」
「はい?」
「許せるかい? サハリア東部に紛争の種を撒き散らしたフォレスティス王家が、結果的にとはいえ、そこから利益を得る。妻の一族は、言うなれば王家に騙され、裏切られたようなものさ。それなのに、夫の僕がセニリタートに仕え続けるなんて、我慢できるはずもなかった」
なんという因縁。
では、ジュサが参加したというあのサハリアの戦役の裏では、フォレスティス王家の暗躍があったのか。そして、それが後々までの怨恨を生み出した。
「ただでさえ、僕は冒険者時代に傭兵として、赤の血盟側で戦ったことがあるのにね……でも、そちらはまぁ、許してもらったけど、これは許容できなかったみたいだ」
「えっ? じゃあ」
「少しだけど、ミルークとも面識はあったよ。面白い男だった。懐かしいなぁ」
当たり前、だ。
俺の知らないところで、あちこちが繋がっている。なぜなら、俺が生まれる前からこの世界はあったし、死んだ後も続いていく。世界には、網の目のように繋がりがある。
もっとも、それがいいものとは限らないが……
「まぁ、ざっとだけど、これが僕の動機なんだよ、ファルス君」
瞑目し、彼は静かに言った。
「ちょっと喋っただけでも、もうドロドロだろう? 立場、利権の絡み合い。それで揉め事が起きて、恨みが積み重なって……あの流民街の汚物の塊みたいになってしまう。愛し合って生きることができるはずの人々が、いとも簡単に引き裂かれてしまう」
彼自身、家庭を失った。だがその家庭、妻も、もとはといえば、セニリタートが与えたようなものだ。
「こんな僕でもね、妻のことは愛していた。いや、今でもだ」
「でも、その奥さんも、もとはといえば、留学で」
「そう、だから、勝手に縁を結ばされ、勝手に縁を切られた、ということもできるかもしれないな」
遠くを見るような目で、彼は呟いた。
「自分で選んできたつもりの人生なのに、なんだか翻弄されてばかりだ。陛下が僕を拾ってくれたのも、当時は僕の頑張りが評価されたからだと、そう思っていたよ。でも、実のところはなんでもない。頼りにならない後継者……フミール殿下に、どこの貴族の息もかかってない、忠実な下僕を与えたかっただけなんだし。それがきっかけで妻と出会い、また妻に去られて……今もこうして、思い通りにならない世の中を変えようとして……ははっ」
手で顔を覆い、彼は初めて悲しみの感情を表に出した。
「僕は……いい。幸せな時も、確かにあったから。だけど、こんな世界を、後に続く人に生きて欲しくない」
「ウェルモルド……」
それが彼の、この十年の人生だったのか。
「妻に去られてから、僕は考えた。近衛兵団をやめたり、ましてや陛下を殺したりしても、何にもならない。大事なのは、同じ過ちを繰り返さないことなんだ。だから、僕なりに何ができるかを考えた。それで、思ったんだ……もっと人が自由になれば」
目を輝かせながら、彼はかつての夢を語りだした。
「僕らがぶつかり合うのはなぜか? 立場があるからだ。立場は、利権を伴う。だったら、それを取っ払えば? 誰もが自由で平等に暮らせる社会を作れば……もちろん、完全には無理だけど、それでも、形だけの王様を上に置いて、みんなが手を取り合って生きていけるなら。そう思ったんだ」
俺は、喉を焼く酒を飲み下すような思いで、彼の話を聞いていた。
「結局、僕には手が届かなかった。これは仕方ない。だけど、この夢を、どこかで誰かが引き継いでくれれば。もっと人が自由に、そして平等に。互いに愛し合って生きていける世界が残されるなら、僕は、それで……」
「ウェルモルド」
拳を握り締め。俺は吐き出した。
「無理だ」
「なに?」
「無理なんだ、ウェルモルド」
俺は、そんな理想が実現し得ないことを知っている。思い知らされている。
「人が自由になったら、何をすると思う?」
「僕なら……愛し合う。まず、妻にキスをして、娘にも。それから君にもキスしてもいいかもしれない」
「お前なら、そうするだろうな。だけど」
俺は、湧き上がる怒りに、足元の木の板を踏み鳴らした。
「教えてやる! 人が自由になったら、よって立つ場所を取り払ったら。そいつらはまた、寄り集まって、立場を作る。そして、永遠に争い続けるんだ!」
「どうして言い切れる?」
「見てきたからだ」
「見て? きた?」
怪訝そうな顔で身を起こす彼に、俺は言った。
「お前は僕のことを、若者だと言った。でも、本当は違う」
「何を言っている? 君はまだ、子供じゃないか」
「僕は……いや、俺は、もう四十年以上も生きている」
「よ? 四十年?」
「但し、その大半は、『こことは違う世界』でだ」
あまりのことに、彼は目を見開いたまま、硬直している。
「そこには、お前がいうような『自由』で『平等』なはずの世界があった。もちろん、最初からそうだったわけじゃない。その世界でも、何百年か前には、この世界での貴族や王のような支配者がいた。だが、人々が力を出し合って、それらを打倒したんだ」
「素晴らしいじゃないか」
「当時の人達も、そう思ったさ。喜びのあまり、詩や歌まで残した。だけどその後、どうなったか? 争いはなくならない。ひどくなる一方だ。それどころか、誰が『利権』を押さえているのかもはっきりしない。はっきりしていても、関係者が多すぎて収拾がつかない。為政者がコロコロ替わったりして、国の方針もすぐ変わる。それで、しまいには、途方もない大戦争まで起きた」
「戦争……自由で平等な世界で?」
「世界で一番自由な国と、もっとも平等な国とが、世界を二分して『支配』したんだ。そうなるまでの戦争で、何千万人も死んだ」
「なっ……!?」
何千万人、という数字は、彼には想像もつくまい。エスタ=フォレスティア王国の常備兵が五万弱。貴族達の私兵を合わせてその倍、更に国力の限界まで搾り出せば……傭兵を掻き集めたり、農民を兵士に仕立てたりで、最大で二十万くらいは集められるかもしれない。サハリアを除く西方諸国の軍事力がみんなだいたいこの程度だから、全部あわせてもやっと百万。東方大陸や南方大陸でも、事情はそこまで変わらない。
要するに、何千万人もの戦死者というのは、全世界の戦闘員の十倍以上を皆殺しにして、やっと届く数字なのだ。
「俺があちらの世界で生まれた頃には、結局、自由も平等も名ばかりだった。人は誰しも、縛られて生きる。なんのことはない、王様がいてもいなくても、世の中は同じだ。それに愛なんて言葉は、何かを正当化する時に使うくらいのものだった。当たり前だ。みんな、生きるために必死だった。誰かを愛する余裕なんて、ない」
俺は、彼をまっすぐ見据えて、告げた。
「だから、無理なんだ。お前のいう理想は、実現しない。実現しても、すぐに無になる。少なくとも、世の中の仕組みを変えればなんとかなるなんて、あり得ない。だから……この世界が愛で満たされることなんて、ない」
彼は、俺の宣言を、驚きをもって受け止めた。
ややあって、小さな呟きが漏れた。
「そうか……」
彼は、実際に「見てきた」という俺の言葉に、素直に納得した。
残酷すぎたかもしれない。彼は、これから死ぬしかない人間だ。そして、この動乱でも大勢の人を傷つけた。その自覚がある。その罪も、実現しようとしていた善があればこそだ。なのに、それは決してあり得ないという。では、彼は何のために生きたのか?
「ウェルモルド」
俺が声をかけると、彼は顔をあげた。
「よくわかった。お前は生きろ」
彼は……過ちを犯したのかもしれない。それでも。
善意を抱き、理想を掲げ、正義を求めて生きたのだ。決して無意味な、無価値な存在ではない。
「いきなり何を言い出すんだ」
「お前は生きられる。だから、生きろと言った」
「それこそ無理だよ、ファルス君。僕はもう、敵に包囲されている」
「普通なら、そうだ」
脱出できたところで、ここまで大きな事件になった以上、ウェルモルドは追われ続ける。たとえ帝都に亡命しようとも、必ず命を狙われるだろう。
しかし、王国が追いかけるのは「ウェルモルド・ブルンディリ」だ。
「あと一日……いや、数時間でも持ちこたえれば、お前は新しい人生を手に入れることができる」
「なんだって」
「俺は、人間の体を入れ替えることもできる。これから日没前に、誰か適当な人間……生きるに値しない、穢れた人物の体を奪い取り、それをお前に与える」
「そんなことが」
「できる」
彼の顔は、今度こそ驚愕に塗り潰されていた。
「なんなら、お前をタンディラールと入れ替えることもできる。そうなれば、お前は王だ。この国を好きなようにできる」
それでも、自由や平等をもたらすことは、きっとできないだろうが。入れ替えられるのは肉体だけだ。記憶はついてこないし、もしそこまでカバーできても、タンディラールが積み重ねてきた立場そのものは、変更が利かない。
「お前は正義を目指して生きた。それは確かに尊いことだろう。お前は生きるに値する」
彼はこの申し出に、瞬きし、しばらく拳を握り締めていた。
だが、ややあって、目を伏せて言った。
「ありがとう」
「よし、お前にその気があるなら」
「でも、お断りする」
馬鹿な。
それでは、死ぬしかない。
「なぜだ。死ぬぞ」
「そうだな」
「なら、なぜ」
彼は首を振った。
「……僕についてきてくれた、この兵士達に、なんて言い訳すればいい?」
「それこそ話が逆だ。第二軍の部下達を救いたいのなら、お前がタンディラールになればいい。寛大さを装って、赦免を与えれば済むじゃないか」
「そういう手もあるね。でも、それは生きている兵士に対しての話だ。戦死した部下には、やはり申し訳が立たない」
そうかもしれない。
だが。
彼にはまだ、大事なものがあるはずじゃないのか。
「で、でも! ウェルモルド、お前には……妻と、娘がいるんじゃないのか」
「ああ」
「せめてもう一度、顔を見たくはないのか」
彼は顔を伏せ、翳のある表情で答えた。
「いた、よ」
「いるんだろう、サハリアに」
「……僕と離婚してから、ね……南部の実家に帰ろうとしたんだ。ムスタム経由で」
まさか……
「赤竜の谷近くの砂漠地帯で、盗賊団の襲撃を受けたらしくてね」
「なっ」
「三十人からの隊商が、ほぼ全滅だ。妻の遺体も……後で発見された」
既に死んでいたのか。
「もちろん、部族は報復攻撃もしたし、生存者を探しもした。だけど、娘は見つからなかった」
「見つからなかった、だけだろう? もしかしたらどこかで」
「当時の娘は、まだ二歳くらいだ。それが、魔物の出る砂漠の真ん中で……生きているはずがない」
言葉もない。
彼が本当に守りたかった「愛」は、既に失われていたのだ。
「僕が……行かせなければ。それでなくても、せめて傍にいれば。助けられなくても、一緒に死ぬことができた」
「そんな」
「だから、せめて妻と娘のためにも……この世界に、何かを残したかった」
こんなことってあるか。
必死に生きた報いが、これなのか。
だが、彼にはもう、生きるつもりがない。少なくとも、体を入れ替えてまで、別人の人生を演じるつもりなんて。
「ふふっ」
だが、彼は不意に笑い出した。
「でも、最後の最後で、やっぱり僕の人生は、無駄にはならなかったな」
「えっ?」
「君だよ、君」
気付けば彼は、いつか見せたように、あの悪戯っ子みたいな笑みを浮かべていたのだ。
「今、はっきり見えたよ。君の中の悲しみが、憤りが。でも、それはただの怒りの炎なんかじゃない。いつかきっと高みに至る希望の灯火だ」
彼は、ベッドの縁に手をあてて、ゆっくりと立ち上がった。
「どこへ行く」
「……最後の仕事をしないといけないからね」
俺は意味を悟った。
生き残った第二軍の兵士を救う、もう一つの選択肢。それは……
「ありがとう、ファルス君」
部屋の扉に手をかけ、振り返って、彼は言った。
「君に会えてよかった」
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