氷水の閃き

 腐臭に顔を顰める。こんなことなら、後片付けをしていくのだったと。


 頭上がずっと曇り空のままなので、正確な時刻がよくわからないのだが、だいたい夕方くらいだろうか。俺達は、子爵の別邸に戻ってきていた。特別な理由などない。フォンケーノ侯の屋敷を出た後、行くところがなかったからだ。まさか真正面から王宮に突っ込むわけにもいかない。それならば、後に備えて休養を取るべきだった。

 ただ、別邸はずっと放置されていた。一度だけ、俺はサフィスとエルゲンナームとともにここに戻ってきたが、その時には寝室で足を伸ばしただけだ。だから、中庭の確認をしなかった。

 哀れ疾風兵団の竜騎士は、動乱の起きたその日に墜落してから、そのまま葬られることもなく、オレンジ色の壁に横たわったままだった。そして、この天気だ。雨が降ったり、晴れて温かくなったりを繰り返した結果、見事に腐ってしまった。


 おかげで中庭は使えない。俺は厨房に引っ込んで、まだ食べられる食材を調理する。もちろん、煙が外から見られるような間抜けはしない。

 脇腹の負傷を抱えたイフロースは、今は客間でソファの上に身を横たえている。ウィーも一緒だ。四人の中で一番体力の余っているキースが、偵察を引き受けてくれた。今は彼の帰着を待っている。


「干し肉とパン、それから塩漬けの野菜くらいしかありませんが」

「上等だ。助かる」


 俺は心配していたのだが、イフロースがウィー相手に揉め事を起こすことはなかった。見逃すといった以上、徹底してくれるらしい。というより、まだ本来の目的をまったく達成できていないので、戦力を手放したくないのだ。

 俺としても、その判断は大歓迎だ。なんとかこのまま、なし崩し的にウィーを王都から出してしまいたい。


「どうした。遠慮するな。今のうちだ。食べておけ」

「う、うん」


 一人、勝手に気まずい思いをしていたウィーが、躊躇いがちに手を伸ばす。


「……固い」

「ごめん、古くなったパンしかなくて」

「ううん。でも、喉渇くね」

「水、ならあるけど……」


 生温い水しかない。牛乳なんか、とっくに全部駄目になっている。

 こんな時、前世が恋しくなる。現代日本であれば、氷なんか簡単に手に入った。キンキンに冷えた氷水を一気飲み。胃にはよくないが、気分爽快だ。

 もちろんそんな快感は、ウィーにもイフロースにも、未体験のものだ。だが、俺はそれを知っている。知っているだけに、我慢している気になってしまう。


 階下で物音がした。キースが帰ってきたのだ。


「おいーっす……ああん? メシか。俺にも寄越せ」


 遠慮なくドカドカと踏み込んできて、そのまま手を伸ばした。


「ちっ、喉が渇くな」

「同じこと言ってる」

「なんかねぇのか」

「牛乳が手に入るわけないでしょう」

「酒でもいいぞ」

「お酒はあるけど、ダメです」

「じゃ、この水しかねぇってか」


 苦々しげに、キースはパンを飲み込んだ。


「どうだった、外は」

「ああ」


 脇に置かれた椅子にどっかと腰を下ろし、キースは説明を始めた。


「もうすぐ終わるぜ。スーディア兵まで来やがった」

「どっちの味方だ」

「決まってんだろ? 西門と南門で、軍団兵と合流してやがったぜ。ありゃあ少なくとも一万はいるな」


 エスタ=フォレスティア王国でもっとも武断的、そして野蛮な地域の兵士達。それがスーディア兵だ。狂暴でモラルもないが、実力は確かな連中でもある。彼らがタンディラールに組した時点で、半壊した長子派はもちろんのこと、ルースレスとしても、既に数的優位も、時間的余裕もなくなった。

 今夜いっぱいかけて、ゴーファトは王都を奪還するだろう。本当に、明日には決着がついてしまう。


 だが、イフロースは肘を膝に置くと、力なく溜息をついた。


「……本当に、何もできんのか」


 ルースレスには、ほとんど勝ち目がない。だが、もし既にフミール王子を手中にしていれば。今夜中に後宮を攻め落とせば、王になれる人物は一人きりになる。王子の名前で停戦を呼びかければ、名目上、全員が武器を置くしかなくなる。

 だから、彼は捨て身の攻撃を選ぶはずだ。となれば、サフィスの身の上にも万一があり得る。


「考えたってしょうがねぇぜ」


 コップを取り上げ、キースは水を飲んだ。


「ったく、なんだぁこの水、濁ってやがるぜ」

「濁ってはいませんよ、ぬるいだけで」

「ちっ、こんなもんはなぁ」


 コップを置くと、キースは短く詠唱した。途端にコップの表面に霜が貼りつく。


「へっへ……いい感じに冷えたぜ」


 そのままキュッと冷たい水を一気飲み。いいなぁ。


「諦めろよ。王宮に入ろうったって、見ただろ? あれしかねぇ門に、どれだけ兵士がいるんだか。二百か、三百か? さすがの俺様でも、ありゃあ抜けねぇよ」


 城壁を乗り越えるのも、今回は難しい。高さがまた一段とある上に、きちんと兵も置かれている。それに兵士の壁と違って、守備範囲自体が狭いので、すぐに見つかってしまう。


「にしても、あのサウアーブ・イフロースがねぇ……」


 また、冷やした水をクイッと飲みながら、キースが呟く。


「すっかり忠臣なんかになっちまって。傍若無人の傭兵王、キャデレ城の一夜陥としの伝説の男が、こんなんたぁよ」

「昔の話だ」


 今のイフロースにとっては、そんな過去の栄光など、どうでもいいのだろう。親友の家族と、居場所をこよなく愛し、そのために生きるようになったのだから。


「キースといったな」

「おう」

「お前にもそのうちわかる……いや、もう、薄々はわかっているはずだ」

「けっ」


 自分だけの幸せを追う人生。イフロースが気付いたのは、その空しさだった。

 キースは粗暴だが、愚かではない。そして、確かにイフロースの言う通り、同じ感情に気付きつつある。ただ、愛するべきものを手にできていないだけで。


 そんなやり取りの横で、ウィーは構わず食べている。黙々と料理を平らげるその姿は、まるでリスのようだ。ベレハン男爵の家でも思ったのだが、実は彼女、かなりの大食いなのではないか。とすれば、ピュリスの冒険者時代には、どれだけ我慢していたのだろう?


「……ん」


 水に口をつけて、ふと思いついたように、そのコップをキースに向ける。


「あん、なんだ?」

「氷」

「ちっ……おらよ」


 いきなりのリクエストに、キースは応えてやった。ウィーのコップは半ば凍りつき、中の水には小さな氷の粒が浮かぶ。


「ありがと」


 そのまま、キュッと飲み干す。


「おいしい!」

「そうだろ。俺様のものになれば毎日」

「ごめんね」


 こんな時に何やってるんだか、と少し呆れる。

 まぁ、ここにいる人間全員、どこか普通ではない。そのせいか、奇妙な余裕がある。


「キースさん」

「なんだ」

「僕にも氷を」

「けっ……」


 差し出したコップが、見る間に冷気に包まれる。

 ありがたや、水魔術。俺ももうすぐ十歳だから……氷水を味わうのも、前世から通算で十年ぶりか? いや。ミルークの収容所を出る前の、お花畑のケーキ。あれが最後だ。とすれば四年ぶりか。

 よし、一気……あれ?


「あの」

「ひひっ、なんだ」

「凍ってるんですけど」

「氷をくれっつったの、お前だろ?」


 この野郎。

 コップ全体、完全に凍らせやがった。これじゃあ飲めそうにない。むしろ水すら飲めないから、余計に喉が渇く。


「なんとか……」


 一人、イフロースだけは、深刻に考え込んでいる。


「なんとか、王宮に入り込めさえすれば」

「入ってどうするんだよ」

「知れたことよ。敵の指揮官を殺す」

「無茶苦茶だな。やっぱそういうところは面白ぇわ」


 無謀としか思えないイフロースの考えを、キースは笑った。あり得ないからではない。その大胆さが失われていないことが、好ましいからだ。


 ルースレスを殺せば。正確には、後宮への総攻撃が止まれば、サフィスを救うことができる。確かにそれはイフロースにとって、命懸けでやるだけの値打ちがある計画だ。但し、問題がいくつかある。そもそも王宮に忍び込むのも難しい。それと、ルースレスを殺しても、攻撃は止まらないかもしれない。

 ここは二十一世紀の地球ではないのだ。兵士達は何も、無線で連絡を取り合っているわけではない。ルースレスが死んでも、インターネットにニュースが載ったりはしない。そもそも、彼の顔写真すらない。

 そして、これから夜になる。もしルースレスが総攻撃を命じたら。その後で彼を暗殺しても、兵士達には情報が伝わらない可能性がある。


「ま、氷水飲んで頭冷やせよ、ジジィ」

「うむ……」


 くそっ、俺だけ飲めないのか。

 なんならその水魔術のスキル、奪ってやろうか。ってか、どこかで手に入れたいな。魔術書とかもないと、習得ができないのが問題だが。


 コップの底に、氷がきっちり張り付いている。カチカチだ。これでは一滴も飲めそうにない……ん?

 待てよ?


「これだ!」


 思わず叫んでしまった。


「わっ……な、なに? どうしたの? ファルス君」

「入れる。王宮に入るだけなら、できるかも」

「えっ?」


 管理されていないであろう出入口が、もう一つあった。


「ウィー、地下牢だよ。あそこの。ほら、捕まってた」

「え? あ、ああ、でも、あそこ、登れないでしょ?」

「登れるよ。凍らせれば」


 そう言いながら、俺はキースを見つめた。


「ああん?」

「ウィーが捕まってた、あの牢獄、下が水だったよね。あれ、凍らせること、できるかな」


 言われたキースは、数秒間、固まっていた。

 それから、針金より固い髪の毛をバリバリと掻き毟り、うつ伏せになりながら、恨みがましい声をあげた。


「お前なぁ……きちぃんだぞ、強力な魔法を使うってのはよ」

「知ってますよ。でも、キースさんならできるでしょう?」


 ルースレスには、王宮についての知識がない。彼とアネロスが、セニリタート暗殺のために何度も王都に出向いたといっても、実際の犯行はドゥリアに委ねるしかなかったはずだ。部外者が立ち入ったとなれば、平時であれば、大問題になってしまう。目立ちたくなかったはずだから、そもそもそんなリスクは取らなかっただろう。

 ゆえに、彼が地下牢からの侵入に備えている可能性は低い。そもそも、あそこから入り込む敵兵がいたとしても、多数ではあり得ないから、尚更盲点になりやすい。


 これは、奴が勝利を欲張ったがゆえだ。もし当初の想定通り、途中までウェルモルドと対立せず、先にタンディラールを倒すことにしていたなら、こんな穴は開かなかっただろうからだ。近衛兵団を率いる彼であれば、王宮の構造を熟知していたから、この状況であれば対策もしていたはずなのだが。


「入れる……のか」

「いけますよ。ね? キースさん?」

「しょうがねぇなぁ」


 溜息とともに、彼は顔をあげた。


「けど、どうすんだ。そうそう都合よく、あのニヤケ野郎を捕まえられんのかよ」

「それは大丈夫です。僕が、周囲の人の心を読んでいけば」

「ちっ、それがあったか」


 精神操作魔術で、人々の意識に触れる。簡単とは言わないが、何しろ指揮官殿の情報だ。近くにいれば、この人がいる! と兵士が気付く。


「おお」


 イフロースの顔に生気が戻ってくる。


「ただ、できれば、殺すより、捕らえて支配したいところです」

「なぜだ」

「攻撃を中止させたいからです。援軍が王宮に辿り着くまで、タンディラールが負けなければいいんですから、その後は、魔術が解けようがなんだろうが、問題ないかと」

「なるほどな」


 どうやら、方針は決まった。

 但し、懸念はある。


「ただ、気をつけてください」

「なに?」

「ルースレスの近くには、恐ろしい男が潜んでいます」


 どうやら……


「アネロス・ククバン……サハリア南部の『首狩り』です」


 ……俺自身の因縁にも、決着をつける時がきたようだ。

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