混戦より逃れて
最悪という表現を、人はよく使う。だが、真の意味でこの言葉に相応しい状況が、どれほどあるだろうか?
兵士の壁の内側、高級住宅地の植え込みの中で、俺は転がっていた。本当なら壁を抜けて、イータ達の隠れ家まで行ってから休みたかったのだが、それは不可能だった。クレーヴェの家を出てしばらく、全身から倦怠感の予兆のようなものを感じた。それで俺は慌てて人気のなくなった邸宅の庭に飛び込んだのだ。
つまり、今の俺は完全に無防備で、戦うのはもちろん、逃げることすらできない。おまけに、ウィーを見つけることもできなかった。まさに最悪だ。
最悪、最悪、最悪……
いや、論理的に考えろ。
最悪ではない。
まだ精神操作魔術は使える。大勢に囲まれるとか、強者に遭遇するとかしない限りは、最低限の防御は可能だ。それに、どういうわけかクローマー達は俺を追ってきてはいない。もし奴が襲い掛かってきたら、それこそ最悪に違いないが、今のところはそれを免れている。
むしろ、幸運というべき状況だ。
なのにこの気分の落ち込みは……ああ。
これも副作用か。
だから身体強化は危険、と考えるのは、短絡的だ。本来、あらゆる選択には副作用が伴う。
精神操作魔術だってそうだった。相手の心が読めるというアドバンテージゆえに、俺は本来の判断力をなくしかけた。
当然、魔法に限った話などではない。おいしい食事、逆に居心地の悪い住居、更には豊富な知識まで。それぞれ、その人本来の思考を歪める力を有している。それらに左右されずにいるのは、ほぼ不可能だ。
古来より、本当の意味で知的な人物は、その歪みを知り、受け入れながら、いかに正しく考えるかを突き詰めてきた。俺はまだ、その域に達していない。それだけのこと。
低木の枝葉の向こうに見えるのは、灰色の空。時間が経つのが、やけに遅い気がする。
動けるようになったら、どうしようか。
まず、ウィーを見つけることに固執するべきではない。
確かに、キースの言う通りだった。自分で選んで自分で行動するのに、どうして他の誰かが何かできるなどと思うのか。それでも、すぐに見つけられるならまだいいが、現にクレーヴェの家まで行ったのに発見できなかったのだから、もうこれ以上のリスクは背負えない。
ただ、もし彼女に会えたなら、おとなしくモール達と国外脱出するように勧めよう。
それから、状況の把握だ。
昼過ぎ、ウェルモルドは、突如市内を無差別攻撃し始めた岳峰兵団のところに、兵を率いて向かおうとしていた。だがそれは、俺の襲撃によって頓挫。それと恐らくほぼ同時に、兵士の壁の西側の門が、武力で突破されている。
そうなると、長子派は今、てんやわんやだ。リーダーが倒れ、岳峰兵団が勝手な行動に出て、しかも包囲網に穴を開けられて。
でも、伯爵軍が来たじゃないか。彼らは援軍では? 少なくともドゥリアは、門を守る近衛兵団にも顔がきいたし、ルースレスやアネロスと通じていた。でなければ、モールの爆殺なんて、計画できるはずもない。
いや、でもそれなら、どうして伯爵軍は、西側から入り込んだ敵に対処しない? 俺が兵士の壁の内側に入った時には、戦闘らしい戦闘がなかった。もしかしたら、タンディラールを圧殺するために全軍を投入したのかもしれないが。何しろ伯爵軍は烏合の衆だ。細かく命令を下すなんて、できるものではない。
もしそうだとすれば、やはりタンディラールは危機的状況にある。
これまでは、三千人に満たない兵士で、倍の数の長子派を相手に、持ちこたえていた。それも即席の城壁があればこそだが。しかしそこに、万を越える増援が殺到するのだ。戦力差にして、少なく見積もっても五倍以上。力攻めが可能になる。
多くの犠牲が出る? そんなことを伯爵やルースレスが気にするとも思えない。第一、時間をかければ、タンディラールの味方が王都にやってくる可能性がある。その前に決着をつけることのほうが、遥かに重要だ。俺がオディウスでも、強襲を選択するだろう。
とすると、短期の決着を狙う伯爵軍は、背後を見ていない。だが、包囲網に穴を開けた謎の戦力が存在する?
よくわからなくなってきた。
とりあえず、動けるようになったら、もう一度スラムに。
これだけ戦況が動いている状況で、いちいち貴族狩りなどしていられまい。今となっては、本当の意味での「最悪」に備えるべきだ。長子派が勝利した場合に、なんとか王都を脱出し、ピュリスかトヴィーティア、できれば国外まで逃げ切る。
あと数十分、このまま……
頭の向こう側から、地響きを感じた。大勢が歩いている。
誰だ?
広い道路の真ん中を、大柄な男が大股に歩いている。右手には大きな手斧。禿げた頭には兜もかぶっていない。簡素な革の鎧を身につけている。その後ろを、長い槍と盾を手にした兵士達が続く。
この男は。
「ボス! なんかいます!」
「おう、引っ張り出せ」
見つかった。
だが、今のところ、俺に恐怖はない。むしろ、これも幸運だ。
「あん?」
そのハゲは、俺を見て、顔を顰めた。
「見覚えあるな、このガキ……おっ」
好戦性の滲む顔立ちが、喜悦に染まる。
「思い出したぜ。お前、トヴィーティ子爵の下僕だな?」
バルドはそう言った。
よかった。
ピュリスの海竜兵団がきた。つまりこれは、タンディラールにとっての援軍だ。
この非常時だ。最低限の兵士だけ残して、あとは全軍を率いてきたに違いない。二千人弱というと少ない気もするが、統制の取れた近衛兵団も消耗しているだろうし、伯爵軍は雑兵だらけだ。その両者より実戦経験で勝る海竜兵団なら、かなりの活躍が見込めるだろう。
「は、い」
「なんだぁ? へばってやがる」
「すみません」
乱暴な男だ。俺の胸倉を片手でつかんで引っ張りあげている。だがこの際、粗暴な振る舞いには目を瞑ろう。
とりあえず、ユーシスの自己犠牲は無駄ではなかった。
「おい、お前」
「はい」
「今、どうなってんだ。教えろ」
俺が教えて欲しい。
ここまでどうやってきたのか……
その時、バルドの片手に握られていた斧が視界に入った。
先端は、血に塗れていた。
「その、斧」
「ああん? ああ」
ただの戦闘で汚れ……
いや、バルドの意識が斧の記憶に向いている。今なら、最近の記憶なら読み取れる。
《……いい機会だったぜ……ムカつく実家のクソどもをブッ殺せたしな……人生最高の日だ! これで俺がコーパシア男爵に……》
ゾッとした。
バルドは、任務より仕返しを優先した。王都に入って、混乱の度合いが大きいのを見て。まず、実家を襲ったのだ。兄とその息子達を虐殺。これでコーパシア男爵家は断絶だ。だが、バルドがいる。この内紛で功績をあげれば、彼が爵位を引き継ぐことも可能になる。
こいつは、王家の危機に馳せ参じたのではない。利益を貪るために駆け込んできたのだ。
「俺達ぁ、東門を破ってここまできたんだ。当然だろ?」
東門? あれ?
西門ではない? では、彼らはさっき見た、無防備な西門から来たのではない。あそこを通過した謎の戦力は、また別にいる?
「それより、さっさとしろや」
「は、はい?」
「どっちだ」
「どっち、と言いますと」
「どっちが今、勝ってるんだって訊いてんだよ!」
ああ、そういうことか。
ユーシスは、とにかく内紛を止めようとして伝令を送った。だがバルドは、報告を受けて出兵こそしたものの、善意など欠片もない。勝ち馬に乗っておいしい思いをする。それが最優先なのだ。
となると、俺がバルドに伝えるべき情報は……
「わ、わかりません」
「あぁ?」
「た、ただ」
「おう」
「長子派の指揮官、ウェルモルドは、先ほど重傷を負いました」
「なに? 確かか」
「確実です。左腕を失って、担架で運ばれていました。この目で、見ました」
「ほっほーう……」
俺がやったんだから、絶対確実だ。
太子派に有利な事実だけを教える。そうすれば、バルドは、結果的にこちら側について戦う。
「他には」
他、何を言えばいいだろう?
とにかく、タンディラールを救わなければ、サフィスも死んでしまう。
「い、今、ウェルモルドの兵が、殿下のいる後宮を包囲しています」
「ふん」
「ですが、どうってことはありません。現にサフィス様は、囲いを破って後宮に入りましたし、僕もそこから脱出できました」
「はぁ? じゃあ、なんだ。ウェルモルドの野郎、攻めきれてないってことか」
「そ、そうです」
「後宮を抜けて出てきたっつったな? そりゃあ、いつだ」
「今朝、です」
「ふーん」
バルドは、俺をポイッと投げ捨てた。
「まぁ、いいや。あとは現場見て決めるだけだな」
それはまずい。数だけ見て、長子派に寝返られたら。
だが、どうしようもない。
「……ふふっ」
俺を放り投げたバルドは、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ったく、俺ぁ、ツイてるよなぁ」
その目は欲望にギラついている。
「何かあるたび、なんでもかんでもうまいほう、うまいほうに転んでいきやがる」
何か、あるたび。
ということは、今までもそういう「何か」があった?
「危ない橋ほど、渡ればおいしいってか? ハハッ!」
ひとしきり自己満足に浸った後、彼は後ろに呼びかけた。
「おい、野郎ども、行くぞ! 一儲けだ!」
「はっ」
そう言うと、彼は斧を掲げて歩き出した。
もう、俺にはまったく注意を払っていない。
だが、俺の中では憶測が渦巻いている。以前にも、こういうことをしてきたのではないか?
バルドは利己的で、狂暴な男。機会があれば、あっさり人を殺すし、後先をそこまで考えない。そんな彼が海竜兵団の軍団長になったのは、フィルが総督に就任する前だ。そして、その前任者は……
彼について、俺はさほどは知らない。
ただ、その凄まじい出世欲、地位への執着ならば、以前に垣間見ている。せっかく捕らえたタロンの首を、なりふり構わず吹っ飛ばした瞬間は、忘れられない。
……そして、さっきの爽快感。
実家の兄弟、その家族を虐殺した記憶を、彼は宝石でも眺めるかのように堪能していた。美食を口にしたかのように反芻していた。恨み骨髄、その長年の劣等感の暗雲が晴れたのだ。
彼は本来、上にいけないはずの立場だった。なぜなら、そう生まれたからだ。貴族の次男坊に過ぎず、形ばかり騎士の身分をもらっただけだ。だから、平時であれば、どんなに望んでも今より高い地位を得られない。目の前で努力なしに兄が貴族の家柄を授けられるのを目にしているのに。彼は潮水にまみれ、海賊どもと命懸けの格闘を演じても、それを与えられないのだ。
道理を通せば、自分が終わってしまう。それでもルールを守れ、善良であれ、というのは、恵まれた人の傲慢だ。
ドミノだ。恨みのドミノ。ここでもそれが。
俺は地面に転がったまま、立ち去っていく海竜兵団の兵士達を見送るしかできなかった。
夕方、俺はスラムに引き返した。
今となっては、俺に何ができるだろう?
「あ、お、おかえり?」
目を白黒させながら、ナギアが出迎えてくれた。
俺の顔色がよくないのを見て取ったのか。
「あれから何か」
「みんな無事よ。それと」
二階の広間に立ち入る。相変わらず、ベッドの上でセーン料理長は寝込んだままだ。ソファの上に、リリアーナとウィムが座っている。ランもイーナもいる。
しかも、そこにもう一人。
「イフロース様?」
背凭れのある椅子に、彼は腰掛けていた。
「戻ったか、ファルス」
「ご無事でしたか」
「今しがた、やっとここに帰ってきたところだ」
それから、沈黙が場を包んだ。
ならば、彼は当然、知っているはずだ。
「……お前が気に病むことはない」
「ですが」
「我々も力を尽くした。奥様も、閣下もそうだ。たまたま結果がこうなっただけのこと」
「そんな」
「もし責任があるとすれば……それはこの私にある」
重苦しい沈黙だったが、それは長続きしなかった。
イフロースは声色を和らげて、俺に尋ねた。
「だいたいのことは聞いているが、閣下は」
「エルゲンナーム様とともに、後宮に。ですが」
「あの時点では最良の判断だろう。だが、まさかここで伯爵が動くとは」
「ただ、その、いくつか報告が」
彼は眉を吊り上げ、注意をこちらに向ける。
「まず、ウェルモルドですが、討ち損んじました」
「なに」
「手傷を負わせはしましたが」
「ふむ」
「片腕を失う大怪我でしたので、担架で運ばれていきました。今、どうしているかは知りません」
これは朗報だ。
だがまだ、三つほど。
「それと、これははっきりしないのですが」
「うむ」
「どうも、岳峰兵団の投石器が、市内に無差別に撃ち込まれているとのことで」
「ふむ、それは私も気付いていた。今は収まっているようだが」
「それと、ピュリスの海竜兵団が王都に到着しました」
「確かか」
「はい。軍団長のバルドを見ました。ただ」
「ただ、なんだ」
「どちらに味方するかはわかりません。一応、太子派に有利な情報だけ伝えましたが」
「なるほど」
「それと最後に、不可解なのですが、兵士の壁の西門が、突破されていました」
「どういうことだ?」
「バルドが通ったのは、東門だそうです。彼に会う前に、西門を通りました。守備兵が皆殺しにされていて、誰にも遮られませんでした」
「ふうむ」
顎に手を当てて、彼は考え込んだ。
「誰だと思いますか?」
俺の問いかけに、彼はしばらく黙っていた。だが、ややあって返事をした。
「ピュリスの海竜兵団ではない。となれば、殿下に味方する可能性があるのは、スード伯くらいだ。フォンケーノ侯も動く可能性はあるが、それなら普通に北門から来るだろう。だが、彼らが動いたなら、もっと目立つはずだ」
とすれば、同じ理由で、ルアール・スーディアの王国兵も、まだ到着していないとみるべきか。
「西部国境の聖林兵団は」
「ゼルコバか。可能性はあるが、それなら門を放置していく気がしない。僅かでも兵を置いておけば、見張りに足止めにと役立つのに、それをしない理由があるまい」
「でも、そうなると、誰もいないことになりますよ?」
理屈が合わない。ゴーファトでもフォルンノルドでもない、ゼルコバでもない。では、誰があんな真似をするのか。
しばらく目を閉じていたが、イフロースは静かに言った。
「……伯爵、か」
「はい? ティンティナブラム伯?」
「そうだ」
「そんな馬鹿なことが。だって、長子派の兵を殺していったんですよ?」
「確信はないが」
と前置きして、彼は説明した。
「聞いた限りでは、相当な数の兵力を王都に差し向けたはず。最低でも一万、下手をすれば二万ほどの大戦力だ。質は低くともな。ならば、長子派も太子派も関係なく、両方叩き潰してしまえるとは考えられんか?」
確かに、不可能ではない。
不利な太子派はもちろんのこと、長子派も今はウェルモルドが倒れたままだ。その間隙を、ルースレスが衝いたとすれば。
この解釈であれば、岳峰兵団による無差別攻撃についても、一定の説明が可能となる。つまり、市内を攻撃しているのはベラードではなく、兵器を強奪した伯爵軍ということになるからだ。
伯爵としては、もしこの攻撃が失敗したら、自分達が逆賊になってしまうのだから、王家の力を削ぐ意味でも、少しでも王都に打撃を与えておきたくもある。
ただ、そうした目先の問題についてはともかく、根本的な動機については、やはり情報不足だ。
タンディラールとフミール、両方を殺害したとして、伯爵にはどんな意味がある? まさか、シモール=フォレスティアの王と密約でもあるのか? まさか。
「そうした場合に果たして利益が得られるものかは、定かでないがな」
「はい……」
たとえば、フミールの息子を一人、確保して、傀儡政権を作るとか。
しかし、それにしては、とも思う。オディウスにそれだけの政治力があるか?
「ともあれ、ここまで事態が進んでは」
「隙を見て、王都から脱出するべきです」
「その通りだ。しかし、閣下をおいては行けん」
そう言いながら、彼は椅子から立ち上がろうとした。
「いけません!」
駆け寄ったのは、イーナだった。
彼女の一押しで、簡単にイフロースは椅子に落ち着いてしまう。
「う、く」
「傷口が」
そういえば、イフロースがフォンケーノ侯の邸宅からどう逃れたか、一切聞いていなかった。
どうやら無傷とはいかなかったらしい。
「あの」
「私も歳をとったということだな、ファルス」
苦笑いが浮かぶ。
「殺されこそしなかったが、この通り、脇腹に刃を受けてしまった。だが、これくらいは」
彼は自嘲するが、考えてみれば、この程度で済んだだけでも大したものだ。数十人の傭兵に囲まれ、俺とサフィス、エルゲンナームを逃がしながら戦って、なんとか逃げ延びたのだから。その役目を引き受けたのが俺だったら、どうなっていたか。
「あの、ドメイドは」
「討ち漏らした。情けないことにな」
「いえ……」
これで、今わかることは、おおよそ把握できた。
「これから、どうしますか」
「知れたことよ。閣下を救い出して、逃げるだけだ」
彼の意志に、迷いはなかった。
「ふふっ……くくっ……」
むしろ、逆境であればあるほど。
意志を持つ人は、より激しく燃え盛るものなのかもしれない。
彼は、笑っていた。
「とりあえずは休め、ファルス。絶対に生きて帰るのだ」
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