檻の中の貴族

 風が止んだ。

 秋の夜の湿った空気が、まるで舞台の上の幕のように、空間を閉ざしていた。視界は限りなく、黒一色。だが、間近に横たわる家々の壁が、かすかに色づいて見える。

 この近くには人気はない。だが、遠くには誰かいるはずだ。市民の壁の向こう、流民街では、今、何かが起きている。地上の火の光が、遥か頭上を埋め尽くす暗雲を照らしているのが見える。


 この暗がりの中、俺達は物に躓くことすらなく、足音も立てずに移動できている。

 一つには、イフロースの優れた経験のおかげだ。彼は一人先行し、周囲を偵察する。そして、一番安全なルートを頭に刻む。

 それを俺が『精神感応』の魔法で読み取る。これが非常にうまくいった。言葉や合図を必要としないので、技術や経験、集中力を割かずに情報を受け取れる。その上、イフロースの記憶そのままを受け取れるので、誤解などの伝達ミスがない。

 しかも、何かあれば、彼が自動的に警告を発するので、足を止める。最悪の場合は、イフロースを見捨てて引き上げることも決まっている。


 そんな俺の後ろには、子爵一家とその従者達が続いている。俺のすぐ後ろにリリアーナとウィム、その背後にナギア。負傷した体を引き摺るセーン料理長を、イーナ女史が支えている。最後尾をランが。

 彼らもまた、ミス一つなく前進している。これまた『精神感応』の魔力のおかげだ。俺がイフロースから受け取った情報を、今度は彼らがそのまま活用する。

 ことここに至っては、俺の秘密がどうとか、細かいことを気にしてなどいられない。どうせ魔法を使うところは以前にも見られているのだし、ピアシング・ハンド以外は知られてしまっても仕方がない。


 情勢は、確実に動いている。ただ、イフロースの先行偵察からすると、もはや兵士は、さほど熱心に城門を守っていないようだ。

 これは一見すると奇妙なことだ。伯爵軍がどういう腹積もりにせよ、今、誰かと戦闘を繰り広げているのであれば。後から王都に進入してくるであろう勢力を選別し、必要に応じて足止めすべきだろうからだ。

 しかし、ここ市民の壁についていえば、その必要性は薄いのかもしれない。王都は広く、その城壁も長大だ。日頃からここで任務に就き、その構造を熟知している兵士達ならいざ知らず、いきなり押しかけてきただけの雑兵達に、その防衛線の維持が可能かとなると、かなり怪しいのだ。

 ルースレスは、恐怖だけで農奴達を兵士に仕立てた。武器を振り回すことはできても、精密な作戦行動など、最初から期待していまい。だから、こんなに雑な対応で済ませているのだ。


 裏を返せば、今日、明日がこの内紛の山場といえる。隠れ長子派だったらしい伯爵軍が、最大戦力をぶつけようと王宮に殺到している。後宮に篭る太子派の五倍を超える兵数だ。これが一気に陥落を狙う。

 一方で、ピュリスの海竜兵団も到着した。もしかしたら、ゼルコバも既に参戦しているのかもしれない。長子派……というより、反タンディラール軍は背後を狙い打たれながら捨て身の攻撃をすることになる。

 これはよしあしだ。挟み撃ちにされるといえば、ひどい状況に見えるが、そもそも兵士は、死地に追い込まれなければ全力を出さない。俺達にはもう逃げる場所なんかない、ここで勝たなければ逆賊だ……このプレッシャーを与えるために、無茶な攻撃をさせているのだとすれば、ルースレスはなかなかよく考えている。


 ということは、今は「空白」の時間帯だ。

 誰も彼もが自分の仕事にかかりきり。だからこそ、逃げるなら今、なのだ。


 ……空気の動きを感じた。


 数日前、通り抜けようとして果たせなかった場所。市民の壁の、南門。

 金属製の大きな門扉が、今はひどくひしゃげている。その向こうから、静かな夜の空気が流れてきているのだ。


 やはり、周囲に人の気配はない。《意識探知》にも、人間の反応はない。あっても、眠っている。


 イフロースは、この「夜明け前」という時間帯をわざわざ選んだ。人間が一番深く眠っているであろうからだ。順調にいけば、夜明けには流民の壁も越えられる。そうすればもう、王都を脱出したも同然だ。

 しかし、ずっと遠くに火の手が見える。多分、何の障害もなしに、とはいくまい。


 門の入り口に立つ。城壁は相当に分厚い。ちょっとしたトンネルだ。既にイフロースはここを抜け、反対側に出て、周囲を探索している。

 ここまできた。両軍の主戦場からは離れることができた。自然と嬉しさがこみあげてくる。


 その俺の歓喜に、水を差すような警戒心が割り込んだ。


《……誰かいる……ファルス、私が確認する》


 俺は直ちに足を止めた。後ろの全員もそれに倣う。最悪の場合は、退路を確保しなければならない。後方に人の意識がないか、探りながら、イフロースからの続報を待つ。


《危険はない……ここで待つ》


 そう伝えてくるイフロースの思念が、俺の中に流れ込んでくる。

 彼が見ていたのは、木の台車だった。馬車の荷台のようなものだが、天井に幌がかかっていない。代わりに全体が格子になっている。その中に、人が一人、囚われている。つまり、運搬可能な檻だ。

 俺は歩を速めた。


「……ファルスか」

「その人」

「うむ」


 近くには、他の人がいない。だから、多少の足音も気にせず、俺達は先を急ぎ、イフロースと合流した。

 そして、俺はその人物を直接に見た。


「……間違いありませんね」

「やはりか」


 閉じ込められたその男は、とっくに目覚めていた。近付く物音に跳ね起き、それが兵士でないと確認すると、格子に縋りついてこちらを凝視してきた。

 この戦場に来ているのに、その男の服装は普段の服。ただ、高級そうな貴族の衣装も、今は見る影もなく汚れきっていた。この簡易牢獄からは糞尿の臭いがする。囚人を見張る者がいない以上、彼は自力で生理現象を解決するしかなかった。

 彼が求めているのは、無論、救出であり、解放である。だが、目の前の人々は、まったく彼に好意的ではなかった。それがわかるからだろう。彼は喉の奥から、かすれた声を出すばかりで、はっきり慈悲を乞うことはなかった。


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 オディウス・フィルシー・ティンティナブラム (47)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク3、男性、47歳)

・スキル フォレス語 5レベル

・スキル ルイン語  1レベル

・スキル 指揮    1レベル

・スキル 管理    1レベル

・スキル 房中術   1レベル


 空き(42)

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 もちろん、イフロースも伯爵と直に会っている。だから顔は知っているのだが、状況が状況だ。だから、性急な判断を避けた。リリアーナやナギア、それに俺も、伯爵の顔なら知っている。ちゃんと首実検させようと考えたのだ。

 そしてピアシング・ハンドは、確かにこれがあの醜悪な中年貴族であると指し示してくれている。


「ティンティナブラム伯」


 イフロースが声をかけた。

 ピクリとして、オディウスはそちらに顔を向けた。


「王家への反逆とは、思い切ったことをなさいましたな」

「ちっ、違う!」


 しゃがれた声が絞り出された。その声色だけで、彼が水も食料も与えられず、衰弱しているのがわかる。


「た、助けてくれ! お前らは……ああ、見覚えがあるぞ! エンバイオ家の下僕達だな? さ、さあ、早く」

「今、伯爵軍が都内を荒らしまわっているのですが」

「し、知らん! わしがやらせたことではない! 見るがいい、この姿を! 閉じ込められておるのだぞ?」

「それは誰に」

「甥のルースレスにだ! まったく、あの恩知らずめが!」


 イフロースは静かに振り返り、俺の目を見る。

 問題ない。ルースレスがやったのは確実だ。オディウスほど能力が低い相手だと、心の中もスムーズに読める。


「しかし、では伯爵……なぜあなたは、戴冠式にあわせて王都に駆けつけなかったのですか」

「名代のレジネスがおるからだ! 問題なかろう!」

「それはそれでいいとして、では、どうしてこんな大軍を差し向けたのですか」

「だから、知らんと言っておる! これは全部ルースレスが」

「嘘です」


 俺は割り込んだ。


「もう、わかりました」


 そう言って、俺はイフロースに頷いてみせた。

 会話のおかげで、オディウスは記憶を意識に引き戻さねばならなかった。おかげで、あっさりと事情を読み取れた。

 代わって前に出る。あとはこの男に引導を渡すだけだ。


「伯爵、あなたは最初から、隠れ長子派だった。この大軍をもって、フミール王子を擁立するつもりだった」

「ち、違う!」

「理由は、王家への借金だ」

「なっ!? ど、どうして」

「先王セニリタートと裏取引をして、あなたは伯爵の地位を得た。ただ、そのために大金を差し出す破目になった。それはそのまま王家への借金となり、あなたは領民から搾取することでなんとか利子を支払ってきた」


 これがティンティナブリア窮乏の原因だったのだ。


 オディウスは、実の兄を謀殺して、今の身分になった。だが、それは独力では不可能だった。一方、王家としても、欲ばかりで実力を伴わない領主が生まれるのは大歓迎だった。それでオディウスの兄は事故死したことになり、家督は弟の彼が握ることになったのだ。

 伯爵領の農民達にとっては地獄だが、王家にとってはいいこと尽くめだった。弱みを握られた伯爵は、表の名目をつけられた借金を返済しなければならなくなった。こうして広い領土を有する地方貴族の頭を押さえ込みつつ、定期的な収入を確保した。

 しかし、ティンティナブラム伯は、国境線を守る大貴族では? それはその通りなのだが、北方のアルディニア王国とは、ずっと戦争がない。それに国の規模からいっても、あちらは一回り小さい。かつてのセリパシア帝国のような脅威ではないのだ。だから、伯爵領が、多少弱体化しても構わない。


 ルースレスは、その暗殺された兄の息子だ。なぜか不当に権利を奪われ、身分も庶民に落とされた。だから彼の名前には、貴族を示す称号がついていなかったのだ。

 最初、オディウスは甥まで始末する気でいた。だが、ルースレスはなかなかに切れる男だった。自分の父の仇を前に、むしろ膝を折って、前向きに仕えてみせたのだ。

 この分では、この甥は、自分が兄を殺したことに気付いてはいまい。ならばいっそ、騎士の身分にでもしてやって、統治の仕事を肩代わりさせるのも悪くない……伯爵は油断していたのだ。


「それでも、どう足掻いても借金は減らない。それであなたは、一か八かの賭けに出た。ルースレスとアネロス・ククバンを何度も王都に遣わして……侍医モールの助手を務めていたドゥリアを篭絡して、セニリタート王の毒殺を請け負わせた。自分達のおかげで王位を得たのなら、フミール王子は報いないわけにはいかないからだ」

「そ、そこまで……? な、なぜ知って」

「だが、土壇場で裏切られた」


 俺の言葉に、伯爵は息を呑んだ。

 もう、本当にすべてを知られてしまったのだと、そう悟ったからだ。


「岳峰兵団のベラードを、ルースレスはいきなり殺害した。そして、あなたを捕らえてここに閉じ込めた。そのまま、残った岳峰兵団の兵士達を追い散らすと、ルースレスは大軍を引き連れて市内に突入した」


 ベラードはウェルモルドの仲間、つまり長子派だ。それを始末したということは?


 太子派に寝返ったわけでもない。推測でしかないが、ルースレスは、すぐに気付かれてはまずいと考えて、最初はドゥリアの要求にも従い、モールを殺すなどの仕事も引き受けていた。つまり、予め取り決めてあった手順通りに動いたわけだ。アネロスにエレイアラが殺されたのも、そうした動きの一環だ。

 最終的な目標は、とんでもないところに設定されていた。ルースレスは、恐らくだが、長子派もタンディラールも、両方倒すつもりでいる。その上でフミールを手にしていれば、この国の実権を我が物にできるのだ。だが、当面は長子派と協力する計画だったのだ。


 だが、厄介な男……手強いウェルモルドの排除に成功するまでは、長子派の一員という仮面を脱ぎ捨てるわけにはいかなかった。そこでルースレスは、ベラードを殺害した後、兵士達に投石器による市内への攻撃を実行させた。異変ゆえに、ウェルモルドは確認に出向かざるを得ない。

 想像でしかないが、本来の計画では、そうして彼が外に出ている間にタンディラールを倒し、フミールを確保して、戻ってきたウェルモルドを討ち取るつもりだったに違いない。


 ここでイレギュラーが発生した。

 俺がウェルモルドを襲撃して、重傷を負わせたのだ。どこかで牙を剥くつもりだったルースレスは、この好機を見逃さなかったに違いない。つまり、これで兵士の壁の西門を突破したのが誰か、判明したわけだ。

 いっそ、立ち直る前に先に長子派を。それからでも、タンディラールを殺す時間はある……


「よかったですね、伯爵」

「な、なにがだ」

「これでもう、あなたはおしまいだ。長子派のために動いた以上、タンディラール王子が勝てば、自動的にあなたは逆賊になる。一方、フミール王子が勝っても、ルースレスが長子派を裏切って攻撃を仕掛けた以上、あなたは罰せられる。そしてルースレスが王家を滅ぼしても、彼にとってあなたは父の仇だ」


 こうなってはもう、殺すまでもない。その値打ちもない。


「ふむ」


 隣で話を聞いていたイフロースは、一度頷くと、俺に尋ねた。


「つまり、彼に利用価値はないと」

「ありません」

「では、先を急ごう」

「はい」

「なっ」


 興味をなくして去っていこうとする俺達に、オディウスは喰らいついた。


「ま、待て! わしを助けろ! さ、さもないと」

「さもないと?」

「さ、叫ぶぞ! お前達が逃げられないように!」


 やれやれ、だ。


「オディウス」

「くっ、貴様、奴隷の分際でよくも私」

「黙れ。さもないと殺す」


 その一言で、彼はピタッと静かになった。

 これでよし。


 俺達は、ひたすら流民街を歩いた。

 すぐに風景は、荒れ果てたものになっていった。


 伯爵軍といっても、その実態は野盗の群れに等しい。ルースレスが一部の戦力を残したのか、それとも切り捨てたのか。或いは、勝手に離脱したのかはわからないが、とにかく、兵士達がいるらしい。

 彼らは門を守るでもなく、市内に突入するでもなく、流民街を荒らしまわっていた。情けないにもほどがある。

 つまり、こういうことだ。門を守備する責任感はない。さりとて、ルースレスに従って市内で戦う覚悟もない。それどころか、略奪のために市内に立ち入る度胸すらない! だから、主戦場から外れたこの流民街で破壊と略奪、暴行を繰り返す。


 そうした破壊の結果が、流民街のそこここに刻まれていた。家屋が焼かれ、倒壊し、黒焦げになった木の柱が斜めの方向に突き出されている。割れた煉瓦や土壁の破片が散らばっている。遠くにいくつか見える焚き火は、レイプキャンプだ。ここからでははっきり見えないが、女達の悲鳴と男達の下卑た笑い声だけは、かすかに聞こえてくる。


《敵意……前方から、三人》


 意識がこちらに近付く。それを『精神感応』で伝達する。

 こちらが女連れで、しかも市内から逃げてきたらしいと勘付いている。全員、革の鎧に簡単な金属製の兜を着用している。二人は槍を、一人は腰に手挟んだ剣だけ。


 白み始めた空を背景に、ぬらりと黒い影が浮かび上がる。


「おう、待てや、お前ら」

「へへっ、どこ行くん」


 短い呻き声をあげて、その男は仰け反った。そのまま、仰向けに倒れる。


「なっ、てめぐぇ」


 イフロースの細身の剣が、二人目の喉を刺し貫く。


「ひっ」


 一人目は短刀の投擲で。二人目は鋭い踏み込みからの一撃で。一瞬で仲間が殺されたのに、そいつは怯えたらしい。だが、手遅れだった。剣先が喉元をかすめたかと思うと、もう死んでいた。


 俺のすぐ後ろで、リリアーナが震え上がっていた。悲鳴をあげないだけ立派なものだが。

 今がどれほど危険かは、よく承知している。現に、アネロス相手に向き合ったのだ。死の恐怖は理解できている。

 だが、見慣れた人が。いつも優しい「じいや」が、こんなにもあっさりと人を殺すなんて。


 だが、イフロースとしても、配慮などしていられない。今の男達を逃がせば、もっと多くの仲間を引き連れてくる可能性がある。この夜明け前であれば、殺害に気付かれるまでの時間も稼げるだろう。その間に、少しでもここから遠ざかる必要があるのだ。


 自然、一行の足も速まる。だが、取り囲まれるまでに、それほど時間はかからなかった。


 目の前には、流民の壁の門。その付近に、大きな焚き火があった。取り壊された家々を薪にしている。そうしてできた空間が、広場のようになっていた。

 そこに百人を下らない男達が屯していた。どこから引っ張り出してきたのか、彼らは酒の入った壷から、大きな茶碗で汲みだして、文字通り浴びるように飲んでいた。

 傍らには、全裸の女達の姿もある。彼女らは、生きているのもいれば、そうでないのもいた。老いも若きも等しく嬲られ、死んで後も陵辱の対象とされていたのだ。

 隅のほうには、その女達の家族だったらしい男達がいた。こちらはもちろん、全員死んでいる。


 俺達は、そんな広場のど真ん中を通るしかなかったのだ。


《大丈夫ですか、こんな》

《心配いらん。それより、弱みを見せるな》


 そう告げると、イフロースは背筋を伸ばし、まっすぐ歩いた。俺達もそれに従う。


 やはりというか、当たり前のように誰かが立ち上がり、前に立ち塞がる。だが、今度は一言もなかった。

 何か言う前に、イフロースがあっさり刺殺していたからだ。


 これに男達は、はたと動きを止めた。

 問答も何もない、目の前に立っただけでいきなり。かすかな敵意と、それを上回る恐怖。

 確かに、全員で取り囲めば、俺達を殺すことも不可能ではないだろう。だが、それには「犠牲」がいる。誰がそれを引き受けるのか。指揮官もいなければ、もともと覚悟も何もない兵士崩れどもだ。何かできるわけもなかった。


 それでも、何事もなかったと思うのは難しかったらしい。怯えた事実が矜持を傷つけでもしたのか、後ろのほうから、身構えた男達がじりじりと距離を詰めてきている。

 このままでは……


 そう思った時だった。

 馬蹄の響きが、遠くから聞こえてきた。


 流民の壁の門の向こうを、イフロースは目を細めて眺めた。地平線は既に白くなりかかっている。そんな中、濁った藍色の空を背景に、騎乗する兵士達が、外から向かってきていた。


 いち早く反応したのは、俺達を取り巻いていた雑兵どもだった。すわ、新手かと、早速に腰を浮かせた。そして、あっという間に逃げ去ってしまったのだ。

 だが、イフロースはそこで足を止めた。


 ほどなく騎兵の集団は、門を抜けて俺達の前で止まった。

 先頭にいたのは、鎖帷子に身を包み、丸い兜をかぶった男だった。手には重量のありそうな槍を携えている。俺にはそれが誰だかわかっていたが、今までのイメージとはまったくかけ離れていたので、戸惑わずにはいられなかった。


「ククッ……その姿を見るのは、久しぶりだな」

「そんなことを言っている場合か、イフロース」


 咎めるような口調で応えたのは、カーンだった。

 考えてみれば、彼がここに駆けつけたのも不思議ではない。数日前に、ユーシスの伝令がピュリスに到着したからこそ、バルドは軍を起こした。ならば、その動きは当然、官邸に住まう人々にも知られている。屋敷の召使達は戸惑ったろう。だが、陸上交易から戻ったカーンは、事情を知って、すぐに決断した。

 足の速い騎兵だけで、すぐさま救援に向かうべきだ、と。


 馬から飛び降りると、彼はイフロースに尋ねた。


「これは、どういう状況だ」

「見ての通りだ。閣下はまだ、殿下とともに王宮においでだ。今は、万を数える敵兵に囲まれている。救い出さねばならん」

「奥方は」


 言ってしまってから、すぐに察したらしい。カーンは黙り込んだ。


「私の不手際だ」


 間をおいてから、イフロースは静かにそう答えた。


「すまん」

「それより、お嬢様と若君を頼む」

「ああ、それはいいが、お前はどうする」

「引き返す。閣下を一人で死なせるわけにはいかん」


 迷いなく言い切ったイフロースに、カーンは眉を顰めた。


「馬鹿を言え。お前が死ねば、誰が」

「カーン、最悪の場合には、せめてお嬢様と若君を、ムスタムあたりに逃がしてくれ。それだけでいい」

「それは犬死だと言っているのだ、イフロース」


 詰め寄るカーンに、イフロースはあくまで静かに答えた。


「傭兵だった頃の私なら、同じ意見だったろうな」


 その顔には、穏やかな微笑さえ浮かんでいた。


「閣下の……いや……『サフィスお坊ちゃん』の人生を、無意味なものにはしたくないのだ。なぁ? あれでもフィルの一人息子だからな」

「お前」

「死ぬなら、閣下の横で、だ。その後、すぐ後に閣下も殺されるとしてもな。同じ死ぬでも、意味のあるとなしでは、大違いだ」


 彼の覚悟は、なんとなく理解できるのだろう。

 リリアーナは、下からイフロースの顔を見上げている。不安げに。だが、何も言い出さない。我儘を言えば聞いてくれるかもしれないが、それをしていい場面ではないと感じているのだ。


 イフロースは、俺に振り返った。


「ファルス、お前もピュリスに帰っていい。あとは私に任せてくれ」


 その微笑には、死の翳が重なって見えた。

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