絶望の理解者

 走りながら後ろを振り返る。

 人影も見えず、足音も聞こえない。どうやら振り切ったようだ。


 最寄の建物の天辺に立ち、手摺りの隙間から大通りを窺う。


 近衛兵団第二軍の兵士達は、いまだにそこに留まっていた。鋭敏になった視力は、更に詳細を見せてくれる。

 担架らしきものが持ち出され、そこに人が乗せられる。ウェルモルドだ。切り落とされた腕の付け根が、固く縛られている。その布は、遠目に見ても赤く染まっていた。抵抗するように彼は身動きしているが、兵士達は構わず寝かせようとする。

 彼が死ねば、長子派は軍事的指導者を失う。この内紛に敗北すれば、上役に従っただけとはいえ、彼らも重大な処分を避けられない。ここで無理をさせるわけにはいかないのだ。


「……くそっ」


 俺は壁にもたれかかりながら、吐き捨てた。


 やっぱり冷静じゃなかった。冷静になれなかった、というべきか。

 行方の知れないイフロース。サフィスを後宮に残してきた焦り。エレイアラが殺された事実。スラムに留まるリリアーナ達についての不安。それを一気に解決しようとした。敵のリーダーがいなくなれば万事片付くのだと、安直に考えようとした。

 しかも、やはりというか、俺の心は殺人の準備ができていなかった。躊躇がまったくなかったかといわれると、自信がない。或いはもう少し思い切りがよければ、とどめを刺せたのではないか?

 身体強化の魔力が、そんな俺を更に狂わせた。


 ただ、ポジティブに捉えることもできる。

 これで長子派の行動は止まった。指揮官の状態があれでは、積極的な選択はしにくいだろう。だが、戦場では往々にして、慎重な行動こそ却ってリスクを高める。長い目で見れば、俺の一手が太子派を勝利に導き、ひいては俺の周囲の人達を救うことになるのかもしれない。


 こうなると、次に救うべき存在は、俺自身となる。

 身体強化開始から、まだ五分か、十分くらいしか経っていない。あと二十分ほどは活動できるはずだ。だが、その後にはいつもの脱力状態が待っている。

 ウェルモルドを討ち取れていたなら、まだましだった。兵士達が仇討ちに執着する可能性もないではないが、基本的には逃走に切り替えるはずだからだ。ところが、彼はまだ生きている。となれば、兵士達も戦いを継続するはずで、俺を見かければ追いかけてくる。

 だから逃げなければいけないが、さすがにあのスラムに戻るのはなしだ。追っ手を振り切ったつもりではいるが、実は泳がされているなんてのも、あり得ない話でもない。かといって、この辺の適当な物陰でやり過ごすという手にも、不安が残る。


 一人で戦うしかないのが、俺の最大の弱点、か。まさにそれを実感させられる。

 俺の切り札が、どれもこれも思ったほど役に立ってくれていない。


 まず、精神操作魔術だ。

 そもそもタンディラールの腹積もりさえわかっていれば、先に王都から逃げ出すくらいはできた。だが、王宮には触媒や魔道具を持ち込めず、ここまでの動乱を予期することはできなかった。なら、どうして最初から、大金をかけてもいいから、目立たない道具を製作させるなどしておかなかった? グルービーの遺産を惜しまず使えば、ある程度はなんとかなったかもしれなかったのに。

 いや、その理由は自分でもわかっている。それだけのコストをかけて、そんな大袈裟なものを作らせたら、必ずどこかに俺の情報が漏れる。精神操作魔術を使いこなす少年との噂が広まったら、面倒ではすまない。どこも立ち入り禁止になるだろう。

 第一、それだけの魔道具を作れる職人がどこにいる? ツテもコネもない。腕があって秘密を守ってくれる専属の技術者なんて、無理もいいところだ。となれば、自分でやるしかないが、当然、必要な能力は奪わねばならない。何の罪もない、敵でもない人から、人生かけて伸ばした技を横取りすることになるのだ。

 しかも、知識は別口で仕入れなくてはいけない。魔法についてのそれは書物があるが、道具作りの知識となると、また違った専門性が要求されるだろう。


 結局、内戦が始まってからは散々だった。限られた肉体を触媒にして、強引に術の行使を繰り返した。それでなんとかなることもあったが、最終的にはルースレス相手に不覚を取りそうにもなった。


 身体操作魔術もそうだ。

 戦いの要所では役立ってくれているが、万能というわけではない。それに、大事な身体強化薬もあと一粒きり。かつ、これ以上の連続使用は、さすがに危険すぎる。

 今は、これからやってくるだろう脱力状態に備えなければいけない。


 そしてピアシング・ハンドは、アネロスの魔法攻撃から俺と同行者を守ったが、これで使い切り。あと一日は待たねばならない。


 もちろん、これらの能力がなければ、状況は更に悪くなっていた。とはいえ、だ。

 能力を秘密にしておくというのは、それを武器として活用する際には、とても大きなアドバンテージになる。だが俺の場合、そこに高い代償を支払う必要があるのだ。

 どんな能力にも、それぞれに弱点があり、有利な状況も作るが、不利も招く。俺に限った話ではない。問題は、それをリカバリーできる手段が乏しいところにある。


 どうする?

 スラムに引き返せないなら……この近くに、今朝、逃げ込んだ民家があったはずだ。まだキース達がいればいいが。一時間ほどでいい。横になってから、またスラムにこっそり引き返す。

 ウェルモルドを討ち漏らしはしたが、これで終わりではない。彼の動きが鈍っているうちにも、時間は過ぎていく。あと一日経てば、俺は問答無用で彼を消去できるのだ。その意味では、急ぐ必要性が小さくなったともいえる。


 俺はそっと身を起こし、路地に降り立った。


「……は?」

「いや、だから、さっき出て行ったのよ」


 目指した民家にいたのは、モールとイータ、その同僚の看護婦達だけだった。


「なんで。この状況で、どうして止めなかったんですか!」

「その、おじさま? が心配だと言っていて。でも、ちゃんと約束はしたわよ? 寄り道はしないで、無事を確認したら、戻ってくるって」


 何があったのか?

 まず、俺が出て行ってしばらく、キースが魔法使用の疲労から立ち直り、起き上がった。何か思うところでもあるのか、彼はそのまま家を出て行き、戻ってこなかった。

 引き続きウィーがモール達を守っていたが、やはりどうしてもクレーヴェのことが気がかりだったらしい。最初はイータ達も、外に出ないようにと勧めたらしいが、彼女の意志は固かった。


「出て行ったのは、ついさっきなんですね?」

「え? ええ、そうよ。五分も経ってないくらい」


 ならば、見つけて連れ帰る。

 ただでさえ、王都全体が危険地帯となっているのに。第一、クレーヴェは兵士の壁の内側に住んでいる。またあの検問を抜けるつもりか? そう簡単に通れるはずはないから、きっとその前で足踏みしているだろう。


「行ってきます」

「えっ、ちょっと」


 まだあと十五分くらいは、身体強化の効果が残るはず。それで行けるところまで行ってみる。今は時間が惜しい。


 どことなく空気が張り詰めている感じがする。曇り空に、静かな冷たい風が流れていく。

 大通りに出ても、人影はなかった。砕かれた樽の破片や、車輪が外れた荷車が、そこここに散らばっている。


 今の身体能力なら、兵士と遭遇しても、走って逃げ切れる。それでも見つからないのに越したことはない。それで家の影に身を潜めながら前に進んだのだが、まるっきり誰とも出くわさない。

 すぐに兵士の壁が見えてきた。そこで俺は目を疑った。


 門が開け放たれている?


 どう見ても変だ。門の前には、誰もいない。いや、立っている人はいない、というべきか。

 すっかり見慣れてしまったものが、門の奥にいくつか転がっている。死体だ。


 警戒しても仕方がない。俺は走りよってじっと見た。

 ここを突破するために、ウィーが殺した可能性をまず考えた。しかし、それはあり得ないとわかった。なぜなら、兵士の胸には切り傷があったからだ。矢で殺されたのは一人もいない。傷の大きさから判断して、剣か槍だ。

 次に、倒れている方向を見た。うつ伏せになっているものは市民の壁側に頭を向け、仰向けになっているものは兵士の壁の内側に頭を向けている。つまりこれは、外側から攻撃を受けたのだ。


 一体誰が?

 キースか? しかし、これはどう見ても一人の仕業ではない。剣だけならともかく、彼は槍なんか使わないのだ。


 今朝の時点でここを押さえていたのは長子派だった。それが襲撃された。しかし、ここを突破した連中は、この門を防衛拠点に定めず、そのまま奥に向かった。

 では、タンディラールの援軍がやってきた? そう考えればいいのか? もしそうなら、紛争終結はもう目前なのかもしれない。拠点を一気に陥落させるほどの戦力が王宮に向かっているのだとしたら。この急変に、重傷を負ったばかりのウェルモルドは対応できない。

 しかし、それにしては。今朝、伯爵軍が雪崩れ込んできたばかりなのに、そんなに都合よくいくだろうか?


 とにかく、門がこれでは、ウィーは先に進んでしまったに違いない。急がなくては。

 俺は小走りになって、市街地の奥に向かった。


 知った道をまっすぐ進んだが、誰にも出会わなかった。ウィーもいない。

 気付けばもう、あっという間にクレーヴェの邸宅の前だった。


 辺りは静まり返っていた。

 兵士の壁の内側でも、殺戮は行われている。だが、ここに限っては、やけに静かという以外、いつもと変わりないように見える。よく手入れの行き届いた庭木に、青々とした芝生。花壇の花々。きっちり真四角に区画整理された高級住宅地の、物憂げな昼下がりといった風情だ。

 もっとも、お隣はというと、まったく様相が異なっているのだが。傷一つないクレーヴェの家とは対照的に、庭木はへし折られ、窓は割られ、扉は半開きのまま。向かいはというと、もっと悲惨だ。見事に焼け落ちている。

 運がよかったのか、それとも貧乏貴族で年寄りしかいないから、あえて誰も目をつけなかったのか。


 ウィーはここにいるのだろうか? 俺が誰にも遮られなかったのだから。

 しかし。


 立ち入っていいのか?


 胸の中に迷いが生まれる。

 ベレハン男爵は、クレーヴェとピュリス総督との関係を口にした。まさかとは思うが、あのクレーヴェが……いや、よそう。

 とにかく、中に入らなければ、何もわからないのだ。


 呼び鈴を鳴らす。

 ややあって、小さな足音が聞こえてきた。


「ようこそいらっしゃいました」


 一礼したのは、緋色のメイド服に身を包んだベドゥーバだった。


「あ、あの」

「中へお入りください」


 久しぶりに会った彼女だったが、随分と老け込んだようだ。顔に刻まれた皺が、やけに深く見えた。


「えっと、ベドゥーバさん」

「なんでしょうか」


 入口の広間に足を踏み入れる。ガランとしていた。調度品もそのままに、何一つ荒らされていなかった。

 ただ、空気がやけに冷え冷えしていると思っただけだ。それと、当たり前だが薄暗い。


「ここにウィーは」

「おいでになっていません」


 言葉少なに答える。

 まだ到着していない? なぜ?

 なぜかわからないが、胸騒ぎがする。


 左側の階段を登り、観音開きの扉の前に立つ。


「ファルス様をお連れしました」


 ベドゥーバの呼びかけに、しかし、返事はない。

 少しお待ちください、といった様子で、彼女は俺に一礼する。小さく扉を開けて、体を滑り込ませた。

 前回なら、そのまま彼女が扉を開けたのに。ここでまた、ふと違和感をおぼえた。


 それほど待たされなかった。

 ほどなく左右の扉が、音もなく開いた。


 室内は、広間にも増して薄暗かった。丸いテーブルを前に、クレーヴェは腰掛けていた。やや俯きがちで、背中が丸まっている。以前より痩せたようだ。

 そのすぐ左斜め後ろに、ベドゥーバが立っていた。彼女もまた、こうしてみると、どこか枯れ木のようだった。


 いや、それより。

 彼と彼女がそこにいるのなら、扉は誰が開けた?


 部屋にそっと踏み込む。

 そこで、影のように溶け込んでいた人影に、やっと気付いた。


 左右の扉の後ろに、黒い服、黒い頭巾をかぶった少女が二人。目しか見えない。

 それに、クレーヴェの右斜め後ろに、もう一人……


「ようこそ、ファルス君、また会えるとは思っていなかったよ」


 優しげな、落ち着きある声色だけは、以前のままだった。


「この歳になると、もう楽しみといっては、人に会うことくらいしかないのでね……」

「くっ、クレーヴェさん」


 声が上擦ってしまった。

 だが、それも当然だ。


「う、後ろ」

「後ろがどうかしたかな?」

「後ろに、人が」

「はっは……まだまだ私も耄碌はしていないつもりだよ。この部屋には私とベドゥーバ、ファルス君以外に、あと三人の女性がいるね」


 それはそうだ。見えてはいるのだろう。

 だが、しかし。


「そっ、そいつ! そいつが誰だかわかってるんですか! その女は」

「おや、お知り合いかね」


 俺の動揺をよそに、クレーヴェはのんびりと振り返った。

 奥に立つ女は、黒い覆面の向こうで、ニヤリと笑った。


「そいつは! パッシャの! クー・クローマーですよ!」

「ほほう?」

「知らないんですか! 魔王に仕える、恐ろしい連中なんですよ! どうしてそんな」

「それはよくないな」


 また振り返ると、クレーヴェはクローマーに言った。


「君……裏社会の人間のくせに、所属も名前も知られてしまっているじゃないか。恥ずかしくないのかね」


 現実が、俺の頭を一打ちした。

 わかっていて。それでいて、繋がっている。


「……正直、ファルスについては、わからないことが多い」


 聞き覚えのある、女にしては低めの声色が、クレーヴェの問いかけに答えた。


「なぜ名前を知られたのかも、まったく心当たりがない」

「不思議だね」


 それでクレーヴェは俺に向き直ると、穏やかな口調でこう諭した。


「しかし、ファルス君、君も少し、弁えたほうがいい」

「は、はい?」

「今、君は『パッシャ』という言葉を使ったろう? これはよくない」

「な、何が」

「クローマー君のところでは、自分達のことを指すのに、単に『組織』と呼ぶそうだ。『パッシャ』というのは、外部の人間が勝手につけた名前でね。なんでも『不潔な虫けら』といったような意味合いらしい」


 俺が目を白黒させているのに、彼はまったく落ち着き払っていた。


「だから、これからはそんな呼び方はしないよう、お勧めするよ。……ほら、クローマー君もへそを曲げないでくれ。彼は知らなかっただけなのだから」


 喉が渇く。

 これが現実だなんて思えない。


 だが、状況はもう、見間違えようもない。

 隣の家は破壊されているのに、ここはまったくの無傷。調度品も並べられたまま、一切被害にあっていない。なぜか? ここが長子派の貴族の家だと、予め伝えられていたからだ。


 いや、確かに、ベレハン男爵の言葉もあったから、クレーヴェが長子派と繋がっている可能性は考えていた。自分でも、ウィーをけしかけてサフィスを襲わせたんじゃないかと考えたこともあった。

 それでも、よりによって、こんな奴と?


「……どうしてですか」

「ふむ?」

「どうして、こんな」

「漠然としすぎているね? この前はもっと、論理的で明快なお話をしてくれたのに」


 そうじゃない、そうじゃないんだ。

 今、優先しなければいけないことは……


「ウィーは、ここには」

「来ていないよ? ベドゥーバに尋ねたのではなかったかね?」


 嘘は言っていない、か?


「……来たら、どうするつもりなんですか」

「ふむ」


 右手で顎をさすると、彼は淡々と答えた。


「個人的には、ウィーには外国に逃げてもらうのがいいと思うのだがね」

「ウィーもそのつもりでしたよ。でも、あなたですよね?」

「うん?」

「ウィーに、田舎娘のふりをさせて、王都に潜伏させた」


 これだけなら、彼女を庇った、隠そうとしたと判断するところだ。

 だが……


「そして、居場所を近衛兵団に密告した」

「ほほう」


 そう考えないと、辻褄が合わない。

 ウィーが追われるべき第一の理由は、ピュリス総督暗殺未遂だ。なのに容疑は密入国。なぜか?


「では、君は牢獄からウィーを救い出したのだね。さすがだよ」

「やっぱり……!」


 唇を噛む。

 彼女はあんなに「おじさま」のことを信じていたのに。


「君が約束を守ってくれる誠実な少年でよかった。ちゃんと彼女の味方をしてくれたようだね」

「何を白々しい……!」

「仕方がないじゃないか。こっそり出国しようとすれば、見つかってしまうよ。そして、何をしたかが知られてしまえば、間違いなく縛り首だ。ピュリスから密航するのも、今は大変なんだろう? であれば、微罪で国外追放にでもなったほうが」

「嘘だ」


 そういう優しい理由で罠に嵌めたのなら。

 本当にそうであれば、どんなによかったか。


「本当の理由は他にある。繋がりが知られれば、あなたも無事ではすまないからだ! なぜなら、あなたが……ウィーに吹き込んだ張本人だったからだ! オスキルディ男爵を誣告して処刑させ、ピュリス総督の地位を得たのは、フィル・エンバイオだと」

「それを事実と考えて、何かおかしいかね、ファルス君。現に彼は総督になったのだから」

「ええ、あなたを差し置いて総督になってしまった」


 今朝のベレハン男爵の言葉で、すべてのピースが噛み合ってしまったのだ。


「なぜですか」


 知りたくなかった。

 どうしてこうも現実は残酷なのだろう。だが、ここに至ってはもう、見ないふりはできない。


「ウィーは、あんなに」

「ふむ」


 クレーヴェは、ゆっくりと立ち上がった。


「ファルス君、今にして思うがね」


 激情の荒波に揉まれる俺と対照的に、彼はまるで凪の海にでもいるかのように、静かだった。


「ウィーと過ごした日々は短かったが……まるで夢のようだったよ」

「夢、ですか」

「ああ、夢だとも。私は子供に恵まれなくてね。長男が一人いたきりだった。ベドゥーバも、やっぱり長男一人きりしか産めなくてね。よく娘が欲しかったと言い合ったものだった」


 どこか遠くを見るようにして、彼は続けた。


「なぁ、ファルス君。人生で一番大切なのは、結局、いかに愛すべきものを得るか。それだけではないかね」

「いきなり何を」

「私にとっては、それが息子だった。妻も早くに亡くなってしまったからね。帝都の学園に送り出す時は、それはもう、寂しかったものだよ。だが、帰ってきた時には、一回り大きくなって、立派な大人の男に育っていた。ああ、我が子は育ち、私は老いる。これでいいのだと」


 だが、そこで彼は口元を引き絞って首を振った。


「海竜兵団に配属されると知った時には、心配でならなかった。それでも、息子は私と違って逞しかったからね。それに、敵を前に力を尽くして戦死したというのなら、それは名誉なことだ。本音では、安全なところで平和な家庭を築いて欲しかったが、息子が望んで進んだ道なら、受け入れるべきだと」


 暗がりの中で、彼の顔に翳が差す。

 その顔が、縮れた白髪の残る頭蓋骨のように見えた。


「だが、心配なものは心配だ。それで私は、ベドゥーバの息子に頼み込んだ。なんとか士官の地位を確保するから、我が子を守ってもらえないかと。もともと彼女の息子も、うちのと乳兄弟だったからね。幼馴染でもあった。だから、笑顔で快諾してくれたよ」


 ベレハン男爵の言葉を思い出す。

 確か、クレーヴェの息子は……


「亡くなられた、とは聞いています」

「死んだ? 違うな」


 彼の顔には、今まで見たこともないような、皮肉な笑みが浮かんでいた。


「戦場で死ぬなら、それはお互い様だ。兵士なら仕方のないことだ。海で嵐に巻き込まれたなら、それは女神の思し召しだ。それが死ぬということ、失うということだよ。しかし、息子は『奪われた』のだ」

「奪われた?」

「殺されたのだ。わかるか、ファルス君」


 そこで気付いた。

 彼の目に燃える炎に。決して消えない、生きている限り忘れようにも忘れられない、あの絶望の業火だ。


「もちろん私も、最初は訴え出ようとした。だが、王家は取り合ってくれなかった。たった一人の跡継ぎを失い、あとは消えていくだけの私のような年金貴族など、相手にするまでもないからだ。それで、ろくに取り調べもされないうちに、この件はただの事故ということになってしまった」


 所詮は他人の息子の話。

 というより、エスタ=フォレスティア王家は、こういう世襲貴族をゆっくりと消していこうとしている。まず領地を引き取り、年金を削って、機会を逃さず断絶に追い込んで……


「ならば、どんな手を使っても復讐を。だが、できれば暗殺では終わらせたくなかった。事実を調べ上げ、罪を白日の下にさらし、息子達の名誉を回復した上で、正々堂々処刑したかった」

「だから、総督になろうとしたんですか」


 いや、だとすると。


「じゃあ」


 恐ろしい事実を明らかにしなければならない。


「オスキルディ男爵を誣告したのは」

「悪いかね」


 ウィーの仇。

 それが、クレーヴェだったのだ。


「ひどすぎる」

「ふむ、少々強引なやり方だったとは思っているよ」

「ひどすぎる。やりすぎだ! 復讐だって? じゃあ、復讐のためなら、何をしてもいいのか!」

「そうとも」


 俺の叫びに、彼は冷水を浴びせた。


「逆に教えて欲しい。なぜ私が我慢せねばならないのかね」

「な、なぜって! だって、ウィーの父親が、息子さんを殺したわけじゃないんでしょう!?」

「そうだな。実は共犯者ではないかと疑ってはいたが……犯人は別にいた」

「だったら、どうして巻き込んだんですか! 関係ない人を!」

「どうでもいいからではないかね」

「どっ……」


 言葉を失った俺に、彼は呪いをかけるかのような低い声で言った。


「そう、どうでもいい。無実の人が処刑されようが、私の手引きでこの国に魔王の下僕達が住み着こうが……それどころか、この私自身が死のうが、そんなのは一切どうでもいい」

「どっ、どうでもよくなんか!」

「どうでもいいのだよ、ファルス君。なぜなら、私の息子はもういない。ベドゥーバの息子も一緒に殺された。そして、私達はただ老いて朽ちていく。いいかね……この世界にはもう何もない。すべてが終わった。息子達の無念を晴らす以上に大切なことなど、何もないのだ」


 そう宣言するクレーヴェ。その後ろにつき従うベドゥーバ。老いさらばえた二人の姿は、人というより、幽鬼のようだった。

 そう、幽鬼だ。二人は生きてはいるが、死人も同然だ。生きることより死ぬことを、生かすことより殺すことを選んでしまった。そしてもう、こちら側へは戻れない。


 これが真実だったのだ。

 復讐のために、クレーヴェはパッシャと手を結び、オスキルディ男爵を誣告した。本来なら、そこでクレーヴェが次代の総督に落ち着くはずだった。だが、当時は太子派が力を伸ばしつつあった時期でもあった。タンディラールは力を尽くしてフィルを総督に据え、味方する貴族達に対しての実績とした。そんな権力争いの狭間で、クレーヴェは無念の思いを飲み下すほかなかったのだ。

 フィルはこの事情を知っていただろうか? 恐らくは知らなかっただろう。もし知っていたなら、こんな禍根を残すような真似はしなかったはずだ。クレーヴェの息子を殺害した人物を特定し、裁きにかければ済んでいたのだから。


「で、でも、ウィーは」


 俺はなんとか声を絞り出す。


「ウィーは、あなたのことを信じていたのに」

「ああ」


 彼の顔に、優しげな微笑が戻る。

 だが、俺にはもう、わかってしまった。それは死者の笑みだ。


「だから夢だ」

「夢……」

「いるはずのない娘と、あり得ない家庭生活を送る夢。夢は夢だ。だが、ウィーには夢を見せたままのほうがいいのではないかね」

「なんだって」

「信じるべきものを信じたまま死ぬのと、何もかもを失って生きるのと、どちらが幸せだと思うかね?」

「くっ……クレーヴェ!」


 思わず身構える。

 だが、そこで左右の黒頭巾が反応した。俺がもし実力行使にでようものなら、彼女らが妨害するだろう。


 俺は対話する相手を変えた。


「クローマー」

「ふふっ、どうした?」

「なぜだ? クレーヴェには、確かに理由があった。殺された息子の復讐を遂げたいという目的が。でも、お前達は……パッシャにはどんな利益があるというんだ」


 そうなのだ。

 クレーヴェの側からすれば、たとえそれがどんなに邪悪な組織であっても、復讐のためとあれば、手を借りたかった。だが、パッシャからすれば、零細年金貴族のクレーヴェなんかには、さほどの利用価値もなかったはずだ。


「フミール王子と繋がりを持つきっかけにはなったかもしれないが、それなら、今となってはもう、彼に協力する必要なんか、ないはずじゃないか」

「お前はどうも誤解しているようだ」

「誤解? だって?」

「我々の組織は別に、いつもいつも利益で動いているわけではない」


 利益ではない。では、良心に従っているとでも? 魔王の下僕が?


「確かに……有用な人材には、こちらから働きかけ、協力関係を取り結ぶ。必要だからな。だが、そうでなくても援助を与えることならあるのだ」

「そんな馬鹿な」

「お前には、悪の組織にしか見えないのだろうな。まあ、それは否定しないが」


 戸惑う俺を前に、クローマーは楽しげだった。


「見るがいい、この老人を」


 彼女の指先が、クレーヴェを指し示す。


「この世のすべてを失った。希望の欠片すらない。あるのは、嘆き、苦しみ、恨み……救いなど、どこにもない」


 その手が、まるで優しく撫ぜるように彼の肩に触れた。


「望むのはただ、破滅だけ。自分自身を生贄に捧げてでも、この絶望をそのまま憎むべき敵に味わわせてやりたい。だが、力が足りない。残された時間もない。そんな哀れな者達に……我々組織は、唯一の救済を与えるのだ。それこそ我らが神、イーヴォ・ルーと、『始祖』たる黒き花嫁の意志」


 底なしの憎悪。それは誰にも共感されない想いだ。

 不幸に遭った人に、周囲はなんと言う? いつかいいことあるよ、忘れよう、悪いことだけじゃなかったはずだ……しかし、一番大事なものを失った人間に、そんな言葉は響かない。呪いの言葉を止められない本人を前に、周囲は一人、また一人といなくなっていく。

 理不尽なものだ。一番不幸な人こそ、真っ先に見捨てられる。誰でも、限度のない不幸に付き合ってやろうなどとは思わないのだ。


 だが、パッシャは……『組織』だけは、彼らの味方をする。


「ファルス、私にはわかるぞ」


 そう言いながら、彼女は自分の頭巾に手をかけた。


「お前もこちら側の人間だ」


 生温かい手が、俺の胸を這いずるような感触。

 彼女の言葉が一瞬、甘く響いた。


「我々の仲間になれ。そうすればこの、お前がつけた傷のことなど、忘れてやろう」


 頬の古傷を見せながら、彼女は笑った。


 どうする?

 どうも何も……


 振り返り、扉を蹴破る。そして、バルコニーから玄関へと飛び降りた。

 時間がない。


 クローマーの提案を受け入れるなんてあり得ない。闇の組織で魔王の下僕なんて、冗談じゃない。

 だからといって、断るとなれば、その次にくるのは暴力だ。

 しかし、戦うわけにはいかない。あと何分もしないうちに、身体強化の効果が切れる。そうなれば、俺はどっちにせよ、パッシャに捕まってしまう。

 何より、クローマーと長時間、話すのは危険だ。彼女の神通力で、正常な判断力を奪われたら、おしまいだ。


 だから、逃げる。


 玄関の扉を蹴飛ばして、転がり出た。

 あとは走る。

 行けるところまで。

 力尽きるまで。

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