剣を穢すもの
人通りのない街路をひた走る。王都の西から、東側に向けて。
幸い、付近に丈の高い建物はない。遠くに聳えるスラムがはっきり見える。
正確な時間はもうわからないが、恐らく午前十時くらいか。かなり遅くなった。
この状況をどう考えたらいいだろう。良かったのか、悪かったのか。
もし、エルゲンナームの兵を借りていたら。たった百人で岳峰兵団の守る門を突破するのは難しいから、カリャの兵を手に入れていたはずだ。そうなれば、背後から第二軍団を襲っていた。
しかし、すぐに決着がつけばいいが……さもなければ、少なくとも翌朝には、今度はティンティナブラム伯の軍勢とぶつかっていたはずだ。その数、どう考えてもこちらの倍以上。押し潰されてしまっても、不思議はない。どちらにしても、詰んでいたのではないか。
或いは後宮を脱出する際に、サフィスを連れて出ていれば。後の心配をしないで済んだ。一家を王都から連れ出せば、任務完了だからだ。
だが、今朝は二つの偶然が重なった。イータと出会ったこと、そしてキースに見つけられたこと、だ。
キースは、俺を敵だと認識して襲ってきたが、イータには攻撃を浴びせなかった。顔も知らない女だったからだ。しかし、あそこにサフィスがいたら? どこから流れた情報かは知らないが、トヴィーティ子爵がファルスを使ってキースを操っていたことになっていたそうだから……最初の一撃で、サフィスが殺されていた可能性もあった。
しかも、それだけではない。あの後、モールを探しに王家の牢獄を破った。そこにウィーがいた。サフィスが彼女を見つけていたら、どれだけ話がややこしくなっていたか。
とにかく、こうなっては、まずエレイアラ達を逃がすことだ。彼らを安全地帯に送り届ける算段がついてから、サフィスを助けにいけばいい。あれこれ考えるより、できることをするしかない。
……イフロースは無事だろうか。
考えても仕方がない。今、彼がどこにいるかを知るのは、とてつもなく難しい。それに彼自身、自分の捜索より、一家の保護を優先してほしいと望んでいるだろう。
ツギハギだらけのビル群が近付いてくる。
あとちょっとだ。
整備が行き届いていない街路には、そこここに水溜りができている。ただの泥水だけであればいいのだが、たまに赤く染まっていたりもする。人影は見かけるが、例外なく路傍に横たわっている。
心の中に警鐘が響き渡る。これは昨夜には見かけなかったものだ。俺達が出かけた後、ここで戦闘か虐殺が行われた。
いや、大丈夫だ。きっと大丈夫。
エレイアラ達は、上層階に閉じこもっているはずだからだ。
そう自分に言い聞かせつつ、先を急いだ。
だが、あの隠れ家のある高層ビルの前に立った時、俺は言葉を失った。
ざっと見て、十人以上。明らかに傭兵とわかる外見の男達が、自分の血をシーツ代わりにして、石畳の上に突っ伏していた。息のあるのはいない。
その入口の前には……
大男でもなければ扱えないような大剣が、突き立てられていた。
そのすぐ下に、一際大きな血痕が残されている。
そして、隠れているべき人達が、外にいた。
「あ、ファルス」
柔らかな笑みを浮かべたリリアーナが、おぼつかない足取りで、ゆっくりと近付いてくる。
「おかえりー」
のんびりした口調。だが、その目は真っ赤に腫れあがっていた。
すぐ後ろにいたナギアは、対照的にむっつりしていた。
彼女は、じっと俺を見て……睨みつけてから、目を伏せた。
「……遅かったじゃない」
彼女は、察したのだ。
俺が一人で帰ってきた。イフロースもサフィスもいない。ならば、エルゲンナームの兵を借りる計画は、頓挫したに違いない。
となれば、俺もまた、安全な場所で遊んでいたわけではない。逆境の中、何とか一家を守ろうと考えて、ここまで戻ってきたのだと……
だから、責めても仕方がない。
漂う不吉な空気。急に俺の胸が締め付けられる。心臓の鼓動がはっきり感じられる。
「あ、の」
「少し休んだら? 私達も、もう寝るから」
そんな状況ではない。
本来なら、リリアーナやウィムをこんな目立つ場所に立たせておいていいはずがない。だが、それどころではないらしい。
俺は、彼女らの後ろに視線を向けた。
石の階段の上に、影がいくつか見える。
一際大きく見えるのは、横たわるセーン料理長だ。だが、着衣のあちこちが赤く染まっている。かろうじて生きてはいるらしい。傍に座るイーナ女史が、あれこれ世話を焼いているからだ。
だが、もう一人は。
俺は、その事実に気付いて、一歩ずつ、一歩ずつ近付いていく。足元の泥が、小さく撥ねた。
見えているのは下半身だけ。上半身の側には、ランとウィムがしゃがみこんでいるので、よく見えない。
見たくない。確認したくない。だが、もうわかっているのだ。
ピアシング・ハンドは、生者の情報しか寄越さない。
俺が脇に立つと、ランは振り向き、顔を見上げてきた。だが、すぐ視線を逸らす。傍らに立つウィムを抱きかかえるばかりだ。
そして、俺は見た。
変わらず美しい顔立ちだった。貴婦人というのは、たとえ襤褸を纏おうとも、なお気高く美しい。
先祖譲りの金髪は、少し乱れていた。ここ数日、ろくに入浴もできず、身だしなみを整える余裕もなかったせいだろう。
顔色は、少し青白いくらいだった。もともと血の気が薄く、白すぎる肌が目立つ女性だった。
だが、左肩から胸にかけて、ごまかしようのない、真っ赤な深い裂け目が入っていた。
「お……く、さ……ま?」
死んだ。
たった一日、いや、半日ほどだ。
それまで、彼女は生きていた。俺の手を握って、夫にはあなたの力が必要なのだから、と送り出してくれた。
今はもう、動かない。喋ることもない。
静かに眠るばかりだ。
「ファルス君」
後ろから手が伸びる。イーナ女史だった。
「イーナさん、いったい、どうして」
「話すから、こっちへ」
所在無く壁際に座り込むリリアーナ達。寝転んだままのセーン。そして、残りも遺体の近くでうずくまるばかり。
彼らから離れた場所まで、引っ張られた。
「イーナさん、どうして外に」
「追い出されたのよ。もう、入れてはもらえないわ」
「何が」
俺の追及に、彼女は静かに答えた。
……俺達がこのスラムを離れた後。
エレイアラ達は、相変わらずあの狭苦しい部屋に留まっていた。迂闊に外に出れば、何が起きるかわからない。だから、辛抱強く待つことにしたのだ。
そして何事もなく、静かな時間が過ぎていった。明け方までは。
スラムのビルの隙間から、ほの白い朝の光が垣間見える頃、階下から大きな物音が聞こえた。目を覚ましたリリアーナは反射的に身を縮め、それをナギアが抱きかかえた。エレイアラは目を見開き、眠りから覚めたセーンも棒切れを手に身を起こした。
物音はだんだんと大きくなり、近付いてきた。だが、ここには偵察や戦闘をこなせる人間など残っていない。逃げるにしても、誰かが先導しなければ。下手に動けば、却って危険だ。そう考えて、彼らはただ息を殺して、脅威が過ぎ去るのを待とうとした。
だが……
入口の扉が、突然に吹き飛ばされた。
外には数人の傭兵らしき男達。それが彼女らを見つけた瞬間、嬉しそうに舌なめずりした。
ごまかせない。そう悟った瞬間から、格闘が始まった。
狭い出入口に向かって、セーンは突進した。棒切れ一つで、武器を持つ傭兵達に立ち向かったのだ。だが、彼は体格こそがっしりしているものの、料理人でしかない。簡単に押し返され、床に転がった。
狭い部屋の中に傭兵達が踏み込み、さあ、と一家を拉致しようとした、その時。僅かに幸運の女神が微笑んだ。
何のことはない。底が抜けたのだ。
既に一家とその使用人がぎゅうぎゅう詰めで寝起きしていたところに、更に数人の男達が入り込もうとしたのだ。いい加減な増設工事で付け足しただけの床板など、あっさりひしゃげ、すぐに砕けてしまった。おかげで二、三人の傭兵が階下に落下し、すぐには動けなくなった。
この奇跡に、エレイアラもセーンも、顔を見合わせた。
今しかない。無理やりでもここから逃げ出すのだ。
手傷を負いながらも、セーンは自らを盾にして、残りの傭兵達を相手取った。その間に、エレイアラは娘達を引き連れて逃げ出す。
敵の武器に全身を打ち据えられて、すぐにセーンは廊下に突っ伏した。エレイアラは、追いすがる傭兵達から逃れようと、必死で階段を駆け降り、ついに地上に出た。だが、そこまでだった。
追いついた傭兵達に突き飛ばされ、地面に転がされる。
下卑た笑いを浮かべる男達が、彼女達を見下ろした。
彼らは恐らく、ドメイドの派遣した傭兵達だったに違いない。リリアーナとウィムの拉致と殺害が目的だった。だが、他も殺してはいけない理由などないし、その際に人道的配慮を要求されることもなかった。
目の前にいるのは、美しい貴族の妻だ。裕福といえない傭兵の身分で、これを味わえる機会など、滅多にあるものでもない。すぐに片付けてしまってはもったいない……
その彼らの油断は、幸運だったのか、それとも不運だったのか。
今となっては知りようがない。なぜなら、そこにまったく別の運命が迫ってきていたからだ。
「赤いマントの……サハリア人?」
「ええ、そうよ」
そのサハリア人は、幾人かの兵士を率いていた。そして、この揉め事に気付いたらしい。
傭兵のほうでも、近付いてくる謎の武装集団に、思わず振り返る。何者だ、と問いかけた。
すると、そのサハリア人は、配下を手で制して、一人、前に出た。
たった一人。それも無造作に近寄ってくるのなら、戦いにはならないだろう。そう考えていたのかもしれない。
だが、甘かった。
手が届くかどうかという距離になった途端、そのサハリア人は、目にもとまらぬ素早さで抜剣した。
悲鳴をあげる暇もなかったらしい。前後左右に、それこそ虫取り網を振り回す子供のような乱雑な動きで、あっという間に十人もの傭兵が、人形のように転がった。
目の前での、いきなりの殺人だ。
しかし、この絶望的な窮地から救われた。恐れ戦きながらも、エレイアラは膝をつき、「恩人」に頭を垂れた。
その時、彼女は決定的な過ちを犯したのかもしれない。或いはそうでなくても、相手は知っていたのか。知らなくても同じ運命が待っていたのか。
お礼の言葉を口にする時、彼女はこう言ってしまったのだ。
『危ういところを救われました。トヴィーティ子爵夫人エレイアラは、この恩義を忘れません』
その言葉にサハリア人は、ぞっとするような笑みを浮かべた。
そしてこう言ったのだ。
『不名誉を蒙らずに済んだ幸運に感謝するがいい』
やや違和感のある言葉に、彼女は首を傾げた。
確かに、あのまま傭兵どもに暴行されていたとすれば、彼女の名誉はめちゃめちゃになってしまっていただろう。その意味では、サハリア人の指摘は正しい。
だが、彼が「感謝すべき」とした幸運とは、あくまで名誉についてのみだった。
『お前達のことは、聞き知っているぞ』
『それは、どういうことでございましょう』
『斬らねばならん』
この言葉に、女達は身をすくめた。
敵から救われたと思ったのに。その敵もまた、敵だった。
『なぜでしょうか』
『トヴィーティ子爵サフィス・エンバイオが夫人、エレイアラ・インセイン……相違ないな』
『確かに』
『お前とお前の夫、子供達は、根絶やしにして欲しいと言われている』
恐ろしい宣告に、彼女は背後を振り返った。
自分達を付け狙うとすれば、それはきっと長子派だ。しかし、さっきまで自分達を殺そうとしていた者達も、やはりそうなのではないか。
矛盾を感じた彼女は、そのまま疑問を口にした。
『あの方々とは』
『誇りと名誉を気にかけない者共など、味方とは呼べん』
身内を斬ってしまったことに躊躇があれば……なんとか説得によって生き延びる余地があれば。
だが、その望みは薄い。迷いのないサハリア人の口調に、彼女はそれを感じ取った。
『承知致しました。ここにいるのは私と、その使用人だけでございます。どうぞ私一人をお連れください。ただ、供の者どもにはお咎めありませんように』
既にエレイアラは死を覚悟した。
自分一人が殺されるだけで済めば、子供達の命は助かる。その自身の命にしても、この場で首を打たれればそれまでだが、人質として捕らわれの身になるのであれば、望みは繋げられる。それに、このサハリア人なら、自分を殺しはしても、穢しはしない。
殺すならどうぞと、彼女は白い首を伸ばし、額づいた。
だが、男の笑みは深まるばかりだ。
『素晴らしい……』
陶酔した様子で、男はそう言った。
『ただ殺すには惜しい。エレイアラとやら……お前達に機会を与えよう』
奇妙な物言いに、彼女は問いを返した。
『機会ですか?』
『そうだ、機会だ』
そう言うと、男は剣を引き抜いた。灰色の刀身が、薄暗い夜明けの景色の中、うっすらと影を作る。
『剣を持て。剣にて、お前達の一切を裁こう。勝てば自由を与えるぞ』
奴の儀式。
それがここで。
「知ってるの? ファルス君」
「殺しておけばよかった」
俺は唇を噛んだ。
あの殺人狂は、こうなったらもう、止まらない。
アネロスは、配下の傭兵の剣を奪い取り、それを彼女の目の前に投げ出した。これで戦え、というのだ。
なんのことはない、リンガ村の時と同じ。彼は、すべてをかけて全力で戦う相手を味わいたいのだ。背後には、守るべき子供達がいる。さぞ素晴らしい感動が得られるに違いない……
『さぁ、お前に先手をとらせてやろう』
路地の端と端に向かい合って立ち、彼は勝負を始めてしまった。
そんなことを言われても、エレイアラに剣術の心得などない。知っているのは針の扱いだけだ。
二度、三度、深呼吸を繰り返し……彼女は、足元に剣を投げ捨てた。
『何のつもりだ』
やや不機嫌に尋ねるアネロスに、エレイアラは……
まるで普段のように、余裕たっぷりの笑顔を浮かべた。
『少々、不公平が過ぎませんこと?』
『剣以上に公平なものが、この世のどこにある』
『私はただの女、それに引き換えあなたは戦士です。なのにそちらは鎧まで着て、立派な剣を持って……これが卑怯でないなら、何が卑怯なのでしょう?』
あざ笑う彼女に、アネロスは頷いた。
『使え』
彼は、自分が持っていた灰色の剣を投げ与えた。
だが、彼女はそれを拾い上げ、検めると、また石畳に滑らせて返してしまった。
『こんなもの、使い物になりませんわ』
『アダマンタイトを鍛えて拵えた業物だ。これ以上の剣など、ここにはない。何が不満だ』
『気に入らないものは気に入りません。武器くらい、私が選んでもよろしいでしょう?』
確かに、どんなに優れた道具といえど、そのよしあしは、最終的には使い手が決めるものだ。
アネロスは、彼女の言い分を受け入れた。
『好きなものを使え』
そういって、配下の兵士達を指差した。
彼らの装備であれば、どれを使おうとも構わない。もちろん、部下の手出しは許さない。安心して道具を選べ、ということだ。
エレイアラは、それほど時間をかけなかった。
立派な体格の男が担いでいた大剣を選び取ったのだ。
『それでいいのか』
訝しげなアネロスに、エレイアラはにっこり微笑み返した。
『これがいいのですよ』
再び、距離を取って向かい合う。
だが、もとより女の細腕だ。フォークより重いものを持ったことがないエレイアラに、やはり大剣は重すぎた。戦士がするように、横ざまに構えてみせはするものの、その切っ先は左右にぶれるばかりだった。
『先手を取るがいい』
エレイアラは頷いた。
そして、振り返る。
『リリアーナ、ウィム。しっかりなさい。ナギア、あとをお願い。みんな……元気でね』
この言葉に、イーナは耳を疑った。
母が子供に声をかける。せっかくさっき、ここにいるのは召使だと……
……エレイアラは、気付いていたのだ。
そんな嘘は通用しない。
目の前の男は、そんな生易しい相手ではない。この場にいる人間は、全員殺す。大人でも、子供でも、男でも、女でも。関係ない。
サフィスの一家を皆殺しにすると言った。なら、その疑いがあるなら、たとえ下僕の子であったとしても、やはり殺す。
最期の挨拶を済ませると、彼女はよろめきながら、前に進んだ。まっすぐ縦に持つだけで、精一杯だったのだ。
そして、アネロスの前に立った。
『さて……勝負の前に、もう一度、あなたのお名前をお伺いしてもよろしいかしら』
まだ彼女の目論見を読みきれないアネロスは、首を傾げながらも、返事をした。
『アネロス・ククバンだ』
『そう、剣士アネロス、それがあなたの名誉あるお名前なのですね』
彼女は「剣士」「名誉」という言葉を強調してみせた。
この一言に、彼は眉を寄せた。
『……貴様』
『あなたの思い通りにはさせませんよ』
そういうが早いか、彼女は大剣を振り下ろした。いや、取り落としたというべきか。
そもそも、相手が動かなくても、当たるかどうかさえ怪しい攻撃だった。それでもアネロスに容赦はなかった。電光のような動きで肩口から斬撃を浴びせた。
一瞬だった。
音もなく、エレイアラはその場に倒れ伏した。
『奥様!』
まさか、本当にただの女を斬るなんて。
やっと認識の追いついたナギアが、慌てて飛び出した。だが、もう遅い。単純極まりない袈裟斬りで、既にエレイアラは事切れていた。
『……次は誰だ』
この言葉に、全員が震え上がった。
やっぱりそうだ。奥方一人を殺して終わり、なんてわけがない。こうやって、決闘の形をした儀式で、全員が嬲り殺しにされるのだ。
『こ、この……このっ! よくも、奥様を!』
そんな中、ナギアは一人、激昂していた。
そしてリリアーナは、いつになく昏い目で、ぼんやりとその様子を眺めていた。
アネロスは鼻で笑うかのような口調で応じた。
『言いたいことがあれば、剣で語れ』
唇を噛み、彼女はアネロスを睨みつける。そのまま、無言で踵を返すと、エレイアラが握っていた剣を取ろうとした。
だが……
持ち上げられなかった。
柄を掴み、引き上げようとするものの、どうしたって剣先が石畳を削るばかり。二メートル近い長さの鉄塊なのだ。エレイアラ同様、針しか持たないナギアには、到底支えられるような代物ではなかった。
だが、頭に血がのぼったナギアに、そんな判断はできない。顔を真っ赤にして、とにかく持ち上げようとするばかり。
その様子を見下ろす兵士達の間から、失笑が漏れた。
だが、アネロスは笑わなかった。むしろ苦々しげにしていた。
その彼の前に、小さな影が近寄った。
『お、お嬢様! いけません!』
だが、リリアーナは満面の笑みを浮かべていた。そして、顔を近づけてアネロスに言ったのだ。
『……ねぇ、楽しい?』
『なに?』
『剣士ごっこ、楽しい?』
アネロスは、恐ろしい表情で歯軋りして……それから、笑い出した。
いきなりの変化に、配下の兵士達は唖然としていた。
『……行くぞ』
『えっ? いや、隊長、こいつら、依頼されてた』
『絶対にやらねばならん仕事でもない。今回は、認めてやろう』
それだけだった。
アネロスは剣を収めた。そして、ナギアが掴もうとしていた大剣をその場に突き立てると、背を向けて去っていった。あとを兵士達が追いかけていく。
その場は一気に静かになった。
全員がなんともなしに彼らを見送る中、ついに緊張の限界に達したリリアーナが、力尽きてその場に膝をついた。
「……私達は、何もできなかった」
そう言って、イーナは肩を落とした。
だが、何もできなかったのは、俺も同じだった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
俺は、よろめく足取りで、エレイアラの亡骸に近付いた。
彼女は、あの息苦しい総督官邸の中で、道理の通じる数少ない人だった。
ちゃんと話をしたのは、セーン料理長と揉めた、あの夜の事件が初めてだった。仮設ステージで、俺の冷製スープを飲んでもらった。冬にはジビエの水煮も食べてもらった。
俺が売春窟のガリナ達を助けようとして騒動を起こした時には、わざわざ口を利いてくれた。彼女が割って入ってくれなければ、どんな目に遭っていたか。
気配りもできて、頭の良い人だった。それに、辛抱強くもあった。サフィスの浮気を知りながら、あえて自分一人の胸に収め、良妻賢母を演じ続けていた。それでも、リリアーナが好ましくない相手のところに嫁入りさせられるとあっては、黙っていられなかったのだが。
召使達の動向にも、よく気をつけていた。ランとエマスの醜悪な関係にも気付いていた。その分、ナギアには優しく接していたし、またいつもそういう態度を選んできたからこそ、離婚騒ぎの時には、屋敷の下僕達のほとんどが、彼女を支持した。
最後には、夫を孤独にさせた自分を責めてもいた。だから少しでも寄り添おうと、関係を取り戻そうと、努力し始めていた。その矢先だった。
あとちょっとだった。
本当に、せめてあと僅かでも時間があれば、それでよかった。なのに。
俺は、ポケットからパンを取り出した。
ここに至るまでの道程で、それは平たく潰されていた。それでも、いかにもおいしそうな、真っ白なパンだった。
それを、俺は彼女の手の上に、そっと置いた。
死者は何も感じない。思わない。
ついに心を通じることがないまま、彼女は先にいってしまったのだ。
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