中庭の狂人
既に周囲は暗くなり始めていた。兵士の壁を越えてまもなく、住宅地に入る坂道を登って、頭上を仰ぎ見る。雲は相変わらず分厚く垂れ込めているが、雨は止みつつあった。
ここから貴族の壁は、そこまで遠くない。但し、この大通りをまっすぐ突っ切ればの話だ。この先は本当の危険地帯。散発的な戦闘しか繰り広げられていなかった市街地とは訳が違う。
家々はどれもひっそりとしていた。本当に人気がない。見れば、割れた窓ガラスがあちこちに散乱している。錠前の壊れた扉が半開きのままだ。
泥棒? それとも略奪だろうか?
その答えは、五分もかからずわかった。
「お、おい」
「シッ!」
通りの向こう側に、黒い影がいくつか。薄暗い中にランタンの灯りが複数、揺れ動いている。そんな中、陶器の割れる音が響く。
俺達は咄嗟に、近くの植え込みに身を潜めた。
「キャァッ!」
髪の毛をつかまれ、引き摺られる女。まだ若い。外見からして、この家のメイドだろうか。
「おぅい」
男の間延びした声。
人気のない中に張り詰める緊迫した空気。そこに似合わない、いかにも暢気そうな口調。
「男はいねぇか?」
「ジジィが一人いました」
「チッ、ジジィじゃぁなぁ……ヒィ、ヒィ……なんでぇ、白髪頭じゃねぇか。これじゃ、ボスにどやされちまう」
何のことだ?
ただの略奪でもなさそうだ。人を集めている? 何のために?
「アニキィ、女は足りてるんすよねぇ?」
「あん? ああ」
「だったら、ちょっと……いいっすか」
「チッ、しょうがねぇなぁ……ヒィ……十分で済ませよ」
「ははっ、さっすがアニキ!」
すると、男達のうち、三人ほどが、さっきのメイドを取り囲む。二人が腕をつかみ、一人が下半身をがっちり押さえた。
「い、いや……いやっ!」
カチャカチャとベルトのバックルをいじる音が、ここからでも聞こえる。彼らが何をしようとしているかなど、いちいち確かめるまでもない。
「なんて奴らだ」
サフィスが小声で吐き捨てる。
王国でもっとも安全であるべきこの場所で、狼藉三昧だ。彼の世界観からすれば、まったく許しがたいことなのだろう。
だが、俺からすれば、こんなものはありふれた風景でしかない。上流社会からは見えない場所で、これと実質的には大差ない事件が山ほど起きている。
「いーやぁーっ!」
圧し掛かる男。苦痛と恥辱に、彼女は顔を歪ませる。
「おい……ヒィ……うるせぇぞ」
扉の影からぬっと出てきた人物。さっきのリーダーらしき男の姿が、一瞬、見えた。
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スナーキー・ギャメンヘッテ (31)
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク4、男性、31歳)
・スキル フォレス語 4レベル
・スキル サハリア語 4レベル
・スキル ルイン語 5レベル
・スキル 指揮 2レベル
・スキル 格闘術 5レベル
・スキル 暗器 6レベル
・スキル 軽業 5レベル
・スキル 隠密 6レベル
・スキル 罠 6レベル
・スキル 薬調合 3レベル
空き(21)
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なんだ、こいつ!?
高い能力に驚いたのではない。
外見が異様過ぎた。
やや小柄といえる体格。だが、その背骨はひどく湾曲している。せむし男というやつだ。
それだけではない。顔もまた、特徴的だった。もともと銀髪だったのだろうが、頭の天辺から禿げており、ほとんど毛がない。それと、目の焦点が合っていない。いわゆるやぶ睨みだ。口元も、鼻の下から割けているように見える。あれは、口蓋裂……俗な言葉でいうと、みつくちと呼ばれるものだ。
見た目で人を判断するのは愚かだし、失礼でもある。実際、この男は生まれながらの障害にもかかわらず、非常に高い能力を有している。その点は賞賛に値するだろう。
しかし……
「やっぱり、五分だ。さっさと突っ込んで、出しちまえ」
「ちょっ、間に合わねぇっすよ」
「三人だから、一人ずつ、百数える間に済ましゃ、終わるだろうが、ヒィ」
「お、おぅ」
「そーら、いーち、にーぃ……おら、手拍子ィ」
能力はあっても、その性質は残忍極まりないらしい。
後ろでイフロースが合図をする。放置して、先に進もうというのだ。
確かに遠回りしたほうがいい。見つかれば何をされるかわからないし、油断できる相手でもない。相手の人数もはっきりしないし、少なく見積もっても数人はいる。討ち漏らしたら追っ手がかかるかもしれない。
「お、アニキィ、俺、すげぇこと思いついた」
「なんだァ」
「このメイドのよ、髪の毛刈って、ジジィにかぶせりゃ、それっぽくなんじゃね?」
「ヒヒィ、そいつは悪かねぇ。よーし、散髪いくかァ」
「キ……キャッ」
「うるせぇっての」
「アグ」
くぐもった声。
イカレてる。まだ部下が彼女を強姦している最中だというのに、髪の毛でなく、首にナイフを突っ込んだのだ。
「お、おい、アニキィ……」
「てめぇらが、ヒィ、チンタラしてっからだ」
「首なし死体で……おっ、うおっ」
「ハハッ、こいつ、バカでー! 今、イキやがった! ブッ、ヒャハハ!」
そして、部下どもも、負けず劣らずの残忍さ。
理解できない。
「おめぇら、知ってるか? こうやって首切られてもな、まだこいつ、生きてるんだぜ」
「ホントっすか?」
「三十秒もすりゃ、死ぬけどなァ。おら、アマァ、見ろ。てめぇの体がこいつに突っ込まれてるとこ、よーく見ろ、滅多に見られねぇいい景色だぜ……ヒィ!」
胸が悪くなる。
だが、俺はあえて動かないよう、身振りで示した。
あの男は危険だ。こちらの僅かな動きにも反応するだろう。立ち去るのをじっと待つほうがいい。
「よっし、かぶせてみっか」
髪の毛だけむしりとられて、女の首がそこに転がる。恐怖で膝をガクガクさせている老人の頭に、髪の毛の束が押し付けられる。
「あー、全然ダメだなー、まるでワカメでもかぶせたみてぇじゃねぇか。却下」
「グッ」
息を吸って吐くように殺した。
「ま、いいや。金目のモンは」
「集めたぜ」
「じゃ、あとはアレだな……明日の朝にゃあよ、ヒィ、ボスが王宮の前に『花』ァ咲かせてぇっつってんだ、間に合わせねぇとよ」
花?
「よっし、次ィ」
メイドの頭をボールみたいに蹴飛ばすと、彼らは去っていった。
よかった。こっちには気付かなかったらしい。
「なんなんだ、あいつらは……」
目の前の凶行に、エルゲンナームは衝撃を受けていたようだった。
「傭兵でしょう」
俺は短く答えた。
「恐らくは『屍山』ドゥーイの部下達です」
「戦より略奪が先か、ふん」
イフロースが不快感を露にする。
「ですが」
とはいえ、彼の切り替えは早い。
「これはいい情報です。兵士の壁の内側での戦闘も、ほぼ終結していると見ていいでしょう。この辺りも手薄なはずです」
「だが、それは」
「はい。殿下の危機は、より深刻に」
戦線が後退している、ということなのだ。今、両派閥はどこで交戦しているのだろう? 貴族の壁の内側? それとも、王宮の中か?
だが、今は何よりまず、侯爵家の別邸に駆け込むことだ。
貴族の壁の近くで、俺達はまた、異変を目にした。
多数の死体だ。
全員が兵士だ。近衛兵団の、あの甲冑を身につけている。それが見事に全滅している。
「これは……」
イフロースがしゃがみこみ、様子を見る。
「鮮やかな手並みだ。肩口からきれいに刃が抜けておる」
「何かわかるんですか」
「ファルス、これは相当な剣士の仕業に違いないぞ」
「えっ」
「恐らく、一人でやったに違いない。まあ、我々には都合がよかったのだが」
だとすれば、恐ろしい話だ。
さっき、俺とイフロースは手分けして戦って、なんとか門を突破した。ところが、ここを全滅させた誰かは、同じくらいの数の守備兵を、一人で全滅させたのだ。
「手間が省けた。先に行くぞ」
先に行く、か。
これをやったのが誰かはわからないが、こんなとんでもないことばかりが起きている先に向かう……
ちらと横を見る。サフィスもエルゲンナームも、真っ青だ。
「急がないと、僕らも」
「わかっている」
低い声で応じつつ、なんとかサフィスは一歩を踏み出した。
貴族の壁の内側も、やはり静かだった。
となると、いまや戦場は王宮の内部か。
歩くうち、完全に雨が止み、雲が風に流されていった。頭上にポツポツと黒い煙のようなきれっぱしが浮いている。既に空は橙色に染まっていた。あと十分もしないうちに、完全に夜の帳が下りる。
「お……」
エルゲンナームの顔に、安堵の表情が浮かぶ。
「あ、あそこだ! あれが我が別邸だ!」
いろいろ警戒していたものの、実際に戦いを迫られたのは一度きり。幸運だったといえる。
これで一休み……いや、なるべく早く、エレイアラ達を迎えに行かねばならない。それでも、一段落なら、ついたのだ。嬉しくないはずがない。
門の前に走り寄り、エルゲンナームが叫んだ。
「誰か! 門を開けよ!」
返事がない。
無理もないか。この状況だ。迂闊に扉を開けるなど、できようはずもない。
「エルゲンナームだ! 今、帰った! 誰かいるなら、門を開け!」
ややあって、中でバタバタと走り回る音がして、それからやっと扉が引き開けられた。
「ふう……では、中へ」
もう安心、と言わんばかりに、彼の態度に余裕が戻る。
一方、サフィスの表情は、険しいままだ。あのスラムに妻と子供を残しているのだから、ここからが正念場なのだ。
「誰か」
周囲には、傭兵っぽい見た目の男達が二、三人ほど、突っ立っている。
「ドメイドはどこだ。シシュタルヴィンは」
「中庭においでです」
「しょうのないやつだ! まったく、今まで何をやっていたんだ」
嫡男が行方不明だったというのに。ちゃんと捜索はしていたのか。それでなくても、帰ってきたなら、まず挨拶をすべきではないか。
苛立ちを隠さず、彼は大股に進んだ。
立派に聳え立つ真っ白な本館に正面から立ち入り、そのまままっすぐ。両脇の階段の間に、カーテンがかかっている。貴族の家にありがちな構造だが、フォンケーノ侯の別邸の場合、その向こうは中庭だ。
全員うち揃ってカーテンを押しのけると、そこは今日最後の陽光に赤く照らされていた。規則正しく立ち並ぶ白い列柱、その足元に置かれた白い花壇。一年以上前に見たきりだが、変わりなく美しい。
違うのは、黒い人影が数多く散らばっていることだった。全員、武装した傭兵達だ。
だが、エルゲンナームはそんな変化に目もくれず、まっすぐ歩いた。
「ドメイド! 何をしていた……なっ!?」
かつてフォルンノルドが俺達を迎えた場所。白い柱に取り囲まれた丸い東屋の奥に、ドメイドが腰掛けていた。それも青いエンバイオ家の紋章を背に。
その振る舞いたるや、醜悪に過ぎた。左右に歳のいった女を侍らせ、抱き寄せつつ、乳を吸っていたのだ。
そもそも、彼が座っている場所も問題だ。そこは本来、家長の席なのだ。フォルンノルドの名代たるエルゲンナームならいざ知らず、たとえ目上の誰かがいないにせよ、そこに居座るなど、許されるはずもない。
「こんな時に、何事だ! ドメイド! 返事をしろ!」
怒鳴り声に、ドメイドは太った体をビクッと震わせた。左右の女達も、さすがに血相を変えている。
だが、そのままのっそりと、さも落ち着き払っているかのように身を起こすと、そばかすだらけの下膨れの顔がこちらに向けられた。その口元は、よだれと母乳で汚れていた。
「……ィス……」
「なんだ、聞こえんぞ! はっきり言え!」
「サフィィィスゥゥゥッ! キェェェッ!」
突然の甲高い絶叫に、エルゲンナームは仰け反った。
まずい。これは……!
「コロセェェッ! コイツラァアァッ! シシシィシィイェィィッヌエェエェッェエーェエェッ!」
狂気を感じさせる叫び声。
だが、それが合図になった。
「きます!」
「うむ!」
剣を手に、俺とイフロースはいち早く構え直す。
だが、サフィスとエルゲンナームは、反応が遅れた。
石礫が飛び、それが不自然に撥ね飛ばされる。だが、それ以上の飛び道具はないらしい。通用しないとなると、周囲の傭兵達は、獲物を手に飛びかかってきた。
「くっ! ……閣下! エルゲンナーム様!」
「う、おおっ!?」
「ファルス! 二人を外に!」
「イフロース様は!」
「後で行く! 先に出ろっ!」
この場にいる傭兵、ざっと見て三十人ほどか。大して手強いのはいないようだが、さっきと違ってこちらが奇襲を受けている。しかも、後ろからも敵が迫ってきているのだ。これでは魔法で一気に片付けようにも、時間稼ぎすら難しい。
「走ります! 二人ともこちらへ!」
「わ、わあああ!」
さっき拾った剣を、二人は力任せに振りまわしながら、俺についてくる。
こうなれば、イフロースのことは、信じるしかない。彼なら、一人であれば、なんとか脱出してくれるはずだ。
ドメイドの意識には、凄まじい嫌悪と殺意が渦巻いていた。
エルゲンナームに対する嫉妬と悪意。上下のはっきりした歪な人間関係ゆえの閉塞感からきたものか。
だが、彼の狙いは、兄だけではなかった。
「な、なぜなんだ」
走りながら、サフィスが呻く。
そう、ドメイドはサフィスの名を叫んでいた。殺すべき相手は、むしろサフィスだったのだ。
だが、今は後回しだ。
考えるより、生き延びなくては。
「邪魔っ!」
出口を塞ごうとする傭兵の膝に、『行動阻害』を浴びせる。途端に片膝をつき、動きを止める。その横を駆け抜ける。
道路に通じる門を蹴破り、俺達は外に転がり出た。
「ファルス! どうする!」
「逃げます!」
「どっちへ!」
「どっちでも! 振り切ります!」
雨雲が去ってもたらされた一時の日差しも、今はもう、閉ざされつつあった。
光の差さない石畳の道を、俺達はただ走った。
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