風見鶏

 人気のない暗い路地をひた走る。子供もいるので、速度は遅い。少し進んでは、周囲を警戒し、また進む。

 市街地の奥、ゴミの集積場と思しき薄暗い一角に、ようやく俺達は身を潜めた。


 大して長時間逃げ回ったわけでもないのに、もう一行には疲れがみてとれた。肉体的にというより、恐怖と衝撃のためだろう。さすがのリリアーナにも、微笑む余裕などない。


 ここは丈の高い建物に囲まれた空間だ。見つかって追い詰められたらひとたまりもない。だが、どうせ同じことだ。もし本気で兵士が追ってきたら、もう逃げ切れない。俺やイフロースはどうとでもなるが、まだ幼いウィムやリリアーナには厳しいものがある。であれば、動くより隠れて少しでも休養を取るべきだ。

 それに、考えをまとめる時間も必要だ。


「……大丈夫です。周囲には誰もいません」


 辺りを見回したイフロースが、そう告げる。

 ほっと息をついて、汚い地面にイーナ女史がへたりこむ。


「イフロース」


 うつろな目をしたサフィスが、ボソッと言った。


「今まで、迷惑をかけたな」


 言葉に滲む不吉なニュアンスに、彼は皮肉めいた笑みを返した。


「これからも手間をかけさせることでしょう、閣下」

「いや」


 憔悴しきった顔で、サフィスは言った。


「私さえ捕まれば、あとは……」

「少なくとも、ウィム様が狙われますな」


 貴族とは、血筋だ。誰か一人を殺せば済むなんて話はない。

 自暴自棄になってその身を捧げたところで、こうなってはもう、無意味なのだ。


 ランが落ち着きなく指先をわななかせながら、半ばヒステリックになりながら言った。


「屋敷に……屋敷に戻ったほうが……!」

「長生きできる選択ではないな」


 考え方によっては、ここまで出てこられただけでも十分幸運であるとみなせる。

 貴族の壁の門、そして兵士の壁の門が開け放たれていたのは……内応者がいたのかどうかまでは不明ながらも、とにかくあそこを武力で突破した誰かがいるということなのだ。それは決して多数でもないし、他に優先するべきことがあったから、出入口の封鎖をしなかった。

 しかし、時間が経てばそうはいかなくなる。確かに邸宅に留まっていれば、当面は安全だったろう。だが、その命運は誰かに握られてしまう。恐らく蜂起したのは長子派だから、下手をすると戸別訪問されて、中の貴族が皆殺しにされたりなんてのも考えられる。


「でも、こうやって彷徨うよりは」

「ふむ」


 相手が少数であれば、イフロースが片付ける。一時的な襲撃であれば、俺が手を貸せばしのげる。しかし、軍隊丸ごとの相手は、さすがに不可能だ。

 とすれば、どこが安全か?


「ここより一番近いのは、第四軍ですな」

「……えっ?」


 イフロースには考えがあるようだ。


「カリャ・フォフター、ファイエト男爵です。近衛兵団第四軍の詰所があるはず」


 軍隊の相手は軍隊に。

 確かに悪くない考えだが……


「だが、ファイエト男爵は」

「どちらの派閥にも属してはいないようです」

「であれば」

「いざとなれば信用はできませんが、まず駆け込むだけ駆け込んでみてもいいかと」


 なるほど。長子派が勝った場合は、一家も無事では済まない。だが、太子派が巻き返せば。こんな状態でウロウロするよりは、勝ち負けがはっきりするまで誰かのお世話になったほうがマシなのだ。

 もちろん、そこでぼんやりと過ごすわけではない。王都から脱出する機会でもあれば、後ろ足で砂をかけてでも逃げる。


「行きましょう。少しは休めるかもしれません」


 周囲を警戒しながら、俺達はまた、夜道を駆けた。

 ややあって、丈の高い石の壁に囲われた建物が見えてきた。街の区画を一つ丸ごと占有している。あれが近衛兵団の詰所なのだろう。

 辺りは静まり返っている。静か過ぎる。だが、無人ではない。詰所の出入口には篝火が、そして兵士が槍を手に立っている。


「止まれ。何者だ」


 俺達を見咎めた兵士が、誰何する。

 代表してイフロースが答えた。


「控えよ。こちらにおわすはピュリス総督にして、トヴィーティ子爵その人であるぞ。ファイエト男爵にお目にかかりたい」


 兵士達は目を見合わせた。

 一礼して、一人が奥へと走る。


「どうぞこちらへ」


 少しだけ、胸の中に安心感が広がる。温かい篝火に心まで照らされる思いだ。

 通された先は、ただの兵舎だった。恐らく食堂だろう。細長いテーブルに、細長い椅子が据え付けられている。埃っぽくて、快適とはいえない場所だったが、とりあえずは安全そうだ。


「お待たせしました」


 微妙な表情を浮かべた兵士が、戻ってきて案内する。


「こちらです」

「うむ」


 兵舎を出て、正面にある立派な建物に立ち入る。石造りで、窓が小さい。いざ、戦闘に巻き込まれても、簡単には陥落しないであろう拠点だ。


 薄暗く狭い廊下。先にたって歩く兵士は、終始おどおどした態度を見せていた。階段を登り、いよいよ司令官の居室が近いというところで、彼は立ち止まった。


「どうなさった」

「あの」

「うむ?」

「本当にお会いになられますか?」

「それはどういう」

「い、いえ! なんでもありません。こちらです」


 はて?

 だが、カリャの居室はすぐそこだった。


 中から、何か物音がする。これは……食事? 焼いた肉の匂いだ。


 果たして、室内に踏み込むと、カリャはひたすら食べていた。大きな木のデスクの上に、所狭しと皿が並べられている。それを片っ端から口に運んでいるのだ。

 さすがにこの状況には、イフロースも言葉を失った。客を迎える態度以前の問題だ。どういう事情で、そんなに必死になって食べなくてはならないのか。


「フォフター軍団長、私どもは王国の守護者たる近衛兵団の保護と助力を求めて参りました」


 前に出て一礼するイフロースを、カリャは一瞥しただけだった。そのまま手を止めず、骨付き肉を掴んでは食いちぎっている。


 異様な光景だった。

 疲れ果てて薄汚れた一団が、司令部のど真ん中で、軍団長の返事を待っている。だが、その軍団長たるや。

 小太りの小男で、鼻の下に太いチョビ髭がある。肌は脂ぎってテカテカしているが、微妙に血色がよすぎる。きっと酒が入っているのだろう。鎧は身につけていないが、赤いマントだけは引っかけている。全体に姿勢が悪く、猫背だ。

 およそ武威の欠片も見られない男が、ただただひたすらに咀嚼を繰り返す。それを前に、俺達は立ち尽くしているのだ。


 構わずイフロースは続けた。


「お願いしたいのは二点。まずはこちら、ご婦人方の保護を。もう一つは援軍です。今、王都は賊どもが暴動を起こし、危険な状況に陥っております。そこでピュリスに駐留する海竜兵団を派遣し、混乱の沈静化に寄与したいと」

「帰ってくれ」


 イフロースの発言を短く遮ると、彼は鶏肉の軟骨の部分を齧り始めた。


「よろしいのですか? このままでは、近衛兵団第四軍は、反乱軍ということになりますが」

「やめてくれ。関わりたくない」


 なんという。

 仮にもそれで軍人か。関わりたくも何も、この非常時に軍権を握っているというだけで、もう立派に関係者だというのに。


「この件、後ほど殿下に報告がいくことになるかと思いますが……」

「うるさい。考えたくない。もうよしてくれ」


 そう言うなり、もう会話すらしたくないというように、横を向いて食事を再開した。

 どういうことだろう?


 ピアシング・ハンドが伝えている情報によれば、カリャの能力は高くない。これなら、詠唱抜きで小さな動作だけでも、多少は心を読めそうだが……


《もう、もうおしまいだ、おしまいだ……》


 心の中は、それだけ。

 絶望してのヤケ食い。そんな感じだ。


 何があったのだろう?


 やむなく部屋を辞去して、薄暗い廊下を歩く。

 先に立つ兵士が、申し訳なさそうに声をあげる。


「あ、あの」

「何か」

「実は……」


 今を遡ること、数時間前。


 カリャは第二軍団から、人員供与の依頼を受けていた。繁華街で暴力沙汰が起き、人手が足りないという。それで彼は、よく確かめもせず、それを受諾した。

 実はこれは前々からよくあったことで、特に王都に傭兵達が入り込むようになってからは、頻繁に救援要請がされるようになっていた。


 もともとカリャは、勤勉な司令官ではなかった。宮廷貴族の分家で、先祖が運よく爵位をいただいたのに乗っかって、官僚となった。しかし政務にも軍事にも興味などなく、ひたすら宮廷内の駆け引きにばかり精を出し、実務は部下達に丸投げだったのだ。


 ところが、今回は勝手が違った。

 ウェルモルドに掌握された第二軍団は、引き抜いてきた第四軍団の兵士達を武装解除した上で、詰所の広場に整列させた。そこには、誘拐されてきた貴族達が丸太に縛り付けられていた。


『国政を壟断し、王統を乱す逆賊を成敗する』


 だから、この義挙に参加せよというのだ。

 手始めに、悪党どもを処刑する。それを第四軍団の兵士達にやらせた。


 手を血で染めてしまったのだ。これでもう、後戻りはできない。不本意であろうと、もはや従うしかない。大多数は、そう覚悟を決めたらしい。

 それでもごく一部の兵士が、なんとか隙を見て抜け出し、この異変をカリャに伝えた。


 これは、決定的な不手際だ。

 自分が掌握すべき兵士達を、安易に他の司令官に委ねた結果、反乱軍の頭数を増やす結果になったのだから。

 それでもカリャにもう少し才覚があれば、いくらでも動きようならあったし、今でもある。いっそこのまま長子派に加担するもよし。むしろ全力で太子派に組するもよし。だが、彼は最悪の判断をした。


 現実逃避だ。

 愛して止まない美食の世界に逃げ込んでしまったのだ。


「ってぇことで、まぁ……」

「なんと……しかし、それでは、第四軍の兵として、困ってはおりませんかな」

「ま、まぁ、巻き込まれても損ですし? 決めたのは上なんで、まぁ、乗っかろうかな、と……いざとなったら閣下のせいにすれば……あはは」


 勇将の下に弱卒なし、というが、逆に弱将の下では、やはり弱卒ばかりになるというわけか。彼らは他人事で済ませるつもりらしい。


 恐らく、このカリャの判断も、ウェルモルドの策略のうちだろう。さすがにカリャとて、自分の立場を考えるなら、普通であれば反乱軍に立ち向かうはずだからだ。しかしそこに少しストレスを加えてやることで、あっさり思考停止する。


 王都に駐留する軍団は、近衛兵団全五軍と、聖林兵団、岳峰兵団、疾風兵団各一軍団。そのうち、疾風兵団は傭兵を使って実力で沈黙させた。岳峰兵団は長子派の味方だ。聖林兵団のゼルコバが一番手強いが、このタイミングで西部国境に送り出されている。すぐには引き返せない。

 残るは近衛兵団のみ。これで第四軍は沈黙した。第二軍も長子派につく。残るはあと三軍団か。


 しかし。

 ……どうしてこんなことを?


 数日前に出会ったウェルモルドとの会話を思い出す。清廉で、恐妻家で、剽軽な男だった。兵士達と寝食を共にし、流民街の貧民の暮らしを思いやり、若者に未来を託したいという、そんな男が、なぜ?

 軍団長の地位を追われることについても、彼は納得していたはずだ。少なくとも、欲得で動く男には見えなかった。


「仕方ありませんな」


 イフロースとしても、覚悟のない兵士などに頼るつもりにはなれなかったようだ。なにしろ、この手の連中は、いざとなったら平気で裏切る。


「お邪魔した」

「いえ……」


 結局、俺達は夜道に放り出された。


「イフロース」


 サフィスが言った。


「ジャルク様に頼ってはどうか」

「第五軍の詰所は、少し離れておりますが」

「だが他に心当たりがあるか」


 ない。

 親交を結んでいる貴族で軍権を握っている人物となると、あとはジャルクか、ラショビエか。アルタールとは縁がない。第三軍がどちらに組しているか、まだわからないのだ。

 そして恐らく、ラショビエはタンディラールの傍にいる。第一軍の詰所は、王宮内にあるのだ。


「では、参りますか」


 俺はともかく、他の子供達にとっては、かなり過酷な夜であるに違いない。それでも、足を止めることはできない。

 気を張るイフロースと俺が先導して、夜の裏通りを抜けていく。


 月がちょうど頭上に懸かる頃、散々遠回りした俺達は、ようやく第五軍の詰所の前に立っていた。さっきと同じような建物が、青白い月明かりの下、佇んでいた。


「お嬢様?」

「ん、大丈夫」


 気遣うナギアに、リリアーナは弱々しい笑みを返す。既に彼らは限界だ。ウィムに至っては、もはや自力で歩くことすらならず、今はセーンの腕に抱えられている。


「これで休める。ジャルク様なら、話は通じるはずだ」


 やっと落ち着ける、と言わんばかりにサフィスは胸を撫で下ろした。


「だといいのですがな」


 あくまで気を緩めないイフロースは、そんな主人を尻目に、前へと踏み出す。


 さすがにカリャとは違って、一行はあっさり司令部に通された。サフィスを見ると、ジャルクは笑みを浮かべて手を差し伸べた。


「ようこそお越しくださいましたな」

「見せられた姿ではありませんが、今はご助力をお願いしたく」

「なるほど、なるほど」


 笑顔で彼はサフィス達にソファを勧めた。とはいえこの人数、全員が座れるわけではない。そこはさすがに彼も人の親、子供達をまず座らせた。続いて配下の兵士達が無骨なティーカップにお茶を注いで運んできた。およそ上質なものとはいえないが、とにかく歩き通しだったのだ。温かい飲み物というだけで、今は甘露というべきだ。


「お気遣い、痛み入ります」

「なになに、わしと貴公の仲ではございませんか」


 皺だらけの顔で、ジャルクはそう笑う。

 だが、なんとなくだが、俺はそこに酷薄さを感じた。


「それで、今日はこのような夜更けに、わざわざどのようなご用件でいらしたのですか」


 この言葉に、サフィスは硬直した。


「ジャルク様? 何をおっしゃるのですか! まさか、何もご存知ないのですか?」

「何も、とは? いったい何が問題なのか、わかりかねるのですがな」


 一瞬、年齢が年齢だけに、彼が認知症にでもなったのかと疑ったが、そんなわけがない。


「今、暴徒達が、王都で治安を乱しているのですよ! 武力で王位を我が物にしようと」

「ですから、それの何が問題なのですかな」


 ……やはり。


「ご冗談でしょう? これは反逆です! 謀反なのですよ? 正しきフォレスティアの王統を乱す途方もない」

「ああ、サフィス殿」


 手を振って発言を遮ると、ジャルクはデスクに手をついて、のんびりした口調で諭した。


「確かに近衛兵団は、フォレスティア王国の守護者です」

「そうでしょう、それが」

「フィエルハーンの一族もまた、王家に仕え、これを守る使命を負っておりますな」

「まさしくおっしゃる通りです」

「ですが」


 首を振り、ジャルクは穏やかな表情のまま、淡々と説明した。


「王家の内側の問題については、これはどうしたものでしょうな」

「は?」

「聞けばこの争い、フミール様とタンディラール様の間の揉め事だそうで」


 なるほど、この爺ぃ……


「王家のことは、ご兄弟でよく話し合って決められるといいと思うのですよ」

「そんな!」


 中立を保つ、ということか。

 簡単そうに見えて、実はなかなか難しい選択だ。「味方でないものは敵」と考える人の方が、世の中ずっと多い。またそのように圧力をかけることで、争いの当事者は、日和見主義者どもを取り込もうとする。

 そもそも中立のままで事態を逃げ切ったとしても、その後がない。あいつはあの時、何もしなかった。そう思われる。だから普通の貴族であれば、そうした選択などできるはずもない。


 だが、こいつはジャルクだ。

 宮廷人を把握する影の権力者。貴族達の秘密を握る、恐るべき人物だ。

 今回もうまく泳げば、無傷で乗り切れる。そういう成算があるからこその選択なのだ。


「サフィス殿も、私は友人と思っておりますでな……無論、お泊りいただく分には、兵舎でよければお貸ししますが」

「そっ、そんな……」


 それがどういう意味か? もしタンディラールが勝てばよし。さもなければ、サフィス達はそのまま、フミールに差し出される。


「お願いしたい」


 後ろから、イフロースが低い声で口を挟んだ。


「ほお? ではでは、ご案内しましょうか」

「イフロース」

「閣下、既にお子様方は限界です」


 油断できない状況ではある。だが、であれば尚更、体力がものを言う。

 ジャルクが勝者につくというのなら。今すぐサフィス達を始末するというのも考えにくい。今夜中にタンディラールの敗北が決まってしまえば別だが、だとすればどっちにせよ、助かる道などない。


 不和の原因。

 危険の欠片なら、いくつもあった。それは承知していた。

 だが、それらは欠片のままで終わるはずだった。


 なのにどういうわけか、ぴったりとパズルのピースが揃ってしまった。


 考え得る最悪の事態の中で、俺達は生き残る道を探し求めるしかなくなってしまったのだ。

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