封鎖

「お食事をお持ちしました」

「ご苦労様です」


 セーンの作ったスープをカートに載せて、部屋の前まで運ぶ。だが、それを受け取るのはメイドではない。


「あの、奥様」

「なにかしら」

「まだ熱いので、ゆっくりと」

「あら、そうなのね。気をつけるわ」


 あの日以来、サフィスはショックのあまり、寝込んでしまった。そして、王都もまた、ずっと沈黙を続けている。


 邸宅の外で何が起きているのかは、わからない。貴族の壁の内側は常にひっそりとしていて、人通りもない。

 一度だけ街中の様子を見に行ったが、そちらも妙に静かだった。路上の物売りを見かけなくなったので、その辺の商店に踏み込んで話を聞こうとしたのだが、俺の身なりを見るなり、いきなり視線を逸らしてきた。

 なぜそんな態度を取るのか? だが、俺相手にだんまりなど無意味だ。強引に心を読み取ってみると、とにかく貴族やその使用人と関わりあうのを恐れていた。詳しい事情は伝わっていないにせよ、既にセニリタート王が死去したらしいこと、それでいながら新王の即位がないという異常事態はうっすらと知られつつあった。


「あなた」


 ベッドに横になったままのサフィスに寄り添い、そっと身を起こさせる。


「スープなら、食べられるでしょう。さぁ」


 彼女は夫の世話を誰にも任せようとしなかった。困惑したのは、ランをはじめとするメイド達だ。いきなり自分達の仕事を横取りされたのだから。


「あの、奥様」

「どうしました?」

「そのような仕事であれば、いくらでも……私どもがおりますし」

「ごめんなさいね」


 顔だけこちらに向けて、彼女は微笑みながら言った。


「でも、今は私に任せていただけるかしら」


 彼女の中で、苦しむ夫を支えるという仕事は、決して譲れないものらしい。


「さ、あなた」


 ようやくサフィスは、一口目を受け入れた。


「あとのことは心配なさらないで。ムスタムでも、パドマでも構いません。どこまでも一緒に参りますとも」


 タンディラールが失脚したらどうなるか? サフィスは彼に近付き過ぎた。ただでは済まない。

 フミールが王になるような事態に発展した場合、命すらどうなるかわからない。であれば、その前に逃げるべきだ。つまり……国外へ。


 領地を捨てて逃げる。その選択は貴族にとっては最悪のものに違いないが、それでも彼女はついていくつもりだという。なくすのは名前だけ。でもきっと得られるものもある。貴族でなくなっても、人生が終わるわけではない。一緒に苦労しようと、そう彼女は申し出ている。


 実際にすべてを捨てて去るのであれば、ムスタムでは近すぎる。本当に安全を確保したければ、きっちり帝都に亡命すべきだ。あそこは一種の中立地帯だから、余程のことがない限りは誰にも手は出せない。ただ、そこにいる事実は知られてしまうし、フォレスティアからも留学生が毎年のようにやってくるから、笑いものにされる可能性はあるが。


「苦労することにはなるでしょう。でも、私も働きます。あなたが不自由することなんて、何もないんですよ」


 こうなってから、既に三日目の夜だ。


 あれ以来、イフロースはずっと苛立っている。できれば一秒でも早く王都を出たいのだ。一時の恥、地位の喪失を惜しんで、本当の危険に身をさらすわけにはいかない。だが、肝心のサフィスは衝撃から立ち直れず、決断は先延ばしにされるばかりだ。

 エレイアラもそれは承知している。本当なら、イフロースに強く命じて、無理やりでも夫を馬車に押し込ませるべきなのだ。だが、今回に限って、それはできない。


「……決めるのはあなたです。でも、あなた一人には背負わせませんから」


 なぜなら、これは「生き直す」ための、一つの機会だからだ。


 トヴィーティ子爵、ピュリス総督……こんなものは、所詮、先代から引き継いだだけの地位でしかない。サフィスが自分で選んで決めた人生ではないのだ。であれば、惜しむにたりない。

 もちろん、それらは大きな財産だ。そして、ここで王都を後にして逃げ出せば、ほぼ確実に失われる。だがそれでいいではないか。なくさずに済むものもある。エレイアラも、イフロースも、決してサフィスを見放しはしない。召使達の多くはエンバイオ家を去るだろう。何が惜しいものか。本当に大切なものだけが残るのだ。

 得られるものもある。今度こそ、サフィスが自分で選び取るのだ。そして未来を創り出すことができる。優雅な貴族の暮らしでは得られない、汗と泥にまみれた、本物の人生だ。


 その決断は、サフィス自身にさせなければいけない。どれほど難しくとも。でなければ、彼はまた、誇りをなくしてしまう。

 彼は気付くべきなのだ。自分がなぜこんなにも苦しんでいるのかを。


 美しい容姿、高貴な身分、それを彩る富……それらがあるから、人が振り向いてくれるのだ、そうでなければ愛されないのだと。どこかでそう思っているからこそ、彼は演技にこだわった。歴史ある貴族、目下の者達にもフレンドリーな紳士、仲睦まじい明るい家庭、次期国王の友人……だが、そのすべてが幻想だと、彼自身もわかってはいる。

 そして、実はそれらを嫌悪していたのだ。であればこそ、ピュリス総督の地位を毛嫌いもした。嫌ってはいても、投げ出せない。それがなければ、すべてをなくしてしまう。虚飾を剥ぎ取られた自分なんて、裸のサルだ。尊敬され、愛されるためには、どうしても身分が必要だった。だが、体に合わない服は、彼の自由を奪う。

 結局、サフィスもただの人間だった。生身の自分を見て欲しいだけなのだ。そして同時にそれが恐ろしい。不満を言いながら、同じ場所に留まり続けるしかなかった。


 彼を笑えるだろうか? 俺の知る限り、ほとんどの人間は、彼と何も変わらない。飲み屋で会社の愚痴を垂れ流しながら、結局は辞表も出さずに定年まで椅子にしがみつく……そんなのが、前世でも山ほどいた。会社の名前入りの名刺をなくしたら、もう何もなくなってしまうからだ。

 脱サラして起業した元同僚が、元の取引相手にまったく相手にされずに困窮する様子。収入が途絶えて妻子に見捨てられた男。想像するだに恐ろしい未来だ。

 だから言い訳をする。子供の学費のためだとか、俺が大黒柱だからとか、いろいろ。


 だが、幻想は壊れつつある。

 タンディラールは彼に何も告げずに、この混乱を惹き起こした。まだはっきり形をとっていないにせよ、脅威が迫りつつある。

 今だ。今こそ、彼は決断を下して、本当の自分自身に還るべきなのだ。


「あっ」


 おっと。

 スープをこぼしたらしい。


「奥様」

「ああ、ありがとう。さ、あなた。食べないと、力が出ませんよ」


 サフィスにとっては、崖から飛び降りるような決断だ。

 それはエレイアラにもよくわかっている。今までが今までだった。ある意味、彼は突き放されてきたのだ。だから、今度こそ手を離さない。安心して溝を飛び越えて欲しいのだと。

 今が予断を許さない状況にあるのは、彼女も認識している。その責任の一端は、自身にもある。

 口先だけでは伝わらない。だから彼女は、自ら立ち働くことにした。それは彼女自身にとっても、新たな「生き直し」の機会でもある。


「ファルス、ありがとう、あとは」

「わかりました」


 俺は一礼して、退出した。


 だが、これ以上、時間をかけていていいのだろうか? もちろん、何が起きると決まったわけでもない。わかってからでは遅いのだが。

 釈然としないまま、俺は中庭に出た。


 その時だった。


 頭上に物音。

 ……鳥? 違う!


 ハッとして頭上を見上げる。羽音が大きすぎる。


 暗い夜空に浮かぶ、灰色の躯体。それが見る見るうちに大きくなる。姿勢を崩したかと思うと、それは真っ逆さまに墜落した。

 中庭の椅子とテーブルが吹き飛ぶ。勢い余って、飛竜とその騎手は壁に激突した。


 これは……!


「イフロース様! 兵士が降ってきました!」


 疾風兵団の伝令だ。

 ということは、あのユーシスの部下か?


 さっと状態を確認する。ひどい。

 飛竜のほうは、後ろ足と腹部に矢を受けて、血が滲んでいる。騎手のほうも、背中に矢を受けてはいるが、こちらは致命傷ではあるまい。だが、今の落下の衝撃で骨折したらしい。短い呻き声を漏らすばかりだ。


 バタバタと足音が近付いてくる。まずイフロース、続いてイーナ、ラン、それにセーンまでやってきた。遅れてやってきたリリアーナが、惨状を目にして息を飲む。その視界を、ナギアがそっと遮る。彼女にしても、顔面蒼白だ。


「これは」


 イフロースは、すぐに判断した。


「答えよ。何があった」


 どうやら首の骨が折れているらしい。騎手は口をパクパクさせるが、ほとんど声になっていない。

 それで俺は察した。呼吸ができないのだ。脊髄をやられた。これはもう、助からない。


 可能なら救ってやりたいが、ピアシング・ハンドをもってしても、ここに代替できる肉体がない以上、どうにもならない。バクシアの種の中に怪鳥の肉体ならあるが、あれを取り出すだけで、今日の分を使い切ってしまう。つまり彼の肉体を奪う分がない。或いは彼がちゃんとイメージできれば、肉体の乗り換えもできるかもしれないが……間に合うまい。


 ならば、せめて。

 心の中を見通す。


 俺はイフロースを押しのけ、騎手の手に触れながら、呪文を詠唱する。

 見えたのは……


『軍団長! きました!』

『やはりか』


 薄暗い詰所。

 伝令兵達が居並ぶ中、ユーシスは、あの萌黄色の外套に身を包んで、椅子に腰掛けていた。すっと立ち上がると、手を挙げてすぐ指示を下した。


『行け! 予定通り、西部国境の聖林兵団、ピュリスの海竜兵団、それとルアール・スーディアに救援を求めよ!』

『はっ』


 だが、兵士達はすぐには動き出さない。


 事情は把握している。このところ、長子派の動きがおかしい。つい先日まで盛り場にいたはずの傭兵達が、ぱったりと姿を見せなくなった。先日の王宮での事件を考えるに、これはそろそろ何かある。


『どうした? さっさとしろ。時間がないぞ!』

『軍団長』


 兵士達の一人が進み出て、跪いた。


『敵は傭兵どものようですが』

『それがどうした』

『思いの外、数も多く、手強いようで』

『だからどうしたと言っている』

『あれは情報にあった例の……とてもではないですが、支えきれません。閣下も、早くここを脱出なさっては』

『たわけ』


 ダン! とその場で足踏みすると、ユーシスは顔に似合わない大声を張り上げた。


『貴様ら、目を覚ませ!』


 息を呑む配下の兵士達に、彼は言い放った。


『疾風兵団の使命とはなんだ? 迅速な伝達によって戦力の無駄をなからしめること……この場合、とにかく援軍を呼ぶことだ! その任務が一切に優先する!』

『ですが閣下は』

『私はここで囮になる。なるべく敵をひきつけるつもりだ! その間に、お前達はなんとしても援軍を呼べ! たとえ私が死のうとも構うな! 自分の責務を果たせ! 解散!』


 壁の向こうから、激しい打撃音が響いてくる。戦闘が繰り広げられているのだ。もう、あまり時間はない。敵に追いつかれては意味がないのだ。


 確かに軍団長という大駒を取るためになら、敵も手柄欲しさに寄り道してくれるかもしれない。だが、すぐ目の前にいなければ、諦めてすぐ本来の目的を追いかけるだろう。つまり、伝令兵の排除だ。

 一方、ユーシスは状況を厳しく捉えていた。事態が深刻であればあるほど、選び取れるものは少なくなる。この場合、各地に援軍を要請する以上の余裕はなかった。疾風兵団にはほとんど実戦力がない。わざわざ軍団長が生き延びたところで、その後の状況を好転させる一手にはなり得ない。ならば、将の価値とは、敵の手柄……つまり、任務のための捨石たりうるところにある。


 指揮官自ら、軍団としての任務を全うするため、命を盾に戦うというのだ。その志を無にはできない。


 この騎手も、他の伝令兵と同じように、急いで裏手に出て、飛竜に跨った。

 しかし……


 空に舞い上がってまもなく、後方から矢の雨を浴びてしまった。彼自身の傷は浅かったが、飛竜のダメージが大きく、姿勢を制御できない。結局、力尽きた飛竜に巻き込まれる形で落下してしまった。


 ……俺は顔をあげて言った。


「今、死にました」

「くっ」

「イフロース様、もう時間がありません。傭兵達が、疾風兵団の詰所を襲撃しました」

「なに」

「はっきりとはわかりませんが、今頃はもう、マクトゥリア伯も無事とは」

「なぜわかる」

「心を読み取りました。襲撃犯のリーダーは、あの『屍山』のドゥーイです」


 二、三秒ほど、彼は考えをまとめていたが、すぐ決断したようだ。


「もう待てん」


 背を向けると、彼は中庭に面した出入口から、サフィスの部屋を目指した。俺もついていく。


「閣下」


 力ない視線が、こちらに向けられる。エレイアラも横にいる。


「始まりました。内紛です」


 この言葉に、ビクッと肩を震わせた。


「王都はもう危険です。即座に脱出しましょう」

「あなた」


 サフィスの肩に手を置きながら、エレイアラも言った。


「ピュリスに引き返せば、海竜兵団がいます。あなたは長官ではないですか。急いで戻って、指示をしませんと」


 一つ、二つ吐息を漏らすと、よろよろとサフィスは起き上がった。

 やや不本意な形ではある。だが今は、生存を優先しなければならない。


 辺りは既に暗くなっていたが、もう構ってなどいられない。手筈通り、馬車には必要最低限の物資が詰め込まれていた。そこに急いで全員が乗り込む。着替えなど、多くの荷物は置きっ放しだ。重さで馬車の足が遅くなるなど、あってはならない。

 俺達は三台の大きな馬車に分乗して、敷地を出た。


 道路に馬車を出す。果たして、貴族の壁を越えられるだろうか?

 その心配は杞憂だった。というより、それ以上に悪い現実が待っていたのだ。


 狭い馬車の中で、ナギアが悲鳴をあげかける。彼女の視線を追って、外を見た。

 貴族の壁の門は、開けっ放しになっていた。門の守備兵数人は……誰も彼もが突っ伏していた。息があるのはいない。


「灯りを消せ!」


 先頭の馬車から、イフロースの声が響く。

 それでナギアは、手元のランタンに息を吹きかけて消した。


 目立てば狙われかねない。

 今の王都は、混沌に包まれているのだ。


 兵士の壁の内側。きれいに区画整理された高級住宅地は、呼吸を忘れたかのように押し黙っていた。

 灯り一つ、漏れてこない。

 中の住人は逃げた後なのか、それとも地下室にでもこもっているのか。


 全速力で馬車を走らせているはずなのに、やたらと時間が経つのが遅く感じられた。

 夜の闇に漂う、湿った生温かい空気。それがまるで、悪意をもって肌にまとわりついているような気がした。俺達をどこか、得体の知れない場所に引きずり込もうとしているのだ。

 だが、ようやく次の門が見えてきた。兵士の壁だ。


 そこで見てしまった。

 横倒しになった馬車。そして転がる死体。一見して、貴族とその使用人だとわかる。


 ここでも門は開け放たれたままだった。

 構わず先に進む。


 市街地に出た。

 不気味なほど静まり返っていた。どの家も鎧戸を下ろしている。襲いくる嵐を前に、ぐっと身を縮めてやり過ごそうとするかのように。


 ふと思った。

 脱出しないのも危険だが、この脱出自体、大きな賭けなのではないか。

 だとしても、考える意味はない。理想的には、今より早く出るべきではあったが、それで本当に安全だったかというと、なんともいえない。長子派がピュリスからの援軍を恐れて、真っ先にサフィスを狙うという台本もあり得た。誰の目もない街道で襲撃を受けていた可能性だってあるのだ。もちろん、それは今でも残っているリスクだ。


 長い時間をかけて、ようやく市民の壁の、大きな暗い影を目にすることができた。あそこを抜ければ、あとは流民の壁だけ。普段は兵士も置かれていないような城壁なので、抜けるのは難しくない。

 ただ……少し壁の形がおかしいような気がする。


「……あっ!?」


 意識を探知する。いる。大勢だ。こちらを認識した。これは……敵意!?


「発射ー……用意!」


 遠くから響く、野太い声。


「危ない!」


 先頭を走るイフロースも、それと気付いたらしい。急いで馬の向きを変えようとする。だが、少しだけ遅かった。

 次の瞬間、俺の乗る馬車が跳ね上がる。天井に頭をぶつけ、足元に叩きつけられた。


「つっ……ナギア、イーナさん、無事……」


 木の板に突っ伏しながらも、なんとかナギアは起き上がった。


「……な、なに?」

「すぐ馬車を出るんだ……そっちじゃない!」


 俺は周囲を探知する。

 反対側から出て、走らないといけない。


 今、馬車が浴びたのは、バリスタによる攻撃だ。木の幹の先端を削って鋭くする。それを機械の力で撥ね飛ばした。

 幸いだったのは、夜間だったために視界が悪く、狙いが甘かったこと。それと射程距離ギリギリからの攻撃だったのもある。巨大な木の矢は、馬車の腹には刺さらず、足元の車輪や馬の足を引き千切るだけで役目を終えた。


 反対側には民家が連なっている。距離にして十メートルほど。あの裏手まで行けば、直撃を恐れる心配はない。


「出て、こっちです、早く」


 横を見ると、イフロースもサフィス達を外に連れ出していた。ウィムとリリアーナを、それぞれ夫妻が抱えている。ではイフロースはというと、風の懐剣を抜き放っている。とはいえ、あの兵器相手にその程度の魔力では、焼け石に水だろうが。


「ファルス!」

「はい!」

「先に行け! 走れ!」


 そう言うと、彼は珍しく詠唱を始めた。

 ということは、次の攻撃を予期しているのだ。それは強力な魔術で防ぐ必要のあるものだ。


 俺が先頭に立って走り出す。

 遠くから、また野太い声色の号令が聞こえてきた。


 ガッシャン、と何かが動く音。

 これは……


 投石器だ。

 大型の物ではない。比較的小さなサイズの石を、スプーン状のアームから大量に撒き散らす。

 矢より重量が大きく、空気抵抗を受けにくい弾丸だ。だからこそ、イフロースはわざわざ詠唱までしてこれを妨害しなければいけなかった。


 なるほど、彼には予想がついていたのだ。横に直線的なバリスタは、最初の一撃以外、あまり有効ではない。足を折った馬や馬車が障壁になるからだ。であれば次は、曲射ができる兵器での攻撃がくる。


「こっちです!」


 俺も必死になって叫ぶ。最初に民家の壁に手をついて、そこに人を誘導する。

 ナギアが、サフィスが、エレイアラが、最後にセーンとイフロースがここまで走ってやってくる。


 遠くから怒号が聞こえた。


「逃がすな!」


 この暗さ。

 もう少し明るければ。人の顔が見えれば、指揮官から消してやるのに。


 闇の中から数人の兵士が駆けてくる。

 大した武器は持っていない。短い剣と、革の鎧だけ。だが、はっきり王国の正規兵とわかる。


 わかっている。こいつらは……


 岳峰兵団第一軍。長子派のベラード・ヒオナット麾下の兵士達だ。

 城壁の影の形がおかしいのは、そこに投石器が設置されているから。街の外ではなく、内に向かって。

 となると、王都は今、彼らに封鎖されているのか?


 倒すしかない。そう考えたらしく、イフロースは剣を構え直す。

 だが、そのために時間をかけるのは下策だ。


「ぷいっ?」

「ぶば?」


 駆け寄る兵士達が、突然に足を止めた。

 詠唱だけで、強引に『認識阻害』を行使したのだ。それも重ねがけしてやった。今、こいつらは、自分が誰で、何をしようとしていたのかさえ、思い出せない。これできっと数十秒はもつ。


「行きましょう」


 こんな調子で魔法を使い続けたら、俺もイフロースも、きっとまいってしまうだろう。だが、今だけは。


 状況を飲み込んだイフロースは頷くと、俺達を市街地の奥へと進ませた。

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