潜伏開始

 昨日までと打って変わって曇り空。灰色の雲が、ひんやりする空気と共に、じわじわと押し寄せてきている。

 これはもうすぐ一雨くる。季節の変わり目だ。これからは降雨のたびに、少しずつ肌寒くなる。秋になり、冬に近付く。この雨雲は、その前触れだ。


 そういえば、もう紫水晶の月になっていた。

 数えると、ピュリスを出て五日。最初に謁見の間に出向くまで三日。それから三日間、死体にお辞儀をして、更に三日間、サフィスが寝込んでいた。本当なら、今朝あたり、ピュリス北門のあの白い城壁を見上げていたはずなのだ。

 ……ノーラはちゃんと誕生日を祝ってもらえただろうか? ガリナ達もいるし、店長もあれで気を遣ってくれる人だから、そこまで心配はしていないが。


 詰所の門の近くを、リリアーナとウィム、それにナギアが連れ立って歩いている。何を話しているのか、彼らの顔には子供らしい笑顔があった。

 一方、ぐったりしているのが大人達だ。脇の建物にある石の階段に、イーナもランもへたりこんでいる。

 そこから少し離れた場所に、サフィスとエレイアラが立っていた。明日をも知れないと悲嘆にくれるのは、いつも大人達だ。それにひきかえ、子供達のなんと頼もしいことか。二人の表情は穏やかだった。

 そんな中、唯一、元気なのはセーン料理長だ。兵舎の中で、なにやら言い争いをしている。こんなものが料理と呼べるか! とばかり、いつも通りに癇癪玉を破裂させている。確かに今朝のスープの味はひどかった。だからといって、怒鳴りつけても何にもなるまいに。


 俺はそんな子爵家の人々の様子を見ながら、イフロースの帰着を待っていた。

 今の俺の役目は、見張りと護衛だ。ジャルクが牙を剥いた場合には、殺してよいと言われている。言われなくても、そんなことになったら、当然始末するつもりだが。

 ただ、多分、そうはならない。街の中はともかく、この敷地内なら、今は平和そのものだ。


 そしてジャルクとしては、来るもの拒まず、去るもの追わず、だ。敷地内にいる限りは保護する。但しいざという時は点数稼ぎの餌にする。出て行きたいなら勝手にすればいい。死のうがどうなろうが、知ったことではない、と。

 何が「わしと貴公の仲」だ。笑わせてくれる。


 ……いっそ、ここでジャルクの肉体を奪うという手もあるか?

 そうすれば、とりあえず手元の第五軍を動かせる。ただ、魂を消し飛ばしてしまっては、彼の記憶が問題になる。ちぐはぐな命令を口にして、部下から怪しまれてはまずい。

 では、と動物に移し変えようにも、鳥の肉体はバクシアの種の中。それを取り出すだけでも、丸一日のクールタイムが必要になる。しかも知能がどんどん低下するから、そのうち心を読み取っても有用な情報を得られなくなる問題もある。

 やはり難しい、か。


 ややあって、見慣れた人影が門前に姿を現した。

 俺も腰を浮かせる。


 出発の合図に、リリアーナも表情を引き締める。ここからまた、兵士を避けながら移動しなければならない。


 朝から、街の中は既に危険地帯と化していた。

 近衛兵団と傭兵、傭兵と傭兵、そして近衛兵同士でも、散発的な戦闘が発生している。その形跡が、道端に見られることもある。死体はなくても、赤黒い血痕が残されていたり、割れた武具の破片などが落ちていたりする。大きな荷車が砕けて、路上に放置されているのも見かけた。


 戦っているのは、主に第二軍と、第一軍及び第三軍の共同部隊だ。それだけの情報だと、タンディラールのほうが有利に思えてくるのだが、実は違う。


 詰所の近くを通りかかる兵士達の心を読み取った。戦況全体としてはウェルモルドが押している。


 理由はいくつもある。まず、彼に協力する傭兵部隊の存在だ。『屍山』のドゥーイとその部下達は、別格の強さらしい。また、第四軍の半数近くを引き抜いたので、士気はともかく、数的不利ならない。

 また、兵士達の切迫感も違う。誰が正統な王かが不明瞭だからこそ可能になった蜂起なのだが、それでもタンディラールが太子であることなら、誰でも知っている。負ければ賊軍、処罰は免れない。後に引けない第二軍の兵士達は、本気にならざるを得ない。

 しかも、疾風兵団は沈黙させられ、聖林兵団は外に出たまま。そして岳峰兵団が城壁を押さえている。これだけでも、短期的には、圧倒的に長子派が有利になってしまったといえる。


 だが、何より致命的なのは、ラショビエの副官、あのウィム・ティックが死んだらしいことか。

 残念なことに、ラショビエ自身はただの宮廷人だ。軍人としてはジャルク以下、カリャと大差ない。だが、副官はそれなりの武人だった。キースには遠く及ばないながらも、それなりの武威が備わっていたので、彼が実質的な指揮官だったのだ。

 そのウィムが死んだことで、第一軍の士気は失われてしまった。かなりの数の兵士が戦意喪失して、持ち場を離れてしまっているようだ。無理もない。一部は本物の叩き上げの戦士だが、そういうのを除くと後は貴族の次男坊がろくに実戦経験もなしに席を占めていただけなのだから。


 結果、市内には、第一軍の敗残兵がウロウロしている。それを捕らえようとする第二軍の兵士達も。

 恐らく、タンディラールの近くには、第一軍と第三軍の中核部隊がいて、王子達を守っているのだろうが、それだけだ。国一番の剣士と名高いアルタールがもし討ち死にでもしたら、本当に終わってしまう。


 本当に、タンディラールはどういうつもりなんだろうか?

 どんなメリットがあって、こんな事態を惹き起こしたのだろう? 絶体絶命にみえるのだが。


 ……ジャルクの詰所からやや離れたところにある商店街。そこの民家のうちの一軒を見定めて、裏口から入り込む。

 薄暗い屋内には、微妙な表情の中年女性がいた。険しい表情をしている。


「は、はやく」


 迷惑だ、と言わんばかりの顔で、さっさと中に入れと手招きする。結構な人数だから、足の踏み場しか残らないくらいだ。


 普通の民家だ。ただ、決して裕福ではないのだろう。足元の床は砂まみれで、でこぼこだらけだ。家を支える柱も古さが目立つ。


「では、先に」


 イフロースがサフィスに目配せした。男達は全員、頼りない木の階段に足をかけ、二階にあがる。

 そこには、木箱に突っ込まれた古着の山があった。およそ貴族が身につけるような代物ではない。どちらかというと、貧民が着るようなものだ。


 いちいち尋ねるまでもない。意図を察して、サフィスは服を物色する。貴族っぽい格好で逃げ回るのは、あまりに危険だ。紛争に怯える貧民のふりをしたほうが、助かる可能性は増える。


「よくお似合いですぞ」


 イフロースの言葉に、サフィスは口元を歪める。


「こんな服は初めて着るんだがな。いっそ明日から乞食にでもなるか」

「お父上は、帝都ではいつもツギハギの服でした。その頃のフィル様そっくりです」


 肩をすくめると、サフィスは自分がもともと着ていた服を、粗末なリュックに詰め始めた。今は身分が邪魔になるが、逆にそれが必要になる場面もあるかもしれないためだ。


「では、次はご婦人方」


 階段を駆け降りると、代わってエレイアラ達が上に向かう。

 やけに時間がかかったが、全員庶民の服に着替えていた。

 なお、大事なことだが、特に子爵一家は全員、帽子かフードをかぶっている。ついでに俺もだ。金髪とか黒髪とか、目立つ特徴はなるべく隠しておきたい。


 イフロースは懐から金貨の詰まった袋を差し出した。中年女性はそれを奪うようにひったくる。

 もらうものをもらったなら、あとは厄介者でしかない。わけのわからない揉め事に巻き込まれるなんて冗談じゃない。しかし、こんなボロボロの古着が金貨百枚になるのなら。


 この変装について、イフロースは何も説明していない。こうやって逃げますよ、と前もって誰かに話しておいたりはしなかった。詰所でそういう相談をすれば、ジャルクの部下に盗み聞きされるかもしれなかったからだ。だから彼は一人で行動して、段取りをつけてきた。


 なるほど、これはこれで悪くない計画だ。但し。

 金で動く人間は、別の動機によってもまた、動かされるものだ。


「あの」


 イフロースの名前は口にしない。この女に名前を聞かせて、いいことなど一つもない。


「後始末を」

「いらん」


 意味を悟って、イフロースは首を横に振る。

 彼とて理解はしている。口封じには、殺すのが一番だと。


 だが、今の彼は傭兵ではない。執事なのだ。


「心配要りません」


 危険を冒して得た金貨。それは自身の命同様に、彼女が手にすべき正当な権利だ。だから奪い取ったりなんかしない。

 ただ、ちょっとだけ『忘れて』もらう。


「な、なにさ、あんた」


 無造作に彼女の手を取り、口の中で素早く詠唱する。

 途端にカクンと膝を折り、その場に倒れ伏す。


「ファルス」


 罪のない人を手にかけるのか、とイフロースが人を掻き分けて近付いてくる。


「忘れさせました。行きましょう」


 俺もそこまで非道ではない。『誘眠』で昏倒させ、それから『忘却』を重ねがけした。

 滅多なことでは、俺達の顔を思い出せまい。そして記憶がなければ、罪にも問われにくくなる。これは彼女のためでもある。


 また妙な真似を……と彼は溜息をつき、それから尋ねた。


「どれくらい眠っている」

「あと一時間は」

「なら、少しずつ連れ出そう。そのほうが目立たない」


 なるほど。

 確かにそうだ。子爵一家にイフロース、ナギア、イーナ、ラン、セーン、俺、その他数人。こんなに大勢で動き回れば、どうしたって目立ってしまう。集団を分割して、家族単位で逃げ惑っている流民あたりに見せかけたほうが、より安全だろう。


「では、閣下、それに……ええ、奥様も。ナギア、ファルス、お前達もだ」


 この後、イフロースは残りの人員の避難を手伝うために、戻ってこなければいけない。だから俺を主人達から引き離すわけにはいかない。


 いよいよ暗さを増すばかりの曇天の下、細い路地を縫うように抜けていく。目指すは市民の壁の南東部、冒険者ギルドに近いあの繁華街だ。

 確かに、流民街の一部を除けば、ここ以上に入り組んだ場所などない。細かく不規則に区画が切り分けられ、建物に建物が継ぎ足されて、小部屋ごとに酒場だったり売春宿だったりする……そんな空間だ。本来なら、貴族が腰を落ち着けられるような場所ではないのだが、今は非常時。堪えるしかない。


 ほどなく辿り着いたのは、そんなツギハギの建物の一つだった。建物と建物の間に頼りない板が渡されている。その先に入口があるのだが……どう見ても、これはバルコニーだ。その外壁が崩れたのか、崩したのか。とにかく、地上三階くらいの高さのところに、玄関もどきがある。

 そんな場所でも、商売を営む人がいる。椅子に座ってこちらをねめつけているのは、頭に薄汚れたターバンのようなものを巻いた、年老いたサハリア人だった。彼はギロリと白い目を向けると、無言で節くれだった指を突き出した。


 目力ではイフロースも負けてはいない。一睨みして、すっと金貨を滑り込ませる。

 老人は、横柄な態度で腕を振って、中に入るよう促した。


 通された部屋は、狭く、風通しも悪く、おまけに不潔だった。

 面積からして、ピュリスの俺の自室くらいしかない。しかも部屋の形がいびつでもある。おおまかに言えば扇形になっているのだが、どうも天井が一度崩れたらしく、それをボロボロの角材で補強してある。大人の目の高さにある小さな四角い穴は、恐らく窓ではなく、通風孔だろう。そして足元は、踏みつけるたびミシミシと悲鳴をあげる、古びた板切れだった。

 恐らくだが、ここは部屋であって、部屋ではない。本来は、この下の部屋とあわせてやっと一つの空間だったのだろう。この位置にある通風孔からして、きっと厨房だったのだ。


 後から、さっきの老人がやってきた。そして無愛想に桶を放り出す。なんだ、と思ったが、すぐに意味がわかった。なんてこった!

 ここにはトイレもない。だから、用を足すときはこの桶でやれ、というのだ。

 もちろん、それを察したのは俺一人。ちゃんとトイレのある邸宅でしか暮らしたことのないサフィスやエレイアラには、想像もつかない。もちろん、リリアーナにも、ウィムにも、ナギアにもだ。

 この無礼、彼らにとっては虐待にも等しい扱いだが、あえてイフロースは何も言わない。騒ぎ立てれば身分を知られかねないし、こういうわけありの場所でもなければ、まずサフィス達を隠し通せないのだ。


 しかし、ベッドもない。毛布すらない……いや、それはなくてよかった、というべきか。もしこんな空間にそんなものがあったら、きっとダニだらけだ。それにまだ、そんなに寒い季節でもない。六人、イフロースも含めれば七人が雑魚寝するのだ。むしろ暑苦しいくらいだろう。


 これは……耐えられるだろうか?


 基本、出歩けない。そしてここにはプライバシーもない。俺はまだ我慢できるが、ここには女性が三人もいる。排泄の様子まで見られるなんて、冗談じゃないだろう。

 しかも、そんな場所で食事も済まさねばならない。この混乱の中、店を開ける酒場なんかない。あっても、顔を見られるわけにはいかないから、そんなところまでノコノコ出て行くなんてできない。そもそも、まずくて不潔な食料にせよ、あるだけマシだ。この息の詰まる空間で、残飯同然のものをボソボソと齧る他ないのだ。


 しかも、そうまでして生き延びても。

 最悪の場合には、身分も財産も失う。フミール政権が成立したら、どうにかして国外に脱出しなければいけなくなる。できるだろうか?


 エンバイオ家の悪夢は始まったばかりなのかもしれない。

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