第十六章 消えた王冠

心、ここにあらず

 足元の石畳が眩しい。そこに自分の影がくっきり映る。

 大通りを、大勢の人夫が行き来している。みんな頭に白いタオルを巻いているが、どれも汗でぐっしょりと濡れている。だが、休む暇もない。太い木の棒に土砂や石材を吊るして、二人一組で運ぶ。足元には細かな塵が舞い、それを含んだ熱風が、すぐ顔の前に吹き付けられる。


 ピュリス市の改修工事は、夏になってもまだ続いていた。とはいえ、環状道路の建設はほぼ終わっている。残る作業は、街の東側の、あの元売春窟のあった辺りの下水工事と、三叉路の南側にあった市街地の再建設だ。

 やはりというか、石材の不足が問題となっているらしい。何しろ「白亜の街」の異名をとるピュリスだ。イメージは崩したくない。だから道路とか、海から見える範囲とかは、とにかく白で仕上げている。だが、肝心の中心街については、どうしたって白一色では片付きそうにないとのこと。

 住民の立ち退きも難航しているらしい。ガリナ達も、旧悪臭タワーから市内の中心部に引越しすることになる。ただ、その時期がいつになるか。この分だと、来年の春頃になっても、工事が完了しない。一つには予算不足というのもあるのだろう。あれだけ寄付したのに、まだ金が足りないのか。

 まあ、その辺は総督府の連中が考えればいいことだ。


 自宅の重い扉を引き開ける。十日ぶりだ。

 途端に、中のひんやりした空気が漏れ出てくる。


 背後で扉がしまると、それを聞きつけたノーラが、小さな足音をたてて、階段を降りてくる。


「おかえり、ファルス」

「ただいま。何か変わったことは?」

「ないわ」

「屋上の木は」

「元気よ」


 それだけで、俺は階段を登っていく。

 まだ昼過ぎだ。


 居間に踏み込み、そこで靴を脱いで、足を伸ばす。


「お疲れ様」


 ノーラがコップに水を汲んで、持ってきてくれた。


「ありがとう」

「忙しいのね」

「うん、それなんだけど」


 今日は、言い出しにくい話がある。

 だから、その前に……


「これ、どうかな」


 俺は、背負い袋から時計を取り出した。両手で包み込めるくらいの大きさの、立方体の置時計。枠は木製で、四隅の柱は金属。文字盤は陶器だ。女性向けとはいえないかもしれないが、それなりに上品な代物だ。


「時計? いい趣味だと思うけど」


 何しに買ってきたの、と言われそうだ。

 この家には、既に置時計がある。薬品店時代のものだ。なのにどうしてわざわざ、新しいのを買ってきたのか。


「気に入ったなら部屋にでも置いてよ」

「え? う、うん」


 微妙な表情だ。

 少しでも機嫌を取ってから、と思っていたのだが、なかなか難しい。というかまず、プレゼントだという認識がなさそうだ。そもそもノーラは物を欲しがらないから、そんなに簡単にいくとは思ってもいなかったが。


「それで、ノーラ」

「うん」

「来月、なんだけど」

「うん」


 今は紅玉の月の終わり。つまり来月は……


「ごめん。誕生日、お祝いできないかも」

「え? うん」


 拍子抜け、といった具合で、ノーラは首を傾げている。だが、すぐ理解したようだ。


「じゃあ、これ、私に? 贈り物ってこと?」

「そ、そう」

「ありがとう。大事にするわ」


 紫水晶の月にノーラは生まれた。もうすぐ十歳だ。本当は盛大に祝ってやるべきだった。

 俺の人生もそれなりに不幸だが、ノーラの過去も、なかなかに悲惨だ。強姦された母から生まれた加害者の子として、実家でいじめられ続け。唯一、自分を愛してくれた母も、彼女が三歳の時に死に別れて。挙句、奴隷として売り飛ばされ、人生の大半をその身分で過ごした。たった半年前に、ようやく自由民の身分に戻るも、帰る場所などない。

 要するに、ノーラの誕生日をまともに祝ってくれた人など、ろくにいなかった。今も、俺とその周辺を除けばいないはずだ。彼女の記憶に残っているのは、三歳の頃、母が花を摘んできてくれたことくらいなのだ。


「ごめんね」

「ううん。ファルスにはもう、いろいろもらってるもの。それより、お仕事なの?」

「そうなんだ」


 また子爵一家が王都に向かう。去年、出かけていったばかりなのに、だ。


「今の陛下が、王位を殿下に譲られるってことらしくてね。主だった貴族はみんな、王都に呼ばれる」

「大変ね」

「そうだね。もう二十一年も同じ王様が国を治めてたんだし、それが替わるとなったら、やっぱり大事だよ」


 現国王セニリタートの姿は、去年の春、王都の舞踏会で一度だけ遠目に見た。

 舞台の上の玉座に向かうまでの、たった数歩の距離でさえ、まともに歩けずにいたほどだ。あれでは政務などこなせまい。譲位は妥当な判断だと思う。


「じゃあ、どれくらいかかるの?」

「だいたい、行くのに五日くらいかな。で、向こうには一週間もいないと思う。それから帰ってくるから、だいたい二週間、長くて三週間かな」


 前回は一ヶ月くらい滞在したから、それからすれば、本当に行って帰ってくるだけだ。

 王都にいる間は、貴族同士の付き合いもあるのだろうが、そこそこで切り上げられるだろう。なんといっても今回は本当に臨時の召集だ。在位二十周年記念のイベントみたいに、前々から予定されていたものではなく、突然の勅命によるものだから、各地で任務に当たる貴族達としても、休んだ分の穴埋めをできるだけの準備がない。


「いつから?」

「明々後日の朝、出発になる。だから、明後日の夜には、また官邸に戻らないといけなくて」

「だからお休みをもらえたのね」

「まあ、ね」


 そう答えて、俺は窓の外をちらと見る。

 ノーラには俺しかいないのに、俺はあちこちに引っ張り出されて。せっかく帰ってきたら出張か。そう思うと、彼女の顔をまっすぐ見られない。

 自分が嫌になる。どうやら俺は、本気で彼女を気にかけているのではないらしい。ただ、「そうしなければいけない」とは思っている。なんとも薄情でぞんざいな扱いではないか。


 それにしても、随分と景色が変わったものだ。今まで裏通りだったこの路地が、表通りになった。真新しい、広々とした道路が目の前に広がっている。元の路地の半分が歩道で、その向こうに馬車用の幅のある道路ができた。この道は、多少迂回しながら南に向かい、女神神殿の近くの空き地を通って、また三叉路の反対側まで、円を描いて繋がっている。

 ……なんだか、いろいろ変わり過ぎて、気持ちがついていかない感じがする。


「じゃあ、明日は一日、空くの?」

「そうだね。久しぶりに休めるよ。ノーラ、何かやりたいこととか、あるかな」

「ううん、私はいいの。それより、ファルスはしっかり休んだほうがいいと思う」


 気を遣う俺に、ノーラが更に気を遣う。おかしなものだ。

 今の俺は、なんでも「仕事」にしてしまう。


 そう。官邸での「仕事」が終わったら、今度は自宅でノーラの相手という「仕事」をする。マオのところに、ガリナ達のところに顔を出すという「仕事」……


 心の深いところで、誰かが言っている。

 あと半年、あと半年だ。


 金貨六千枚で自由を買う。それはもう、文字通り時間の問題だ。

 俺はもう、一生働かなくていい。自分にとって必要なことだけすればいい。なのに、余計なことに時間をとられている……


「明日、一日……あるのか」


 なら、何か冒険者ギルドで仕事を請けようか、とも考えてしまう。


「ノーラ、何か欲しいものとか、ない?」

「ないけど、どうして?」

「せっかく一日あるなら、ギルドの仕事でも請けて、何か取ってくるくらい、できるから」


 手頃な魔物でもいてくれればいいのだが。

 バッサリ片付けて……


「いらない」

「そう?」

「うん」


 そう言われて、俺は座り直した。

 別に、そこまで魔物退治をやりたいわけでもない。

 ただ、ひたすら「退屈」なのだ。


 何事にも興味が持てない。


「ファルスこそ、何か欲しいものとか、ないの?」


 ノーラに尋ねられて、即座にないと答えそうになるも、しばし考えてみる。


「……寝たい、かな」

「疲れてる? 眠たいの?」

「そうじゃなくって。何も考えずに、ぼーっとしていたい」


 その割に、俺はいつも何かに追い回されるように動き続けている。休みたい、のんびりしたいと思うほどに、かえって仕事が増える。なくても作って働く。何もしていない時間が、もったいなく思われて仕方ないのだ。


「明日、一日休めるよ」

「うーん……」


 休みたいのに、休みたくない。

 有意義な時間を過ごしたいのだ。だが、何をすれば有意義になるのか。出口が塞がれてしまっている気がする。


「今日は、私がご飯、作るね」


 そう言うと、ノーラは立ち上がった。


「とにかく、今日はのんびりして」


 それだけで、彼女は扉を閉じて、去っていく。

 一人になった居間で、俺はぼーっとする。


 部屋の隅の小さな本棚から、俺は一冊、適当に抜き取った。ルークの世界誌だ。

 適当に開いたページは、東方大陸についての記述がなされている箇所だった。


 東方大陸には、こちら西方大陸にはない、不思議なものがいくつか存在するという。その一つが、精霊だ。大陸中央部の山脈や森林地帯において、今でも人々の信仰を集めているという。ただ、その信仰は現在、半ば秘密のものとして扱われている。女神神殿が許容するはずがないからだ。

 しかしそうなると、精霊は魔王なのか、という疑問が生じる。だが歴史上、精霊が何か積極的に活動したという……たとえば人々を集めて王国を築いたり、何かを命令したり、といった事例は一つもない。


 もう一つ、不思議なものが報告されている。屍骸兵と呼ばれるものだ。

 あちらにも迷宮がいくつか存在するらしい。そんなダンジョンの中には、死人を魔物に変える場所があるという。かつて魔王がその地にいた頃、死者はその迷宮に葬られた。魔王に仕える神官達が儀式を行うと、しばらくしてその遺体は魔物に変ずる。いわゆる、スケルトンとか、ゾンビとか言われるような……骨や腐肉だけでできた怪物になった、というのだ。そうして作られた屍骸兵には寿命がなく、生前の記憶と技能を保ったまま、完全に破壊されるまで、魔王に仕え続けたのだとか。


 だが、これはおかしい。あり得ない。俺には証拠がある。

 人は死ぬ。死んだら、あの紫色の空間に送り出される。そして何か別の物に生まれ変わってしまう。

 それが、神官達の儀式一つで、そんなにもお手軽に不死身になれるものだろうか? だが、少なくともこのピュリス周辺では、そういう不死の怪物は発見されたことがない。あくまで伝承とか、お伽話の中に出てくるだけだ。

 第一、ルーク自身、その屍骸兵なるものを直接見たわけではない。だから俺は、この件をただの法螺話だと思っている。


 パラパラとめくるが、すぐ放り出してしまう。中身なら、暗唱できるくらいに覚えている。


 つまらない。


 わかっている。

 ノーラは、俺を休ませようとしている。

 体ではなく、心を。


 だが、肝心の俺自身には、もう、わからない。

 こうしてじっとしていると、何かこう、とろ火のフライパンの上にいるような気がする。何か意味のあることをし続けていないと、時間を無駄にしているようにしか思えない。


 体を横たえて、天井を見上げる。


 俺は何を望んでいる?

 安楽だ。それはすぐに手に入る。だが、その後に待っているものは、死だ。

 のんびりと何の意味もない時間を過ごした後、死ぬ。

 死ねば、安楽は消え去る。また、苦難の続く恐ろしい人生が始まる。


 俺は「意味」を求めている……?


 掴みどころのない思考に、生産性はない。頭の中を切り替える。

 ノーラにはああ言ったが、今回の王都出張は、多少の緊張を伴うものだ。


 王位継承を決めるために貴族達を招集する、ということだが、これは少し違和感のある話だ。なぜなら、既にセニリタートは立太子を済ませている。第一王子のフミールではなく、タンディラールを後継者にすると宣言しているのだ。


 通常、王は死ぬまで王位を手放さない。彼のように、健康を損ない、余命いくばくもない身の上になってもだ。なぜか。それが最後に残る、唯一の財産だからだ。後継者を決める権利は、死ぬまで王に残留する。いくら太子を決めたからといって、後から王がそれを変更するのは自由なのだ。

 そして、この強力な決定権があること自体が、セニリタートにとっての保険になっている。もはや身動きすらままならず、実権を奪われつつあるとしても、太子が正式な王位継承を望むなら、彼をないがしろにはできない。

 正式な継承というのは、案外重要な点だ。簒奪者になっては権威に欠ける。それでも十分な権力があるうちはいいが、何かタイミングの悪い時に、政敵に口実を与えてしまう。


 なのに、セニリタートはわざわざ生前に譲位し、戴冠式を執り行うとした。

 彼の中で、太子派と長子派の対立が、無視できないものになっている証拠だ。自らを危険にさらしてでも、なんとか王位継承という難所を切り抜けたい。それくらいの切迫感があるのだ。


 ただ、そうはいっても、セニリタートは王者だ。表向き、彼の命令に逆らえる人間はいない。

 だから、たとえば長子派が武力で何かをしでかすとは考えにくい。彼が在位中に何らかの行動を起こせば、それは謀反だ。その他のすべての貴族が逆賊討伐にまわるだろう。

 また、彼が正式に王位を譲り、貴族達がそれに対して投票権を行使したならば、その後に誰かが何かをするなど、できるはずもない。もし異議を唱えたなら、それはもう反逆罪になってしまう。


 貴族達にできるのは、投票権をちらつかせて、王家に圧力をかけることくらいなのだ。それも、どこまで現実味があるか。

 フォンケーノ侯やスード伯みたいな大貴族が、隣国のシモールの王を正式なフォレスティア王と認める、とか言い出せば大事件にもなる。もしそんなことがあれば、国境線自体が変わってしまう。ただ、彼らがそんなことを望む可能性は低い。もしゴーファトがそんな真似をしたら、まさに彼の領地が主戦場になる。


 つまり、今から二週間後にはタンディラールが王位に就き、権力の移譲が済む。その間だけ、セニリタートがなんとか頑張れば、全部解決する。ピュリスで起きたような、わけのわからない権力闘争も、さすがに王都でやらかすわけにはいかないのだ。

 常識的に考えて、一番注意すべきは暗殺だ。特に、毒物の混入など、犯行が明らかになりにくい形のものを警戒すべきだろう。そしてこの点、サフィスは恵まれている。要人警護に長けたイフロースに守られ、厨房をがっちりガードするセーン料理長に守られ、ついでに不本意ながらも精神操作魔術で敵意を検出できる俺にも守られているのだから。


 ただ……


 今までの記憶と経験が、俺に不安を抱かせる。

 サフィスの敵は、まだ誰も目的を達成していない。倒されもしていない。

 なのに、このまま、何事もなく終わってくれるだろうか?


 俺は起き上がり、階段を登った。

 自室の扉を開け、ベッドの下を検める。


 宝箱が一つ。

 金貨がおよそ八千枚ほど入っている。そのうち六千枚は、きっちり数えて別の袋に包んである。借金の返済に充てるためだ。残り二千枚も、全部持ち運んだら、だいたい十キロ以上になるから、そのままでは運べない。もし携えていくなら、いくらかは宝石に変えるとかしないといけないだろう。


 それと、身体強化薬だ。残りたったの三粒。ジュサ相手に試合をしたり、フリュミーさんに書類を届けたり、キース達からリリアーナを救出したり、海賊と戦ったり、クローマーとチンピラどもに取り囲まれたり、グルービーの塔に閉じ込められたり……六回も使った。たった三、四年の間に、よくもまぁ、これだけいろいろあったものだ。


 宝石類もここだ。といっても、グルービーの財宝ではなく、個人的にもらったものが置いてある。ミルークのアクアマリンと銀の指輪、グルービーのアメジスト、それにイフロースのくれたオニキス。


 バクシアの種も、普段はここに納めてある。いざ、火事にでもなったら、他の物は諦めても、これだけは持ち出さなければいけない。

 あとは小さな辞書がいくつか。サハリア語、ルイン語、シュライ語、ハンファン語……グルービーがこれらの言語に通じていたおかげで、あとは少しの学習と辞書があれば、すぐ話せるようになる。ついでに、クレーヴェがくれた火魔術の秘伝書の要点を書き写したノートも一緒にしてある。どこかで火魔術のスキルを奪う機会があれば、触媒には困らないので、すぐ実用になるためだ。なお、原本は地下二階に保管してある。


 その箱の裏側に、一振りの剣がある。キースからもらったものは、これまた地下室だ。あれは長すぎ、重すぎで、今の俺には使いづらい。だから、グルービーのお宝の中から、短めのミスリルの剣を選び出した。

 それと、保存食に着替えその他、生活に必要な雑貨が……アイビィからもらった革袋の中に入れてある。


 準備万端だ。

 俺は明日にでも、旅に出られる。

 遠く離れた目的地のことを思う時だけ、俺は自由になれる気がした。


 ……ただ、当面の行き先は、王都でしかないのだが。

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