色褪せた世界
「ファルス? まだ起きてるの?」
「ノーラは寝てて。僕は、もうすぐ出かける」
三階から、ノーラが降りてきた。振り返ってそう言ったが、彼女は上の階に戻ると、すぐ着替えて戻ってきた。
「ノーラ」
「何かあったのね。私も行く」
「あまりいいことじゃない。安全かどうかもわからないから」
「だったら絶対行く」
そうだった。「危険かも」なんて言ったら、余計についてくる。「遊びに行く」「お嬢様に誘われた」とかなら、黙って居残ってくれるのだろうが。こうなったら、何を言っても無駄だ。
それより……考えろ。
シータは、うまく逃げ延びようとしている。誰かはわからないが、恐らく密輸商人らしき人物に、エンバイオ薬品店の印章が押された書類を手渡した。それと引き換えに、分け前と自由をもらおうとしているのだ。
だが、その計画には、一つだけ穴がある。
玄関の鉄の扉を、ガンガンと叩く音。
待っていた。
「ごめん、こんな時間に」
「来ると思ってた。シータを探そう」
エディマとディー、ノーラを連れて、俺は外に出た。
俺は気付いたことを手短に伝える。
「エンバイオ薬品店の印章を、勝手に使った形跡がある」
「えっ!?」
「シータがやったのだとしたら……」
「そんな! なんでそんなこと!」
取り乱したエディマが喚きたてる。
「落ち着いて。怒ってるんじゃない。僕が心配しているのは……」
工事中の大通りに出た。ここから東だ。既に商船の中にいるか、さもなければ倉庫か。或いは、最悪の場合には、海の底、か。
「シータが殺される可能性もある」
「どうして?」
「店の印章を使ったってことは、何かを密輸したいからなんだ。でも、取引は済んだ。売るか買うか、とにかくやることはやった。品物は、正規のルートでやり取りされた後なんだ。ということは……」
俺の横を歩くノーラが、ぽつりと言った。
「もう、用済みね」
「そういうことだ」
密輸の事実を知り、役目を終えたシータは、そいつにとってお荷物でしかない。何をどう取引したかにもよるが、ことと次第によっては、殺してしまったほうがいい場合もある。
もっとも、死体を発見されるのもまずい。だから、出発前夜に「連れ出す約束だから」と呼び出して、こっそり始末する? 重石をつけて沈めておけば、明日の昼に出航するなら、とりあえずは発見されずに済む。或いはこの場では殺さず、海外に運ぶ?
いや、シータの立場で考えろ。彼女は、自分が殺されないで済むために、そしてちゃんと謝礼を受け取れるようにするために、何か保険をかけておくはずだ。
まず、金に関しては、方法がある。
自分宛の報酬を、荷物として他の船に積ませるのだ。その引換証と交換で、俺の印章を押した書類を渡す。先払いさせたのだから、こちらはもう、問題ない。
問題は自分の体だ。これは、どうしたって共犯者に運ばせるしかない。犯罪奴隷を勝手に連れ出すなんていう、リスクの高い仕事を、誰が引き受けてくれるというのか。
これも、対策がまったくないわけではない。たとえば、さっきのシータの荷物、この中に、彼らが求める物品を紛れ込ませておくのだ。そして引換証はシータ自身の手に残す。するとどうなるか。
現地にシータが到着できないと、荷物の引き換えもできないから、連中は取引の結果、得たお宝を断念することになる。そこで晴れてシータから引き渡してもらって、晴れて密輸は完了、となる。
もっとも、そんな取引に相手が応じてくれるかどうかは別問題だ。もっとシンプルに、色仕掛けで話をまとめた可能性もある。
「最悪の場合でも、証拠が残っているのは、シータだけなんだ。つまり、バレそうだと悟られたら、トカゲの尻尾みたいに切られる」
書類の偽造も、密輸も、一人でやったこと。
当局にバレた場合、そういう話になる可能性もある。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「誰かに見つかる前に、先にシータを確保する。じゃないと」
そうしないと、俺も罰金刑だ。管理下の犯罪奴隷の不始末。当然、シータも没収される。彼女は再度裁判にかけられ、罪の重さに応じて、死刑か、また犯罪奴隷になるかが決まる。ただ、その場合でも、もう競売にかけられはしない。国有の奴隷として、鉱山などの慰安所で、死ぬまで働かされる。
俺は、何のために彼女を探しているのだろう? だんだんわからなくなってきた。
自分への罰金刑を避けるためなのか。それとも、彼女の幸せを願っている? 恐らく、かなりの確率で俺を裏切っているのに?
俺の推測も、どこまで正確かはわからない。
ここまでの考察も、シータが最大限、自身の安全を確保しようと策を練った場合を想定してのものだ。しかし、人はしばしば見落としや思い込みによって、誤った判断を下す。
波止場に着いた。
周囲は真っ暗だ。空には月も見えない。星明かりだけが頼りだ。
ふと、振り返ると、ばらばらと足音が響いてきた。ガリナ達だ。
脱走するなら、船を使う。ここまでの結論には、自然と彼女らも辿り着いたらしい。となれば、探すのはここ、波止場となる。
「大変なことになったね」
「おう、ファルス、すまねぇ」
「いいよ。それより、早く見つけないと」
とはいえ、だ。
俺達はただの市民と奴隷だ。
波止場を歩き回るのは自由だが、倉庫の中にも、船の中にも、立ち入れない。港湾の責任者に事情を説明すれば別だが、そうなるとこの一件が表沙汰になる。
「でも、どこを探せばいいの?」
ディーが、途方に暮れて周囲を見回す。
倉庫はどこも施錠されている。船の周りにも、それぞれ港湾関係者が見張りについている。ムスタムと同じだ。船員達から給与を受け取って、船と積荷を守っているのだ。
少し強引にやれば、鍵も人も排除はできる。
しかし、その前に、更に考えねばならない。
シータが港から出るには、「何か」に紛れる必要がある。だが、それが何なのかが問題だ。
例えば、木箱の中に詰め込んでもらうとか……これは最初に思いつくやり口だが、果たしてそんな手段を取ったか、となると、まだ何ともいえない。
彼女の身柄を箱の中に詰める場合、実行犯は、船の中で高い地位にいるか、または船全体が密輸に関わっているか、どちらかでなければいけない。なぜか?
「ねぇ、ディー」
「え、なに?」
「シータがいなくなったのって、いつ頃かな」
「えっ……昼過ぎに一回、接客してたから、多分、夕方まではいたんじゃないかな」
シータの不在が明らかになったのは、夕方だ。出航前の夜は、それこそムスタムでのメック達を思い出せばわかる通り、普通はリラクゼーションタイムになる。昼過ぎには準備を済ませているものなのだ。そんな中、「後から箱に詰めてもらう」のは目立つ。
もしかしたらその前に、既に身を隠していたのかもしれないが、その場合、シータ入りの箱は、船倉の奥にしまいこまれる可能性がある。するとどうなるか?
この世界、前世と違ってフォークリフトなんかないから、貨物は人が運んで収納する。つまり、箱の大きさ、重さにも自ずと制限がある。要するに、シータは狭い木箱の奥に埋もれたまま、食料や水も得られず、排泄物の始末もできない状態で閉じ込められることになる。行き先がムスタムなら、一週間は缶詰だ。いくらなんでも、そんなひどい計画を立てるだろうか?
こうした問題点を解決するには、船ぐるみの協力が不可欠となる。実行犯は船長か、少なくとも上位の航海士で、多少の無理を通せる立場でなければならない。シータの木箱をこっそり積み込み、しかもなるべく外側において、飲食物を与える。それができる人物、または環境がなければいけないのだ。
だが……
それは変だ。
大規模な密輸商人は、二年前に一斉摘発されている。クローマーの事件の時だ。あれから港湾の監視が厳しくなった。元はといえばサフィスが保身のため……それまで密輸なんかほったらかしにしておいたのに、それを糊塗するために取った措置だが、とにかく、これは有効に機能している。
少なくとも、船ぐるみでそんな悪事に手を染めるような商人が、いまだに生き残っているとは、少し考えにくいのだ。第一、そういう連中がまだいるとしても、そいつらはとっくに独自のルートを構築しているはずではないか。何もリスクを冒してまで、エンバイオ薬品店の印章を持ち出すなんて、そんな幼稚な真似はしないだろう。
ということは、そいつは多分、「個人」だ。
何かうまい話があるから、こっそり取引をしたい。だがそれはピュリスでは法令に引っかかる品物だ。だから、内容を偽装してくれる業者が欲しい。
そうだ。そもそも、うちの印章を欲しがったのはなぜだ? 取引したのは、薬品だ。薬となると、かなり絞り込まれる。薬学の先進国はサハリア、特にワディラム王国だ。ということは、そいつは、法に触れる高価な薬剤……麻薬か、毒薬かを、少量だけ持ち込んだのだ。
個人でも、取引ができないわけじゃない。メックの船がそうだった。子爵家としての商材も詰め込んでいたが、個々人の商売も許していた。或いは、単に行き先だけを決めた航海というのもある。「航路と寄港地だけ決める」という寄り合い所帯、中に乗り込む船乗り全員が個人事業主の商売人、というケースだ。この場合、誰が何を取引するかなんて、誰も関知しない。
……暗い夜空に、無数の商船のマストがうっすらと影を作る。
その下では、ランタンを手に、夜通し船を監視する警備員達が立っている。これまたムスタムにもいた連中だ。港湾の利権にしがみつく、一種のヤクザ。海竜兵団や市内の警備兵が「外から来る誰か」から街を守るのに対し、こいつらは「街から来る誰か」から、船を守っている。
ピュリスにはいつも商船が押し寄せる。その商船の監視と警備は、常に稼ぎを生み出す。こういう現場に徹夜で突っ立っているのは組織の下っ端で、大抵は食い詰め者のチンピラだ。一方、元締めは今頃、高級住宅地で惰眠を貪っている。口利き一つで、あとは何もしないが、儲けならたんまりある。前世でいうところの、派遣会社みたいなものだ。
つまり、末端の人間には、実はさほどの責任感もない……
「そうか」
見えた。
「何か、わかったの?」
ノーラが俺の顔を覗き込む。
「シータが近くにいる。しかも……こちらに気付いている」
「えっ!?」
なかなかよく考えたものだ。
寄り合い所帯の商船なら、木箱の二つや三つは自由にできる。そして、大き目の箱であれば、人一人が隠れるくらいはできる。問題は、いつ積むか。それだけだ。
日中に積んでしまうと、どこに収納されるかわからない。かといって、夕方以降に積み込もうとすると、そこには、見ての通り、港湾ヤクザの警備員がいるし、目立ってしまう。
なら、積まなければいいのだ。……中で「組み立てれば」いい。
「みんな、慌てずに、目を合わせずに……ゆっくり近付こう」
「う、うん」
俺は、船の一つに向かって、ゆっくりと歩き出す。その後ろを、みんながついてくる。
その船のタラップの上に、男が一人。その奥にもう一人。それぞれ頭には頭巾を巻き、棒を右手に、ランタンを左手に持っている。
「おい」
木の板に足を乗せると、日焼けした警備員の男が、持っている棒を足元にドンと叩き付けて威嚇してくる。
「済みませんが、通してください」
「関係者以外、立ち入り禁止だ」
「でも、後ろを見てくださいよ」
「あ?」
そのまま、そいつは仰向けに倒れこんだ。『誘眠』の呪文の一部を呟いただけで、あっさり昏倒したのだ。
この状況に、もう一人の警備員は、叫び声すらあげなかった。奥のほうでただ立ち尽くすのみだ。
「よく考えたね」
近付きながら、俺は声をかける。
彼……いや、彼女は、ようやく振り返った。
「やっぱりバケモノだね、あんたは」
「シータ!」
ガリナがカッとなって叫ぶ。だが、それを隣にいたリーアが抑える。
そうだ。ここで騒ぐと、大変なことになる。脱走未遂でも、発覚すれば、ただでは済まない。
俺は、静かに尋ねた。
「どうしてこんなことを?」
「あんた、バカかい? 決まってるじゃないか」
せせら笑いながら、シータは答えた。
「自由になりたい。犯罪奴隷なら、誰だって思うことさ」
「僕は、可能な限り、自由を与えてきたつもりだ」
「与えてきた! 自由を、与えた! その言い草がムカつくんだよ!」
いつもの、あの攻撃性を感じさせる目を、俺に向けてきた。
「いいかい、自由ってのは、誰かにもらうもんじゃない。最初っから、あたしはあたしのもんさ。誰にも好きになんてさせやしない」
それは道理だ。少なくとも、現代日本から生まれ変わった俺にとっては、理解できる考え方だ。但し。
彼女は「犯罪奴隷」だ。罪を犯したから、不自由を強いられている。
「今、不自由なのは、犯罪に手を染めたからじゃないのか、シータ」
「ちょっと人を騙したくらいで、犯罪奴隷かい? ひどいもんだね」
「ちょっと、って……僕は、シータが何をしたのかは知らないけど」
「そう、あんたは知りもしない」
彼女の目に憎悪の炎が点る。
「普通、人を騙したくらいじゃ、ここまで重い刑罰は食らわないんだよ。それがどうしてこうなったんだと思う?」
「理由があるとでも?」
「貴族の使用人をだまくらかしてやったのさ」
なるほど。
同じ犯罪でも、権力者に対してやるのと、そうでないのとでは、大きな違いがある。
「あたしは王都でも貧しい、流民街の出身でね」
思い出す。あの黄土色の家々を。
最近は、また新規の流民も多く居住するようになったが、その前から、あの辺りはずっと貧しかった。
「こんなんでも、昔は普通の女だったんだよ。美人で気のいい姉貴もいてさ。けど、借金のカタに、連れてかれちまった」
「お姉さんが? 借金で?」
「タダの借金じゃない。要するに、ハメられたんだ。知ってるか? 王都の貴族の中には、隠れて女達を売り物にしてるクズがいやがるんだ。で、そういう連中は、自分の手下を使って、あたしらみたいな貧乏人を引っかける。三年くらい、薬漬けにしながら売春させて、ボロボロになったら放り出すんだ」
「放り出す? じゃ、家には戻れたの?」
「帰ってきたよ。姉貴も。別人みたいにガリガリになってて、もう、ろくに話せもしない。すぐにイカレて、死んじまったよ」
なんという。
女奴隷をきっちり仕上げて売り物にするグルービーが善人に見えてくる非道っぷりだ。
「だから、仕返ししてやったんだ。その貴族の手下を騙して……店の利益をごっそり奪い取って。もちろん、バレたさ。けど、取り返される前に、奪った金は全部、川に捨ててやったけどね! ハッハハ!」
そういうことか。
その貴族とやらも、随分と腹を立てたに違いない。
「でも、そんなことをしたら、先がなくなるって、わかってたんじゃないの?」
「先? そんなもん、最初からねぇだろ、あたしらみたいな貧乏人には」
確かに、言う通りだ。
「死んだって構わなかった。一矢報いてやったんだ。あとはどうとでもなれ……クソの中で死んでいくのも、まぁ、一興だった。それが」
彼女は、俺を睨みつける。
「どういうわけか、助かっちまった。それも、貴族の使用人なんざに救われるたぁな」
俺はよかれと思ったこと。だが、彼女にしてみれば。
もちろん、俺は彼女の姉を破滅させた貴族とは何の関係もない。だが、シータにとっては、どちらも同じような存在に見えたのだろう。
「な? 笑えるだろ? 姉貴が貴族の使用人に騙されて、散々体売って、くたばってさ。せっかく仕返ししてやったのに、気付いたらあたしまで、貴族の下僕の持ち物になって、やっぱり男のモノくわえ込んでるんだぜ? なぁ?」
「で、でも! 僕は、なるべく自由にした。お金も全部、自分のものにしていいって言ったじゃないか」
「そうだねぇ。あんたは、慈悲深くて、本当にいい主人だったよ……」
俺は、そのクソ貴族どもとは違う。
なのに、どうして?
「……だから、余計にムカついたんだよ!」
鬼の形相になって、彼女はそう叫んだ。
「な、なんで」
「じゃあ、あんた、これからもずっと、あんたのお情けに縋って生きていけってのかい? あたしはあたしなのに! 貴族の下僕の言いなりになり続けろって、そう言うのかい!」
ああ、これはもう、どうしようもない。
俺が善人か、悪人かなんて、関係ない。シータには、どうにも我慢できなかったのだ。体を売ることも、貴族の使用人の所有物でいることも。
俺が寛容になればなるほど、そのまま彼女には屈辱となった。どんなに惨めでも、苦しくても、貧乏でもいい。たとえ死のうとも。だけど、貴族の下で体を売る。それだけは許せなかった。
「でも、シータ、それは過去だ」
無駄だとは思う。
それでも、一応、説得はする。
「今ならまだ、やり直せる。幸い、まだ港の警備兵も、シータのことには気付いてない。あとは共犯者の商人を僕らが捕まえて……なんとか丸く収めるから」
「共犯者なら、そいつだぜ」
棒の先で指し示す。
そこには、さっき魔法で眠らせた男がいた。
「夜中の見張りなんざ、誰もやりたがらねぇからな。ちょっと金出しゃ、すぐ替わってくれたよ。で、夜明け前にあたしは木箱の中。一週間くらい窮屈な思いをしながらエサをもらって、晴れてムスタムへ! 外国に出ちまえば、犯罪奴隷もへったくれもないからね」
なら、関係者はこれで揃ったことになる。
あとは取引の内容だ。
「それで、ピュリスでは何を取引したの? 薬だと思うけど」
「ワディラム王国で買った毒薬さ。証拠がほとんど残らないんだとかな。いい品物だと思わないかい? あんな高いもの、平民を殺すにゃ、もったいないよ。クソ貴族どもが殺しあうのに使うんだ。最高じゃないか!」
「それは今、どこに」
「知らないよ。もうとっくに街を出てる。きっと行き先は王都さ。関係ないだろ? もう」
行きの船で毒薬を運び、帰りの船でシータを運ぶ、か。
毒薬の行き先はともかく、これでこの計画の全貌は把握できた。
「わかった。この件は、僕がなんとかするから」
「へぇ?」
いかにも面白い、といった皮肉のこもった笑みを浮かべて、シータは言った。
「じゃ、全部なかったことにしてくれるんだ」
「その……つもりだ」
すると、彼女はニヤリと笑い、持っていたランタンを放り出した。両手で棒を握り直すと、いきなりそれで、船体を叩き始めたのだ。
「不審者だ! 早く集まれ! 不審者がいるぞ!」
俺は耳を疑った。
シータが自分から騒ぎ出した。木の棒で壁を叩き、床を叩いて、周囲の警備員を掻き集めている!?
「シータ! やめろ!」
「早く集まれぇ! ボンクラどもぉ!」
何を!?
「よせ! そんなことをしたら」
「あたしの勝手だろ?」
もう遅い。
後ろから、ばらばらと足音が迫ってくる。数人の警備員が棒を手に、駆けつけてきた。ついでに、港湾の守備兵も。慌しくタラップを渡り、俺達を取り巻く。
しばらくは、彼らが呼吸を整える彼らの息遣いだけが聞こえた。
シータは、自分の頭巾に手をかけ、すっと引っ張った。
途端にショートヘアが広がる。
「不審者は……あたしだ」
……東の空が、白み始めていた。
ひいては寄せる波が、慰めのように優しく歌う。夜明けの橙色の光に、居並ぶ船のマストが、長い影を落とす。気の早い海鳥達が、頭上を舞いつつ、たまに呟く。
誰も何も言わなかった。
やってきた兵士達は、シータと、共犯の男を縛り上げ、立たせた。
死刑にはならないだろう。だがこれで、シータは二度目の犯罪奴隷となる。今度こそ、外へは出られない。国営の鉱山の横で、死ぬまで働かされる。それで終わりだ。
こんな生き方、死に方しかなかったのか。
目の前を、彼女と男が連れられていく。俺は顔をあげた。
「あばよ」
やけっぱちな笑みを浮かべたシータが、そう声をかけてきた。
「どうして、こんな」
俺の言葉を、彼女は鼻で笑った。
「夢から覚めな、坊や」
それだけで、彼女は背を向け、去っていった。
兵士達が去った後も、俺達は波止場に立ち尽くしていた。
ただ呆然と、シータが去っていったあとを見つめていた。
「ファルス、すまねぇ」
がっくりと膝をついたまま、ガリナは涙を流しながら、やっとそう言った。
ノーラが俺の手を取る。
「私がいる。私が、傍にいるから」
彼女も、そう言ってくれる。
だが、俺の耳には入っていなかった。
夢、か。
そうだったのかもしれない。
はじめ、この街に来た時には、さすがに美しいと思った。どこを見ても、白、白、白一色。建物が立ち並ぶ丘も、美術品のような神殿も。
いいことばかりではなかった。官邸での生活は息苦しかったし、人間関係にも、いつも苦労した。
それでも。少しずつ、前に進んでいると思っていた。一年前の俺は、確かに人間だった。人間らしく生きられると、そう思ったのだ。
今、俺の視界に映るこの街は、どうだろう。
真っ白な街だと思ったのに、よく見るとあちこち煤で汚れたみたいになっている。これでは白い街とは言えない。黒とも灰色ともいえない。その他の色でもない。ただ、薄汚れているだけ。夜のうちには気付けなかったものを、夜明けの光がすべて剥き出しにした。
何も変わっていなかった。
積み上げたと思ったものは、ただの砂の山だった。
美しい街も、実はただの瓦礫の塊だったのだ。
これが、結論なのだ。
なぜか腑に落ちる感じがした。
だからこそ、俺は……
この世界に生まれてこなければならなかったのだと。
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