祝いの一皿

 日差しが居間に差し込む。その床の上に、俺はだらしなく寝転ぶ。


 やっと翡翠の月だ。あとちょっとで俺の誕生日になる。それでめでたく九歳だ。

 ……たった九年間の人生なのに、どうしてこんなに疲れているんだろう? 自分で自分に問いかけたくなる。


 きっと、いいことが見つけられないからだ。特に最近は、気が滅入るようなことばかりが立て続けに起きた。


「お休み中?」


 扉から顔を出したノーラが、そう尋ねてくる。


「ん? あ、いや、そうだね。もうご飯の時間だ。作らないと」

「たまには私が作る」


 そう言ってくれるのは嬉しいが、ノーラの料理スキルを見る限り、味には期待できない。

 だからといって、俺がやるばかりでは、上達もしないか……いや、待てよ?


「よっ、と」


 俺は上半身を起こし、彼女に言う。


「じゃ、料理の基本を教えるよ」

「基本?」


 俺がいなくなってもいいように。彼女にも、財産を残しておいてやろう。

 美人なだけで、何の特技もない女なんて。ましてや、彼女みたいに不器用な人は、絶対に苦労する。


「ついてきて」


 立ち上がり、靴を突っかけながら、俺は隣のキッチンに向かう。


「料理にはコツがあるんだ、ノーラ」


 俺はフライパンをもてあそびながら、彼女にそう言う。


「これは……昔々のお話、なんだけど」

「うん」


 本当は前世のお話だが、そこは言えないので、ごまかす。


「王様と貴族が治める国があったんだ。でも、大きな事件があって、偉い人達がみんないなくなっちゃった」

「え? うん」


 そんな歴史、この世界にあったっけ? と戸惑いながらも、彼女は話を聞いている。

 フランス革命の話なんか、してもわからないだろう。


「困ったのは料理人達だ。仕事がなくなっちゃったわけだからね。今までは貴族のご馳走を作っていたのに、これからはそんなお得意様はいない。で、考えたんだ。貴族がいないなら、庶民に食べてもらえばいいんだって」

「ふうん……でも、無理じゃない?」

「うん、どうして?」

「普通の人は、貴族みたいにお金持ちじゃないもの」

「そう、そこだ」


 俺は竈に火を入れ、フライパンをかける。

 そこに小麦粉とバターを置いて、じっくり溶かし始めた。


「それまで料理人達は、なんでもさせてもらえたんだ。おいしいものを作るためなら、どんなにお金をかけてもよかった。けど、庶民に食べてもらうなら、それではいけない。だからといって、味を落としたら話にならない。じゃあ、どうするか」


 火加減が重要だ。弱火で。焦がさないように気をつける。


「おいしい料理を一気にたくさん作る仕組みを考えたんだ。つまり……いろんな料理の基本になる味付けを、まず、用意することにした」

「それがさっき言ってた基本なのね」

「そう……ここでもう、温めるのはいったんやめて牛乳を入れる。冷えてるのをね。で、よく混ぜる……」


 均質なソースを作らなくてはいけない。作業は丁寧に。これが本当の基本というやつだ。


「安く、簡単に、おいしく。そういう技術が生まれたんだよ」

「へぇ」

「さ、今度は火加減をちょっと強くして……ああ、香り付けにこれを使おうか」

「手間がかかるのね」

「そうだよ。でも、だからおいしく食べてもらえるんだ」


 今日はグラタンにしよう。それがいい。


「豪勢な料理っていうと、昔はたくさんのお皿を並べて、なんでも食べ放題にするのがいいって思われていたみたいなんだけど」

「え? 違うの?」


 そういえば、こっちの世界でも、それが常識だったっけ。

 グルービーも、俺やカーンを歓待する時、食べきれないほどの皿を出してきた。メイド達の手際がよかったから目立たなかったが、食べ残しや冷めてしまった皿が、かなり出てしまっていたんじゃないだろうか。多分、賞味期限切れの料理は、そっと取り替えられていた。まったく贅沢そのものだ。


「そういうのは、問題だらけなんだ。とある王様は、三百人も料理人を抱えて、数え切れないくらいのお皿から、気分で好きなものを食べたっていうけど、そしたらほとんど残っちゃうよね」

「もったいない」


 バイト先のフランス料理店で、この逸話を聞かされた時には、本当に呆れたものだった。贅沢だからじゃない。ちっとも羨ましくなかったからだ。


「それだけじゃない。一度に並べるもんだから、どんどん冷めちゃうでしょ? ただでさえ、王様が食べるために毒見をしたり、遠くから運んだり……ね? 食べる人も、作る人も、どっちも幸せじゃない」

「確かにそうね」

「それに料理って、味が合う、合わないってことがあるんだ。値段の高いものばかり並べても、おいしくなるとは限らない。チグハグなものをデタラメな順番で食べさせられたって、少しもいいことなんかない。食べ始めはどんな状態で、あれを食べたらこんな気分で、最後はこんな風に締めくくりたい……最初から最後まで、繋がっているべきものなんだ」

「難しいのね」


 すぐにわかったり、できたりしたら、天才だ。

 じっくり考えて、何度もやり直して、やっとちゃんとこなせるようになる。


「結果、庶民のために安く作ろうとして、却ってよりおいしい料理が生まれることになったんだ」

「ふうん」

「こういうのは、自分で何度もやってみて、コツを掴むんだ。この、今作ってるソースも、材料の割合をちょっとずつ変えることで、味わいがやっぱり少しずつ変わるんだ。同じソースでも、料理によってはニュアンスを変えたいこともあると思うから、いろいろ試してみるといい」

「う、うん」

「逆に、一つ覚えて使いこなせるようになったら、いろんなものに応用できるんだよ」


 そう話しながら調理を進めていると、階下でドアを叩く音が聞こえた。


「ファルス」

「う、今、手が離せない」

「じゃ、私が行くね」


 ややあって、下から女達の声が聞こえてくる。軽やかな足音と共に姿を見せたのは、エディマとディーだった。


「やっほー! あ、お料理中?」

「こんにちは。食べてく?」

「うん! やったー!」


 やけにテンションの高いエディマがぶんぶんと手を振る。でも、悪いけど、フライパンから目を離せない。


 しばらく後、俺達は居間でそれぞれの皿を前に座っていた。


「ねぇ、ファルス君」

「なぁに、ディー」

「ファルス君って、よくこんなにいろいろな料理を思いつくよね?」


 思いついているわけじゃない。

 知っているだけだ。

 それも、体に染み付くくらい、繰り返した結果でしかない。


「そういえば、最近忙しくて、本当に顔、出してないね、ごめん」

「そうだよー! 全然、顔見に来てくれないじゃん! ひどい!」


 エディマが大袈裟に腕を振りながら抗議する。


「みんな、どう? 何か、変わったこととか、あった?」

「んー」


 唇に指を当てて、ディーがじっと考え込む。


「売り上げは戻ってきたかなぁ」

「それはよかったね」

「うん、でも、また」


 そこで彼女が表情を曇らせる。


「何かあったの?」

「えっ? うんとね、悪いことばっかりじゃないんだけど……」


 ディーのあとを引き継いで、エディマが答えた。


「まーたガリナとシータがケンカしてさ」

「え? また?」

「シータが、無断外泊したんだけど」

「城壁の外、とかじゃないよね?」

「ううん、市内」

「ならいいんだけど」


 ほっと胸を撫で下ろす。

 違法でないなら、好きにすればいい。


「最近、シータが仕事、サボりがちなのもあってさ」

「ん? 無断外泊なのに、仕事じゃない? お得意様じゃなくて?」


 俺の疑問に、ディーがニヤニヤしながら答えてくれた。


「カ・レ・シ! 恋人できたんだってさ! ビックリでしょ?」

「ええっ!?」


 思わず席を立ちかけた。

 あのシータに彼氏? 恋人が?


「それ、本当?」

「フィルシャが言ってたよ」

「そうなんだ」


 女性というのは、ある意味、とても正直な生き物だ。

 好きな人ができると、他の男がイヤでたまらなくなる。そういう意味では、仕事に身が入らないというのも、健全ではある。


 だが、エディマが苦笑いしながら、現実を告げる。


「でもさー、そういうのって、大抵、私ら、捨てられる側なんだよねー」

「ねー」


 徒花、か。

 所詮は犯罪奴隷、所詮は売春婦。

 立場が弱いと、男も大事にはしてくれない、か。


「で、でも」


 とはいえ、だ。

 これはいい機会なんじゃないか?


「それって、かなりいいことなんじゃない?」

「でしょ! ファルス君ならそう言うと思った!」


 前のめりになるエディマが、人差し指をぐっと向けてくる。


「いや、僕としては、ほら、もともと利益とか、得てないわけじゃない? こう、本当に好きになって、大事にしてくれる人がいるんだったら、譲渡の手続き、するよ?」


 暗い出来事ばかりが続いた数ヶ月だったが、久しぶりにいいニュースだ。

 ずっと体を売り続ける人生なんかじゃ、確かに夢も希望もない。だけど、是非妻にと望む男性が現れたら? これこそハッピーエンド、目指すべき究極のゴールじゃないか。

 女性の幸せが即ち結婚だなんて、短絡的に考えられるものではないのは百も承知だ。それでも、抱えている犯罪奴隷が、みんなこういう形でいなくなってくれれば、もう何も言うことはない。


「え? いいの?」

「もちろん! いやー、よかった! うん、そういうことなら、応援するよ。みんなも、どんどんいい人見つけちゃってさ、せっかくなんだし、幸せになって欲しいな」

「えー、私、ファルス君のメイドがいいー」

「エディマ、それはちょっとね、うん」

「やだやだー」

「はいはい、ゴネない」


 よかった。

 なんだ、みんな、ちゃんと前にも進んでるじゃないか。


「よーし、ノーラ」

「えっ、なに?」

「さっき作ったホワイトソース、もう一回、作ろうか」

「うん」

「ねぇ、エディマ、今夜、差し入れするよ。お祝いしなきゃね」


 これはいい。

 腕が鳴る。

 できる限りおいしいものを作って、持っていってやろう。


 すっかり夜が更けてから、俺はノーラを伴って、旧悪臭タワーへと向かった。

 ここで営業できるのも、いつまでだろうか。既に周辺の老朽化した建物は、取り壊しが始まっている。ここにもそのうち、立ち退き命令が下るんじゃないか。


 彼女らの夕食は遅い。客の都合を考えれば、それも無理はない。

 午後に船乗り達が波止場に降り立つが、彼らもまずは仕事をこなす。港湾当局の手続きを待ち、それから貨物の運搬や収納、引渡し。それが済んでから、ようやく宿屋に入る。どれだけピュリスに滞在するかは、それぞれの都合次第だが、とにかく彼らはまず、夕食を食べる。それから、人によっては酒盛りを始めるし、どこかカード賭博にでも、と出かけるのもいる。

 そういう連中が一息ついて、遊びのシメをする時に立ち寄るのが、売春宿なのだ。食って、賭けて、飲んで、最後に性欲を満たす。

 だから、ガリナ達の仕事は、普通は昼過ぎからゆるゆると始まり、真夜中になってやっと終わる。だから、食事のリズムもちょっと変則的になる。朝は遅くなりがちだし、夜は客が来るので、不規則になる。


 そういうわけで、俺は少し遅めに料理を持ち込んだのだ。


「こんばんはー」

「お、ファルスじゃねぇか!」


 入口にいたガリナが、嬉しそうな顔で外に駆け出してくる。


「何持ってんだ、それ?」

「あれ? エディマから何も聞いてない?」

「あー、すまねぇ。今日はさっきまでずーっと客がついててなぁ」

「そうなんだ。客足が戻ってきてよかったじゃない」


 最上階の丸テーブルに、俺は料理を並べた。

 この部屋、最初はみんなここにベッドを置いていたのだが、今では食堂兼キッチンとしてのみ使用されるようになっている。接客は二階、予備の部屋と備品置き場で三階が埋まっているが、四階は空室だった。だからそこに家具を運び込んで、今では二人一組で寝泊りしている。


「今日はいいこと、聞いてさ」

「なんだそりゃ?」

「シータに恋人ができたって」

「ああ」


 その言葉に、ガリナは表情を暗くする。


「最近、あいつ、仕事を手抜きするようになりやがってなぁ……」


 まあ、それはポジティブなことではない。金を払っている客からすれば、シータの気持ちなど関係ないからだ。


「好きな人でもできれば、それも自然だよ」

「ま、そうかもだけどな」


 一方、ガリナの不機嫌もわからないでもない。

 仲間の一人がいい加減な仕事をするようになると、他のみんなの評価も下がりかねない。せっかくあの店ならと信頼されつつあるのに、それがひっくり返ってしまうのだから。


「僕としては、そういう理由で働きたくないっていうなら、いっそ、送り出すのも手かなって思ってるんだ」

「送り出すって、どうやって」

「身分の解放はできないよ? でも、犯罪奴隷でも、ちゃんと手続きすれば、譲渡はできるでしょ?」

「なるほどなぁ」


 で、そうなると主賓はどこに?


「シータはどこ?」

「あー……えっと、フィルシャに聞かねぇとな」


 それで俺達は階段を降りて、四階の一室の前に立った。


「フィルシャ、いるか? 入るぞ」


 ガリナは、ノックと同時に扉を開けた。これじゃ意味がないと思うのだが。


「ん? なに?」

「シータは?」

「え? 店外デートかなぁ」


 なんと、寝巻き姿だ。仕事と仕事の間の、昼寝、いや夕寝時間だったか。

 眠そうな顔で、そう答える。


「おい、シャキッとしろ。予定、入ってたか?」

「んー……」


 のそのそとフィルシャは枕元の紙切れを引き寄せる。


「あれ、ない」

「なんだよ、また勝手に」

「ガリナ」


 出歩くくらい、いいじゃないか。

 そう言おうとしたのだが。


「困るってんだよ。飛び込みの客が入った時、紹介できねぇじゃねぇか」


 ……チームワークを乱しているというのなら、尚更、早期退職していただくのが吉、か。


「じゃ、またいつものアレか」

「うん、アレ」

「アレって?」

「ああ」


 ガリナは、髪の毛を掻き毟りながら答えた。


「いっつも街の北のほう? で、デートしてやがんだ。んなの、目立つところでやんなって、客の目があんだろっていつも言ってんのになぁ」

「まぁまぁ、人間だし、ある程度はしょうがないよ」


 シータが帰ってきたら、その恋人とやらについて、詳しく訊こう。

 で、問題なさそうだったら、すぐにでも譲渡手続きだ。


「まぁ、そのうち戻ってくるよね」

「ああ、さすがにまた無断外泊ってのはないはずだ」


 それで俺とノーラは、最上階のソファに腰掛けて、のんびりと待った。

 だが……


 色街の灯が一つ、また一つと消え。

 客足が途絶えても、シータは姿を見せなかった。

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