お泊り会

 夕暮れ時。

 自宅の居間で、俺は足を伸ばして、本に目を落としていた。ルークの世界誌だ。


 サハリアで最も危険なダンジョンとされる『人形の迷宮』……これについての記述が、俺を惹きつける。

 ルークは学者であって、冒険者ではなかったから、迷宮の中をちゃんと探検したわけではない。ただ、ほんの入口くらいは見たらしい。


 当時も、現在も、この迷宮の周囲には街がある。サハリアのど真ん中にあるという位置関係から、貿易の中継点としての役割もあるのだが、迷宮自体が資源の一つと言える。内部には危険なモンスターが多数棲息しているが、同時に珍しい古代の遺物も多数、眠っている。それを求めて多くの冒険者がここに拠点を構えるので、彼ら相手の商売をする飲食店や宿屋、鑑定屋、果ては賭博場や売春宿まで、あらゆる施設が揃ってしまった。


 さて、迷宮とはいったい何か? 起源はさまざまで、その意味も役目も異なるといわれるが、一説には、魔王の拠点であるとされている。中で魔物を繁殖させ、育成し、外部に放出する。そのための穴蔵だというのだ。

 そのせいか、この迷宮も、しばしば「放出事件」を起こす。ルークの訪問の十年ほど前にも、それがあったらしい。街の人々が魔物の攻撃によって、多数犠牲になった。

 人間達も漫然と襲撃を待ち受けていたのではない。普通、街を守る城壁は、その外周に設けられる。だが、この迷宮を囲む街についていえば、逆なのだ。迷宮の入口を囲うように、強固な城壁が積み上げられ、それをまた、別の壁が包み込む。そうまでしても、犠牲が出てしまう。


 もちろん、防衛体制を固めているので、普段はどうということもない。しかし、内部から強大な力を持った魔物が現れると、とてもではないが、城壁なんかでは防ぎきれなくなる。そしてこの『人形の迷宮』は、最下層の「守護者」が、わざわざ自ら外に出て人間狩りをするという、非常に珍しい場所でもある。

 守護者とは、文字通り、迷宮を維持する鍵となる怪物のことだ。これを倒し、魔力の供給源を破壊すると、迷宮は機能を停止するという。当然、そういう魔物は並大抵でなく強いものだし、また迷宮の外には滅多に出てこない。ところが、この『人形の迷宮』の守護者は、恐るべき人間コレクターなのだ。


 ……コトッ、と陶器がテーブルの上に置かれる。


「ああ、ありがとう」


 浮かない顔のノーラが、読書の邪魔にならないよう、そっとお茶を出してくれたのだ。

 彼女は、何も訊かなかった。まだ週末でもない。しかも、昼過ぎに俺が帰ってきた。官邸でのお仕事は? だが、ノーラは器用ではないにせよ、辛抱強いし、思慮深い。自分から余計なことを言い出したりはしないのだ。


「ノーラ」

「うん、なぁに?」

「今日は、仕事、あったっけ?」

「酒場のほうは、お休み」

「そう」


 だからこの時間にも家にいる、か。

 ふと、リリアーナを思い出して、比べてしまった。彼女なら、どんな理由であろうと、まずその場で甘えだす。ノーラは逆だ。自制心というか、克己というか……こちらから頼れば受け入れてもくれるし、気を遣ってもくれるが、逆にあれこれ要求はしてこない。もうすぐ十歳という幼さで、この精神性は、類を見ないと思う。


「ちょっと、ゴタゴタがあったんだ」


 とはいえ、彼女も不安だろう。一応の説明はしないといけない。


「ほら、一度、会ったよね。お嬢様」

「うん」

「遠くの貴族の息子と、婚約させられそうになって。だから、執事のイフロースが反対して、強引に屋敷から連れ出しちゃって」

「大変ね」

「でも、どうするのかなーと……奥様も一緒に出てきちゃって……出て行くっていったって、すぐに船が見つかるわけもないし、歩いて旅をするなんて無理だし、そもそもまず、今夜寝る場所も」


 言いかけたところで、階下から扉を叩く音が聞こえた。


「出てくるね」

「あ、いや、僕が」


 まさかとは思うが。

 ……そのまさかだった。


「こんばんは」


 溜息で迎えてやった。本当にうちに来るなんて。先頭に立っているのはイフロース。その後ろに奥様と三人の子供。


「宿屋は見つからなかったんですか」

「あるにはあったのだが……奥様やお嬢様をお連れするには、少々問題がありそうなのでな」


 イフロース自身なら、きっとどんなに汚いところでも平気だろう。しかし、彼が連れ歩いている女子供についていえば、そうではない。


「うちも問題がないわけじゃないですよ?」

「それでも多少はマシだろう」

「はぁ……じゃあ、中へどうぞ」


 はっきり言って、彼らのその外見。浮きまくりだ。

 イフロースも、屋敷の中で仕事をしていたままの格好なので、上質な黒のスーツを身につけているし、エレイアラもリリアーナも、やはり上等な服を着ている。そんな一団が、いきなり庶民の商店街にやってきて、俺の家の中に入っていくのだ。通行人からすれば「何あれ?」といったところだろう。


「ふーん! へぇー」


 薄暗い一階の廊下を、リリアーナは興味津々といった様子で観察していた。


「リリアーナ、おやめなさい」


 苦笑しながら、エレイアラがそう嗜める。


「はぁい」


 まったく、この母娘は。


 リリアーナの遠慮のない態度は、半ばは本当の興味関心からだが、残りはわざとだ。つまり、道化を演じているのだ。周りの人間が今、ここにいるのは、自分の婚約のせいだとわかっている。その暗い空気を少しでも軽くしたい。

 寝床にさえ不自由する身の上で、周りの人達にも迷惑をかけているという事実。それを忘れた少女という設定だ。そういうキャラならば、お友達の家に遊びにきたら、いろんなものがもの珍しいので、ついキョロキョロしてしまう……

 要するに、子供らしくない子供による、子供ゴッコだ。


 エレイアラもそれがわかっているから、本気で叱りはしない。ただ、無作法だから、形だけでもこう言うしかない。

 いちいち入り組んだ思考が絡み合うのが、いかにも彼女達らしい。


「ノーラ」

「はい」


 お客様とあっては、彼女もぼやぼやしていられない。

 二階の廊下で彼らを前に、一礼する。


「ようこそお越しくださいました」

「ご迷惑をおかけする」


 イフロースが代表してそう言う。

 彼は彼で、いろいろ気を張る状況なのだろう。何しろ、後ろにいるのは主人で、貴族なのだ。彼女らを無事に守っていくには、今後ともその場にいる人の世話にならざるを得ないが、しかし、主人達に頭を下げさせるわけにはいかない。名誉と尊厳、体面を守りつつ、いかにやっていくか。難しいところだ。


「むさくるしいところですが」


 俺は一行を居間に案内する。


「わぁい!」

「あ、お嬢様!」


 開けられた扉に、リリアーナは一番乗りして駆け込んだ。

 同じ失敗をしたイフロースが慌てて止めるが、もう遅い。


「そこは土足では」

「えっ」


 気付いて足元を見るリリアーナ。

 数秒経って、顔をあげて……


「えへへ」


 笑ってごまかす。

 既にノーラが雑巾を持ち出して、駆けつけていた。


「食べるものくらいは何とかなりますが……」


 何の準備もなしに、官邸を飛び出してきたのだ。それでも、イフロースは最低限の仕事ならば、した。

 明日、ムスタムに向けて出発する商船を見つけて、そこに客室を確保した。だから、今日一日をピュリスで過ごせば、明日からはなんとかなる。


「うちは部屋があまりないのですよ」


 階段を登り、俺はイフロースとエレイアラを案内する。


「こちらが僕の部屋で、一つ飛ばして、向こうがノーラの部屋です。あとは地下室がありますが、あそこは寝られるような場所ではありませんから」

「ここがあるではないか」


 三階の真ん中の部屋。

 イフロースがドアノブに手を伸ばし、引き開ける。


 そこは……アイビィの部屋だ。


「おお、なんだ、きれいに整えられておるではないか。奥様、こちらを」


 使うな、とは言えない。

 彼女は、戻ってこない。そのことを、俺が一番よくわかっている。


「そうですね」


 その時、エレイアラは俺の顔をちらと見た。


「……やめておきましょう」

「はっ?」

「イフロース、私達は客人に過ぎません。屋根がある場所で寝られるだけでも、ありがたいと思うべきです」

「は、しかし」


 戸惑う彼をおいて、エレイアラは俺に言った。


「リリアーナとウィム、ナギアには、寝床が必要です。どこでもいいので、貸していただけるかしら」

「ええと、はい」


 とはいえ、この人数だ。

 雑魚寝は避けられない。


「ファルス、私に部屋などいらぬ。奥様とお嬢様、若君の分は、どうにかせよ」


 それでも、一人一部屋は無理だ。

 どうしようかと考えながら居間に戻ると、子供達が仲良くお喋りしていた。


「あー、ファルスー」

「お嬢様」

「ねーねー、今夜、三人でノーラのお部屋にお泊りしていいー?」


 女の子同士、話が盛り上がって、夜の女子会……いや。

 なんといってもリリアーナだから、深読みしてしまう。ふざけているようで変に気を使うのが彼女だ。

 ずっと前に、ぬいぐるみ一つで、子供が打たれた件を、そうそう忘れたりはしていまい。つまり、自分が出て行くと大事になってしまう、特別待遇がついてまわるという現実だ。

 そういう迷惑を振りまかないためには、自分から考えて行動しなければならない。なるべく自然な形で、丸く収まるように。


「僕は構いませんが」

「私も、別にいい」

「じゃ、決まりー」


 部屋が足りないことを察してのことだ。住人であるノーラを追い出してベッドに横たわるのは気が引ける。しかし、何もしなければきっとそういう結果に落ち着いてしまうだろう。ならば、ここは子供の特権だ。夜通しおしゃべりしたり、遊んだりすればいい。


 俺は、後ろに立つエレイアラに言った。


「では、済みませんが、奥様は、ウィム様と一緒に、僕の部屋をお使いください」

「いいのかしら。では、そうさせていただくわ」


 貴族の家のベッドとは違うから、狭く感じるだろう。それも一つで二人とか、三人とか。

 でも、船に乗ったら、この程度じゃ済まない。左右に揺れるし、天井も低いし。


 ……ただ。

 本当にこのまま、家を出て行くつもりなんだろうか?


 部屋が狭い分だけ、食事だけはと、夕食には腕を振るった。もし、明日から船に乗るとなれば、きっとろくなものを食べられなくなる。しかも、渡航する先は、水が合わないムスタムだ。今のうちに体力を残しておかないと、きっと苦しむ。

 その後、彼らに入浴してもらい、寝室に引き揚げてもらった。俺はというと、毛布一枚だけ持ってきて、居間に座っている。今夜はここでなんとか寝るしかない。地下室では、さすがに寒すぎるし、湿気もひどいのだ。

 かといって、ここも快適とは言えない。なぜなら目の前に、イフロースが居座っているからだ。


「眠らないんですか」


 イフロースは、ずっと窓の外を見つめたまま、じっとしていた。

 その空気に耐えられず、思わず尋ねる。


「少しは休むが、なるべく見張っていようと思う」


 子爵の部下が、この家に来るかもしれない。

 来たからって、何ができるでもなかろうが。イフロースを排除したところで、そこにいるのは主人の妻であり、子供達だ。手荒な真似ができようはずもない。


「それより、ファルス」

「なんですか」

「頼みがある」

「頼み?」

「金を貸してくれ」


 いきなり何かと思えば、金の無心か。


「どれくらいです? ないんですか、貯金は」

「私の傭兵時代の資産は、とある商人に預けたままでな。今日も動いてみたが、すぐには回収できん」

「どうするつもりだったんですか、そんな」

「金目の物を売り払えば、なんとかなる。当面はな」


 そう言いながら、彼は懐に手をやった。

 ゴロンと音を立てて、風の懐剣がテーブルに転がる。


「これは担保だ。必ず返す。返せなければ、売り払ってくれ」


 なるほど。

 これの値打ちがわかる人間なら……何しろ、風魔術の触媒だ。しかも、目減りしない。ただ、そこらの質屋で売ろうとしても、正当な価格がつくことはなさそうだが。


「いや、これは受け取れません」

「受け取ってくれ」

「これがなかったら、どうやって奥様やお嬢様を守るんですか」


 魔法がなくてもイフロースは強いが、やはりあるとないとでは違う。万一の時に、俺に武器を預けたせいで不覚をとるなんてことになったら、後味が悪い。

 反論に、イフロースは短く溜息を漏らす。


「お金は……出します」

「そう多くなくてもいい……と言いたいが、多ければ多いほどありがたい。お嬢様や若君、ナギアが、金を稼げるとは思えん。奥様も、裁縫こそよくなさるが、商売などわかっておられん。となれば、私しかいない……が、この歳ではな」


 イフロースも五十代だ。

 頑張ってもあと十年……ウィムが十五歳で成人する、その頃まで踏ん張れたら、御の字だ。


「質素に暮らして、十年分とすると、金貨三千枚くらいはいりますかね」

「奥様やお嬢様の暮らしを考えると、もう少し余裕は欲しいが、それは贅沢というものだな」

「ええ、贅沢です」


 三千枚くらい、どうとでもなる。もっと出しても俺は困らない。

 それより、だ。


「ただ、本当に……ピュリスを出て行くんですか?」


 問題だらけだ。一般家庭の離婚騒ぎとは、規模が違う。


 まず、飛び交う醜聞に、サフィスが発狂する可能性がある。あの虚栄心の塊が、こんな状況に耐えられるだろうか? 何を仕出かすか、今から想像がつかない。

 また、サフィスの跡継ぎは、ウィムしかいない。トヴィーティ子爵家の後継者が、勝手に家を離れて、遠い異国で暮らすのだ。エレイアラにしても、正式な離婚手続きを踏んでいるわけでもない。これまた勝手に家を出て、他所で暮らす。

 なにせ、身分も肩書きも以前のまま。この状態で、たとえばサフィスが死んだら、どうなる? ウィムが戻らなければ、トヴィーティアは宙に浮いてしまう。戻ったからって、それで済むわけではない。エンバイオ家はもともと独立貴族ではあるが、それでも王家の承認なしには、領地の継承などできまい。そして、こういう揉め事こそ、中央集権を目指す王家にとっては、待ち望んだ機会なのだ。

 当然ながら、子爵家によるピュリス私物化計画など、すべて白紙に戻る。ウィムやリリアーナの将来は、一般の貴族のレールから外れてしまう。最悪、財産も身分も継承できずに、一般庶民として生きていくしかなくなるかもしれない。


「自分で言っていたじゃないですか。お嬢様は、身を張って閣下を守ったんですよ? それなのに」

「本当は、そんなことは望んではいない。だがな……」


 首を振って、イフロースは呟く。


「お前もわかっていようが、お嬢様はお聡く、またお優しい。望まぬ結婚でも、自分が苦しむだけで済むならば、と受け入れようとしていた。今はああして明るく振舞っておいでだが、きっとつらくてならんはずだ」


 彼女の性格なら、俺もそれなりに理解している。

 頭の回転が速く、相当に狡猾で、利己的な考え方がいくらでもできる一方で、いやになるほど気を遣うし、一人で背負い込もうとする。正直なところ、こんな事件になるくらいなら、黙ってティンティナブリアに運ばれたほうがマシだと思っていても、不思議ではない。


「だが、これだけは譲れぬ」


 なんとしても、フィルシー家との婚約は破棄させる。それができないなら、すべてを捨ててでも逃げる。

 しかし、それで済むだろうか。


「ムスタムに渡るなら、フリュミーさんがいるかもしれませんね」

「そうだな。遠くに向かう商船にでも乗っていなければ、すぐ会えるだろう」

「ナギアにはちょうどいいかもしれませんが」


 ムスタムには、王がいない。

 つまり、ある種、治安の空白地帯でもある。市民の小さな犯罪は取り締まれても、権力者の横暴に対してはどうか。


「もし、本当に行かれるのでしたら、気をつけてください」

「無論だ」

「そうではありません。あなたと、特にお嬢様、それから……いいですか、狙われているんです」

「なに」


 ウィムにトヴィーティアの継承権がある限り。

 安全はあり得ない。


「グルービーが言っていました」

「……それは、何の話だ」

「タロンが狙っていたのは、あなたの命です」


 俺の異能を知る彼は、そこで沈黙した。

 ファルスは秘密を明かさない。だが、悪意はない。重要だから、限りなく秘密に近付くようなことでも、伝えようとしている。

 ならば、知ることが先だ。彼は続きを無言で促した。


「それと、別の集団が、恐らくお嬢様とウィム様を狙っていました」

「あの日の……北側からの侵入者のことか」

「恐らくはそうでしょう。彼らの目的は、トヴィーティアの継承権でした」

「なんだと」

「そして、基本的にはどちらにもクローマーは関わっていません。また別の目的で動いていた集団が」

「そうか……」


 彼は理解した。

 ムスタムに逃れてからも、安全には気を配らなければいけない。詳細は明らかでないにせよ、周囲には無数の悪意が渦巻いている。


「出る杭は打たれるというが、これほどとはな」

「ええ」


 しばらく考え込んでから、彼は尋ねた。


「話せるところまででいいが、いったい誰がそんなことをさせたのか、わかるか」

「グルービーもすべてを語りはしませんでした。ただ、一部は長子派、中立派、そして太子派からも」

「なるほどな」


 それだけで、彼は納得したらしい。

 恐らく、誰が黒幕なのか、もう察したのだろう。


「……ファルス」

「はい」

「お前は……これから、どうするつもりだ」

「これからって……もちろん、年明けに借金を片付けて、自由になります」

「その先だ」

「追いかけて来いとか、そういうことですか?」


 すると、イフロースは首を振った。


「なんでもいい。できれば、お嬢様と若君のために尽くして欲しいが、それはそれとして、だ」


 彼は俺に視線を向けると、普段よりずっと弱々しい声で言った。


「悪いことは言わん。人間になれ」

「人間ですよ」

「見た目だけはな。だが、お前を日の光に当てたら、どうなるのだろうな? どれほどの秘密がその体の中に隠れているのか……だが、多分それは、よくないものだ」


 確かに、一瞬で命を奪い、或いは積み重ねた他人の努力を掠め取る……こんな力が「いいもの」であるはずはない。

 だが、これがなければ、俺はどうなってしまうのか。今のままでも、生きるだけならできる。だが、いつかは死ぬ。死ねば、また……


「いざとなれば、私が止めるぞ、ファルス」

「何を」

「どうにもならんかもしれんがな」


 それだけ言うと、彼は壁に背を預けて、すっと目を閉じた。


 翌朝。

 船に乗るために、俺達は朝から準備を始めた。だが、結論から言うと、それはすぐ不要になった。


 朝食を済ませた頃に、子爵家の使いが、家までやってきたのだ。

 サフィスは、婚約を取りやめた。そのために手紙を書き、届けさせる準備もしてある。まだ送っていないのは、エレイアラに確認させるためだ。


 どうしてあっさり意見を変えたのか?

 なんということもない。官邸が立ち行かなくなったからだ。


 あのやり取りを見ていた、いくらかの使用人は、さっさと屋敷を後にした。セーン料理長もその一人だ。なぜか?

 理由はいくつもある。まず、彼らの大多数は、いつも官邸にいないサフィスにではなく、家中を切り回すイフロースやエレイアラに仕えていた。


 サフィス自身の発言にも、問題があった。下僕の都合など知らない、と宣言したにも等しい。ピュリス総督の仕事を真面目にこなしていない事実は知られつつあったため、彼の下で働いても、将来がないのではないかと不安を感じる者も多かった。なにしろ、エンバイオ家がここを手放せば、彼らの多くは途端に失業してしまう。なのにサフィスは、お前らを守ってやる、と言ったのではなく、私に縋りつくな、と叫んだのだ。


 また、使用人同士の不和も広がりつつあった。古参の召使達と、新参者との溝だ。昔からの従者達は、子爵一家の身の回りの世話をしたり、秘書課の中枢を占めていたが、外部の人間は、その下働きをさせられることが多かった。待遇が一段劣る点、また子爵家の外で生きていける仕事や繋がりがある点から、彼らは、利益が見込めなくなるなら、エンバイオ家に仕え続ける意味を見出せなかった。


 結果、屋敷の中は歯抜け状態になった。


 まず、サフィス自身が遅めの昼食をとろうとした時には、既にセーン料理長は厨房を後にしていた。俺には予想がついていたことだ。彼がどれほど短気な人物か、サフィスは知りもしないのだろう。

 彼は、自分の皿を床に叩き落されたことに怒っていた。だから、サフィスにも同じ気持ちを味わってもらうと決めた。彼の分の料理をさっさと弁当箱に詰め直すと、それを手に、ピクニックに出かけてしまったのだ。

 衣類や寝具の管理、部屋の清掃、多数の手紙の仕分け……これらについても、管理していた人間がいなくなったために、一気に現場が混乱した。そうでなくても、上司不在を利用して、怠ける人間も出始めた。勝手に休暇と思い定めて、街に出て行ってしまったのだ。


 食事も用意できない。ベッドメイキングもされない。着替えもどこにあるかわからない。浴槽の水が温められていない。

 あっという間に不便不自由の嵐が、サフィスを襲ったのだ。そして、居残った召使達を怒鳴りつけても、何にも解決しなかった。


 イフロースが俺の家にいるのも、割とすぐにわかったらしい。だが、配下の私兵達に妻子の奪還を命じても、誰も動こうとしなかった。誰もイフロースや俺の相手などしたがらなかったし、サフィスが頭ごなしに怒鳴りつけるばかりなので、嫌気がさしていたのだ。


 何一つ思い通りにならない状況。本当に妻子がピュリスを出て行けばどうなる? 恥が王国中に広まってしまう。一睡もせず朝を迎えて、彼はやっと決断した。


 だが、使いの者を前にしたイフロース達の表情は、なんともいえないものだった。

 家出の理由はなくなった。だが、サフィスとの関係は、悪化する一方なのだから。


 ともあれ、こうして一連の騒動は収まった。

 リリアーナの婚約は白紙に戻り、一家は変わらず官邸で暮らし続けることになったのだ。

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