犬も食わぬ

「失礼致します」


 もうすぐ昼、という時間帯。

 珍しくエレイアラの予定が空いていた。広い婦人用の部屋で、薄い桃色のドレスに身を包み、大きな安楽椅子に身を委ねていた。

 しかも、そこにリリアーナとナギアまでいる。手には簡単な刺繍の施されたハンカチがあるから、ついさっきまで、裁縫のレッスンだったのだろう。リリアーナは一瞬、キラキラした視線を向けてきたが、何か重要な用事があると察して、すぐ笑みを消した。


「ご苦労様です」

「奥様、大変申し訳ございませんが、少しだけお時間を」


 俺はイフロースの横に、ただ突っ立っている。

 確かに発見したのは俺だが、こんな厄介事に巻き込まないで欲しいところだ。


「構いませんよ」

「では、その」


 イフロースは、人払いを希望している。主人の手紙を勝手に見た件も問題だが、ことはお嬢様自身の結婚に関する話だ。本人に変な負担をかけたくない。

 それにまた、ナギアについても、彼は判断しかねている。ナギア自身はリリアーナを守ると決めているのだが、それは彼女の中のこと。その母、つまり保守派の代表格に情報が漏れる可能性もあると考えられる。


「ここには私達しかいません」

「それは承知しておりますが」

「……ランは、ウィムの部屋におりますよ。最近、ほとんど息子を触らせてくれないのです」


 そう言いながら、エレイアラは、少し困った顔をしてみせた。

 非常に遠まわしにだが、彼女は、ナギアとその母親との間には距離がありますよ、と伝えたわけだ。自分の娘より、他人の息子にこだわるラン。自分の母より、他人の娘にこだわるナギア。彼女はこちら側だから、信頼しなさいというのだ。


 それでイフロースは、無言で懐から手紙を出した。

 手渡されたエレイアラは、封筒とイフロースの顔を見比べつつ、中身を広げて読んだ。


 柔らかな微笑が、静かに消えていく。人肌くらいに温かかったスープが、冬場の空気にさらされ、冷えていくような、そんな表情の変化。


「よく気付きましたね」

「ファルスが見つけてくれました」

「そうですか」


 ただごとではない。それは二人の少女も察している。だが、賢明にも、大人達から説明されるのを待っている。


 さて、この件はどうすればいいか。

 理想的なのは、サフィスが婚約を諦める決断を下すことだ。頭を下げれば済むのなら、イフロースも、エレイアラも、いくらでも腰を低くするだろう。


 できればリリアーナには、貴族の娘として恥ずかしくない教育を施したい。帝都の学園に十五歳で入学、十八歳で卒業。その後、一年から三年ほどの間に、結婚相手を探す。当然、相手も貴族でなければならないが、その地位に過大なものは求めない。政略結婚より、彼女自身が幸せに過ごせるような夫を見つけたいと考えている。


 だがサフィスは、ここに至るまでのプロセスを、すべて伏せて済ませてきた。正式な書面が王家や相手方の貴族の家に届いてしまえば、あとから夫人や執事が喚きたてたって、もう手遅れだ。彼はそれでいいと考えているのだ。

 そこには、ある種、屈折した自尊心が見え隠れしている。家長なのは自分だ、自分がすべてを決めて何が悪い、と。


「困りましたね」

「はい」

「こうなっては、私が何か言っても、依怙地になるだけでしょう」


 夫婦仲は、いまやエンバイオ家史上最悪のレベルに達している。どうやらサフィスは、自宅を監獄のようなものと考えているらしい。確かに、不和が蔓延る家庭というのは、牢屋同然ではある。ただ、彼にはそれを修復する自由はあっても、意志がない。


「イフロース、あなたはどうすべきと考えますか」


 この質問に、彼は表情を変えず、しかし間を取って答えた。


「閣下に翻意願う他ありません」

「それが一番いいですね。でも、できなければ」


 無理やり言うことをきかせる、というのは不可能だ。彼は家長だ。万事についての最終決定権は、彼にある。

 長い沈黙の後、彼は答えた。


「私は、先代より、家族を、エンバイオ家を守って欲しい、と頼まれました」

「そうですね」

「トヴィーティ子爵家を、ではありません。エンバイオ家を、です」


 これがイフロースの行動原理だ。彼には、貴族の家を守るという意識が希薄だ。名誉、身分、地位……それらは付属物に過ぎない。

 親友の家族を守る。その全員が幸せに暮らせるように、全力を尽くす。

 だから、サフィスも守る対象ではあるが、彼だけ最優先ということはない。ウィムはもちろん、子爵家の後継者になり得ないリリアーナも、イフロースにとっては同じだ。


「……すべては守りきれないかもしれませんね」


 この言葉に、彼は顔を伏せた。


「リリアーナ」


 彼女は、あくまで優しい声色で告げた。


「お父様が戻られるのはもう少し後ですけど、私達は先に軽くお食事をいただきましょう。ナギア、セーン料理長によろしく伝えて」

「畏まりました、奥様」


 すぐ立ち上がって、ナギアは部屋を出て行く。


 静かな緊張感に、俺はじりじりと焼かれる思いだった。

 これ、もしかして、もしかすると。


「イフロース、ランに伝えなさい。閣下がお戻りになられないことが多いので、今日のお昼は先にと。食堂にウィムを連れてこさせなさい」

「はっ」


 それで彼も、さっさと部屋を出て行ってしまう。

 俺はどうすればいい? 宙ぶらりんなんだが。


「それと、ファルス」

「はい、奥様」

「どうやらお疲れのようですね。少し座って休んでは」


 拍子抜けだ。

 言われるがままに俺が腰掛けると、向かいのリリアーナが、テーブルの向こうでじたばたして、手を伸ばしてきた。


「うー」

「お嬢様、あの」

「ううー」


 そんな彼女の様子を見ながら、エレイアラは口元を覆って小さく笑った。


「娘がお世話になっているわね」

「は、はあ」

「そんなに多くないのよ。リリアーナが甘えられるのは」


 俺がやってくる前は、侍女達に監禁されていたも同然だった。ナギアと親しくなったのも、割と最近だ。

 頭の回転はずば抜けて速くても、情緒がそれに追いついているとは限らない。貴族の娘となれば、母親とこうして接する時間も限られるし、乳母も今は弟に付きっ切りだ。子供らしさを表現できる場所は、限られていた。


 ……だが、わざわざ今、それを口にするということは。


「奥様」


 ナギアが戻ってきた。


「支度ができたそうです」

「そう。では行きましょう、リリアーナ」


 それで彼女は、俺に甘えるのをやめ、立ち上がって手を振り、歩き去っていく。

 彼女らが立ち去るのを見計らって、ナギアはこちらに向き直った。


「それと、私達の分も、別室に用意してあるから。済ませるわよ」

「えっ」

「食べなくていいなら、いいけどね」


 広い側近用の食堂で、俺とナギアは差し向かいに座った。横に細長いテーブルに、二人分だけの配膳だ。いつもの食事時間より少し早いので、他には誰もおらず、物音もしない。

 ナギアは音も立てずにさっさと食べていた。もちろん、無言だ。


 これは……確定だ。

 ナギアも察している。いざという時のために腹ごしらえ。そういう解釈だ。


「ファルス」

「ん?」

「あんたの家、港の近くだったわよね」

「中心部から、少し東寄りかな」

「そう」


 何の確認だ。

 いや、俺ももう、本当はわかっている。


「……あんたは、どうするの?」


 見るともう、食べ終わっている。普段はゆっくり、品よく食べるのに。

 そういえば、フリュミーも食事は早かった。船乗りたるもの、行動は常に機敏に。いざという時、即座に動けなければいけないから。そして彼女もまた、そんな彼の娘なのだ。


「どうするって」

「お嬢様のことでしょ」


 さすがに察している。

 多分、イフロースとエレイアラは、戻ってきたサフィス相手に、必死の説得を試みるはずだ。しかし、もしそれに失敗したら?

 イフロースは、エンバイオ家を守ると明言した。だから……


「まさかとは思うけど」

「けど、なによ」

「貴族の家でずっと暮らしてきた人が急に」


 ガシャン! と食器が割れる音。

 かなり遠くから聞こえてきた。


「……始まったわね」


 すっとナギアは立ち上がった。


 本館の中庭。季節に合わせて、色とりどりの花々が植えられている。真ん中から見ると、西側には朝礼に使われるテラスがあるのだが、よく晴れた暖かい日には、北側の屋上が、臨時の食堂になる。高さにして、地上三階相当だ。

 その真下には廊下があり、中庭の出入り口がある。そしてその脇に、幅の広い階段があり、それが三階の屋上に繋がっている。もちろん、料理を供するのに、そんな屋外の階段しかないのでは不便なので、二階部分から上がってくる別の階段もある。


 俺達が駆けつけた時、既に事態は収拾できないところにきていた。


「黙れ! いったい貴様、何様のつもりだ! 人の手紙を勝手に」

「それについてはお詫び申し上げますが」

「だから黙れと言っている! 口をきく資格があると思っているのか!」


 激昂したサフィスが、平身低頭のイフロースに、頭から罵声を浴びせている。

 既にエレイアラも、リリアーナも、席を立っている。


 食事の途中だったらしい。メインの肉料理を運んでいたようだが、それはサフィスの手で叩き落されたのだろう。皿の破片と肉汁が、屋上の白い床の上に飛び散っている。

 ここまでその皿を運んできたセーン料理長は、腕を腰において顎を引き、じっと様子を見守っていた。


「ですが、閣下。私への処罰は構いませんが、この件だけは何卒」

「うるさい!」


 サフィスは、手近なグラスを手に取ると、それをイフロースの頭めがけて投げつけた。中に入った水が彼の頭にぶちまけられ、すぐ足元で砕け散る音がした。


「お前の意見など、きいていない!」

「あなた」


 そこでエレイアラが口を挟んだ。


「まだ八歳の娘にこれでは、あんまりではありませんか」

「どこが悪いのだ。ティンティナブラム伯は、大貴族だぞ。そこの跡継ぎの正夫人だ。こんないい話が、いったいどこにある!」

「お相手はもう、二十一歳なのですよ」

「貴族の家ならば、それくらいの年齢差はあって当たり前ではないか」


 それも一理はある。日本の戦国時代を思い出してみればいい。

 貴族が生き残るためには、こういう政略が不可欠なのだ。ただ、今回は相手がよくない。


 またイフロースが口を開いた。


「閣下、ティンティナブリアの窮乏は、もはや語ることさえできぬほどなのですぞ」

「一時的な不作くらい、なんだというのだ」

「そうではございません。暴政につぐ暴政で、民が故郷を捨てて逃げ出しているのです」

「ならば、尚更よいではないか。伯爵は、私に西の領土を分かち与えると言っている。代官でも置いて、統治すればよい。民も遠くへは行けまい。こちらで受け入れれば、後々利益となろう」

「広さはあっても、中身がございません。人が住んでいるのはキガ村、ヌガ村の二箇所だけ、しかも」

「黙れ!」


 思った通り、サフィスは感情的になって反発した。


 ある意味、無理もないことだ。彼の自尊心に、誰も注意を払わない。ピュリスの私物化にしても、それは父のプロジェクトを引き継いだだけ。彼自身が成し遂げたものではない。

 その、出来合いの枠の中に、先代からの重臣であるイフロースも、妻も……よってたかって彼を押し込めようとする。

 まだ三十代の若さで、なぜ前のめりに成功を追い求めてはいけないのか。彼は言いたいのだ。自分がこれをやった、と。そう言える何かが欲しい。そこは理解できる。


 だが、それでも。これはやってはいけない冒険なのだ。


「ですが、お聞きください。ヌガ村には本来、王家が借り受けている城砦があり、この辺りの権益の問題にかかわりますと、王家の思し召しも」

「思し召し? 王家の思し召しだと? ふざけるな!」


 イフロースは「思し召し」という言い方をしたが、伯爵の出方によっては、そんなものでは済まない可能性もある。

 しかし、サフィスはこの物言いに、尚更怒りを爆発させた。


「お前達のやろうとしていること自体が、王家からの恨みを買うものだろうが!」

「閣下、それは違います。あくまで我々の計画というものは、常にエンバイオ家がピュリス総督に最適な立場を占めるというだけの」

「それがまずいと言っているのだろうが!」


 ピュリス私物化、といっても、何もこの街をバックに王国から独立しようとしているわけではない。

 ただ、地方長官というのは、地位はともかく、カネになる。そのおいしい権益を、今後とも長く吸い上げていけるようにしよう、というものだ。無論、王国に動乱でもあった場合には、更に旨みが増すのだが、必ずしもそれに期待しているのではない。


「私の気持ちがわかるか!? ええ、イフロースよ」

「無論、総督の重責は」

「そこではないわ! 今の私は、どっちつかずだ。王家に忠誠を誓いながら、その足元に巣食う虫になろうとしている」

「ピュリス総督は重要な役目でございます。そこで忠義を尽くせば」

「そうやって、お前達はまだ私をこの街に縛り付けるのか!」


 サフィスはイフロースの胸倉を掴み、それから突き飛ばした。


「私のため、私のためと言いながら! 結局は、お前達が私を利用したいだけだ! エンバイオ家の名誉を犠牲にして!」

「閣下、この街に集まった者共は、閣下を信じて馳せ参じたのでございます」

「知るか! なぜ私が貴様らという足枷を引き摺らねばならんのだ! 下僕が主人の足を引っ張るな! 自分のことは自分で済ませるがいい!」


 この騒ぎだ。既に中庭には召使達も集まり始めている。

 どんな風向きになるか、不安そうに見守っている。


「そもそも貴族たるもの、王国の中で身を立て、名を馳せるべきだ。忠節を全うし、家の繁栄を図って何が悪い!」

「大いに結構でございます」

「ならば、口を出すな!」


 しかし、そこで話を終わらせるわけにはいかない。


「お待ちください」

「まだ言うか!」


 イフロースはその場に膝をつき、必死で申し立てた。


「確かに、貴族は家門の繁栄を目指すものでございます。政略結婚もときには必要でしょう。ですが、それでも閣下、人の……人としての情というものは?」

「人? 人の情だと?」

「昨年末の事件を覚えておいでですか」


 この言葉に、彼は苦々しさを隠そうともしなかった。周囲を見回し、俺を視界に収めると、またすぐイフロースに向き直った。


「それがどうした」

「あの時、私も、他の家臣達も、役立たずでした。そんな中、閣下をお救いしたのは、誰だと思いますか」

「なに?」

「最後に己の身を盾にしたのは、お嬢様ではございませんか!」


 事件の前、リリアーナはとある昼食の席で、お見合い相手の似顔絵を見せてきた。

 自分ではまったく望んでいない未来。それを押し付けてくる相手は、実の父親だった。

 それでも彼女は……


「だからこそ、最高の縁談を見つけてきてやったのだろうが」

「閣下、ですが、これではあまりに」

「くどい!」


 どこまでいっても、平行線だ。


「では、どうあってもお嬢様を」

「そうだ! この秋には、輿入れも済ませる」

「ならば、仕方がございませんな」


 イフロースは顔をあげ、立ち上がった。

 いちいち魔法で心を読むまでもない。


 彼はすっとリリアーナに近付き、その手を取った。そして、黙って中庭への階段を降りていく。

 サフィスは、あっけに取られてそれを見つめていたが、はっと我に返って追いかけた。


「待て! イフロース!」


 中庭に降り立ったイフロースに、息を切らしたサフィスが追いつく。それを大勢の召使達が、遠巻きにしている。

 エレイアラもナギアも、すぐ階段を降りて、様子を見守っている。


「何をするつもりだ」

「閣下、私は先代より、エンバイオ家を守るようにと言付かりました」

「それがどうした」

「ただいま閣下は既に公職にあり、また、独立した家長でいらっしゃいます。ですので、この上私があれこれ手助けする必要もございますまい。ですが、お嬢様はいまだ幼く、保護を必要としておられます」


 この言葉に、サフィスの表情が変わる。

 怒りだけではなくなった。戸惑い。それが見て取れる。


「ご心配は無用です。私が責任もって、お嬢様を立派な淑女に育てて差し上げましょう」

「き、貴様! 何を言っているのか、わかっているのか!」

「居心地の良い住処は、ここピュリスだけにあるのではございません。ご安心いただきますよう」

「ふ、ふざけるな!」


 怒りに目を剥いたサフィスは、さっと周囲を見回すと、声の限り喚きたてた。


「衛兵! この痴れ者を打ちのめせ! 娘をさらおうとしている!」


 中庭には、騒ぎに気付いて様子を見にきた私兵が何人かいた。彼らは帯剣している。だが、この号令に動き出すものはいなかった。


「どうした! 捕らえよ! さあ! 早く!」


 だが、みんな煮え切らない態度で、まるで浅瀬の海藻のように揺らめくばかりだ。


「ええい!」


 近くに立つ兵士の腰から、サフィスは強引に剣を引き抜いた。メイドの悲鳴が短く響いたが、すぐ静かになった。

 足元の砂を踏みしめる音。やにわにサフィスは斬りつけた。


 長く響く金属音。

 彼の手に、もはや剣はなかった。


 一瞬のうちに、それは打ち払われていた。風の懐剣で受け流し、叩き落していたのだ。


 信じられない、といった顔で、サフィスはおののき始めた。

 勝手に行動することはあっても、基本、自分には決して逆らおうとしなかったイフロースが、あっさりと歯向かったのだ。


「フェ……ファルス! ファルス!」


 ろくに俺の名前も覚えられないのか。


「こいつを! イフロースを打ち倒せ! 勝手を許すな! この恩知らずに思い知らせてやれ! さあ!」


 呆れてものも言えない。


「できません」

「なっ!?」

「勝てません。他をあたってください」


 恥を知れ。もうすぐ九歳の子供に、一流の剣士を相手取って戦えなどと……客観的に見て、相当見苦しい様子であるのには間違いない。

 まあ、ピアシング・ハンドを使えば絶対勝てるし、使わなくてもいい勝負にはなる。でも、やらない。アホらしい。

 俺が戦わないとなると、もう誰もイフロースには勝てない。つまり、止められない。


 イフロースは軽く頷くと、中庭を出て行こうとする。

 そこへ後ろから、声がかかった。


「お待ちなさい」


 エレイアラだった。


「あなたは何を考えているのですか」

「お嬢様を守ることをです、奥様」

「その役目、あなたに務まるとも思えませんね」


 いきなり何を?


「粗暴な元傭兵などに、大事な娘を預けっぱなしにはできません。リリアーナの教育は、私がします」

「奥様、しかし」

「もちろん、体を張って娘を守るのは、あなたの仕事です。でも、それだけではありませんよ?」


 エレイアラの手には、ウィムの小さな手が握られている。


「まだ幼い我が子には、母親が必要でしょう。イフロース、これもあなたの仕事ですよ。ウィムを立派な若君になさい」


 これは、つまり。

 エレイアラも、家を出るつもりなのだ。ついでに息子も連れて行く。妻子揃って家出だ。

 さすがにこれには、周囲を取り巻く召使達もびっくりしている。


 ややあって、イフロースははっきりと答えた。


「しかと承りました」


 一礼すると、彼はリリアーナの手もエレイアラに握らせ、先に立って行こうとする。

 そこへまた、声が飛んだ。


「お待ちください、イフロース様!」


 なんと、ナギアだった。

 彼女は一気に言い切った。


「お嬢様に奥様、ウィム様が、傍仕えの者も連れずに行かれるなど、とんでもないことです。いったい、イフロース様に何がおできになるというのでしょうか。ご婦人方の身の回りの世話が、あなたに務まりましょうか」


 静まり返った中庭に、ナギアの声ばかりが響く。


「お嬢様は私がお守りします」


 彼女は一歩を踏み出した。その肩を、後ろから掴む手がある。ランだ。

 だが、ナギアはろくに後ろを見もせずに、その手を振り払い、大股に歩み出た。


 事の成り行きに、もはやサフィスは呆然と立ち尽くすのみだ。


 中庭の出口に、俺は立っていた。見下ろすイフロースと視線が重なる。


「ふむ」

「大変なことになりましたね」

「どうということはない……だが、お前を連れて行くのは、難しそうだな」

「出て行けるなら、そうしたいんですけどね」


 自縄自縛というべきか。

 一年ほど前に、イフロースが俺と締結した契約のせいだ。きっかりその日に金貨六千枚を支払わない限り、俺は本当の自由を得られない。


「止むを得ん。手続きが済んだら、我々の後を追ってこい」

「そうする理由がありますか?」

「報いてやるぞ」


 そう言って、彼は口角を上げる。

 俺は肩をすくめた。


「……ま、とりあえず、今夜寝るところがないなら、部屋くらい貸しますよ」


 彼は小さく頷くと、勢いよく歩き出した。

 その後を、エレイアラが、そして手を引かれていく子供達が、ナギアが追っていく。


 中庭には、茫然自失のまま、ただただ見送るばかりのサフィスと、不安げな召使達だけが残された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る