水平線に去る
頭上には青空が広がっている。まだ空気には冷たさが残っているが、少しずつ暖かくなってきているのが実感できる。そよぐ風も、どこかみずみずしい。
昼前の波止場に、見送りのために人が集まってきている。但し、いつもより少し多い。
「あなたには本当にお世話になりました。それがこのような。主人に代わって感謝とお詫びの気持ちをお伝えしたく」
「とんでもありません、奥様。長い間、こちらこそお世話になりました」
いつもなら、家族だけがここにいた。だが今回は。
サフィスは来なかったが、エレイアラとリリアーナ、連れられてウィムが顔を出した。
それから、船員達だ。全員ではない。ただ、フリュミーの誠実な仕事ぶりに感銘を受けたもの、多くを学ばせてもらったことに感謝するものが、いないわけではなかった。
その後ろに、ナギアとルード、サーシャがいる。
ランはその後ろで、いつもの無表情を貫いていた。昨日の尋問については、完全に記憶にない。だから、自分の本音については、誰にも悟られていないと思っている。
「ねぇ、フリュミーのおじちゃん」
「はい、お嬢様」
笑みを作ってフリュミーは身を屈める。
「そのうち、私もムスタムに遊びに行ってもいいかなぁー」
「もちろん、大歓迎ですよ」
彼は笑顔で応じた。
リリアーナの中では、ナギアが向こうにいくのは決まりだ。俺を使って、前夜のうちに乗船チケットを調達しておいたのだから。大事な友人がいなくなってしまうのは寂しいが、これもナギアの幸せのため。だから、こんなことを言うのだ。
ただ、それにしては、ナギアの手元には、着替えなどの荷物がないが、これは怪しむに足りない。なぜなら、そんなものを準備してここに来たら、ランに見咎められてしまうからだ。
この場に来てからなら、誰がどんな妨害をしようと俺が排除できる。だが、その前にどこかに閉じ込められでもしたら、間に合わなくなる。必要なものは乗船チケットただ一枚。船の上では身軽が一番だ。
「船長! 本当に行っちまうんですか」
「俺達だけじゃ……」
フリュミーは大股に歩み寄り、船員達の肩を叩いた。
「ありがとう」
いったん言葉を切ってから、彼は続けた。
「誰しも、海の上では一人前だ。そうならざるを得ないんだ。僕はみんなにたくさんのことを学んでもらおうとした。海の上では何が起きるかわからない。一つの失敗が取り返しのつかない結果を招く。素早く動くこと。変化や違いを受け入れること。無駄を省き、忍耐すること。でも、一番大事なのは」
間を取って、強調した。
「どんな時でも最善を尽くし、最後まで諦めないことだ」
船員達は、目を見開いて彼を見た。
まさに彼は、その言葉を体現するような男だった。今でも忘れない。あの暴風雨の夜。勇気と我慢強さ、それに冷静な判断。あれこそがディン・フリュミーという男、賞賛に値する一人の船乗りの姿だった。
「はい、船長!」
「絶対に忘れません」
口々に叫ぶ。
それが収まるのを待ってから、フリュミーは笑顔で言った。
「また、どこかの海で会おう」
俺はじっと場を見つめた。
最後に家族の番だ。いよいよナギアが前に出る。
「ああ、ルード、ナギア。済まなかったな。こんなことになって」
ルードは不機嫌そうに下から彼の顔を見上げるだけだった。
フリュミーもナギアも、彼を家族だと思っている。一応、ルード自身もだろう。だが、俺は真実を知っている。
今の彼にしてみれば、家族どころではないのかもしれない。ただでさえ、秘書課に入り損ねて、陸上交易部門に回されてしまった。王都への遠征でもメンバーから漏れた。
たまにしか家に帰ってこない父。彼にとっての認識は、そんなものなのかもしれない。そして、この離婚でまた一つ、傷がついた。成年に達していない彼は、フーリン家に留まる。つまり、騎士の息子、騎士相当の身分から、庶民に落ちるのだ。かつては官邸内のガキ大将の地位を思うがままにしたものなのに、なんだかどんどん将来が暗くなる。
「パパ」
ナギアは目に涙をためて、倒れこむように父に抱きついた。
そのまま、離れがたいといわんばかりに、固く掴まっている。
「ナギア」
後ろから冷ややかな声が飛ぶ。
「そろそろになさい。出港の時間が迫っているのですよ」
そうはいくか。この腐れビッチが。それでも母親か。
だが、このままナギアはムスタムに行く。お前の思い通りになんか、ならない。ここに俺がいる限り、誰にも邪魔はできない。
ナギアは、父の胸から顔を離した。その頬は、涙に濡れていた。
「母さん」
震える声で、彼女は、しかしはっきりと言いきった。
「私、やめるわ」
「なに……なんですって」
「私は、あなたの娘を、やめます」
やり取りを見ていた全員が、この一言に息を飲んだ。
さすがにこれには、フリュミーも顔色を変えたほどだ。
「馬鹿なことを。あなたはフーリン家の娘です。それは死ぬまで変わりません」
「いいえ。私がやめると言ったの。だから、もう違うわ」
涙を流しながら、しかし断固として。
これでいい。ナギアは新しい人生を手に入れるのだ。
恐れることはない。今になってランに何かできるとは思えないが、それは俺がやめさせる。仮にこの場にいる全員が敵になっても、俺が取り押さえる。
堂々とムスタムに行けばいい。
彼女は振り返り、また父を見た。
「パパ」
「ナギア」
「私は、パパの娘だよ」
何を言い出すのかと、彼は神妙な面持ちでナギアの顔を見つめた。
それは突然だった。
「ごめんなさい」
俺の頭の中に疑問符が浮かぶ。なぜそこで?
「私、ムスタムには行けない」
なんだって!?
「私……やらなきゃいけないことが……やると決めたことがあるから……!」
涙をポロポロ流しながら、そう言った。
なんてことだ。
彼女は、俺の想像を超えていた。
……そこまで覚悟を固めていたなんて。
「そうか」
フリュミーは、そっとナギアの頭を撫でた。
「立派になったな」
彼の目尻にも涙が浮かぶ。
まだ十歳になったばかりの娘が、一人前になったのだ。体は子供でも、自分で考え、自分で決めて、自分で責任を取る。これが嬉しくない父親がいるだろうか?
なるほど、彼女はフリュミーの娘だ。それは間違いない。今まで幾度となく、躓いてきた。逃げたりごまかしたり、ひねくれもした。でも最後には、まっすぐ前を見たのだ。
ナギアには、小賢しい考えなどなかった。
まず自分が誰なのか、誰であるべきなのかを選び取った。ナギアはディン・フリュミーの娘だ。だからそれに恥ずかしくない生き方をする。
最初に、自分が何者なのかをはっきり宣言する必要があった。その自分とは、見栄と欲得のために夫を捨てる女に属するものであってはならなかった。
それから行動だ。守ると決めた人がここにいる。いる以上、自分もそこにいる。たとえ最愛の父が遠くに離れていこうとも、彼女はここに留まるのだ。
ピュリスに残るなら黙っていたほうが得だとか、そんなちまちました考えなど、欠片も抱かなかった。まさしく船乗りがするように無駄を削ぎ落とし、必要なことだけをしっかりと残した。
「今まで、ありがとう」
「ああ、元気でな」
これで挨拶は済んだ。
そっと身を離すと、フリュミーは立ち上がり、背を向けようとする。
そこに、甲高い声が飛んだ。
「パーパー」
末の娘のサーシャだ。
そうだった。
彼は、彼女にだけは、ちゃんと挨拶しなかった。
「ああ、サーシャ」
「パパー、どこ行くのー?」
しゃがみこんで、頭を撫でながら答える。
「遠くに行くんだよ。でも、大丈夫」
「あたしも行っていいー?」
この一言に、またもや場の注目が集まった。
「サーシャ、でもね、その……戻ってこられないんだよ、だから」
「でもー、お姉ちゃんは行きたかったんでしょー?」
ことの深刻さがわかっているのか、いないのか。
どこまでも明るい声で、彼女はそう問う。
「ああ、でも、だけど」
「だから、あたしが代わりに行くのー」
顔色を変えたのはランだ。
「な、何を! サーシャ、あなたまで! こちらに来なさい」
「やだ」
「サーシャ!」
「だってママ、怖いもん」
拍子抜けする一言に、船員達の間で軽い笑いが起こった。
「パパ、一人だけで遠くに行くの、かわいそうでしょ?」
そう言ったサーシャに、ナギアが歩み寄る。
「サーシャ」
そっと頭を撫でながら、彼女は言った。
「お願いね」
「うん!」
「二人とも、よしなさい!」
前夜に俺が用意した乗船チケットを、ナギアがそっと手渡す。
怒り狂うランを尻目に、ルードは地面に唾を吐いた。
「……よし!」
フリュミーは、サーシャを抱き上げると、勢いよく立ち上がった。
「そろそろ時間だ。みんな、ありがとう!」
本気で末娘を連れ去る気か。
ランは戸惑いながら周囲を見回す。だが……
「おう! 船長、行ってきてくだせぇ!」
「ムスタムなんざ、すぐ近くだからなぁ」
「また酒をおごってくだせぇよお!」
船員達の陽気な声が、彼女の抗議を塗り潰す。
エレイアラが、その足元でリリアーナが、微笑を浮かべてそっと手を振る。
フリュミーは、背筋を伸ばし、胸を張って、堂々と歩き去った。タラップを渡り、甲板の上からもう一度手を振る。ロープが解かれ、船が少しずつ動き出す。
北東からの風に吹かれて、船は見る見るうちに小さくなり……やがて水平線に没した。
その日の夜。
寝床で俺は寝付けずにいた。のそりと起き上がり、物思いに耽る。
俺は、無力だった。
これだけの力を手にしても、結局は、どうだった?
苦しい試練を正面から受け止め、乗り越えたのは、ナギア自身の意志の力だった。
彼女は、まさに生きている。最初は、陰湿な召使同士の人間関係の中に埋もれていた。だが、それこそ泥の中から種が芽吹くように、少しずつ少しずつ、上へ上へと伸びていった。いけすかない少女から、立派な一人前の、気高い人間へと、成長し続けている。
……俺は?
前世からの知識と記憶を引き継ぎ、人間離れした能力を持ちながら。
どうして乗り越えられない? どうしてここに留まっている?
あの意志の輝きすら、俺は簡単に消してしまえる。
殺すこともできれば、心を書き換えることもできる。簡単だ。簡単すぎるほどに簡単だ。
嫌悪感が次から次へとわきあがってくる。
肉体や経験を横取りする力。こんなもの、何の役に立つ?
それにこれは? この力も、あってはならないものだ。
心を書き換える魔力。こんなものは。
いざとなれば、ランをまったく別人に作り変えることだってできた。過去はともかく、これからは貞淑で真面目で、献身的な妻にするのだって。そうすれば、万事解決だった。でも、それでよかったのか?
本当のところ、何度もそういう誘惑に駆られた。でも、しなかった。できなかった。
そして、それは正しかった。
こんな力はもう、使いたくない。
人を狂わせる力は、自分自身をも狂わせる。
俺にはまだ、使いこなせない。なのにそれに頼って生きている。それがわかった。
窓の外の暗い夜空を見上げる。
そこには世界が広がっているはずなのだ。なのに見えない。
俺自身の目が、曇っているから。
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