ランの秘密
「ファルスのくせに、よくきてくれたわね」
「安心していい。ナギアのためじゃない。お父さんのためだから」
秘書課の棟のすぐ外で、ナギアは待っていた。そこから並んで歩く。目指すは本館のお嬢様の部屋。
とりあえず、リリアーナと会う。そこから、なんとかエレイアラやサフィスを動かす。多分、サフィス自身が動かないと駄目だ。外様の夫人では、ランを説得できない。
問題は、エレイアラとサフィスの仲の悪さだ。妻の口添えが、この場合、マイナスに働く。
「とりあえずは、お嬢様と相談してみましょう」
「お昼には、閣下もお戻りになられるわ。その前に」
時間は限られている。手早くリリアーナと打ち合わせを済ませて、昼食の間にサフィスをうまく説得するのだ。
「いらっしゃいー」
ややテンションの低いリリアーナが、扉を開けて迎え入れてくれた。
「お嬢様、早速ですが」
「はいはい座ってー」
先を急ぐナギアを、彼女はベッドの上に座らせた。
「じゃ、今日は何しよっか」
えっ?
「あ、あの? お嬢様? 今は、それどころでは」
「うんー」
口元だけで笑う。リリアーナの表情に翳が差していた。
「難しいと思う」
ポツリとそう言う。
「ですから、ファルスと相談しまして、閣下の口添えをと」
「それはできるかもしれないけど、そんなの、無理やりじゃない?」
彼女は、冷静な意見を口にした。
「だって、今回のお話は、ナギアのお母様からでしょう? パパから我慢しろって言われたら我慢するかもしれないけど、でももう、ナギアのパパにも、離婚するって言っちゃったんだよね?」
「それは、はい」
「じゃあ、もし離婚するのをやめても、本当は離婚したいんだって、もう嫌いなんだって、ナギアのパパも知っちゃってるんだよ」
「それは……」
ナギアが、顔をくしゃくしゃにする。
受け入れがたいその気持ち、俺にはよくわかる。前世で、両親が争うたび、俺も同じ顔をした。
進み出て、俺は言った。
「なぜ今になって離婚したいか。その理由次第だと思います」
「うん?」
肝心なのは、そこだ。
やめさせることじゃない。リリアーナの言う通り、関係性を再構築できなければ、結局は無意味なのだ。
「離婚したくない理由なら、いろいろあるはずではないですか。そもそも、セリパス教徒の女性にとっては、離婚はとても重いものであるはずですし、子供達も三人います。おまけに夫は騎士ですよ? それが離婚してしまったら、自分の身分も平民相当に扱われることになります。損することばかりじゃないですか」
そうなのだ。
イフロースは、離婚する理由ばかり語った。彼には自責の念があるから、ああいう話になるのだろう。だが、俺は別の視点で考える。
なぜランは、今まで離婚に踏み切らなかったか、だ。
「正直に言うかな?」
どこまでも現実的なリリアーナは、鋭くそう問う。
えてして、こういう強硬な手段で自分の意志を通そうとし始めた人間は、依怙地になる。決断する前には散々躊躇しておきながらもだ。いったん立場を表明した以上、それは撤回できない。
喩えるなら、株券みたいなものだ。買う前は、どれが値上がりするかと散々迷うのに、いったん買ったら、上がるはずだ、上がらないのがおかしいとムキになる。そして、値下がりしても手放せない。
「問題ありません。いざとなったら、本当のことを聞き出せます」
もっとも、そんな意地など、俺には通用しない。魔術の力がある。だが、それは最終手段だ。
喋らせることもできるが、普通に心の声を聞き取るだけなら、まあ、前もってやってもいいかもしれない。術だけは先にかけておく、という手も使える。
「ファルスがそう言うなら、それはできるんだね」
どうやって、とは尋ねず、リリアーナは俺の言葉をそのまま受け止めた。
「でも、いいのかな」
「何がですか」
彼女は、ベッドに座ったナギアを見やりながら、言った。
「本当のことって、案外、いやなものなんだよ。知らないほうがいいことを見つけちゃうかもしれない」
「でも、このまま何もしなかったら、どうせ離婚するんですよ」
「そうだけど」
……なるほど。
だから、リリアーナは、俺達を迎えた時、ああいう態度を取ったのか。
どうにもならない。それより、今を大事にしよう。楽しく過ごそう。
彼女らしい、諦念溢れるアイディアだ。
「やれることは全部やって、それから泣きましょう。お嬢様、まだ時間はあるんです」
「ファルスがそう言うなら」
彼女は、ナギアに手招きして、立たせる。そのまま俺達は、あとについて部屋を出る。
目的地はすぐ近くだった。
「まあ、二人とも、いらっしゃい」
部屋で寛いでいたエレイアラが、俺達に笑顔で話しかける。
「失礼致します、奥様」
「いいのよ、楽になさって」
普段よりずっと態度が柔らかい。ナギアの事情を知っていて、気を遣っているのだ。
「わざわざ挨拶にきてくれたのね」
不吉な言葉に、ナギアはビクッと身を震わせる。
「今までリリアーナと仲良くしてくれてありがとう。ずっとお礼を言いたかったのよ」
「奥様!」
泣きそうな顔で、ナギアは、あえて歯を食いしばって叫んだ。
だが、それが限界だった。目から涙の雫が零れ落ちる。
俺が代わりに言った。
「奥様、済みませんが、まだナギアは諦めていません」
「あら」
「なんとかランさんに離婚を撤回してもらおうと、今、いろいろ頑張っているのです」
「そうだったのね」
彼女はそれを聞いて、座り直した。
「リリアーナ、お茶を出して差し上げなさい」
「えっ」
そして、エレイアラは俺達二人に、座るよう身振りで示した。ナギアはおずおずと腰掛ける。
しかし、主人の娘が召使二人にお茶を出すとは、どういう状況だ?
「ナギアさん」
普段なら、呼び捨てだ。
明らかにこれはおかしい。
「これはもう、決まってしまったお話なの。私では、どうにもできません」
残酷かもしれない。それでも彼女は、はっきりと言い切った。
だが、その理由は? 俺は嘴を突っ込んだ。
「なぜですか」
「主人が、許可を出したわ」
サフィスが。
あの野郎……
いや、落ち着け。
今回に限っては、今のところ、サフィスが悪いということにはならない。先祖代々一家に仕えた家の娘が、外様の夫と離婚したいというのだ。ならば主人としては、夫より妻のほうを大事にするのは、当然のこと。
「どちらにせよ、彼……ディン・フリュミーは、エンバイオ家の仕事から外されました。後任も決まっています。この決定は覆せません」
「そんなことをする理由が、どこにあるんですか」
この問いに、エレイアラは目を伏せた。
「ナギアさん、私としては、あなたはお父様についていって、ムスタムで暮らすべきだと思うのです」
「お……奥様!?」
「エンバイオ家がすべてではありません。ムスタムは、ここよりは少し暑苦しいでしょうけど」
そう言いながら、彼女は俺の顔をちらと見た。
「王も貴族もいない、自主独立の街です。さぞのびのびしていることでしょう」
「そんな、私はそのような、主家の恩を忘れるような」
「自由とはいいものですよ、ナギアさん」
説明はしない。ナギアには出て行くことを勧める。
となると、エレイアラは何かを知っている。少なくとも、勘付いている。
……心を読み取るか?
いや、まだいい。
まず、彼女に悪意がないのは明らかだ。なのにそんな真似をしては失礼だろう。
第一、彼女の知識や判断が正しい保証もない。エレイアラは何らかの手がかりを元に、ランの行動の原因を推測しているに過ぎない。
「奥様」
なんにせよ、打てる手を用意しておくに越したことはない。
「では、閣下が考えを改めれば、なんとかなるのですね」
「そうね、でも難しいと思うわ」
「なら、今日のお昼には戻られるということなので、その時、もしよろしければ、お口添えいただけると嬉しいのですが」
「それは構わないけど……」
彼女も、どうにもならないと考えているようだった。
ならば直接、本丸を叩く。
ランは、嫡男ウィムの乳母だ。よって実質、母親代わりといえる。そのウィムは、まだ五歳。つまり、まだまだ甘えたい盛りだ。
よって、ランの今の職場も、そことなる。
「お上手ですね、若様」
「わぁい」
「じゃあ、もう一度、やってみましょうか」
やや薄暗い、本館の一室。
文字が駒になっている、何かのボードゲームで遊んでいるようだ。学習目的を兼ねた玩具、といったところか。
隣でサーシャも一緒になって遊んでいる。
そこに三人で踏み込んだ。
「おや、お嬢様」
ランは立ち上がって腰を折った。
「こちらへはどのようなご用件で」
言葉遣いは丁寧でも、なんとなくそこには敬意が感じられない。
主人の子供といえど、明確な上下関係があるのだ。嫡男は跡継ぎだが、リリアーナは他所の家に送り込まれるだけの素材でしかない。エンバイオ家に根を張るのはリリアーナではなく、乳母の自分のほうなのだ、という自負が見え隠れしている。
しかも、後ろにはこの俺、「フェイ」までいる。つまり、奴隷上がりの卑しい少年が。
いちいち説明しなくても、彼女は察している。ナギアのために、離婚の件に首を突っ込もうとしているのだと。
「ちょっといいかな」
リリアーナは声をかけつつ、視線で隣の小部屋を指し示す。
小さな子供の前で話すことじゃない。だから別室で。
この気遣い、リリアーナって本当に子供だろうか?
「済みませんがお嬢様、なにぶんにも若様から目を離すわけには」
「じゃあ、代わりの人を呼べばいいよ。ファルス」
「はい、ただいま」
「ああ」
それをランは、手を振って止めた。
「あまり長くならないようであれば、構いません」
「じゃあ、こっちへ」
二人で遊ぶウィムとサーシャを残して、俺達は隣の部屋に入った。
「それで、どのような」
「うん、ねぇ、ラン?」
「はい」
「いきなりだけど、ナギアのお父さんと別れるって、本当?」
その問いに、ランは一切表情を崩さず、一瞬沈黙した。
「それはどなたが?」
「とっくに屋敷中の噂になってるよ」
「ナギア」
責任の所在を曖昧にするリリアーナの返答に対して、ランはすぐさま娘に矛先を向けた。
「いらぬことで主人を煩わせるとは、何事ですか」
「お母様」
「ラン、ナギアは連れてきただけ。知りたいのは私なの」
有無を言わせぬ態度に、ランはまた黙り込み、それから静かに言った。
「確かに、閣下の承認のもとで、離婚が成立しました」
ということは、もう書類その他の手続きも済んでしまっているのか。
「どうして? 何がいけなかったのかな」
「どうもなにも……お嬢様、それは夫婦間の問題でございますから」
「確かに、私があれこれ言うことじゃないね」
「ご理解いただけましたか」
「でも、ナギアは娘でしょ?」
その言葉に、ランはまた怖い顔を娘に向けた。
「恥を知りなさい、ナギア。自分の目的のために主人を利用するなど、下僕にあるまじきこと」
「ごまかさないで」
笑みを消したリリアーナが、鋭く言った。
「ラン、ナギアは私に仕えてるのよ?」
口調が変わった。
珍しく、リリアーナが怒っている。知らない人にはわからないほどの、静かな怒りだが。
「左様でございます」
「下僕は身を粉にして主人に仕えるもの。そうよね?」
「おっしゃる通りでございます」
「なら、主人は下僕に何を返すべきなのかしら? ねえ、ラン」
一歩、前に踏み出して、リリアーナはランを真正面から見据えた。
「下僕の苦しみを見てみぬふりをする主人なんて、主人とは呼べないわ。ラン、あなたは私に恥をかかせるつもりなの?」
「滅相もございません」
突然、予想もしなかった威圧的な態度を見せ付けられて、ランは若干、うろたえた。
「説明なさい」
リリアーナの命令に、しかしランは、うっすら浮かべた笑みを消しはしなかった。
「では……私にとっても恥ではございますが、申し上げねばなりますまい」
もったいぶって、彼女は語り始めた。
「ディンは良き夫、良き父ではありませんでした」
その視線は、ナギアに向けられる。
この否定的な言葉にナギアは、喉の奥からこみあげてくる気持ち悪いものを飲み下そうとするかのように顔をしかめ、唇を噛んだ。
「おわかりですか、お嬢様。何ヶ月も海に出たまま、仕事のためといっては家に戻らない。それが夫でしょうか」
「私にじゃなくて、ナギアに説明して」
「これは失礼を」
とは言いつつも、リリアーナの命令ありきで喋っているのだ。口調は変わらない。
「仕事というなら、私もここで主家のために尽くし、同時に自分の家族も守っているのでございます。それがあのような、気儘な暮らしを続けているようでは」
こんなのはただの理由付けだ。粉砕してやる。
「カーン様はどうなるんですか」
声をあげたのが俺だと、ランはあからさまに嫌そうな顔をした。
「カーン様は、とても真面目な方ですから。奥様も大層大事にされているようですし」
それは事実だ。現に、グルービーから美女を勧められても、はっきり拒否していた。俺の目があるからといってもだ。
だが、なんだ? フリュミーは違うというのか?
「それに比べ、私の元夫ときては……」
ナギアが息を飲む。
まさか、不倫? 他所で女でもこさえているとでも?
馬鹿な。あり得ない。それを言うなら、子爵家の他の船乗り達の方だ。フリュミー自身は、そんなのとっくに卒業したと言っていた。
いや、待て。
これがランにとっての、本当の理由だとしたら?
つまり、実際には彼は夜遊びなんかしていない。しかし、船員の誰かがそういう報告をすれば、ランは簡単に信じるだろう。なぜそんな報告があがってくるのか? あり得なくはない。例えば誰か妻帯者の夜遊びがバレたとする。そうしたら、そいつはどうやって言い訳する?
『船長が一緒に遊ぼうって言ったんだ、断れるか?』
これに尾鰭がつけば、あっという間に遊び人、ディン・フリュミーの出来上がりだ。
「フリュミーさんは、そんなことをする人ではありません」
「あなたは子供だから、わからないのです」
「僕は一度、一緒にムスタムまでいって、見ています」
「一度? 一度だけでしょう? あなたの前では、何もしなかったのでしょう」
信じ込んでいるのか、それとも、わざと言っているのか。もし前者なら、頑張って誤解を解けばいいが……
本当は使いたくなかったが、やるしかないか。さっきのやり取りの最中にこっそりと仕掛けておいた魔術を発動させる。
「では、ラン様、あなたはフリュミーさんが、あちこちで悪い遊びをしていたと、そう信じているのですね」
「それはもう、残念ではありますが、何度もそういう話を聞いているので……誰から、とは言えませんが」
ノイズのような言葉の後から、本当の声が聞こえてくる。
《しつこい奴隷が……どうでもいいことをネチネチと》
心を読み取って正解のようだ。
「こんなお話は……わかりますか、お嬢様? 娘にだって言いたくはないものなのですよ?」
《やっと別れられるのに……ナギアもバカな娘……私の言う通りにすればいいものを》
「僕はフリュミーさんがそんなことをするとはまったく信じていませんし、あり得ないと思っていますが」
こうなったら、全部読み取ってやる。
何が目的なのか、炙り出してやろう。
「もしそれが事実だとしても、別れる前にやることがあるのではないでしょうか? まずは夫の行いを正すべきかと」
「簡単に言うのですね。海の向こうにいるのに、どうやってそれができるのでしょうか」
「イフロース様に相談して、秘書課での勤務を命じてもらってはいかがでしょう。そうすれば、家族と過ごす時間も増やせますし、フリュミーさんも妻や子供達との関係を見直す機会がもてるでしょう」
《秘書課! ……冗談じゃない! 傍にいられたらどうなるか。あの時は、早々に海に出てもらって助かった。でなければ、すべて知られてしまうところだった》
あの時?
あの時とはなんだ?
「そうは言いますが、ファルスさん、あなたは夫に裏切られた妻の気持ちがまったくわかっていません」
《ルードの誕生日をごまかせてよかった。でないと、タークのことが》
ターク?
「他の女に触れた手が、私の手に触れる。それだけでも、耐え難いことなのですよ」
《私も馬鹿なことをしたものだ。冒険者崩れにのぼせ上がって体まで許し、あまつさえ妊娠まで》
妊娠!?
じゃあ、なんだ。ルードは……別の、タークとかいう男の息子?
「本来なら、私は同情を集めてもいいはずの立場なのです。ですが、夫の不義を大声で喚きたてるなど、はしたないにもほどがありますから、あえてこうして沈黙を守っているのです」
《あんな女に上をいかれて……フーリン家の面目は丸潰れ。でも、今に見ていなさい》
リリアーナが口を挟んだ。
「それでも、娘のために、息子のために、我慢するって選択肢はなかったんだ?」
「おお、お嬢様、簡単におっしゃるのですね」
「簡単じゃないよ。知ってるでしょ? 私のママとパパのこと」
こっちは現在進行形でおおっぴらに不倫継続中なのだ。さすがにランも言葉がない。
……では、今はそのタークとやらのことを、どう思っている?
《あんな、乱暴なだけの男など、もう用はない。それより、今度こそ、機会を逃さないようにしないと》
今度? 機会?
「それは、大変にいたましいお話ではございますが……ランめは、奥様ほどにはとても」
「ナギアのことは、どうするの?」
「娘には、どうするのも自由と言ってはおりますが、本当のことをいうと、ムスタムのような秩序のないところで暮らすより、ここピュリスで、子爵家の折り目正しい生活をと、そう望んでおります。それに」
ランは向き直ると、ナギアに言った。
「いいですか、ナギア。お前に自由があると思ってはいけません。今日までお前を養ってきたのは、エンバイオ家の恩情です。それに報いることなしに、勝手に遠くで気儘な暮らしをするなど、情けないにもほどがあると思いませんか」
主張がエレイアラやリリアーナとは正反対だ。
その言葉は立派だが、内心は……
吐きそうになった。
《王都の宮廷人、エマス・スブヤンシ……殿下とも近しい、一代男爵でもある、あの男》
魔術の深度を上げた。心の声だけでなく、過去の映像記憶が、肌の感触が……
俺の脳内に、そのエマスとやらのイメージが浮かび上がる。太った中年の男だ。それが全裸で……そして、記憶の中のこの肌寒さは、ラン自身のものだ。
しかし、この男は彼女に何もしなかった。
《先妻をなくして二年、後添えを探しているけど……見つからないのも無理はない、なぜなら彼は、表向きは詩を愛する文化人だけれど、本当は少女にしか興味がないのだから》
「ですから、私としては、あなたはこのまま、お嬢様に仕え続けるべきだと思います。いいですね、ナギア。フーリン家の娘として」
《今度、ディンの後釜に収まるのが、エマスの次男……殿下のご希望通り、そして私は、彼の》
殿下? 殿下だって?
「ということで、ご納得いただけたかと思います、お嬢様」
「んー」
「……ターク」
俺がボソッとその名前を漏らすと、全員がはたと動きを止めた。
「誰ですか、タークって」
ランの目を見ながら、俺は尋ねた。
「何のことです? わかりかねますが」
「では、エマスは?」
「おや」
ランの表情に、作り物の余裕が浮かぶ。
「王都の宮廷人にして詩人、エマス・スブヤンシ様のことですか? それなら、ええ、存じておりますよ。それが何か?」
《手紙のやり取りを、一度、奥様に見咎められた。まさか、気付かれてはいないと思うが……》
「……ナギア、もう、いい。わかった」
「え? え? なに? なにが?」
「知らなくていい。ムスタムで暮らすといい」
「ちょ、ちょっと! 何言ってるのよ!」
《いきなり何を……ナギアは、エマスに引き渡すために必要……それで私は、正式に貴族の妻に……サーシャは、うまくすればウィム様の側妾に……フーリン家の跡取りはルード、ゆくゆくは家宰に……》
この女。腐りきってる。
若い頃の過ちは、まだ仕方ない。それでも、この事実だって、ナギアにはとても言えない。ルードの本当の父親が、タークとかいう、どこぞの馬の骨だなんて。
それがどうだ。今は三人の子供の母親なのに。こいつは自分のことしか考えていない。
メイド長に、自分より上のポストを押さえられた。子爵家という狭い社会の中で、二番目になってしまった。それが耐えられない。カーンとフリュミー、いつも比べられる。本人同士は仲良くやっているのにだ。
その劣等感を撥ね退けるのに必要なものは? よりよい夫だ。そこに愛情は必要ない。ただ、自分の地位と名誉を確保してくれる相手であれば、誰でも。
そして、それに付け込んだのが、エマス……いや、違う。
タンディラールだ。
「ナギア、フリュミーさんは、立派な人だ。完全ではないかもしれないけど、だとしても僕は、あの人が自分の父親だったらいいのにって思うくらいに……ナギアが羨ましかった」
「なによ、いきなり」
「でも、この人は。とてもではないけど、フリュミーさんには、相応しくない」
この一言に、ランは表情を変えた。
奴隷風情が、なんという侮辱を。
どうとでも思えばいい。こいつも馬鹿な女だ。
その虚栄心、家臣達の綻びを、タンディラールは利用しようと考えた。
次期国王となる彼だ。ピュリスから一貴族の利権を排除したいのは、変わらない。
幸い、エンバイオ家は一枚岩ではなかった。指導力に優れたフィルがいなくなった後、家臣達は本来の怠惰な態度に逆戻りし、家長も一切を部下に任せっきりにした。唯一、イフロースだけは必死で子爵家を守っているが、それだけだ。
抜け穴はいくらでもある。ランもその一人だ。カーンの妻にトップの座を奪われ、劣等感に苛まれている。ならば、いっそ貴族の妻になるチャンスを与えては?
といっても、あまりに好条件だと、さすがに食いつかない。だが、一代男爵程度なら……エマスは恐らく、タンディラールの意を汲んで、詩人としての顔を使ってランに接触した。
実際には、本気で交際する必要などない。文通するだけでいいのだ。それだけでも、ランは子爵家内部の情報を垂れ流してくれるし、コネを使って次男を一定のポストに送り込んでくれたのだから。ただ、彼は彼で、思うところがあったのだろう。ラン自身には興味がなくとも、その娘になら。
どいつもこいつも。
どこまで腐っているんだ。
「何を言ってるのよ! ファルス、私は離婚を止めてって言ったのよ!」
「それはもう、無理だよ……ねぇ、ラン様?」
「え、ええ、これはもう決まったことです」
このクズが。
頭の中が、まるで熱湯で満たされたかのようだった。泡一つ、波一つない。それでもきっと、外気に触れた瞬間、爆発する。
わかった。
お前の人生はお前のものだ。だから、好きにすればいい。
但し、責任はとってもらう。
「……うっ!?」
突然、ランは表情を変えた。勝手に手足が動き、椅子から立ち上がってしまう。不自然に胸を張って、よろめきながら立っている。その異様さに、リリアーナもナギアも目を丸くする。
「さて、ラン様」
俺は、静かに尋ねた。
「あなたはエマス・スブヤンシと文通していますね」
「ぐっ……がっ、は、はい」
強制的に返事をさせている。
嘘は言えないように、暗示をかけた。
「あなたは彼との結婚を希望している」
「ぎっ、がっ……いぎっ! あ……はい」
「なぜなら、貴族の妻になれるからだ」
「うっ、あ、いい……はい」
「そのためには、誰を裏切っても構わない」
「そんっ……う、え……はい」
「夫の夜遊びというのも、あなたの作り話だ」
「……えうっ……は、はい」
あまりに異様なやり取りに、二人は目を白黒させている。
「最後に一つだけ」
こんなやり方はよくない。わかっている。よくないが、怒りが自制心を越えてしまったのだ。
「あなたは、一度でもディン・フリュミーを心から愛しましたか?」
「……うう……いいえ……」
魔力を解いた。
ストンとランは腰を落とす。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……くっ」
激しく息を継いで、まもなく。カクンと項垂れてしまった。
「お母さん!」
「……無事だよ。今のやり取りも、もう覚えてない」
ちゃんと最後に『忘却』をかけた。だから、何があったか、もうまともに思い出すこともできないだろう。
「あ……あ……あんた、あんた……」
小刻みに震えながら、ナギアは俺に振り返った。
恐れと、怒り。ややあって、後者が勝った。
頬に熱さを感じた。すぐ反対側にも。
それが繰り返される。
「ばかっ、ばかっ、ばかっ……なんで! なんでこんなこと!」
平手打ちが止まる。あふれ出した悲しみが、彼女に追いついたのだ。手で顔を覆う。
自分の母が、実は父をまるで愛していなかったこと。自分の地位や名声のために、平気で子供達の父親を追い出そうとしていたこと。
これだけでも、絶望するのに十分すぎる打撃だ。
「う……うっ! ううあああ!」
床に突っ伏して、ナギアは激しく泣き始めた。
リリアーナは、その背中を優しくさする。
それでも、ナギアは本当のことを知るべきだったのか?
傷つくだけだったのでは?
いや、これでいい。
さもないと、彼女はいつか、ランの手によって売り飛ばされることになる。それよりは、今、悲しい思いをしても、新天地で生きたほうが。
昼になっても、サフィスは戻ってこなかった。
よくあることらしい。エレイアラは、念のためにと、前もって使いの者を走らせておいたそうだが、それで却ってヘソを曲げた可能性もある。なんとも暢気なことだ。譜代の家臣が、王子の手下に買収されて動いているというのに。
しばらく、ナギアは放心状態だった。リリアーナのベッドの上で、突っ伏すばかりだった。それを俺とリリアーナは、ずっと見守っていた。
夕方になって、ようやく起き上がり、俺に言った。
「……ファルス」
「うん」
「……ありがと。よく、わかった」
頑張って気持ちの整理をつけた、か。
これでよかったのだ。
俺は頷いて、部屋を後にした。
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