これがピュリスの食い納め
橄欖石の月も、そろそろ終わりだ。
この酒場で働くのも、あと三日。三日といっても、週に一、二回しか来ていないので、来週まで出勤予定がある。
来週、エンバイオ薬品店の閉店セールをしたら、そのあと一度だけここで料理を作って、それでおしまいだ。
その代わりの仕事というのがオブジェになることだと思うと、今から憂鬱になる。
とりあえず、仕込みを終えて、窓の外を見る。最近、日が長くなってきた。家々の影が黒く伸びる夕暮れ時。夕食には少し早いくらいか。日が沈む頃に、客が来る。
と思っていたら。
入口の鈴が鳴る。
「やあ」
俺は振り返って、目を見開く。
「よかった。いたんだね」
「フリュミーさん?」
しばらく見ないと思ったら。
今日は一人で来たらしい。かなり前にナギア達にプレゼントされた灰色のコートを、今日も羽織っている。
「聞いてるよ。もうすぐ、官邸のほうに戻されるんだってね」
「はい」
「じゃ、ファルス君の料理を食べられるのも、これが最後ってことになるのかな」
「そんなことありませんよ。セーン料理長が、また屋敷で僕をこき使うかもしれませんし」
「ははっ」
彼は席に着いた。
「何にしようかな……そうだ、あれがいい。『トンコツラーメン』っていうのがあったよね」
「はい」
「もしできれば、それを食べたいな」
「わかりました」
そういえばこの料理、官邸では出したことがない。別に技術の出し惜しみをしているわけではない。俺の中で、貴族の食事とするには相応しくないとのイメージがあるからか。多少、匂いもあるし。
これを夕食の席に出したら、サフィスはどんな顔をするだろう? 案外、変わり種のスープとみなして、あっさり口に運ぶのかもしれない。
幸い、今日はスープの準備がある。さして時間もかからず、俺はトレーを持って彼のところに運んでいった。
「いいね。この味は、ここでしか食べられないよ」
「別に、あちこちの港に広めてもいいんですよ? 作り方なら、教えますから」
「ははは、僕にはちょっと無理かな。やり方だけ教わっても、同じようにはできないよ」
早速、彼はラーメンの丼の中に、フォークとスプーンを突っ込んで、少しずつ食べ始める。店内に人気がなく、静かなせいもあってか、やけにもの寂しい雰囲気が漂う。
「わざわざ食べにいらしたということは、またどこか、遠くに行かれるんですか?」
「ああ、ムスタムにね」
「ムスタム? 近いじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどね……」
他に客もいないので、俺は彼の脇に立って、雑談を続ける。
「じゃあ、二週間もすれば、戻ってこられますね。あ、でも、そうか。僕はもう、この店で働けなくなるから」
その頃には、俺の手作りラーメンはもう、食べられない。
「でも、大丈夫ですよ。もう、店長もこのレシピ、完全に再現できますから、いくらでも食べられます」
「確かに、ここに来れば、ね」
ここに来れば?
変なことを言うな?
「ああ、おいしかった」
「ありがとうございます」
「僕にとっては、この上ない贅沢だよ」
「そんな、たかがラーメンじゃないですか」
「ははは、でも、料理人が『たかが』なんて言っちゃダメだよ」
彼の顔には笑みが浮かんでいたが、どうにも力強さがなかった。ガラスのように透明で、ガラスのように脆い、そんな表情だった。
「僕はもう、戻れないんだ」
「え?」
「そのうち、連絡がいくと思うけど、僕は、クビになった」
ク、ビ?
フリュミー、さんが、クビ? 子爵家から?
「な、なんで! どうしたんですか!」
「どうもしないよ。自然とそうなった」
「自然って! また、アレですか? イフロースが」
「いや、イフロースさんは今回、関係ないよ」
でも、そんな。
クビにしたら、今後の海上貿易はどうなるんだ。
それより、ナギアは。家族はどうするんだ。
「離婚が決まってね」
「えっ」
「ランにとっては、我慢の限界だったらしい。まあ、無理もないよ。いつも家を留守にしてる夫なんてさ」
「仕事柄、仕方ないんじゃないですか」
「理屈ではわかっても、気持ちはまた別だよ」
「いや、だって、じゃあ、カーンさんはどうなるんですか。ずーっと他所の町にいるような人ですよ」
いろいろ並べ立てながら、しかし、そんな言葉に意味などないともわかっていた。
とにかく、離婚が決まったのだ。ならば理由の如何によらず、フリュミーは子爵家にいられない。何しろランの実家であるフーリン家は、エンバイオ家に代々仕えてきた譜代の臣なのだ。そこから叩き出されるとあっては。
「邪魔になったんだろうな」
どこか遠くを見るような目で、彼は言った。
「僕がいるせいで、ランは、昔ながらの召使の中でも、浮いていたみたいだし。なのに肝心の僕はというと、遠くで好き勝手やってるんだから」
「でも、そんなの、どうしようもないじゃないですか」
「そうでもないさ。だからこうして離婚を切り出してきた」
夫より、子爵家内部の立場の方が大事、か。
確かに、そういう判断をしそうな女ではあるが。
「僕も、変にもめたくはないからね。受け入れて、ムスタムでやり直そうと思ってる」
「だ、だけど、その」
言いにくいが、言わずにはいられない。
「子供は? ナギアとか、ルードとか、あと、サーシャとか」
「ああ、それはね」
眉をへの字型にしながら、彼は無理に笑った。
「ここに残していくことになると思う。ルードはもう、独立して働き始めてる。今更、親が、ということはない。ナギアとサーシャは、やっぱり女の子だからね。男親だけで育てるとなると、どうしても不自由させることになると思うからね」
「じゃ、子供を全員取られちゃうんですか」
「取られるってことはないよ、別にいなくなるわけじゃないんだから」
だとしても、だ。
この歳で、一人、外に放り出されるのだ。
フリュミーは有能な船乗りだから、仕事にあぶれることはない。だが、そうして日々を生きる意味が、どこかにいってしまった。
「その、それは、大変、気の毒な」
「いいよ、気を遣わなくても」
「でも、ひどいですよ。家族のために頑張りたくたって、そんなのフリュミーさんには、これ以上、どうしようもないのに」
「いいんだよ、ファルス君」
彼の表情には、悲しみこそあれ、怒りや憎しみ、恨みはまったく見て取れなかった。
「僕は別に、恨めしい気持ちなんてないんだ」
「そんな」
「いや、むしろ、感謝しなくちゃいけないのかもしれないな。強引に持ち込まれた縁談ではあったけど、そうでもなきゃ、僕みたいにフラフラしてるのが、家庭を持つなんて、できなかったよ」
そうかもしれないが……
「おかげで、子供を三人も持つことができたしね」
「でも、だから、だから余計につらいってことはないんですか」
「ああ、けどね。いつかは別れるものだよ。子供達とは。だから、元気に育ってくれるなら、何も言うことはない」
……ナギアは、離婚の話を知っているんだろうか。知っているんだろうな。
どんな気持ちだろう?
「子爵家とは、どういう関係になるんですか」
「どうもしないよ。この腕輪も、没収はされない。ただ、居場所と仕事がなくなるだけさ」
それはそうか。貴族は、騎士の身分を与えることはできるが、当人が重大な犯罪に手を染めたなどの事情でもない限り、没収する権利を持たない。なぜなら、騎士とは社会貢献するエリートだからだ。貴族はそれを認定する立場だが、自分の都合で取り消したりはできない。騎士を認定した貴族がどうなろうと、騎士本人は、社会正義のために働き続けるものだという建前があるからだ。
「いつ、街を出るんですか」
「明後日だよ」
「もしできれば、お見送りしますよ」
「それは嬉しいね。なんなら、そのうちムスタムにも遊びにきて欲しいな」
その夜、帰宅して、ノーラと夕食を囲んでいる時だった。
階下から、ガンガンと玄関の扉を叩く音が聞こえてきた。
「ファルス」
「うん」
立ち上がって、ランタンを片手に降りていく。
開けると、外から息を切らしたナギアが駆け込んできた。
「助けて! ファルス!」
「な、何が? どうしたの?」
「バケモノのあなたなら、なんとかできるでしょ? 助けて!」
なんのことだかわからない。
いや、わかるけど。
「もしかして、お父さんのこと?」
「そうよ! 知ってたの?」
「今日、酒場のほうに来たんだ」
「だったら! なんとかして! お願い!」
いつも散々ひどい態度をとってきておいて、これか。
はあ、と溜息が出る。
「当人同士、大人が話し合って決めたことだよ? 僕にどうしろって言うんだい?」
後ろから、ノーラが降りてきた。
「こんばんは」
「あ……こっ、こんばんは」
ノーラの静かな口調に、ナギアは若干、押さえ込まれたかのようにおとなしくなった。
「ファルス、あがってもらったら? 詳しいお話を聞いてみないと」
それで彼女を二階にあげて、温かいスープを飲ませながら、一通り話を聞いた。
結論からいうと、どうしようもない。それこそ敵が襲ってくるとか、そういうわかりやすい話であれば、俺が剣を振り回せば済む。だが、問題は当人同士の意志だ。
「母さんが考えを変えてくれれば、なんとかなると思うの」
「でも、よくよく考えた上で、そう決めたんでしょ? 自分では話し合ってみなかったの?」
「とりあってくれないの。子供の口出しすることじゃないって」
胸糞悪いことを。
その台詞、俺に言うのならわかる。他所の子供、赤の他人だからだ。でも、ナギアは実の娘だろうに。
「だったら、僕が口出しすると、余計に変なことにならない? だって、関係ない立場なのに」
「だから、頭を使ってほしいのよ! なんとかしてよ!」
「なんとかって……そうだ、イフロース様は?」
言っておいて、すぐ駄目だと思った。
ランは保守派の重鎮で、イフロースは目障りな改革派。こじれるだけで、何の解決にもなるまい。
「いや、意味がないな。じゃあ、お嬢様経由で、奥様か、閣下に動いてもらうのがいいかも」
「どうして?」
「上からこうしろって言われれば、逆らえないでしょ? できれば、閣下が頼み込むのが一番効くと思うんだ。えらい人が頭を下げてるのに、それを無視するなんて、できないでしょ」
「なるほどね! さすがはバケモノだわ」
感謝の思いが窺えないコメントだが、まあ、それはいいとしよう。
「でも」
問題は、どうやってサフィスを引き込むか、だ。
この件、彼の耳にも入っているはずだ。なら、彼はどういう態度を選んでいるのか。
「閣下は、知ってる、よね、これ」
「そうね」
「騎士の腕輪まで与えたんだから、普通はこんなの、見過ごしたりはしないはずなのに……」
召使達にとっても、これは小さくない事件のはずだ。
みんなそれぞれ、どういう態度を選んでいるのだろうか。
「考えても仕方ないでしょ? なんとかしないと……明日しかないんだから」
「ナギアは、なんて言われてるの?」
「その、父さんと別れることになったから、どっちについていくか、よく考えなさいって」
「それは、その、ランさんが?」
「そうよ」
勝手に決めやがって。
子供の立場を考えやがれ。
「とりあえず、明日、官邸に行くよ。何ができるかわからないけど」
「うん、お願い」
翌日、俺は朝食を済ませてすぐ、官邸に向かった。
去年の襲撃から二ヶ月。すっかり普段通りだ。今はカーンの隊商はピュリスを留守にしている。代わりに、南東の中庭には、船員達がいる。フリュミーの代わりに当面の船長に任命された秘書課の男が、倉庫の整理を指揮していた。
さて、とりあえずは何のアテもない。だからまずは情報収集だ。
関係者は、この事件をどう捉えているのか。
あとでナギアが俺を迎えに来ることになっている。そこでお嬢様に、続いてサフィスやエレイアラと顔を合わせる手筈となっている。
ただ、その前に、イフロースから話を聞いてみる。
「……入れ」
窓の外の青空を見つめながら、イフロースはいつものように、日の当たるところで絨毯を踏みしめていた。
「済みません」
「今日は個人的な相談だと聞いたが……」
彼の表情は、いつになく険しかった。
イフロースは多忙だ。サフィスが手をつけない、家内の財政状況を把握し、支え続けている。三桁もの人間が立ち働くこの一家を切り盛りしているのだから、本来なら、こんな少年の話をいちいち聞いてやる時間などない。
「お忙しいところ、本当に」
「前置きはいい。用件はなんだ」
「フリュミーさんの」
「知っておる」
溜息ひとつ。彼はソファに座るよう身振りで勧め、自分も腰を下ろした。
「私のせいだ」
「何があったのですか」
「新しいことは何もない。ただ、古くからの召使を、無理やり取り込もうとして、通した縁談だった。たまたまカーンがうまくいったから、なんとかなると思ったのだが」
言われてみればそうだ。
カーンの妻はメイド長、つまりこちらもずっと子爵家に仕え続けてきた家の女性ではないか。
「まあ、女同士の問題もあるのかもな。なにしろ、カーンの妻がメイド長になってしまった。同じくらい重要な地位にあったはずのフーリン家が、後回しになった感じはある」
「それがそんなに大事なことですか」
「当然そうだろう? これでランは、ずっと二番手の地位に留まることになるのだから」
逆に考えればわかる、か。
メイド長がどうしておとなしくカーンの妻になったのか。落下傘執事の元部下で、家柄も何もない男なのに。何のことはない、エンバイオ家内部での、女のポストの頂点に立てたからだ。
こんなことになったのは、当初のイフロースの立場もあっただろう。
いざ、家宰を引き受けはしたものの、自分一人では家中の権力を掌握しきれない。何しろ彼は、鶴の一声でそのポジションに腰掛けただけの野蛮人だ。
しかし、指揮官として人情の機微に通じていた彼だから、ただ怒鳴りつけるだけでは、俄仕立ての部下達を動かせないと知っていた。まず自分の能力を思い知らせる。その上で信賞必罰を徹底して規律を維持する。だがそれ以上に、権威と信頼が必要だ。
だから、どうしても古くからの召使達と繋がりを持つ必要がある。理想的には血縁関係でも結んで、じっくり溶け込んでいきたいのだが、彼には頼りにできる子供達などいない。彼自身も結婚するには歳をとりすぎていたし、前妻のこともあったから、そういう決断は難しかった。
だからカーンを使ったのだ。彼に騎士の腕輪を与え、妻をメイド長に据えた。これで中枢は固めた。とりあえず、執事としての仕事は切り回せる。しかし……
利権から零れ落ちた連中が、抵抗勢力になってしまった。
あとから、たとえ貴族の血をひくとはいえ、家中ではより低い立場の夫を迎えたランはどうなるか。嫡男の乳母だから、重要人物ではある。だが、それだけだ。
「もう、この際だから聞きますけど、なぜフリュミーさんはうまくいかなかったのだと思いますか」
「無理やり引き裂いたからだな」
「引き裂いた?」
「どうも、いたらしいのだ」
「い、た?」
はっと察する。
では、当時のランには、恋人が?
「それと知ったのは、婚約を決めてからのことよ。人選を誤ったわ」
「どうしてそんなことに? ランさんのほうから、断ってきたりしなかったんですか」
「一家揃ってセリパス教徒だと、こういうところがな」
なるほど。
娘の不祥事。ランの恋愛を、彼女の両親はそう考えたに違いない。
「まあ、いきなり他所からやってきて大きな顔をする家宰が、ずっと年上の男との結婚を強制したのだからな。それも、本人の事情を考えもせずに」
「でも、そんなの十年以上前の話じゃないですか」
「だとしても、女は忘れなどせんよ」
今からでは想像もつかない。
あの、いかにもお固い印象のランに、恋人。
「どうにかならないんですか」
「どうすればいい? 私がやめろと言って、やめると思うか」
「それはそうですが」
「正直、痛手ではある」
彼は立ち上がり、室内をゆっくり歩きながら、ぽつりぽつりと話し出した。
「ピュリスを拠点に商取引で収益をあげる……その道筋が狭まった。有能な人材というのは、いつでもどこでも見つかるものではない。子爵家にとっても、損失だろうな」
そう認識していても、彼には止める術がない。
「まだ、早いです」
「諦めない、ということか?」
「閣下からやめろと言われれば、さすがにやめるでしょう」
「そうかもな。だが、そんなに簡単にいくか?」
「手段を選ばなければ」
俺も立ち上がる。
これは、やってしまっていいのかわからないが……
精神操作魔術を駆使すれば、本当になんとでもなってしまう。
「なんでも、やれると思うなら、やってみるがいい」
イフロースは、低い声で呟いた。
「……ただ、そうすることが、本当に本人の幸せになるかどうかは、わからんがな」
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