真珠の街の罅
「では、確かに」
「ありがとうございました」
自宅の居間で取引を済ませた。これでこの家の所有者は、俺だ。
昨日の午後、ノーラを宿に帰してから即座に話を持ち込み、今朝、すぐさま契約書の作成に漕ぎ着けた。買い取り代金は、たったの金貨三千枚。大金に見えるが、これでもかなり値切ったのだ。悪臭タワーに比べれば相当な金額だが、あれは所有者が逮捕された後の競売だったので、状況が違う。
時間をかけたくなかった。近いうち、俺は官邸に呼び寄せられてしまう。その前に、ここを自分のものにしておきたかった。それに、地下室から大金を出すところを、ノーラにも、誰にも見られたくない。
これで一安心だ。来年初めに子爵家の首輪が外れたら、あとはノーラをどこかに任せたら、背負っているものがなくなる。今後をどうするかなんて、あまり考えていないが、とにかく重荷を下ろしたい。
さて、いつまでもノーラを酒場においておくわけにもいかない。一時的には、うちで引き取らねばならないかもしれない。
俺と暮らす、といっても、俺はこれから、少なくとも月の半分は、官邸で寝起きしなければならなくなる。となると、この家は、財宝置き場兼実質ノーラの自宅、か。
とにかく、彼女ともう一度、ちゃんと話し合わなくては。
それで俺は、自宅を出て、いつもの酒場に向かった。
海賊の襲撃から一ヶ月ほど。
市内のあちこちにまだ、傷跡が残っている。さすがに三叉路の障害物は取り除けられているが、石畳の修復は進んでいない。一応、港湾都市としての機能は取り戻しつつあるものの、まだまだ生活する上で、不自由することがある。
まっさらな真珠のような街だったのに。今ではそこに、ひび割れができてしまったかのようだ。
「こんにちは」
扉を押して酒場に足を踏み入れる。そこで展開されていたのは、昨日と同じ修羅場だった。
「ごめん、急がないといけない」
「だから、なんでだよ。ちゃんと理由を説明しやがれって」
「それも、ちょっと、難しい」
「後ろめたいことでもあるのか」
「……ない、けど」
既にユミは荷造りまできっちり済ませている。もうすぐ昼だ。
ピュリスの商船は午前中に出航し、午後に入港するから、もう時間的にはギリギリだろう。
「乗り遅れたっていいだろ? 船の代金なんざ、俺達で肩代わりするさ。だから、そう慌てずに話をして欲しいんだが……お、ファルスか」
「お前からも何か言ってやれよ」
いきなりそう言われても困る。
「ユミさん」
「はい」
「ついこの前、ウィーの件があったばかりなんです。せめて理由を説明してあげてください」
すると、彼女は目を泳がせ始めた。
「追われているから」
「追われている!?」
この一言に、全員が反応した。
ユミは慌てて、掌を向けた。
「ち、違う! 悪いこと、してない!」
「じゃ、なんでだよ」
その時、背後で扉が開いた。
「その説明は、私がしよう」
慌しく、無数の靴音が響き渡る。
姿を現したのは、イフロースと、子爵家の私兵達だった。
彼は店内に視線を這わせた。俺も含め、知っている人間の顔を一通り確認してから、話し始めた。
「あ、あんたは」
「その節は世話になった。だが、今日はそちらの……カクア・ユミ殿に用事がある」
彼の視線を受けて、ユミは顔色を青くしている。
「実は、東方大陸の、とある豪族から、捜索依頼が出ていてな」
そう言いながら、イフロースは一枚の紙を取り出し、広げた。
「今から四年ほど前、東方大陸南部のワノノマ人居留地にて、ヒシタギ家の家臣カクア氏の一女が、縁談を拒否して出奔した」
この言葉で、視線がユミに集まる。
「これは、ヒシタギ家が各地の貴族や豪族に宛てた捜索願いの写しだ。ここにカクア・ユミと書いてある……もっとも、私にはワノノマ語は読めぬがな」
四年前、ということは、ユミが十五歳の頃の話か。
「お、おい、ユミ、でもお前、武者修行の旅だって」
「それは、本当」
「でも、実家から逃げてたんだろ?」
彼女は俯いてしまう。
「迷惑、かけたくなかった」
遠い海の向こうの権力が、ここピュリスにまで届くはずがない。仮にここでユミを庇ったところで、そのヒシタギ家とやらに仕返しされたりなんて、あり得まい。
それでも、これは彼女の本音なのかもしれない。素性を知れば、責任も生じてしまう。
「遥か彼方の国の話でもあるし……まさかピュリスにいるとは思っていなかったが……この前の騒動で、官邸に来ていただいた際、名前を確認したのでな。それで珍しいと思って、調べ直したのだ」
ふと、思い至る。
そういえば、初対面の時。俺が子爵家の召使だと言った際の、彼女の表情。あの時の強張った顔つきには、理由があった。俺がユミのことを子爵家の人間に言いふらせばどうなるか。恐らく、ここに来るまでの旅でも、有力者に見つかりそうになったことがあったのだろう。
「ユミ殿、安心してよい。この捜索願いに明記してある。ヒシタギ家はカクア・ユミを罪に問うものではない。一切について赦免を与えるゆえ、早々に帰還せよとのことらしい」
目を瞬かせながら、彼女は緊張した表情を崩さない。
だが、不意に手を伸ばすと、腰のものを掴んだ。刀ではない。いつも右側に結わえ付けてあった、奇妙な道具だ。片手分の取っ手と、その前後に三叉の鉤爪がついた金属製の武器。
それを前方に構えたところで、イフロースが静かに言った。
「やめたほうがいい」
いつの間にか、風の懐剣を抜き放っていた。
「水魔術で霧を作り出し、足元を凍らせる、か? ワノノマの宝具の一つを持ち出している件も、既に報告があるのでな」
知らなければともかく、予め承知していれば、イフロースが不覚を取るなどあり得ない。中途半端な霧など、風魔術で吹き飛ばしてしまえるのだろう。
今まで、ユミが水魔術を使うところを見たことはなかった。いざという時のための切り札だったに違いない。
もはやこれまで。
ユミは腕をだらりとさせて、肩の力を抜いた。もう逃げ場はない。
イフロースの合図で、数人の兵士が駆け寄る。彼女と、その武器、荷物を手早く押さえる。
「おい!」
「おっと……急ぎすぎたようだな」
ガッシュの抗議の声に、イフロースは、片手を挙げて、部下達を制止した。
「別れの挨拶の時間くらい、あってもよかろう。ユミ殿、何か言いたいことは」
彼女は、酒場に立つみんなの顔を、ゆっくりと一人ずつ、見つめた。ガッシュ、ドロル、ハリ、店長……そして、俺。
「お世話に、なりました」
そう言って、彼女は力なく一礼した。
みんな、言葉もなかった。
誰も何も言い出さないのを見計らって、イフロースは今度こそ、命令を下した。
「お連れしろ」
「ユミ!」
ガッシュが前に出ようとする。それを、ドロルが抱きかかえて止める。
ユミは泣き出しそうな顔をしたが、そのまま店の外へと出て行った。
私兵によって扉が閉じられ、店内に静寂が戻ってくる。
「……なんだよ……」
力なく椅子に沈み込んで、ガッシュが弱々しい声を漏らす。
「まるで振り出しに戻ったみてぇじゃねぇか」
仲間が一人、また一人といなくなっていく。
気付けば、最初の三人組に逆戻りだ。
「しょうがねぇだろ」
「それで済ませられるのか!」
「ガッシュ、振り出しではありません」
これまで沈黙していたハリは、首を振りながら言った。
「私達は前に進みました。進んできたから、今があるのです。よいこともたくさんあったではありませんか。受け入れましょう」
「……くそったれ」
失っただけではない。
ウィーと仲間になって二年ちょっと。彼らはアメジストへの昇格も果たし、経験を積み上げてきた。今では立派な一人前の冒険者になったのだ。
そうは言っても、気持ちの整理が簡単につくものではない。
ガッシュはフラリと立ち上がると、誰にともなく言った。
「……ちょっと、休んでくらぁ」
そう言うと、階段を登っていってしまった。
足音が遠ざかると、ドロルも言った。
「今日はのんびりすっか」
「そうですね」
ドロルも自室に、そしてハリは外へ。
酒場は一気に静かになった。
なんか、雰囲気がよくない。
ノーラを呼び出して、ちょっと家で話をしたほうがいい気がしてきた。
そう思うと同時に、俺の気持ちでも読み取ったのか、トットッ、と小さな足音が降りてくる。
「ああ、ノーラ」
「おはよう、ファルス」
とりあえず、家に。
店長には、うちに引越しすると後で言えばいいだろう。
その時、また背後で扉が開いた。
喚き散らす女の声と一緒にだ。
「ざっけんな! てめぇ! 誰が責任とると思ってんだ!」
「お前じゃないだろ? ゴチャゴチャうるせぇよ」
勢いよく押し開けられた扉が、壁にぶち当たる。
彼女らの視線が、その先に立つ俺とノーラに向けられると、途端に静かになった。
「ガリナ?」
「……っ、お、おう、ファルス、か」
明らかに言い争っていた。いったい何が?
「何かあったの?」
「い、いや、何も」
「何もなかったって感じにはとても見えないんだけど」
するとガリナは下を向いてしまい、言葉に詰まった。横でシータが、あのきつい目付きで俺とガリナとを見比べている。
意を決して、ガリナが一歩前に出ると、すかさずシータが言った。
「ふーん」
ビクッとして、彼女の動きが止まる。
「全部、チクるってわけだ。あんたらしいよ」
「しょうがねぇだろ」
ガリナは左右を見回し、他に客がいないことを確認すると、俺のところまで駆け寄ってきて、しゃがんだ。
「ファルス、すまねぇ」
「どうしたの」
彼女は、声を殺しながら、そっと言った。
「その、な。無断外出したんだ」
「は? 無断? 出歩くくらい、いいのに」
「そうじゃねぇよ……だから、街の外に」
「へっ!?」
俺が自由を与えたと言っても、それは所有者の裁量の範囲において、だ。彼女らは依然、犯罪奴隷でしかない。だから街の外には出られない。そもそも市民であっても、出入りには許可が必要となる。日帰りなら許可証のみ、日をまたぐ場合は入市税がかかる。それが犯罪奴隷となると……何しろ犯罪者なのだから、ちょっと連れていきます、なんて話は通らない。逃亡防止を確約しなければならないし、それでもし何かあれば所有者は罰金モノだ。最悪の場合は、殺処分さえ命じられる。
「なんでまた?」
俺の疑問に、立ったまま、シータが答えた。
「常連様のご要望だ。しょうがないだろ?」
街の外に出かけてのデートをご希望だった、と。確かに、今、市内は復興も半ば。周囲の目を気にせずおおっぴらに遊べる雰囲気にはない。だから、広々とした草原に連れ出して、のびのびプレイを楽しもうということなのだろう。
「断れよ! 法律違反だろが」
「うっせぇな。んなの、金がねぇんじゃ、しょうがねぇだろ」
「貯金くらいしてるだろ?」
「大事な虎の子を、そうそう手放せるか……それをこんな、一銭にもならねぇ炊き出しの手伝いなんかで時間潰して」
「おい」
その一言に、ガリナは激昂した。すっと立ち上がると、止める間もあればこそ、いきなり平手打ちを浴びせたのだ。
「じゃ、てめぇは何様なんだよ! 一銭にもならねぇのに、ファルスはあたしら助けたろが!」
「誰が助けてくれって言ったよ? ええ!?」
「だったら今すぐ売り飛ばしてもらえよ! 鉱山送りにでもしてもらえ! じゃなきゃブッ殺されてぇのか!」
「うっせぇ、旦那殺し! やれよ! 慣れたモンだろ!」
「やめてよ」
俺が割って入っても、彼女らは収まらない。互いに胸倉を掴んだまま、今にも殴りあいそうになった。
仕方ない。
「がっ……!?」
「げっ!」
彼女らに痛みを与えるのは本意ではない。だが、こうでもしなければ、止まってくれそうになかった。『行動阻害』の一撃に、二人とも腰砕けになった。
「怒ることじゃない」
俺はなるべく冷静に言った。
「ただ、法律を破ると、僕も庇いきれなくなる。あとは自由にしていいし、僕にいちいち断わる必要もない。もちろん、感謝もいらない」
どうしてこんなことになったんだろうか。
よかれと思って手を差し伸べたつもりだった。その彼女らが、今はこうして仲違いしている。二人とも、地獄のような場所で一緒に生きてきたはずなのに。
「次から、気をつけてくれればいい」
「……ふん」
痛みから立ち直ったシータが、身を起こしながら言う。
「あんたはいいよな」
「シータ! お前、まだ」
ガリナの制止にもかかわらず、彼女は俺を見下ろしながら言った。
「同じ奴隷? だったよな。それがもう庶民に格上げしてもらったんだろ? いいよな、貴族の下僕様は……」
「てめぇ、違ぇだろが。なんでファルスに文句言ってんだよ」
「あたしらは、いつまでここで体売りゃいいんだよ? え? おい」
返事など、できない。
今の暮らしに満足しろ、などと、どうして言える?
「けっ」
吐き捨てると、彼女は背を向けた。
「どこ行きやがんだ」
「こんなところでメシなんざ食えるか」
そう言うと、彼女は歩き去っていってしまった。
あとに残されたのは、それを見送るしかない俺達と、気まずい空気だけだった。
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