追ってきた少女
この部屋に立ち入るのは久しぶりだ。メイドに案内されて、お嬢様の部屋の扉の前に立つ。
ノックをすると、内側から扉が開いた。
「わぁ! ファールースー」
いつも通り、ではなかった。
なぜなら、部屋の扉をリリアーナ自身が開けたからだ。
メイドは一礼すると、さっさと歩き去っていく。
すると、リリアーナは構わず俺に飛びついてくる。
「ちょ、ちょっと、あの」
「わーい」
このままではまずいので、部屋の中に入り、扉を閉じる。
周囲を見回すが、やはりナギアの姿が見えない。
「あの、お嬢様」
「うん! 今日は一日、お休みなの! お稽古しなくていいって!」
「いえ、そうではなく、ナギアは」
「ナギアもお休み!」
はて?
「パパとお話しするんだって」
なるほど。
フリュミーさんが、またピュリスに戻ってきたのか。しかし、だからといって、お嬢様の傍に誰もいないというのは、どうしたことか。何よりナギア自身がそういう状況を許すはずがないのだが。
「遊ぼ!」
「はい。何をしましょう」
「鳥」
「ダメです」
確かに空を飛ぶのは気持ちいい。しかし、慣れが足りない彼女では、人間に戻ってから、正常な意識を保てまい。
「えー」
「危ないからダメです」
「どうして?」
「覚えてないんですか? 鳥になって人間に戻った後、しばらく記憶があやふやになったりしていませんか?」
「んー……じゃあ、さ」
また何か思いついたのか。
「ファルスは鳥になっても平気なんでしょ?」
「え? ええ、まあ」
「じゃあ、こうしよう! 私、ファルスになってみたい!」
なんてことを。
「それなら、頭おかしくならないでしょ? ううん、なんか頭よくなりそう!」
「えっと、駄目、です」
「どうして?」
だって、それだと誰かがリリアーナになりすまさないといけない。当然、その役目は俺にまわってくるから、彼女の肉体を奪取することになる。となると、丸一日は入れ替わったままになる。ピアシング・ハンドの再使用時間を待たねばならないためだ。
で、この説明を彼女にするわけにはいかない。なぜなら、俺の能力のほぼ全貌を、その弱点まで含めて知らせてしまうことになるからだ。今、リリアーナには、ただ俺が変身能力を有しているという程度の認識しかない。これ以上、詳しい事実を知られたくはない。
……本当は、その程度の情報すら、流出させたくはない。グルービーみたいなのが、他所にたくさんいるとは思えないが。
「僕と入れ替わるってことは、僕のお仕事もしなければいけなくなりますよ?」
「うん、するするー」
「いいんですか? 僕はこの後、街中の酒場に出かけていって、炊き出しの手伝いをする予定です。お嬢様、料理をちゃんと作れます?」
「んー」
この世界の女性の必須スキルは、料理と裁縫だ。但し、上流階級に限っては、料理を学ばないケースが多々ある。
技能の社会的価値は、国や地域、文化によって異なるものだが、ここでは料理の地位は低く、下働きのようなものと考えられている。何しろ、食べ物を作るということは、実際に食材となる動物を殺さなければいけないし、その血液や臓物などで手も汚れるからだ。おまけに、出来上がった料理は、食べ終わると同時に消え去ってしまう。
これに比べて裁縫は、作品がずっと残るという意味で、相対的により高い地位を与えられている。だから、こちらは、少なくともフォレスティア全土で、あらゆる女性に要求される技術となっている。
ちなみに、料理を学ばない上流階級の女性が教わる技能はとなると、舞踊や歌唱、楽器演奏などとなる。
「むつかしいかなぁ」
「ですよね」
「でも! それなら、ファルスが帰る時にまた入れ替わればいいんだよ」
「お屋敷の中にいると、いつセーン料理長から呼び出されるか、わかりませんよ? そうしたら」
「んー」
少し不満げにしていた彼女だったが、すぐに切り替えた。
「わかった! じゃ、普通に遊ぼ!」
「は、はい」
「ねぇ、ファルス」
「なんでしょう?」
急に真顔になって、声を潜めて言う。
「……まだ、決まってはないんだけど」
「はい」
「ナギアにプレゼントをあげようって思うんだけど、何がいいかなぁ」
ナギアに? プレゼントを?
何のために?
「ええと、誕生日とか?」
「そうじゃないんだけど」
「だったら、何か花束でもお菓子でも、適当に街の中で見繕ってきましょうか」
「そういうんじゃないの。なんかこう、もっと、残るモノ?」
はて。
だが、俺が首を傾げたところで、リリアーナは言い足した。
「ううん、やっぱりいい。またそのうち、ね」
「は、はぁ」
なんだろう。
変な感じがする。
……まぁ、いいか。
東門から市街地に出る頃には、俺は追及する気力を失っていた。
このところ、ずっとこんな調子だ。頑張れない。何もかもが面倒だ。
いつの間にか、いろいろ背負い込んでいた。
だが、俺はただの人間だ。一人がどこまで他人の問題を抱えられるものか。これ以上、考えたくない。
ウィーは無事だろうか?
俺が彼女なら、王都方面に逃れる。ことが明るみになった以上、逃げ場所など、そうはない。ムスタムか、アルディニアか……或いは、うまいこと船を見つけて、帝都に向かうか。しかし、すぐにはそんな逃走ルートが確保できるわけもないので、当面は誰かを頼る必要がある。また、そうでなくても、せめて大好きなおじさまの顔くらい、見てから国外脱出したいと思うはずだ。
俺は見事に板挟みだ。サフィスのためにウィーを犠牲にする気にはなれない。だが、彼女はイフロースを傷つけた。そして彼は、主人の安全のために、なんとしてもウィーの身柄を確保したい。イフロースは、俺自身が望んでいるかどうかは別として、彼なりに好意を示し、その将来を考えてくれている。そんな人を俺は欺かねばならない。
一方、ウィーのためにも、何もしてやれない。クレーヴェがどんな立場であるにせよ、俺に情報をもたらすことはないだろう。もしあるとすれば、それは最悪の事態だ。つまり、ウィーとクレーヴェは共謀してサフィスを殺そうとしており、俺もその実行犯グループに積極的に参加する、という状況なのだから。
だから、何もできない。動けない。
今、自宅の屋上には、キノラータの苗木が二つ、並べられている。片方がアイビィで、もう片方がグルービーだ。
とりあえず、グルービーの苗の方が、魂の高齢化で枯れてしまうかもしれないので、スキルその他は移植した。だが、俺はどちらも枯らさないよう、水遣りを忘れない。
本当は、引っこ抜いてしまうのがいいのだ。植物に神経はない。焼いたって痛みも何もない。トドメをさせば、二人は死に、生まれ変わることができる。次の人生を始められるのだ。だが、できない。
俺が悪いのだ。もう死んだも同然なのに、最後の踏ん切りがつかない。
ジョイスは今、マオの自宅で療養中だ。サディスもショックを受けてか、今は泊りがけで兄の傍にいる。
旧悪臭タワーで働いているガリナ達の収入も途絶えている。生活費を貸すのは簡単だが、彼女らの今後をどうすればいいのか。
官邸に出向けば、俺を毛嫌いするサフィスと、飛びついて好意を示すリリアーナが待っている。
こんな状況で、その上ナギアの心配まで……無理だ。
もう、もうたくさんだ。
素晴らしかったはずの、数々の繋がりが、どうしてこんなに煩わしくなってしまったのか。
……ノーラはどうしているだろう。
俺がグルービーの体を捨てる前に、希望するすべての奴隷に、自由を与えた。彼女についても、手続きは済ませておいたし、金貨百枚ほどの支度金も与えた。
ただ、それだけで、直接彼女に会うことはしなかった。顔を見たくなかった、というのが、正直なところか。
俺は直視したくなかったのだ。確かに、俺のやったことは、殺人と変わらない。もちろん、自分を守るための行動だ。誰にも責められる謂れはない。
ただ、自己弁護できるというのと、罪悪感の有無は、必ずしも一致しない。
幸い、ノーラには故郷がある。ヌガ村だ。
ティンティナブリアの他の村からは距離的に開きがあるし、比較的裕福な土地でもある。実家に帰って、普通の人生を歩めばいい。まだ九歳なのだから、いくらでもやり直しはきく。ファルスとかいう、わけのわからない変な少年のことは、忘れるべきだ。
沈んでいく気分のままに、俺はいつもの酒場に戻った。
扉を押すと、カランと鈴がなった。
やけに静かだった。そして、人の輪ができている。
「お! ファルスだ」
「待ってたぜ?」
ガッシュとドロルがこちらに気付いて、振り返る。
「いったい、なに……」
俺が何か言いかける前に、輪の中心にいた少女が立ち上がり、抱きついてくる。
「ファルス!」
俺は、目を丸くした。
「ノーラ? どうしてここに?」
俺の戸惑いは、二つの部分からなっていた。
一つは、彼女がまさにここにいることだった。ただ、これはある程度、説明がつく。コラプトから大きな街道が繋がっているのは、南西のピュリスと、北のティンティナブリアだけ。間違いなくヌガ村に行き着こうと思うなら、どちらかを経由しなければならないが、そうなると現状、北方ルートは論外だ。ピュリスから王都方面に向かう街道の途中で北東に逸れてヌガ村に入るのが、一番確実なのだ。
だから、そのついでにピュリス在住の俺を訪ねるというのは、不思議でもなんでもない。
ただ、奇妙なのはその外見だ。
この冬場に、半袖のワンピース一枚。肌着と大差ない。靴もない。剥き出しの腕には、擦り傷の跡もある。何があった?
「ファルスに会いに来たの」
「う、うん、でも、その格好は」
すると、俺の疑問に、奥のほうで腰掛けていたハリが答えた。
「大変許しがたいことです」
彼の声には、憤りがこもっていた。
「少女の一人旅につけこむ悪党がいたようで」
「悪党?」
「今、詳しくお話を伺っていたところでした。なんでも、ピュリスに行きたいというノーラさんの話を聞きつけて、わざわざ親切そうに寄り添い、お金を騙し取った挙句に暴力を振るい、逃げていったそうです」
そうか!
俺の考えが足りなかった。
ノーラは馬鹿じゃない。しかし、状況がよくなかった。
奴隷から解放された日、彼女は俺から声がかかるのを待っていたのかもしれない。ファルスが自分を連れて行ってくれる、と思っていたのだろう。だが、俺は自分のことで手一杯だった。
いつまで経っても何の音沙汰もなく、ついにグルービーが死んだ。
自由になった女達は、早々にコラプトを出て行った。ここに至って、ノーラも自力で移動を開始することにした。だが、そもそも彼女には、友人が少なかった。数少ない、親しくなれた奴隷仲間も、多分、一足先に故郷に向かって出発してしまっていた。だから一人で動き出すしかなかった。
手元には金貨百枚。旅費としては充分以上だ。しかし、なんといっても彼女はただの少女で、田舎の村からミルークの収容所へ、収容所からグルービーの屋敷へと、今まで限られた環境でしか生きてこなかった。つまり、平均以上に知的だとしても、社会経験が乏しすぎた。
いいカモだったのだ。
「そいつは、どんな」
「なんでも、背の低い、痩せた男で……その、いわゆる同性愛者らしく」
どこかで見たような特徴だ。
「取られたものは」
「お金や、着ていた服は剥ぎ取られたようですが、幸い、それ以上は何も……まあ、軽い傷は負ったようですが」
ハリは表現をぼかしているが、要するに、強姦されずに済んだと言っている。その泥棒は、オカマ野郎でもあった。そうでなければ、まだ九歳とはいえ、既にしてその美貌が自己主張しだしたノーラの体が、無事なままで済んだはずがなかった。
考えすぎだろうか? もちろん、まともな人間であれば、手は出さないだろう。前世でいえば、まだ小学四年生相当なのだから、まだ子供だ。しかし、犯罪者の世界においては、そんな常識は通用しない。奪えるものはすべて奪うのが普通なのだ。
「じゃあ、ここまでどうやって」
「歩いてきたの」
馬車で一週間の距離だ。少女の足なら、軽く倍はかかる。
「途中で、食べ物を恵んでくれる村の人もいたから」
それを、この冬場に、靴も履かずにここまで来たのか。
「市内には、どうやって?」
入市税もかかるし、身分証明も必要だったはず。
「俺達が見つけたんだ」
ドロルがそう言う。
なんてことはない。俺の知り合いだという彼女の主張を信じて、彼らが責任もつと門番に請け合ったのだろう。三年以上にわたってこの街で活動してきた冒険者ならば、門番とも顔見知りだ。それでなんとか、ここまで連れてこれたのだ。
「誰だ、いったい、ノーラにこんな真似を……!」
気が短くなった、という自覚はある。
それでも、もしできるなら、犯人を見つけて八つ裂きにしてやりたくなった。発見さえできれば、あとはまったく簡単だ。苦痛の限りを味わってもらう。
「駄目! ファルス、いいの」
「よくない。そういう奴は、また同じことを繰り返す」
「ファルスが仕返しなんか、しちゃ駄目」
「おう、先にやることあるだろ」
ガッシュが割って入る。
「お前がもうちょい遅かったら、俺らで片付けようと思ったんだけどよ。まず、そんなもんより先に、まともな服と靴がいるだろ」
「そうですね」
確かに、報復より先に、ノーラを保護しなければ。
「近くで靴と、冬服を適当に買ってきます。それと、食べ物を」
「ああ、飯なら先に食わせたから、大丈夫だ」
「ありがとうございます。済みません、お金も」
「大した金額じゃない。気にするな」
そして……今度こそ、無事にヌガ村まで送らなければいけない。
「あと、依頼を一件、お願いできますか」
「おう? 直接か。なんだ?」
「ノーラの故郷はヌガ村です。そこまで皆さんで護衛して、ちゃんと送り届けて」
「待って」
みなまで言い終える前に、ノーラが遮った。
「私、村には帰らない」
「えっ? じゃ、どうするの?」
「私もピュリスで暮らす」
俺は目を丸くする。
「私も、ファルスとここで暮らしたい」
「ひゅーっ! モテるなぁ、ファルスは」
ドロルが冷やかして笑う。
そんな。
また、俺の傍に人が……
……もう、いやだ。
「と、とにかく。では、店長? とりあえず今夜は、ノーラをお願いします」
そう言って、頭を下げておいた。
どうしよう?
疲れた頭で、俺は今後どうするか、考えあぐねていた。
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