第十五章 色のない街
仮面の夢
明るい青空の下に、同じく澄み切った湖。途方もない広さだ。向こう岸が見えない。
その周囲に、立派な石造りの建物が立ち並んでいる。その整然とした造りは、他に類を見ない。これに比べれば、白亜のピュリスさえ幼稚な石積みに見えてしまう。これほど調和の取れた街など、現実には見たことがない。せいぜい空想の中だけだ。前世の漫画やアニメに出てくるような、架空の未来都市。そんな印象だ。
ビルとビルの間は、線で結ばれている。その太さはまちまちで、人が両足をまっすぐつけるのも難しいほど細いものもあれば、大木のように太いものもある。そして、どういう仕組みになっているのか、人々は真横に、時には斜めに渡されたその線の上を、軽々走り抜けていく。
よく見ると、その人々は、ある特定の方向に向かって走っているようだ。目で追う。
みんなが湖の中央を指差している。何か大変なことが起きようとしているらしい。
するとその時、澄み切った青空が、急に明滅した。暴風が吹き荒れ、一瞬にして頭上が黒雲に覆われる。そして、黒々とした湖の中央から、黒く細長い影が、波紋を広げながら姿を現す。
敵意が、憤怒が、ここまで伝わってくる。俺はそれをあざ笑う。
視点が切り替わる。
狭い部屋の中で、人々は何かを拝んでいる。壁の一面に飾られているのは、巨大な仮面だ。顔の作りや色合いなどから判断すると、どちらかというと女性的に見える。
俺もそれを見た。見ると、目が離せなくなった。いつしか、それしか見えなくなった。
ふと、気付く。
自分の顔に、何かが貼り付いている。
さっきの仮面の破片だ。自分の顔と同じサイズに作られたそれの、破片の一部が顔にくっついている。
引き剥がそうと手をかけるが、どうにもならない。まるで自分の一部にでもなってしまったかのようで、どうしても引き剥がせない。
そのうちに、奇妙な興奮が体中を駆け巡る。
熱くて汗が出るのに、寒くて仕方がない。暴れだしたくて仕方がないのに、動きたくない。右に左に、思考が入り乱れる。
だが、感じるのは、解放感だった。ついにとうとう、自分の出番がやってきた。好きなようにしていいのだ。
力ずくで仮面を引き剥がそうとする。
その瞬間、自分の顔がもげた。
真っ黒な水面に映るのは、自分の頭蓋骨……
「うっ、あああ!」
毛布を蹴飛ばして、跳ね起きる。
左右を見回して、既に室内に朝の光が差し込んでいるのを確認する。
「……ふう」
また、この夢だ。
ここ数日の間に、何度か見ている。
頭を振って、窓の外に視線を向けた。
虚ろな青空だった。
遮るものがなくなって、歯抜けのような街並みに、弱々しい光が降り注ぐ。どこかから気の抜けたトランペットの音が聞こえてきそうな、そんな掴みどころのない空が、無意味に広がっている。
海賊達によるピュリス襲撃から、一ヶ月あまり。
復興は遅々として進んでいない。
特に、街の東側の広い範囲で、大きな被害が出た。多数の建築物に放火された結果、あちこちで家屋が倒壊してしまっている。石造建築とはいえ、中の骨組みや仕切り板には木材を使っていたりするので、要の部分が燃え尽きると、建物自体が倒壊してしまうのだ。
崩れた家は、建て直さなければいけない。しかし、家財一式が燃えてしまったのに、そんなコストを支払えるわけもなく……今でも多くの人が、この真冬の最中に、テント暮らしだ。
向かいの家も燃えた。たまたまこの家に被害が及ばなかっただけで、周辺はひどいものだ。
ベッドから起き上がると、俺はすぐに着替える。
二階に降りて、昨日の残りのスープを温め、それをサラダとパンで片付ける。
最近、いちいち手間をかけて料理するのも、億劫になってきた。
今日は、いつもとは違う仕事がある。
イフロースから呼び出されているのだ。
瓦礫や壊れた馬車などにあちこちを寸断された三叉路を渡る。
通り道なので、挨拶だけするためだ。
「おはようございます」
「おう、ファルス」
店長の酒場兼宿屋も、運よく無事だった。
しかし、彼の経済状況はというと、半壊では済まない日々が続いている。
「今日は、屋敷のほうに行くんだろ?」
「はい」
「こっちぁ、人手足りてるからよ」
市民同士、今は助け合うべき時だ。だから店長は、自分の厨房で炊き出しを続けている。宿屋の空室についても、寝る場所のない人達、とりわけ怪我人や子供、妊婦、老人などに優先的に割り当てている。
もちろん、代金はなしだ。要するに、赤字を垂れ流し続けている。しかし、今もって総督府のサポートはない。統治者の努力でなく、市民個々人の善意が、今のピュリスを支えている。だが、この調子ではいつか息切れするだろう。
「済みません、大したこともできず」
「なぁに言ってんだ。人も貸してもらってるし、お前もよく働くからな」
そう話しているところに、横からガリナが顔を出した。
「おー、なんだ? 今日はあっちじゃねぇのか?」
「おはようございます」
俺にできることなんて、そう多くない。
まず、店の薬品を全部無料で病人、怪我人に配った。もちろん、イフロースの許可も得ている。
それから、こんな状況だから、ガリナ達の商売に客なんかつかない。なので、彼女らに炊き出しの手伝いをさせている。俺自身、時間があれば、顔を出すようにはしている。
金? 確かにグルービーから貰った大金があるが、何しろ物流も混乱状態だ。前世とはわけが違うので、市民の窮状につけこんで、高値で食品を売り捌こうとする不届き者も少なくない。ぶっちゃけ、足元を見られてばかりなので、まともな取引にならない。
「ガッシュさん達は?」
「今日は朝から仕事だってよ。夕方にゃ、戻ってくるだろ」
こっちのことは気にするな、と店長が手を振る。
それで俺も一礼して、先に進んだ。
「待っていた」
窓際に立つイフロースが、短く言った。
儚げな冬の日差しが、足元の絨毯を温める。彼の執務室だ。
たった一ヶ月前に、あれほどひどい矢傷を受けたのに、もう立ち上がって働いている。
本当に彼は五十代だろうか?
「やっと時間が少し取れそうだ。まあ、後ろに仕事が山積みなのだがな」
「はい」
溜息をつくと、彼は振り返り、俺に座るよう身振りで勧めた。
向かいに腰を下ろすと、彼は俺に淡々と状況を説明する。
「まず……閣下を襲った犯人、ウィー・エナは、まだ見つかっておらん」
「はい」
「心当たりはあるか」
「いいえ」
俺の返事に、イフロースは一瞬、沈黙したが、すぐ続きを話し始めた。
「隣国にも問い合わせることになった。そちらに逃げられては、追っ手も出せんのでな」
多分、彼女はシモール=フォレスティア側には逃げていない。だが、それを俺が口にすることはない。
正直、うんざりだった。揉め事なんて、もうたくさんだ。
「それから、アイビィさんは、どうなった」
「帰ってきていません」
「ふむ……それと今朝、知らせが入った。コラプトのラスプ・グルービーが死去したそうだ」
「そうですか」
表情を変えずに、俺は返事をする。
イフロースはまた、俺をじっと見た。
「ファルス」
「はい」
「私が倒れてからの数日、どこにいた」
「セーン料理長とほぼ徹夜で炊き出しをした後、家に帰って休みました」
「それだけか」
「はい」
溜息をつきながら、イフロースは首を振った。
「何度もナギアがお前の家まで出かけていって、不在だったのを確認しているのだが」
「知り合いを助けに出かけていたか、寝ていたのでしょう。気付きませんでした」
「官邸を留守にできる状況でなかったのは、さすがにわかるはずだ」
「済みません。優先順位を履き違えていました。申し訳ありません」
無理のある説明だ。しかし、なんといっても証拠がない。
当時は、街中が混乱状態だったのだから。
「グルービーには後継者がいない。合弁事業はなしになる」
「そうですね」
「薬品店も、近いうち、畳んでもらうことになるな」
そうなるか。
しかし、あの場所は残しておきたい。
「……あの家は、確か賃貸でしたね」
「そうだな。今まではグルービーが地代を支払ってきた」
「では、僕が今後の家賃を支払います」
実際には、家ごと買い取るつもりだ。
でないと、地下室、つまり財宝の置き場がなくなる。
「何のためにそこまでする?」
「居心地がいい家だからですよ」
「お前には、また官邸に戻ってもらうつもりだが」
「そんな場所がありますか?」
「フリュミーの長男のルードが、部屋を空けたばかりだ。本館のほうに引っ越してもらう」
面倒だな……
「通いではいけませんか」
「なぜ子爵家と距離を置きたがる」
「そういうわけではありません」
「なら、何が理由だ」
「いちいち説明するまでもないでしょう? 閣下にあれだけ嫌われていて、どうして子爵家の中でやっていけると思えるんですか」
筋は通る説明だ。イフロースとしては、俺をエンバイオ家の守護者に仕立てたい。だが、サフィスは俺を毛嫌いしている。ついでに俺も、サフィスみたいなのが大嫌いだ。
子爵家の中で出世できるなら中に留まるのもいいが、何しろ、いつ主人から首を切られるかわからないような俺だ。となれば、外部に生活の道を残しておくのも、自然な発想ということになる。
実際には、彼はいろいろと疑念を抱いている。
イフロースは、俺の性格なら、よく把握している。社会に対する忠誠心はないが、個人の関係は重視する。子爵家を守れといわれてもピンとこないが、お嬢様を助けてくれと言われれば立ち上がる。たとえ嫌いな人間でも、不当に虐げられていれば、無視はしない。思い切りが悪く、諦めも悪い。そして……何が何でも秘密を守ろうとする。
そんな人物なのだ。大勢の人が傷つき、苦しんでいる中、理由もなしに行方をくらますはずがない。だから、俺がどこかで何かをしていたのは間違いない。アイビィの不在、グルービーの死去……これを偶然で片付けるほど、イフロースは間抜けではない。
それでも俺の口を割ることはできないと悟って、彼はもう一度、溜息をついた。
「それと、今は忙しいのだろうが、できればもう少し、こちらにも顔を出せ」
「と言いますと」
「最近、特にお嬢様のご様子がな」
「ナギアがいるでしょうに」
「それはそうなのだが……」
何か言いにくそうにしている。
「ご用件は、それだけですか」
「……いいや」
イフロースは立ち上がると、自分の机から数枚の紙を摘み上げて、またソファに戻ってきた。
「少々、仕事を手伝って欲しい」
そう言われて、俺は書類に目を通す。
『ピュリス復興計画草案』
一枚目は概要の説明文。二枚目は、破壊された街道や建築物についての報告、三枚目は修繕に必要な費用の概算で、四枚目は大雑把な地図。
しかし、これは。
「あの」
「どうした」
「これは、僕の仕事ではありません」
本来、俺が目にしていいものでもない。公的な書類だからだ。総督が決裁すべき案件であるはずなのに。
「そうなのだが」
「閣下はどうなさっているのですか」
「ここにはいない」
「総督府にもいないんですね」
「市内にはいる」
それで俺は察した。
「この非常時に何をやってるんですか」
「立場の重さを直視できなくなったらしい」
「これで総督が仕事しないとか、おかしいでしょう」
「普通の人間であれば、おかしくもなんともないな、残念極まりないが」
とはいえ、この醜態。
サフィスは、死の危険にさらされたことで、すっかり怖気づいてしまったのだ。
まあ、それだけなら、自然な反応ではある。ならば、護衛の数を増やして、いつも通りに働けばいい。
しかし、それでは済まなかった。
「官邸の中にいるのも、もう我慢ならないようでな」
「自業自得じゃないですか」
「そう言ってくれるな」
夫人相手に、あれだけ愛人の素晴らしさを熱弁してしまったのだ。いざ、事態が落ち着いてみると、もう居場所がない。
開き直ったサフィスは、この状況で、なおも愛人宅に入り浸っている。
「責められたわ」
「どんな風にです?」
「お前達がピュリスを我が物にしようとしているから、私が巻き込まれるのだ、と」
「一番利益を得るのは、閣下自身でしょうに」
「だが、実は、フィルからも言われてはいた。自分がここで死ぬ以上、無理をしてまで計画にしがみつくな、とはな」
御輿に担がれるだけの器量もないなら、諦めてしまえ、という遺言か。
「そんな顔をするな。昔は、閣下も利発な子供だったのだ」
「そうなんですか」
「王都にいた頃も、家庭教師達の評価は高かったし、帝都の学園でも、優秀な成績を残していた。ただ、やはり、気性がな……とにかく、辛抱というものができない」
「なぜでしょうね?」
「苦労を知らずにここまできたせいか……ただ、もしかすると、私が判断を誤ったのかもしれん」
俯きがちになりながら、彼は反省の言葉を口にした。
「なんでもかんでもフィルの決めたこと、既にある方針でやろうと決められる。側妾すら持たせてもらえない。人一倍、虚栄心の強い人間が、自尊心を頭から押さえつけられれば……腐りもする」
「確かに、それはあるかもですね」
「むしろ、手を離したほうが、閣下のためになるのかもしれんな」
それはそれで、イフロースの課題ではある。
ただ、当面の問題は、ピュリスの復興だ。
「とにかく、この書類は」
「仕方がないから、私が閣下の代わりを務める。総督府には、病気のため官邸で職務を指揮すると伝えた。幸い、印章は手元にある」
「それ、まずいでしょう?」
「復興が進まないほうが、ずっと困る」
いい大人の尻拭いなど、本当はしたくない。だが、こうなるともう、子爵家の将来がどうとか以前に、被災した市民に迷惑がかかる。やらざるを得ないのだ。
「だいたいよくできた計画だとは思うが、私は政策立案の専門家ではない。それで、お前にも意見を貰おうと思ってな」
「はぁ」
そんなことを言われても、俺だってそうじゃない。イフロースはどこまで俺を過大評価しているんだ? 前世が区役所の職員とかだったら、それなりに役に立てたのかもしれないが。
ただ……
「……これは、もったいないですね」
「ほう?」
「この地図を見ると、市内の東側から中央にかけて、広い範囲で建物が倒壊しています。それに、三叉路の石畳も、かなり破壊されているようですが」
「そうだな」
「どうせなら、予算を積み増して、大きく作り直しませんか?」
計画書通りであれば、被災前のピュリスに戻るだけだ。しかしそれでは、市内の数々の問題が、そのまま居残ることになる。
前から気になってはいたのだ。三叉路の交通事故や、街の東部を流れる剥き出しの下水が。
俺は紙とペンを取ると、大雑把に図面を描いてみせた。
「まず……三叉路周辺ですが、特に東側に被害が集中しています。ここにもう一度同じものを建てるよりは、ここをこうして」
三叉路の東側を含む形で、俺は円を描いた。
「この、神殿近くの空き地にも道を通す。そうすれば、この街の南側を囲う円ができます」
「ふむ?」
「これを左折しか許さない道路にするのです」
俺の主張の意味がわからず、彼は眉を寄せた。
「前から、この三叉路では混雑が問題になっていました。交通事故もよく起きています。馬車の正面衝突とか……その都度、怪我人が出るたび、薬品店から傷薬を持ち出していたのは、覚えていますか?」
「もちろんだ」
「ですが、事故が起きてから何かしても、遅いのです」
「それとこれと、どう関係がある」
どうやら、俺が語ろうとしている概念は、この世界にないものらしい。
であれば、原理から説明しなければなるまい。
「では……まず、『道』とはどういうものか、わかりますか?」
「何を言い出す? そんなもの、決まっているだろう。出発地点と目的地を繋ぐものだ」
「本当にそうですか?」
「他にどう表現すればいい? 道があるから、行き先を間違えもせず、素早く到着できる。そういうものではないか」
確かに、それは素朴な理解ではある。
「想像してみてください。ここに百人の人が立っています。みんな、それぞれ行きたいところがありますが、目指す先は別々です」
「ふむ」
「一斉に歩き出したら、どうなります?」
少し考えてから、彼は答えた。
「さぞ混み合うだろうな」
「はい。しかし、道があれば、どうなります?」
また考えて、彼は言った。
「少しはマシになるが……しかし、そう単純ではないな? 東に行きたい者もいれば、西に行きたい者もいるはずだ」
「その通りです」
俺は紙の上に無数の点を打ち、そこに線を引いた。
「みんながこの道を使えば……」
点から道に、矢印を引く。
「あとは、東に行く人と、西に行く人が、ちゃんと列を作って歩いてくれれば、混雑は少なくなります」
「うむ」
「つまり、道とは、ここと行き先をまっすぐ繋ぐためのものではありません。その逆です。通行を『制限』する、それが道の本質です」
しばらく彼は黙って図面に視線を落としていたが、やっと理解に至ったようだ。
「……なんと!」
「おわかりですか。この、丸い道路を作って、左折しか許さないということは、つまり、『ぶつからない』ということです」
多少の遠回りをさせてでも、混雑を作らない。もちろん、複数の道が合流するポイントでは、交通整理の必要はあるだろうし、事故が皆無になるわけでもない。だとしても、今までのような正面衝突は、起きようがなくなる。
環状線、という概念だ。前世でも、古代にはなかった発想だから、彼にとっては目新しいに違いない。
「しかし、それだけでは」
「馬車の道と、歩道を分けましょう。このように、地下道で横断できるようにして……それから」
東西と北に伸びた線に、俺は小さな丸を描き足す。
「原理は同じです。左折しか許さないとなると、この、街の西側にいる人が、南に向かおうとする場合、どこかで回り込まなければいけません。そのためのポイントを、こうして作ってあげるのです」
「なるほどな」
「それから、これが大事なところですが」
円で囲まれたところを、俺は指差した。
「市内の施設を、集中させましょう」
「なに?」
「宿屋、酒場、娼館……船乗りや行商人などの、短期滞在者が過ごす領域と、市民の生活領域を区別するのです」
その円の中に、そうした訪問者向けの施設を集中させる。
「何の意味がある」
「まず、治安上の利益です。前に見た密輸商人どもは、街中に散らばっていたでしょう? でも、こうやって宿泊する場所を絞り込んでしまえば、余所者は目立つことになります。酔っ払った船乗りが、市民と揉め事を起こすこともなくなるでしょう。市内の警備は、この円を中心に行えばよくなります」
「ほほう」
「それから、防疫上のメリットもあるかもしれません。考えてみてください。南方大陸から病気を持ち込んだ船乗りがいたとして。その人は、市内の酒場で食事を済ませ、宿屋に泊まり……」
「つまり、危険な接触をある程度、制限できるかもしれないということか」
「何かが起きるなら、まずこの円の中から、ということになるでしょう」
顎に手をやり、考え込むイフロースだったが、ふと顔をあげた。
「だが、それをするには、かなりの立ち退きが必要だぞ」
「だからこそ、今なんです」
なるほど、と彼は頷いた。
「ここを見てください。前に立ち入った、いわゆる色町……要するに、ピュリスの中のスラムです。でも、この辺りは、実はあまり人が住んでいないんですよ。もともと無駄遣いされていた土地なんです。ここは取り壊して、石材を有効活用しましょう。できれば、下水に蓋をして、ここは貯水池も作るべきです」
「ふむ」
「火消しにも使えるでしょうし」
じっと考えていた彼だが、腕を組んでソファにもたれ、大きく息を吐く。
「面白いが……予算がかかりすぎたりはしないか」
「市民の協力も募りましょう。僕も多少は動いてみます」
「ふむ……いいだろう、閣下の見解ということにして、総督府に持ち込んでみるとしよう」
グルービーからもらった資産の使い道にもちょうどいい。このままピュリスで暮らすのなら、この機会に少しでも生活環境を改善させるべきだ。金だけあっても、立ち退きは強制できない。しかし、今なら、金さえ出せば、街をよりよくできるのだ。
また、どうせ不死を求める旅に出るのなら、あんなにたくさんの財宝を抱えていくわけにもいかないのだし、物惜しみしても仕方ない。
それに……
このピュリスの災害を招いたのは、俺なのだろうか?
そんな風にも思ってしまう。
貴族達がどんな陰謀を抱えていたにせよ、グルービーが実行手段を与えなければ、それは妄想で終わっていた。
グルービーが、数年ぶりに闇の仕事に手を染めることにしたのは、俺がいたからだ。
そう思うと、身の置き所がないような気がしてくる。
このまま、この街にいていいのか、と。
「さて」
ソファから立ち上がり、イフロースは俺に言った。
「では、今日の官邸での最後の仕事をしてもらおうか」
「今度はなんですか」
「お嬢様のお相手を頼むぞ」
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