箱の中の慟哭
何がなんだか、わからなかった。
一日経ってから、俺はグルービーの大木を、小さなキノラータの苗木に移し変えた。これでもう、コラプトでやるべきことは、本当になくなった。
グルービーの肉体は、ほぼ限界に達していた。これ以上この姿で行動を続けると、うっかりどこかで死んでしまいかねない。となれば、それらしい最期を演出して去るのがよい。
その日の朝、俺はスィに命じて、屋敷の最上階のテラスに、自分を運ばせた。また、二つの鉢植えが入ったリュックもだ。メイド達が必死になってスロープの上で車椅子を押す。そうしてようやく辿り着いた。
コラプトは、まぁまぁ晴れていた。大きな雲が山の端にかかってはいたが、冬の淡い光が降り注ぐその様は、むしろ景色の美しさを際立たせていた。
心の隅に残る罪悪感を押し殺しつつ、ごく自然な風を装って、スィ達メイドを去らせた。一時間ほど、のんびりしたいと告げたのだ。これに何か、気の利いた一言でも添えられればよかったのだが、俺はグルービーではない。彼らしい、知的な遺言を残せる自信はなかった。
人の気配がなくなってから……俺は、グルービーの肉体を切り離した。怪鳥の肉体で、リュックを摘み上げる。そうして一度、二度羽ばたくと、俺の体は、薄く雲のかかった青空の中へと舞い上がっていった。
空を飛んでいる間、俺は何も考えていなかった。
いや、同じような言葉の繰り返しが、複雑な思考を遮っていた、というべきか。それはまるでノイズだった。
ピュリスの自宅に到着したのは、ちょうどいいタイミングだった。屋上に降り立ち、そこで人間に戻る。すぐ自室に戻って服を着ると、階下から物音が聞こえてきた。馬車が到着したのだ。
御者は、中身を知らない。エンバイオ薬品店が、グルービー商会から買い取った、薬品の原料だと伝えられている。俺は多少の心付けを渡して、梱包されたままのそれらを、地下室に運んでもらった。手を振って、彼らを送り返す。
その間も、俺の頭の中には、ノイズが繰り返し流れ続けていた。
玄関に鍵をかけ、それを再確認すると、無表情なまま、俺は地下室に舞い戻った。
梱包を解いていく。金貨の詰まった宝箱がいくつも。金はもちろん、ミスリルやオリハルコンの貴重なインゴットもだ。宝石の入った小箱も、それからこの細長い金属の箱には、魔石が詰まっている。
王都でキースから貰った剣にも負けないくらい高級な武具も、多数ある。精神操作魔術の秘伝書も、三冊ある。
宝の山だ。
これだけあれば、一生、遊んで暮らせる。というより、よほど馬鹿な浪費をしない限り、これらを適切な投資にまわせば、俺が不老不死になっても、永久に働かなくていい。
おまけに、この魔術書だ。精神操作魔術を使う気があればだが、俺はすぐにでも、世界最高の魔法使いになれる。
エンバイオ家との契約もあと一年。金貨六千枚なんか、余裕で耳を揃えて返済できる。あとはのんびりとその日を待つだけ。そうしたら後は、不死を求めて旅に出てもいい。
何もかも順調だ。
なのに、どこかぼーっとしている。
頭の中のノイズが止まらない。
俺は、悪くない。
ピアシング・ハンドを持って生まれてきたのは、たまたまそうなったからだ。死後の世界で、そういう力があるとは言われた。でも、どうしてそんな力が俺に備わったのかはわからない。どちらにせよ、力があることそのものは、俺のせいではない。
それを初めて行使したのは、リンガ村での、あの虐殺の夜だ。それだって、自分が生き延びるためで、相手は俺を殺そうとしていた。あれが「悪い」というなら、俺は死んでいなければいけない。
だいたい、生まれ持った長所や欠点が、人生に影響を及ぼすのを、いちいち「いい」「悪い」と言っていては、何も始まらない。それを言ったら、貴族に生まれたサフィスはどうなる? タンディラールは? すぐさまその身分を放棄せよとでも言うのか? 潰れたカエルみたいな顔をしたジュサは? 誰か整形手術でもしてくれるのか? 起きることが起きる、ただそれだけではないか。
今回も、俺は殺されそうになった。俺の生まれ持った力を欲してか、他に貴族どもの思惑もあったので、これ幸いとグルービーは行動を起こした。
だから俺は自分の身を守った。この財宝は、グルービーが自分でくれてやると言ったものだ。だから、もらったところで何の問題もない。
俺は、悪くない。
……アイビィにしてもそうだ。
要するに、ずっと俺を騙していた。家族のように大事にしていたのに、最後の最後で、俺じゃなくて、別の誰かを選んだ。それだけじゃないか。
頭のどこかに、熱のようなものが留まっているような感じがした。
心の中に、何か言葉にし得ない興奮がある。その衝動が、なんとなく俺を動かした。
地下室を出て、いつものバックヤードへ。そこから階段を登り、二階へ。
食堂も、居間も、がらんとしていた。何日も人がいなかったのだ。それだけで、まるで廃屋のような空虚さが漂っていた。
更に階段を登る。三階だ。
半開きになった扉が目に付いた。
あの日の朝以来、か。
異常事態に、俺は家の中をうろうろしながら、頭の中を整理していた。
普段は立ち入らない、アイビィの部屋にも、足を踏み入れたのだ。その後、扉をちゃんと閉めずに出てきたのだろう。
俺がドアノブを引くと、キィ、と音を立てて、扉が開いた。
中は、以前に見たのと同じく、きれいに掃除されたままだった。
ベッドの上の布団も、きちんと畳まれている。床にも塵一つない。
ふと、視線を窓際に移した。
そこには、焦げ茶色の椅子と机があった。
紺色のマフラーが、これまたきれいに折り畳まれた状態で、置いてある。よく見ると、あちこちが引っ釣れて、ゴワゴワだ。できの悪さが一目でわかる。
その脇には、インクの壷とペンがある。数日間、蓋が開けっ放しだったのもあって、中のインクは完全に乾燥してしまっている。ペンがその中に刺さったままだった。
そして、机の中央には、便箋がある。ほとんど何も書かれていない。ペンをつけて、何かを書こうとしたらしいのだが、紙の隅のほうに形にならない曲がった線が少しあるだけで、あとは何もない。ただ、水浸しにでもなったのか、表面がゴワゴワしている。
俺は、それをじっと見た。
見つめた。
……水、ではない。
ここで、何があったのか。
俺は、やっと察した。
アイビィは、こだわっていた。
あの日のうちに、何が何でも編み物を完成させなければいけなかった。明日がなかったから。それと知っていたから。
俺が知り合いを連れて帰ってくると、彼女は目を細めて喜んだ。ふざけて俺に絡みつくエディマ達に、アイビィは笑顔で後を託した。みんなでテーブルを囲むのは、あれが最後になった。
一分一秒が貴重だった。みんなが帰った後、彼女は少し、欲張りたくなった。一緒に外を散歩したい、というだけの、ささやかな望み。ピュリスの風景は、彼女にとっても日常になっていた。そこには、いつも俺がいた。
これから自分が犯すことになる罪悪も理解していた。せめてもの償いとして、彼女は全財産を神殿に寄付していた。
帰宅してから、いつも通りの、なんてことない夕食を食べた。俺との最後の食卓だ。その時間を、彼女は噛み締めていた。
夜遅く、俺が入浴して居間に戻ると、彼女は遅れを取り戻そうと必死になっていた。それでも、俺の髪がまだ湿っているのを見咎めて、乾いたタオルを取りにいった。
彼女は、決して忘れていなかったのだ。一年前、俺が夢魔病で死ぬほど苦しんだことを。風邪すら、二度とひいて欲しくない。
だから。
だから、何が何でも、このマフラーが必要だった。
夜中までかかって、ようやく出来上がった。素晴らしいできばえとはいえないけれど、なんとか使える程度の代物。これでもう大丈夫、ファルスが体を冷やすことはない。
でも、このままでは、使ってもらえないかもしれない。自分はもう、いないのだから、立ち去るからと挨拶することもないのだから。
それなら、一言、手紙で気持ちを伝えておけばいい。
彼女は、夜明け前にペンを取った。
言いたいことは、山ほどあった。体を冷やしては駄目、きっと風邪を引いてしまうから。ちゃんと食べること。頑張りすぎないで、よく休むように。好きなことをして、楽しく過ごして。みんなと仲良く。
きっと微笑を浮かべてペンを取ったであろう彼女は、しかし、ただの一文字も書くことができなかった。
後から後から溢れ出てくる涙が、容赦なく便箋を濡らした。
隣ではファルスが寝ている。彼女は声を押し殺した。
どうしたって、ただの一言も残せなかった。
……ノイズが、止まった。
俺が、殺した。
震える手が、そろそろとマフラーを取り上げる。それはすぐに冬の空気を遮って、俺の掌にかすかな温もりを伝えてきた。
右手が、便箋に触れる。それは、ただの紙切れだった。一度濡れて、乾いただけの。
血が沸騰するような熱と、氷のような冷たさが、一度に俺をかき乱した。俺は転びそうになりながら、部屋から飛び出た。足を踏み外しそうになりながら階段を駆け下りた。
手に持っている物で、俺は火傷しそうに感じていた。なのに、手放せない。どうすれば、どうすれば。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
気付けば、地下室に駆け戻っていた。
眩い財宝の光が、周囲に満ちている。だが、俺はそんなものには目もくれなかった。
頑丈な箱。一番丈夫な……あれだ。
俺は、魔石の詰まった金属製の小箱を引っ張り出した。開けると、中には小さな砂利がいっぱい入っていたが、俺はそれを無造作に掻き出した。辺りに小石が散らばる音がしたが、ただ耳障りなだけだった。
かすかな痛みが走る。あまり慌てたので、中の宝石で手を傷つけたのだろう。だが、いちいち気にしていられなかった。とにかく、中身は邪魔だった。だから、残らずほじくり返して、捨てる。
すっかりきれいになった箱の中に、俺は便箋とマフラーを納めた。そして、バン! と力をこめて、蓋をした。これ以上きつく閉じられるわけもないのに、俺は上から箱を押した。鍵をかけて、厳重に密閉した。
俺が、殺したのだ。
そして、もう二度と戻らない。あの笑顔も、永遠に消え去った。
取り返しがつかない。
喉の奥から、真っ黒な手が内臓を鷲掴みにするのを感じる。
どうすれば、この苦しみから逃れられる?
剣。
そうだ、剣だ。
この世界、やっぱり苦しみばかりだ。
だが、この胸を裂けば、すべてが終わる……
『生きてね』
その衝動を、彼女の一言が遮る。
なぜだ。
どうしてだ。
こんなにまで苦しんで、なぜなお生きねばならない?
俺は、人間になれたと思っていた。
でも、一年だけだった。
たった一年!
奴隷をやめて、街の中、人の中で、人間らしく暮らせた時間が、それだけ。
人として生きたい?
どの口がそう言うんだ?
人に尽くして、人に愛されて、普通に暮らしていけると……どうして思った?
俺はどうすればいい?
この苦痛を、どこに吐き出せばいい?
「くっ……かっ! かはっ……はっ……」
俺の心のどこかが、泣き声をあげている。
だが、体がそれを許さない。
内面で荒れ狂う思いが、その殻に閉じ込められて、唸りをあげている。俺の体は、ただ軋むばかり。苦しく息を継ぐばかりだ。
わかった。
生きる。
生きてくれというのなら、俺は生きる。
死ぬために、俺は生きる。
何をどう積み上げても、すぐ台無しになる。
何度も思い知らされて、まだ学ばなかったのか。
だから、終わりにする。
終わらせるために、俺は生きる。
地下室の冷たい床の上で。
俺は小さな黒い炎を胸に宿したまま、身悶えしながら、そう誓った。
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