襲撃、混乱、不和
立ち上る黒煙は一筋から二筋へと増えた。
それを俺達は、ピュリスの三叉路から見上げる。
「急ぐぞ」
ガッシュの声は、落ち着いていた。だが、自分達の置かれている状況がとんでもないものだとの認識は、当然にあるだろう。
煙が出るということは、火災が発生した、誰かが火をつけた、ということだ。しかし、街中が病気で寝込んでいるのなら、誰が火を? 海竜兵団の兵士なら、もし誤って火災を起こしたとしても、急いで鎮火しようとするだろう。なのに、明らかに燃え広がっている。それも、あちこちから。
つまり、この病気にやられていない誰かが、わざと放火したのだ。ちょうど都市機能の麻痺したこのタイミングで。
そして現在、海竜兵団には、それを食い止める力がない。少なくとも、組織的な抵抗を繰り広げるのに十分でない程度には。
俺達が路地に足を踏み入れると、横たわったままの人間が目に付いた。その男は、地面に突っ伏したまま、ピクリともしない。
だが、俺達はすぐに駆け寄ったりはしなかった。なぜなら、そいつが武装していたからだ。腰には剣の鞘、そして少し離れたところに、握っていたであろう剣が転がっている。上半身には革の鎧を身につけているが、血反吐の中に転がる顔は、髭が伸び放題だった。
こいつは兵士ではない。子爵家の私兵としても、こんなに薄汚いのはいない。そして、ガッシュ達が知らないということは、ピュリスの冒険者でもない。つまり……
「死んでる、な」
ドロルがポツリという。
情報は取れそうにない、という意味だ。
「音」
ユミが短く言う。
それでみんなが耳をそばだてる。
離れたところに物音。それは、マオの家のあるほうから聞こえてくる。
誰も何も言わず、走り出した。
「ホッ!」
「ぐああ!」
曲がりくねった路地を駆け抜け、あの生気のない椰子の木が項垂れる家の前に立った時、そこには数人の男達と、それを迎え撃つマオ・フーの姿が見えた。
彼は尋常でない身軽さで、壁を真横に駆け抜け、あり得ない角度から手にした棒で鋭い打突を繰り出した。喉を直撃されて、また一人、その場に倒れ伏す。
「支部長!」
「マオさん!」
増援と見るや、男達のうち、三人ほどが手にした曲刀を手にして踊りかかってきた。
だが、ガッシュはこともなげに盾でそれを払い押しのけ、そのままハンマーを叩きつけて一撃でしとめる。そのすぐ後ろでドロルの投げたナイフが敵の喉に突き刺さり、横から飛び出てきたユミが、無傷だった男の右足を鋭く切り裂いて、その場に昏倒させる。
明らかに不利と悟って、男達は逃げだした。
「野郎!」
逃がすまいと身構えたガッシュに、ドロルが叫ぶ。
「待て! 一人は捕まえた!」
足をやられ、取り囲まれた男は、もはや曲刀も取り落とし、両手を後ろについて座ったような姿勢のまま、後ずさろうとする。
「てめぇ」
ハンマーを振り上げ、ガッシュは鬼の形相を作って尋問した。
「何者だ! 何しにきやがった!」
「ひっ、ひいい!」
「早く答えろ!」
壁を飛び越え、白いカンフースーツをたなびかせながら、マオが俺達の傍に降り立った。
「よく来てくれたな」
そう言いながら、彼は男の顔を覗き込んだ。
「早くせい。でないと、片付けていくしかなくなるでな」
「わっ、ひっ」
「どうせお前なんぞ、使い捨てのコマじゃろが。送り込んだ奴も、わしを倒せると思ってはおるまい」
確かに。剣術のレベルが2しかない。こんなの、何人集めても、マオに勝てるわけがない。
逃げ場がないことを、男はようやく悟ったようだった。
「た、助けて」
「お前が誰で、何をしにきたのか、誰に命令されたのか。さっさと答えれば、許してやろう」
「は……?」
恐怖のあまり、要求を整理できないでいるらしい。
俺は一歩前に踏み出して、剣を喉にあて、ただ言った。
「名前」
「いっ」
「名前」
「……っ、リ、リック……リック・コルコック」
「何しにきた」
「いっ……こ、殺せって」
「誰を」
「この家の老人を……で、その後は、好きにしていいって」
「好きに?」
「どこでも勝手に盗みに入っていい、奪っていい、た、ただ」
「ただ?」
「普通の、街の人は殺すなって、絶対に」
「それは誰に」
「ボ、ボス」
「ボスの名前は」
「タ、タロン」
「誰だ、それは」
「海賊、海賊の頭だ。俺ぁ、海賊なんだよ」
はて……?
確かに、この男の身なりは、海賊というに相応しい。お粗末な装備、手入れされていないチョビ髭、その他だらしない格好、そして中途半端な技量。
しかし、海賊が略奪をするのはいいとして。疑問が次から次へと出てくる。なぜわざわざマオを狙う? それは誰の依頼だ?
「理由は」
「し、知らねぇ! 知らねぇよ! こんなに強ぇなんて、聞いてねぇし!」
黒幕はいる。だが、こんな下っ端には、何も知らされていない。
ならば、わかることから聞いていくしかない。
「軍港を襲ったのも、お前らか」
「そ、そうだ」
「海竜兵団はどうした。殺したのか」
「ひっ……何もしてねぇ! ろくに動けやしねぇから、ほっといた」
「どうして動けないと知っていた」
「ボ、ボスが、あいつらは病気だって」
ならば、そのタロンという男は、少なくともある程度は計画を把握している。
この病気は……誰かが意図的にばら撒いたものだ。しかし、どうしてそんなやり方を思いついた? 現代日本からやってきた俺ならいざ知らず。こちらの世界には、『微生物』なんて概念があるかどうかも怪しいのに。
「何か、言われなかったか」
「は?」
「お前も病気になるとは思わなかったのか」
「あっ、えっ、いや、ボ、ボスが」
「ボスが何か命令したのか」
「み、水は飲むなって」
水!
では、黒幕はピュリス市の水道を汚染したのだ。
どういうことだ?
これが毒ならまだ、理解できる。水源を汚染するというアイディア自体は、別に目新しいものではない。井戸に毒を投じるなんて、戦争にでもなれば、昔からよくやっていたことだ。だが、それをわざわざ病原菌で行うとは。
これをやるには、その病原体から感染するという仕組みをちゃんと理解していないといけない。その上で、黒幕の誰かが、これを生物兵器として使った。それも、わざわざ非殺傷性の武器としてだ。殺すだけなら、毒をばら撒いたっていいはずだし、病原菌を使用するにしても、殺傷力が高いものを使ったっていいのに。
「ふむ、水に毒でも入れたかのう」
マオが納得して頷いている。
「ロクでもねぇ真似しやがって」
ガッシュも憤っている。
だが……
「となれば、わしはついておったの。古臭い家だけに井戸があったおかげじゃな」
「なるほどなぁ」
彼らの中で、俺は一人、青ざめていた。
これは、恐ろしい敵だ。
ピアシング・ハンドを行使する俺にとって、強敵というものは、ほとんど存在し得ない。マオやイフロース、キースやアネロスだって、俺がその気になれば一瞬で死ぬ。
ならば数で圧殺すればいい? 確かに、俺を倒したければ、それは有効な手段だろう。だが、あまりに弱い雑兵どもを掻き集めても、俺をしとめるには力不足だ。それに、俺には『逃げる』という選択肢がある。いざとなったら、鳥でも何でも、好きな生き物に変身して遠くへいけばいい。あとは、親玉が誰かわかれば、殺すのは簡単だ。
しかし。そんな俺にとっても危険な相手がいる。それは、知性を持った敵だ。
この作戦を考えた人物は、恐らく俺に近い目線で物を考えることができる。現代科学の知識を背景にした俺と、同じ思考回路を辿り得る知性の持ち主だ。
こちらの世界の人間にとって、戦争とは普通、敵を殺すものだ。だから、水源に毒を入れて住民を殺すというのは、そこまで斬新な発想とはいえない。だが、こいつは住民を『殺さず』に戦うという選択をした。
なぜか? はっきりとはまだ、わからない。だが、そうするメリットはいくつもある。
まず、これが外国の、たとえばシモール=フォレスティア軍による襲撃だとして。ピュリスを攻略するために水源を毒で汚染してしまったら、今度は自分達が占領支配する際に、それが負の遺産になる。何しろ、兵士達に水を与えることができないし、住民も飲み水を得られない。これではピュリスという拠点を破壊することには成功しても、統治する利益を享受できない。
また、致死性の疫病で汚染しても、同じことだ。その後、長期間にわたって病気が蔓延する都市……お話にもならない。
それだけではない。自国が戦争において、住民の虐殺、水源の汚染といった非人道的なやり方も手控えない、と認識されればどうなるか。次の攻略目標となる都市は、兵士から住民まで、結束して死ぬまで抵抗するだろう。過度な残虐性を見せてしまっては、敵の屈服を誘えなくなる。
ただ、これがまだ、外国の軍隊によるものかどうかは、判然としない。そう考えるには、いくつかの材料が矛盾するからだ。
まず、せっかくピュリスを無力化したのなら、こんな海賊どもを使うのではなく、直接正規軍を送り込めばいいはずだ。敵兵も放置せず、全員捕虜にするだろう。なのに、そういう措置をとらずに、好きに略奪していい、なんて命令を下している。もし被害の小さい攻撃作戦を意図しているのなら、そして占領後の円滑な統治を目論んでいたのなら、これは一貫性を欠いている。
ならば、王国内の貴族の誰か? これもあり得なくはない。
ピュリス市で大量の病死者が出ては、今後の国家防衛に差し障りが出てくる。貴族なら、自分の権益の増大を狙って行動するわけで、権力争いの結果、王国そのものが破滅の危機に瀕しては、元も子もなくなる。だから、比較的被害の小さい方法を選択できるなら、そうするだろう。
しかし、いくら権力闘争の末とはいえ、今回のこれは。以前の密輸商人の事件とは規模が違う。犯人が誰であれ、正体が知られれば、まず確実に縛り首だろう。そんなリスクを背負ってまで、こんな目立つ、大規模な計画を?
釈然としない。
あまりに状況が混沌としている。どれも正解のようでいて、そうでないようにも見える。
それでも、わかることがある……
「タンパット村」
俺は呟いた。
「あ、ああ、それと同じ病気なんだろうな?」
俺の深刻そうな表情に、ドロルが頷いた。
この計画の犯人は『予行演習』をした。
その被験者となったのがタンパット村であり、その周辺にあった、貧しい村々に暮らす人々だった。
病原菌といっても、株によって毒性の程度も違ってくる。いったいどの種類が、どれくらいの効果をもたらすのか? 黒幕は、それを前もって実験した。でなければ、こんなに鮮やかにやれるわけがない。
その発想。
病気には感染源があり、上手にばら撒けば効率的に患者を増やすことができる。
そうした仮説を立て、実験し、計画して実行する。
そんな面倒な手順を踏んでまで、住民を殺さず、無力化する。
いったい誰だ? こんな思考方法を、どこから仕入れた?
「あの」
ウィーが口を挟んだ。
「なにかな」
「ジョイス君、は?」
そうだ。
彼はどこへ?
「心配はいらん。先に逃がしてある」
「今はどこに?」
「あやつには、言い含めておいた。もしできるのなら、総督府に駆け込んで助けてもらえ、その後、セリパス教会に行け、と」
「教会?」
「妹がおるじゃろう? 心配だろうからな」
なるほど。
行くな、といっても行きそうだ。下手にコントロールできなくなるくらいなら、あえて教会に行けと言った方がいい。この非常時ならば、リンもそれなりの対応で二人を保護するだろう。但し、彼女が動ければ、だが。
「でも、一人で行かせたんですか?」
「仕方なかろう。わしがこの通り、さっきまで狙われておった。一緒にいれば、却って危険じゃて」
確かにそうだ。
「これからどうしますか?」
俺の問いかけに、マオは答えた。
「総督官邸に行こう。水が汚染されておるのなら、水道以外から水を得られる場所に行くしかあるまい」
ピュリス王朝の宮殿があったあの場所であれば、水道とは別に、地下水がある。それに、子爵家の私兵が無事なら、彼らと一緒に身を守ることもできる。ただ、子爵家が攻撃目標でなければいいが。
丘を登りきり、俺達は官邸の南門に辿り着いた。出入口の柵は閉じられたままだったが、門番は不在だった。
と、不意にマオが身を翻すと、地面を歩くかのように自然に柵の上まで駆け上がり、ふっと向こう側に降り立った。
「ほれ」
あっさりと内側から閂を外して、俺達を招き入れる。もちろん、その後はちゃんと門を閉じたが。
しかし、門に守衛すらいないとなると、子爵家の状況も、あまりよくはなさそうだ。
やや薄暗い中、俺達はまっすぐ歩く。子爵は、イフロースはどこにいるのか?
普通に考えて、守備に回せる人数が少なければ少ないほど、防衛線を後退させ、見張る範囲を狭くする。もし、私兵の多くがあの疫病にやられているなら、イフロースの定める守備範囲も、自ずと小さくなる。つまり、子爵一家が暮らす本館。まずはそこだ。
子爵が暮らす邸宅の前。
南向きにコの字型になった、煌びやかな本館の前に、十人近くの男達が腰を下ろしていた。彼らは誰もがたくましく、しかし薄汚れていた。剣や斧を携えていて、着衣が血に塗れていた。
真ん中のハゲ頭の男が、俺達の到着に、座ったまま、首を向けてきた。
「なんだぁ、お前ら?」
海竜兵団の軍団長、バルドだ。
なんだ、とはこちらこそ言いたい台詞だ。基地の防衛はどうした? こんなところまで逃げてきて。
「わしらは冒険者ギルドの者じゃ」
「ふぅん……ま、戦えそうなら、いいんだ」
彼に従う兵士達は、みんな表情も重く、疲れ果てていた。
察するに、突然の海賊の襲撃に、ごく僅かな兵士達だけが対応できたのだ。病気で寝込んでいる者は無視された。だが、動けるものは殺されそうになったのだろう。
本館から、数人のメイドがバタバタと駆け出してきた。手にしているのは鋏やガーゼだ。ここに至るまでの撤退戦で負傷した彼らの手当てをするため。
そのうち、中からメイド長とイフロースが姿を見せた。
「遅ぇよ、爺さん」
バルドが口元だけで笑いながら、嫌味たっぷりに言葉を浴びせる。
「元歴戦の勇士っていうんならよぉ、状況見りゃわかんだろ。グズグズしてねぇで、おたくんとこの兵隊、貸してくれよ」
イフロースは、ふん、と溜息をついた。
「私の仕事は、総督閣下とその一家を守り通すことだ。ピュリスの防衛は、海竜兵団の仕事ではないか」
「頭かってぇな、ジジィ。敵を排除するのが最優先だろうが」
確かにそうかもしれない。いくら子爵家を守るのが彼にとっての最重要事項であるにせよ。目の前で暴れる海賊どもを見過ごすのがいいことかどうか。
だが、彼はバルドに取り合わず、こちらを見た。
「ファルス、これは?」
「ギルドの皆さんです。海賊と一戦交えた上で、ここまで逃げてきました」
「ふむ、それで?」
「報告が。捕らえた海賊が言っていました。ピュリス市内の水道を、汚染したそうです。だから水源のある総督官邸に合流して、情報の共有と、今後の対策を話し合おうと」
「なるほど……」
イフロースは顎に手をやり、溜息をついた。その視線は遥か遠く、丘の東側に広がる市街地を見据えている。
「あの、今は」
「こちらも状況がよくない。まず、私兵の半数以上が倒れている」
「それはなぜ」
「なぜも何もない。普段、下町で夕食を摂る者も多い。その、汚染された水とやらを飲んだ者が多くいたのだろう」
だからか。南門に見張りがいないのは。
「こちらに襲撃は」
「いや、まだない。だが、市内のあちこちから報告は受けている」
「それはどんな……」
すると、彼は首を振った。
「最悪だ」
舌打ちしてから、彼は続きを言った。
「北門、それから東門も突破されたらしい。そして今、街の南西部にある軍港も、海賊どもの手に落ちた」
「えっ!」
真っ先に頭に浮かんだのは、ジョイスのことだ。
リンはあれで戦う力もあるし、セリパス教会というのは、防衛を考慮して作られているのが普通だ。サディスは心配だが、それはリンも同じはず。時間稼ぎくらいはしてくれると思いたい。なんとかジョイスが合流できれば……
しかしそうなると、俺達が酒場で合流して、こちらに向かっている間にも、いろいろと事態が動いているとみるべきだ。
……アイビィは無事だろうか?
「正直なところ、どこまで守りきれるか。時間さえ稼げれば、聖林兵団が駆けつけてくれるのだろうが……まずは救援を要請しなくては」
横でバルドは唾を吐いた。
「けっ、ゼルコバの野郎か」
その言葉を聞いて、俺はすっと冷静になった。
そうだ。こんな無茶なことがいつまでも続くはずがない。時間をかければ、そのうち聖林兵団がピュリス奪還に動く。以前、能力を盗み見て把握した限りでは、ゼルコバは有能な人物だ。それに、あくまで印象に過ぎないが、職務に忠実な人物でもありそうだ。国内で最も勤勉な聖林兵団が、こんな海賊どもに後れを取るだろうか?
更に時間が経てば、状況はもっとよくなる。仮に海賊どもが市内に立て篭もっても、王都には岳峰兵団もいれば、全五軍団からなる近衛兵団もいる。その上、東西から海竜兵団の別の軍団が海上封鎖するだろう。
ならば尚更だ。ちゃんとした正規軍を派遣しているならともかく、こんな海賊どもの来襲など、そのうち撃退されてしまう。
とすると、当面は最低限の防衛に徹しようというイフロースの意図も見えてくる。とにかく本丸を落とされないことが大事なのだ。一方、バルドの要求を撥ね付けるのにも、それなりの理由がありそうだ。単純に戦力不足というのも大きいが、バルドのそれは、責任回避が主目的だからだ。栄えある海竜兵団の軍団長でありながら、みすみす海賊どもに基地を明け渡した。そんな失態をそのままにはしておけない。
「親玉はわかってんだ。そいつさえやりゃあ、こっちは収まる」
「打って出て、負けては元も子もなくなるがな」
「勝ちゃあいいんだろうが、勝ちゃあ」
二人がそう問答を繰り返しているうちに、また東側から数人の男達がやってきた。体格と武器から判断して、彼らも軍団の兵士達なのだろう。しかし、マオみたいに柵を乗り越えることができないので、わざわざ東側まで回りこんでから、ここまで来たのだ。
彼らを見て、メイド長は黙って目配せする。配下のメイド達は、新たな兵士達に治療その他の必要があるかを確認するため、近付いていく。
「片付けてやってもいいぞ」
不意にイフロースが言った。
「あぁん?」
「但し、私と私の配下が行く。バルド殿はその間、ここで部下達と総督を死守すること」
「あぁっ!?」
この物言いに、バルドは激昂して立ち上がった。イフロースににじり寄り、ねめつける。
「ざっけんな! てめぇ、えらいえらいっつったって、ただの執事だろうがよ? 俺様はな、ここの軍団長なんだよ!」
「その軍団長殿に、名誉ある任務をお譲りすると言っている。総督閣下を死守するのだ。但し、私が敵を打ち負かして帰るまでの間だけだが」
「こ、このっ……野郎っ!」
今にも掴みかからんばかりだ。
だが、イフロースはこれっぽっちも動じていない。
イフロースが実際に基地を奪還できるかどうかはともかくとして。もしそれがうまくいっても、バルドの地位は危ういものになる。軍団の拠点を海賊どもに追い出され、その後始末を貴族の私兵に任せた。これでは立場がない。
あくまでも基地の奪還は、自分がやったことにしないと。彼にとって重要なのは、ピュリス市を守ることではない。自分の身分を守ることなのだと、今、これで明らかになった。
義務と責任に忠実な男であれば、或いはイフロースをたじろがせることもできたかもしれない。だが、こいつは駄目だ。
「そこまでにしてはどうかの」
マオが割り込んだ。
とはいえ、だ。
イフロースの判断は、非情に過ぎる。
今回の疫病による影響で、何日寝込むことになるかは、まだわからない。もし三日も動けないままだとすると、死者が出始める。なにせ、自力ではほとんど動けないのだから、飲食すらままならないのだ。
少しでも市民を守りたい、という立場で考えるなら、一刻も早く海賊どもを撃退すべきではある。
「これだけの人間がいれば、なに、うまくやればだが、海賊どもの頭目くらい、討ち取れるじゃろうて。そうは思わんかな」
「マオ支部長殿、おっしゃることはごもっとも」
イフロースは、落ち着いた声で答えた。
「しかし、そのためには、こちらも何かを捨てなければなりません。はっきり言うと、防御を」
「できませんかな」
「万が一、閣下が賊の手に落ちれば……」
「じゃが、その総督としての地位も、この事態を収拾できねば、危ういのではないかと思うが」
「なら、それはそれまででしょう。トヴィーティアの田舎でやり直すだけです」
「ふむ……では、取り残される市民はどうなされる。こんな状態が何日も続けばどうなるか」
「それは」
かつての傭兵隊長としてのイフロースであれば、迷いなどなかっただろう。戦争には犠牲が付き物。自分だってそうだった。ならば、誰が自分の巻き添えになろうと、知ったことではない。
だが、今はピュリスを守る子爵家の執事なのだ。自分がエンバイオ家を守りたいのと同様に、街の人々にも家族がいる、友人がいる……
「もう少し、戦力があれば」
苦々しげに、イフロースはそう呻く。
ふと、顔をあげて俺を見た。
「ファルス、モルベリーさんは」
人手が欲しいがゆえに思い出したのだろう。だが、俺は残念な現実を伝えるだけだ。
「それが、朝、出かけたきり、戻ってきません」
「なんと」
彼は多少なりともアイビィの戦いを見ている。もしいれば、戦力の一つに数えることができた。子爵一家の護衛として残していくのであれば、彼女が最適なのだ。
だが逆に、彼女が戻ってこないとすると。上陸してきているのは、海賊どもだけではない。かなりの手練れが混じっているとなると……
「ならば、女神神殿と連携を」
「それはできません」
「なに」
「神殿は壊滅状態です」
俺の言葉に続けて、ハリが説明した。
「神官長ザリナ以下、神官戦士団も、ほぼ全員がこの病気で倒れこんだままです。なお、自分達への救護は一番最後にして欲しい、市民の保護を優先するようにとの伝言を預かっています」
「なんということだ」
彼の視線は、東側に向けられた。また負傷した兵士がここまで逃げてきたのだ。今度のは、割と傷が深いらしく、足を引き摺りながら歩いている。
このままでは。
ここには、治療の素人しかいない。負傷者が増え続けたら、すぐにパンクしてしまう。
この際、戦う力がなくても、動ける人間が欲しい。とにかく、問題の量に対して、圧倒的に人手が足りない。
「イフロース様」
俺は進み出て言った。
「このままでは怪我人が」
「わかっておる」
「女神神殿は今、機能していません。ですが、街中の医者で無事なものがいれば。あとは……セリパス教会はどうでしょうか」
「遠すぎるぞ。それに、無事でいる保証がない」
「その時はその時です。でも今は」
イフロースは表情を引き締めて、深い思考に入った。
今、こうしている間も、わかっている限りで三箇所から、市内が侵蝕を受けている。どれから、何から対処すればいいのか。
「よし」
目の色が変わった。
銀の刃のように鋭い、あの攻撃的な目に。
「まずは軍港を奪還する。いや、奪還できなくてもよい。指揮官を討ち取ったら、すぐここに引き揚げる」
そういうことか。
イフロースは、取捨選択の限界だと判断した。防衛こそ最優先とはいえ、守りに入るには、あまりに状況が厳しい。だからまず、市内をまさぐる不潔な手を、一本ずつ切断する。
個別の海賊による略奪、破壊行為は、もう防ぎようがない。だが、指揮系統だけでも破壊すれば、時間稼ぎはできる。
もちろん、現状でも見えていない「何か」はある。それでも、あえて見えているものから対処する。
そして、軍港の海賊どもは、ここから一番近いところにいる。北門と東門は、少し距離がある。片付けにいっている間に、ここ本丸が陥落しては、意味がない。だが、手近な相手であれば、一気に奇襲を浴びせて、すぐに戻ってこられる。第一、近くにいるというだけで、敵としての危険度も高い。
ついでにいえば、まだ健全な状態で生き残っているかもしれない海竜兵団の兵士達を救出できるかもしれない。そうなれば、戦力も補充でき、選択肢も増やせる。
「おい」
バルドが不満げに声をあげる。
「なにしきってんだよ」
「黙れ」
ピシャリと言った。
「手柄が欲しければ、あとでお前の功績にでもしろ。今はそれどころではない」
イフロースは、俺に振り向いて言った。
「負傷者救護の問題は、この後だ。よいな」
「……はい」
本音を言えば、ジョイス達が、アイビィが心配だ。
だが、今、目の前にある問題から、片付けていく。
しっかりしろ。ここはもう、戦場になってしまった。重要なのは感情ではなく、判断だ。否応なく、理不尽な選択を迫られる状況なのだから。
「五分後だ! 動けるものは、準備せよ!」
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