沈黙の朝
遠くから小鳥の声が聞こえた気がする。
目蓋の重さ。頭の奥深く、断崖絶壁から意識が這い上がってくる感触を感じながら、今がいつで、自分が何をしようとしているのかを、少しずつ思い出していく。
窓に目を向ける。薄いレースのカーテン越しに見える光は弱々しい。曇り空? いいや、海からの空気が吹き込むせいで、特に冬場は、こうして霧がかっていることがある。
それでも、外が明るいということは、もう朝だ。だが、休日でもないのにこの静けさはいったい、どうしたことだろう? 表通りから一本内側にあるとはいえ、ここは港湾都市の中心部。ここのルールでは、商船の出発はいつも午前中と決まっている。船乗り達には朝寝坊する余裕などない。ということは、彼ら相手に商売する人々も、同じくらい早起きするのが普通だ。
少し早く目が覚めたか? しかし、それにしては。とりあえずベッドから降り、靴をつっかけ、俺は階段を駆け降りる。さっき窓の下を見た時には、店の前に行列はできていなかった。なら、問題ないとは思うのだが。
重い玄関の扉を押し開け、外に出る。昨日より一層冷たい空気だ。こうなるともう、気持ちいいというより、肌を刺すようだ。
数歩、トコトコと歩いて、店の前を見る。やはり誰もいない。
しかし、静かだ。通行人も見当たらない。
はて……
首をかしげながら、俺は家の中に戻る。今、何時だろう?
時計は自室にはない。それなりに値段がするものなので、店にしか置いてない。というわけで、バックヤードから売り場に入って、置時計を見る。
八時十一分。
えっ!?
なんだ? どういうことだ、これは?
俺はいつも、七時過ぎには起きるようにしている。遅くても七時半だ。それから店の前を簡単に掃除して、これまた簡単に料理を作る。八時半には神殿からアイビィが戻ってくるから、それから一緒に朝食を済ませて、朝九時半には店を開ける。
三十分くらい寝過ごした。それはいいとして。
どうしよう。どうしよう。
まずは何か、食べるものを急いで……いや、それでいいのか?
俺がこのスケジュールで動いているのは、街の人がそれ以上に早起きだからだ。なのに、どうしてこの時間で、人気がない?
混乱しながらも、俺はパジャマを脱いで、普段着に着替える。
俺が寝過ごしたのも、そうすると原因は。窓の下に物音がなかった。近くの店が鉄格子を引き上げたり、扉を開け閉めしたりする音。馬車や荷車、行き交う人々のたてる、石畳の響き。通行人の話し声。そういうものが一切なかったから。
まさか、と思って、俺は屋上に駆け上がる。冷え切った空気が俺の頬に噛み付くのも構わず、俺は白い吐息を漏らしながら、霧がかった港湾都市を見下ろす。
誰もいない。
巨大な純白の街が、完全に沈黙していた。まるで模型にでもなったかのように、そこからは一切の生命感が消え去っていた。
これは……
わからない。わからないが、とんでもない異変が起きている、かもしれない。まだ、理解も追いついていない。それでも。
また、下に駆け降りて時間を確認する。八時二十二分。
そろそろアイビィが戻ってくるはずの時間だ。なのに、まだ……いや。そもそも、彼女は外出したのか?
三階に戻り、俺はいつものルールを破って、ノックもなしに彼女の部屋の扉を開けた。
きれいに整えられた部屋。
ベッドの上には布団が畳まれている。床もきれいに掃き清められて、塵一つ落ちていない。窓際には、焦げ茶色の小さな机と椅子がある。
当たり前だが、誰もいない。
いないが、割と最近まで、人がいたような雰囲気がある。
俺は、机の上に視線を向けた。
そこには、紺色のマフラーらしきものが、やはり折り畳まれて置かれている。それと脇には、インクとペン。それと、便箋だ。
しかし、どうしたことか。お茶でもこぼしたのか、その便箋は、一度、水浸しになってから乾いたみたいに、ゴワゴワに歪んでしまっている。そのせいか、何かを書こうとして少しだけペンをつけた形跡があるものの、文字らしきものが何も書かれていない。
何をしようとしていたのだろう?
いや、そんなことより、そろそろ彼女が戻ってくるべき時間だ。
しかし……
どうにも胸騒ぎがする。
俺はキッチンに戻り、お湯を沸かして白湯を飲みつつ、パンだけかじった。
八時三十五分。
階下で時間を確認した俺は、ゆっくりと階段を登り、自室に戻って帯剣した。それと、久しぶりに、身体強化薬も首から提げる。
何かが起きた。それも、途方もない何かが。
だが、このままここにいても、状況は把握できない。
覗いてみるのも怖いが、こうなったら、とにかく他の人間がどこにいるのか、まずそれを確認しなければなるまい。
それにもし、何らか危険が迫ってきているのだとしたら。なんとか逃げ延びなくては。だが、どこが安全なのか。
まずは、なるべく早く、知り合いと合流することだ。それも、頼りになる人達と。
子爵一家はこの状況を把握しているのだろうか? もしそうであれば、そしてサフィスが健全に活動できる状態であれば、いくらなんでも最低限、調査と治安維持のための命令を下しているはずだ。そして恐らく、この街でもっとも安全な場所は、総督官邸内だ。しかし、少し遠い。
海竜兵団は? 知り合いというわけではないが、非常事態であれば、当然、街の防衛に動くだろう。だが、距離的には官邸と変わらない。坂を登らなくていいというだけだ。
女神神殿。割と近いが、こちらは恐らく、行ってはだめだ。なぜなら、アイビィが出向いたはずの場所なのだ。それが戻ってこない。彼女ほどの能力があれば、多少の危険には対処できるはず。となると想定される事態は二つ。あまりに状況が過酷で手が離せないか、もしくは……彼女をもってしても対処できないほどの、大きな困難があるか、なのだ。
助けにはいきたいが、何があるかわからないのに突っ込むわけにはいかない。もし行くとしても、自分一人ではよくない。
セリパス教会は? なんだかんだいって、リンには高い能力があるし、博識でもある。だが、街の北側で遠いし、彼女以外には戦力がない。
あとは、マオの家か。だが、彼のところに寄るなら、ついでに子爵家か海竜兵団の詰所にも向かうべきだろう。
そう考えると、やはり行き先は一箇所しかない。いつもの酒場兼宿屋。あそこには、ガッシュにドロル、ハリにユミ、それにウィーがいる。他に出向くにしても、まずは彼らと合流して、そこから次の方針を考えるべきだ。何より、これ以上、単独行動を続けるべきではない。
アイビィからもらったポーチに、乾いたパンと小さな水袋を詰め込む。どこで補給ができなくなるともわからない。今一度、剣を引き抜いて状態を確認する。素振りして、イメージを固める。大丈夫、戦える。
俺は玄関の扉を押し開けて、外に出た。
大通りに出る。相変わらず、人気はない。いつもは猛スピードで突っ走る馬車が何台も行き交っているのに。この時間帯であればもう、船乗り達が出航の準備に追われている頃なのだ。
道路を渡る。自分の足音しか聞こえない。それが悪意ある誰かに聞き取られているのではないかと不安になる。
慌てるな、慌てるなと自分に言い聞かせながらも、自然と歩みは早足に、早足は駆け足になった。気付けば息が切れている。
あった。あそこだ。
初めて目にした時と変わりがない、武骨な木の壁。入口は開いているようだ。
そこで気付いた。左右の商店は、どれもシャッターを下ろしたまま。シャッターといっても、簡単な鉄格子のようなものだが、それがあがっていないということは、彼らは活動していないのだ。だが、この酒場はどうだろう? 夜間の客を受け付けるために、夜中でも出入り口を閉ざしたりはしないから……
それでも、俺は意を決して扉を押した。
開いた!
店内は薄暗かった。火を落とした厨房特有の、どこか湿った空気の匂い。だが、テーブルの上にランタンが置かれており、それが微かな光を放っていた。
「……ファルス、君!?」
声をかけてきたのは、ウィーだった。
ガッシュもドロルも、ユミもいる。
一気に力みが抜けた。
「皆さん、無事だったんですね!」
はあっ、と息をつく。とりあえずは一安心だ。
「ああ、まあ、どういうわけかな」
俺の明るい声に反して、ガッシュが俯きがちに、低い声でそう呟いた。
「なにか、あったんですか」
「店長が」
まさか?
身構える俺に、ドロルが説明した。
「慌てんな。今すぐどうってこたぁねぇ。奥で寝てるぜ」
「怪我? いや、病気、ですか?」
「ああ……」
いまいましげに溜息をもらしつつ、腕組みして、彼は言った。
「……動けなくなるだけの、あの病気、だ」
「なっ……!?」
甦る記憶。半年前の、タンパット村。
あの疫病が、今更? ここピュリスで?
「今、ざっと見たんだが」
ガッシュが淡々と話す。
「この宿、ほぼ全滅だな。船乗りどもも、冒険者も、みんな自分の部屋で寝転がったままだ。起き上がれもしない」
「じゃあ」
「たぶん、他所の家もみんな同じだ」
「そんな」
一夜にして。
昨日まで、あんなに穏やかだった街が、たった一晩で。
……なぜだ?
どうすればいい?
「なんでか俺達はピンピンしてんだけどな」
ドロルが首を傾げつつ、皮肉な笑みを浮かべる。
それは恐らく俺のせいだ。病原菌耐性のスキルを、あの時同行した人間には付与しておいた。その後、能力を回収したりはしなかった。だから彼らは、この病気を受け付けずに済んだのだ。
「じゃあ、今は何をしているんですか」
「とりあえず、このまんまじゃどうしようもねぇ。俺達の手に負えるような状態じゃねぇから、今、ハリを神殿に行かせて、救援を頼むとか、俺達にやれることがないかを」
「神殿!?」
馬鹿な。
どうして。
「なんてことを!」
「お、おい、どうした」
「神殿には、毎朝アイビィが行ってるんですよ!」
「え……」
ウィーが目を剥いて身を乗り出した。
「そういえば! アイビィさんは? どうしたの!?」
「戻ってこない」
「じゃ、探しに行かないと」
「毎朝、神殿に行ってるはずだよ」
「じゃあ、どうしてこっちへ」
「説明しなくてもわかるでしょ?」
と言いつつも、俺は考えを述べた。
「アイビィがうちを出て行った、ということは、アイビィも病気にはやられていない。で、もし神殿に行って、ここと同じように倒れてる人を見つけたら、どうする? そうじゃなくても、神殿がたくさんの病人を受け入れていたら? うちは薬屋だよ? すぐに気付いて、帰ってくるはずだ。僕に手助けを頼むか、それとも僕と一緒に避難するか、それはわからないけど」
「お、おう」
「でも、戻ってこない。ということは、戻れないんだ。それは忙しいから手を離せないというようなものじゃなくて、たぶん」
もしかすると、神殿にこそ、危険の震源地があるのかもしれない。或いは、この疫病の流行とたまたま同時に発生した、何かの災難。そして恐らくそれは、かなりの脅威であるはずだ。
「そっ、んな、だって、ほら、ほらよ」
事態を飲み込み始めたドロルが、つっかえながら俺に問う。
「アイビィさん、クソ強ぇじゃねぇか。なんかあったってよぉ」
「強いだけじゃない。はっきり言ってしまいますが、アイビィはグルービーの護衛じゃない。本当は隠密なんですよ。強いけど、力に頼って戦うより、逃げ延びて対策を探すほうを選ぶはずなんだ。それが戻ってこられないなんて」
彼女が身動きをとれなくなる、或いは倒されるような場所。そんなところにハリを送ったら……
「畜生!」
ガッシュが苛立ちを爆発させて叫んだ。
「行くぞ! お前ら!」
だが、その袖をユミが掴む。
「待つ!」
「離せ! お前、仲間だぞ! このまんま見殺しにしろってのか!」
「慌てる、よくない! 人、集める」
冷静な意見だが、それを語るユミ自身も、かなり取り乱しているのだろう。うまく話せず、片言になってしまっている。
だが、道理だ。一人でも多くの人を救おうと考えるのなら、まずは戦力を集めるべき。ならば、どこがいい? 子爵家の私兵を借りるか、それとも海竜兵団に救助を求めるか。どちらにせよ、途中にはマオの家がある。
「マオさんと合流しましょう」
俺も、努めて平静を装い、そう口にする。
「その後、子爵家と軍団に、それぞれ助けを求めましょう。こんなの、個人の冒険者がなんとかできるものじゃないです。街全体が病気でやられているなんて」
「けどよぉ、ファルス。それだけか? なんかおかしかねぇか? だったらなんでアイビィさんは戻ってこねぇんだよ」
「それはわからないけど、きっと何か大変な」
その時、背後の扉が、鈴を鳴らしながら開いた。
「戻りました」
やや重い表情ながらも、まったく普段と変わりないハリが姿を見せた。
「無事だったのか!」
ガッシュが、やや混乱しながらもそう叫ぶ。
「とりあえず、報告を」
「おう」
いろいろ問いただしたくはあるが、まずは彼の言葉を聞く。感情を切り替え、全員が沈黙した。
「神殿も壊滅状態です。みんな、例の病気にやられているようです」
「ザリナさんは?」
「彼女も、ほとんど動けない状態でした。神殿としては、教団関係者より一般の方の救助を優先すること、軍団や総督府の救助を要請すること、それが難しいようならまず、無事な人から避難するようにとのことで」
なんとも目新しい情報のない報告だ。
「それだけか?」
「はい」
「アイビィは?」
俺の質問に、ハリは首を傾げた。
「アイビィさん?」
「はい、毎朝、お祈りに出かけてるじゃないですか」
「いえ? 見かけませんでしたが」
どういうことだ?
アイビィがいつものように神殿に出かけたのなら。ハリの報告内容に従うなら、彼女もまた、同じ光景を目にしたはず。なのに、神殿で病人を介護するでもなく、家に駆け戻るでもなく……
「自分で動いたんじゃねぇか?」
ドロルが落ち着いた声で言う。
「家に戻って薬とってくるっつったってよぉ。神殿にだって薬くれぇ、山ほどあんだろ? それより、足りねぇのは人手だ。俺なら家に帰るより、まず海竜兵団とか総督府に駆け込んで、助けを求めるね」
言われてみれば、それもあり得るか。常識的に考えて。
まず自宅にいる俺のことを心配するとしても。彼女はこの病気を知っている。動けなくなるだけだ。なら、ある意味、俺は後回しにしても何とかなる。
少し落ち着いた。
「すると……だ」
幾分、冷静さを取り戻したガッシュは、顎に手をやりながら考えをまとめだした。
「多分、街中がこの病気にやられてる。前に見たのと同じなら、二日か三日は、完全に動けなくなる。早めに起き上がれるようになればいいが、そうじゃねぇと、餓死したりするのも出てくるかもしれないな。ってことは、まず、動ける奴を探して、集める。で、それぞれで分担して、街の人を助ければ」
「いや」
ドロルが口を挟む。
「わかんねぇぞ。俺達も今は無事だが、あとでやられるかもしれねぇ。その前に、こっから逃げるっつうのも、選択肢だ」
「そいつは賭けだ。ドロル、俺達ぁ生き延びてナンボの冒険者だ。だから自分だけ逃げるってのも悪かねぇが、ここから出て、その後、病気になったらどうする?」
つまり、実は既に感染済みだったら? 後々発症して、道端で倒れこむことになる。そうなったら、誰の助けも期待できない。もっとも、彼らに限ってはその可能性は極めて低いのだが。
ウィーがおずおずと言う。
「結局、原因はわからなかったんだよね」
「そうだな。何が悪かったのか、どうしていきなりこんな……くそっ」
動物か、水か、それとも別の何かか。
だが、病原菌によるのは間違いない。俺も、ガッシュ達も、アイビィも動ける。ザリナは違った。今のところ、その差異は、病原菌耐性スキルの有無だけだ。
「よし、とりあえず、動ける人間を探そう」
「じゃ、ギルドに寄るか? ボスと合流して」
「それがよさそうだな。マオ支部長に人を集めてもらって、ギルドとして救援活動を始めよう」
俺達は酒場を出た。大通りを出て三叉路を西に。住宅街の内側に入れば、すぐにマオの家がある。
だが……
「あ、おい!」
ドロルが宙を指差した。
灰色の空に、黒煙があがっていた。
街の西側。海竜兵団の駐屯する軍港から。
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