最後の一日・下
「どうしようかな……」
「へへっ、お邪魔しまーす!」
一人で出かけて、一人で帰ってくるつもりだったのに。
後ろにはゾロゾロと。ジョイスとサディスはまぁ、いいとして。
俺のすぐ後ろにはディーが。そして今、俺の首を小脇に抱えてはしゃいでいるのがエディマ。一番後ろに、リンまでついてきている。
重い鉄の扉をあけて、暗い家の中に入る。冷え冷えした、多少薬の匂いの漂う空間を抜けて、階段に足をかける。アイビィはどこだろう?
居間の扉を開けると、日差しを背に窓際で編み物をする彼女が、顔をあげた。
「あ、おかえり」
「ただいま」
やり取りの後、彼女は俺の後ろを見回した。
「ああ、みんなついてきちゃって」
「そうなんだ」
「ご飯作るから」
「あ、じゃあ」
編み物を中断して、彼女は腰を浮かせる。
何しろ、こんなに人が来るとは想定していなかった。食材も足りそうにない。
「お買い物くらい、行ってくるよ」
「いいよいいよ、僕が行く。それより、狭いけど、みんなとここにいて」
買い物っていったって、彼女に料理なんてわからない。いらないものをもらってきたり、必要なものが足りなかったり、ということになるに違いないから、俺がやったほうがいい。
但し……
「ジョイス」
「うぉっ?」
「お前は手伝え」
ほっとくと、また覗き見するしな。
俺以外、全員女ばかり。こんな場所にサルを放置するなんて、あり得ない。
「へいへい」
「あはははは!」
ディーがけたけたと笑う。
エディマも苦笑いしている。
「なんかさ、私らよりジョイス君のが、ずっと奴隷っぽいんじゃない?」
「ジョイスにはまだ教育がいるから」
「厳しいなー。でも、それなら」
いったんは居間の隅に座ったエディマだったが、すぐ立ち上がろうとした。
「私も行こっか? ほら、一応、本物の奴隷だし」
その言動自体、まるっきり奴隷っぽくないな、確かに。
「大丈夫。すぐ戻るから」
「あ、そう?」
エディマは少し残念そうに、しおれたような笑みを浮かべてストンと腰を落とした。
どうやら、俺が思っている以上に、彼女は俺に懐いているらしい。いや、精神的に掴まる場所がないゆえか。
なんとかしてやりたいが、彼女の再出発は、ほぼ不可能だ。なんといっても犯罪奴隷だから、解放される可能性がまずない。一般人に買い取ってもらうとしても、その後一生、奴隷でいるしかない。
彼女を自由の身にしてあげるには、貴族の身分が必要だ。それも所領付きの。領地を持っていれば、その中では領主たる貴族の司法権が絶対だから、犯罪奴隷の称号を引っぺがすことができる。一般人は、領主の許可がなければ、その土地から出られないのだから、これは妥当なルールだ。
ただ、もしそれが実現したからといって、その後の人生が明るいものになるとは言えまい。奴隷でなくなっても、娼婦だった事実は残る。そんな女を、普通に妻として迎え入れる夫など、どこにもいないだろう。
愛嬌のある笑顔がかわいらしいエディマだが、その未来は。もうすぐ十七歳、一番美しく、幸せなはずの時期を、日陰で過ごさなければいけないのだ。
思考を打ち切って、俺はジョイスに手招きする。
さて、今回はどんな料理がいいだろう?
……数十分後。
結局、シンプルかつ無難な選択に落ち着いた。
「好きに小皿に取り分けてくださいね」
我が家の食卓は、決して広くない。かなり前に、ウィーを元気付けるためにホームパーティーを催したが、あれが限度だ。四、五人が座ったら、もう場所がない。
なので、どうしてもこの居間を使うしかない。それにしたって七人では手狭だから、あんまりいろいろ出すのも難しい。となれば、もう、みんなで鍋を囲むしかない。
鶏肉とキノコの旨みが滲み出た鍋だ。冬場の寒い時期には、よりおいしく感じられるだろう一品。
そんな鍋を、長方形の掘り炬燵みたいなところに腰掛けて、みんなで囲む。なんとも和風な風景だ。但し、布団もなければ、電熱器もないのだが。
「座りなよ、ファルス君」
ディーがそう言う。もしかしたら、一番奴隷っぽいのは、俺自身かもしれない。だって、下働きばかりしているから。全員に配膳して、あとは飲み物も用意して……
けど、仕方がない。アイビィには任せられないし。ディーやエディマなら、言われればやるだろうけど、俺の中では彼女らは奴隷ではない。ジョイスやサディスは、分類としては子供。ゆえにサービスを受ける側だ。
リンは……
「これは少々問題がありますね」
彼女は、俺の鍋を見て、顔をしかめた。
「何か? 嫌いなものがあるとかですか?」
はて。
正義の女神に、禁忌の食材があるとは聞いていないが。
「いえ、そうではなく……取り皿、フォーク、スプーン。これはいいとしまして」
「はい」
「もしかして、みんな自分の食器をこの中に突っ込んで食べるのですか?」
ああ、この潔癖症め。
他人が食事をするのに使ったフォークが鍋の中に入るのが、そんなに我慢ならないのか。
「じゃあ、おたま持ってきますよ」
「そうしてください」
「きれい好きなんですね」
「それはもう。サディスにも、毎日手を殺菌するよう、指導してますからね。例外なく人間は不潔で臭いのです。気をつけなくては」
まったくこの女は。動物は臭い、人間は臭い、何もかも臭い。じゃあ、お前は何様なんだ?
えっと……お客様、か。
おたまを持って戻ると、エディマとディーの間に空間ができていた。そこをエディマがバンバン叩く。ここに座れ、と言っているのだ。
どうしよう。アイビィがどんな顔をするか、と思ったのだが。
腰をおろしても、何も起きなかった。
「わぁい」
エディマがベッタリと抱きついてくる。
「汚らわしい」
真っ先におたまに手を伸ばしたリンが、吐き捨てる。だが、それだけだ。
気になってアイビィのほうを振り返ると、彼女はニコニコしている。
「あれぇ?」
俺より先に、エディマが不思議そうな顔をした。
「ファルス君、取っちゃいましたよ? 何にもしないんですかー?」
「エディマ、食事中だよ」
これじゃ食べられやしない。だが、豊かな膨らみを俺に押し付けつつ、彼女はイチャつきながら、アイビィに尋ねた。
するとどうだ。
「うーん、そうねぇ」
穏やかな笑みを浮かべつつ、彼女は少し考えて、それから続きを口にした。
「エディマちゃんは、ファルス君のものだものねぇ」
「そうですよー!」
「じゃあ、お世話係に任命しちゃおうかな」
予想もしない反応に、まず俺がビックリだ。
一年前はどうだった?
『フェイ君は私のものです。一緒にお風呂に入っていいのも、私だけです』
そんな台詞を吐いていた彼女が、いきなり驚きの子離れ宣言だ。
「え! いいの?」
「ちゃんとお役に立つのよ?」
「えっ、ずるい! 私も!」
ディーまで。
すると、アイビィは彼女にも微笑んだ。
「じゃ、ディーちゃんも、お願いね」
「はぁい」
どういう風の吹き回しだろう?
「リンさんも、お願いしますね」
「ふごっ」
予想もしないところで声をかけられたリンは、食べ物を口の中に入れたまま、息を詰まらせた。いい気味だ。その横では、このやり取りに一切関わることなく、サディスがジョイスに世話を焼かれながら、無言で食べ続けている。
なんとか食べ物を飲み込んでから、リンは声高に宣言した。
「わ、私は幼女の世話しかしません!」
「あら、残念ですね」
それでやっと、彼女は自分の小皿に手を伸ばした。
「ねぇねぇ、ファルス君」
エディマが俺におねだりするような声で話しかける。
「私、メイドになりたい!」
「はい?」
「メイド! メイドがいいな」
「うちは狭いし、僕は自分のことは自分でするから、メイドはいなくてもいいんだけど……」
第一、そんなに給料をもらっていない。まあ、キースからもらった剣とかを叩き売れば金にはなるが、あれは俺自身を完全に解放するための資金源。暮らしの手抜きをするために遣ってしまっていい代物ではない。
「じゃあ、そのうちで! だってファルス君、このまま子爵家でお仕事するんでしょ? お嬢様のお気に入りって聞いてるし! そしたら偉い人になれるじゃん!」
まあ、それはあり得ない未来ではない、か。
イフロースのプランに従うなら、俺は成人すると同時に秘書課の一員になる。カーンの右腕として働いて実績をあげ、十年そこそこで引継ぎを済ませて、エンバイオ家の家宰の座に収まる。まだ若いウィムを守り立てて、ここピュリスを私物化するために頑張るわけだ。
これが実現すれば、俺はこの街で二番目に偉い人になる。といっても、総督を務めるウィムに余程の能力がなければ、俺を支配しきるなんて無理だろう。つまり、事実上、この街のボスは俺ということになる。
そういう身分になれば、別宅くらいこさえて、そこにメイドを置いたって、何の不自然もない。ただ、それは今から二十年後のお話なのだが。
「気が早いよ。そうなるとしても、ずっと先のことなんだし」
「えー」
ただ、未来について、俺はまだ、明確なイメージを描けないでいる。
今から一年とちょっと後に、すべての借金を片付けるのはもう、決まっている。これは何が何でもそうする。
しかし、それからどうするか。
一つには、海を渡ってティズ・ネッキャメルに会うというプランがある。だが、会ったからって何があるのだろう? ただの旅行で終わるような気もする。それにもしティズが俺に対して何か欲を出して、今の子爵家と同じことを考えたら。子爵家に留まるのと、あんまり違いのない将来が待っているだけだ。
子爵家にいれば、俺がよっぽど変な真似をしでかさない限り、イフロースが俺を引っ張りあげてくれる。サフィスはクズだが。一方、ネッキャメル氏族はというと、どうだろう。ティズの人となりについては未知数だし、サハリア東部は紛争が絶えない。戦に継ぐ戦の中であれば、俺のピアシング・ハンドの力は、一層輝くだろう。しかし、栄光が約束されていても、所詮それは、血腥い殺戮の道だ。
いっそ、どこにも仕えない、というのもアリだ。その場合は、どこかで細々と飲食店を営み、お得意様にいらしていただく。これはこれで、そんなにいやではない。
不老不死は?
……正直、決められない。追い求めていいものなのかどうか、またそうすべきものかさえも。
食事が終わって一服すると、自然と解散になった。ディーとエディマは旧悪臭タワーに引き返し、リンはサディスを連れて行った。ジョイスは、午後からまた、マオにしごかれる予定らしい。
まだ昼過ぎ。今は冬で、日が落ちるのは早いが、それでも外が明るい時間帯だ。
居間からぼーっと外を見る。
空が青かった。
横で無言のまま、編み物をしていたアイビィが、ふと手を止めた。
「そうだ」
編み棒を横において、彼女は俺に提案した。
「せっかくだし、ちょっとお散歩しない?」
「ん? いいけど?」
散歩、か。デートじゃなくて。
本当に、どうしちゃったんだろう。たまにそう思う。変な行動に出なくなっただけ、よくなったと思うべきなのか。
外に出ると、白い壁だらけの街並みが、やたらと眩しく見えた。
「どっち行く?」
「じゃあ、あっち!」
今日の行き先は、アイビィが決めればいい。俺は彼女に手を引かれて、ただ連れられていく。
たまにはこういうのも悪くない。のんびり散歩、いいじゃないか。
いつも剣術の練習をしていた、街の南側の空き地。すぐ下は断崖絶壁。クローマーと戦った、あの場所。
そこから広がる海を見下ろした。
青い空に劣らず、これまた青い海が、雲のように白い波を立てて揺らめいていた。
少し風が強い。
俺はあれ以来、剣術の練習をほとんどやめてしまった。あんなものは、自分の身を守れれば十分だし、誰かを傷つけたいとか、殺したいとか、そんな風にはもう、到底思えない。
緩みきっているといえば、その通りなんだろう。そのうち、ジョイスにも追い抜かれてしまうんだろうか。それはそれで、いい気がする。
アイビィは、無心に海を眺めていた。
前に『海なんて散々見た、見飽きた』と言っていたのに。
確かに海は美しい。いや、美しいという言葉では表現しきれない。力強くて、解放感があって。途方もなく冷たくて、どこまでも温かい。
その、まさに表面的に捉えきれない何かを見出そうとするかの如くに、彼女は海を見つめ続けていた。
ようやく目を離すと、アイビィは俺に振り返り、言った。
「ついでだから、神殿にも寄らない?」
「いいけど」
白い柱の列の間を通り抜け、無数のレリーフが宙に浮くクリーム色の神殿の、その内側に足を踏み入れた。
分厚い白大理石の壁の奥は薄暗かった。正面には無数の燭台が連ねられている。これはちょうど百八個あって、それぞれが女神の祝福を意味するそうだ。
左右に廊下が広がっているが、俺達は作法通り、右側に向かい、左折して、奥の広間に向かう。
廊下が途切れ、空気が変わる。分厚い壁は、外からの騒音を遮っていた。それに気持ちの落ち着くようなお香が焚かれている。自然と精神が一点に集中する。
広間の中は、案外明るい。天井の高いところが大きく開かれていて、外の光が入るようになっているためだ。
奥の壁には、百八の女神のレリーフが刻まれている。特に中央には、祝福の女神とされる女性の彫像が据えられている。左右には長椅子がいくつも置かれていて、祈りにきた人が座れるようになっているが、この真ん中だけは、落ち着いた赤紫色の絨毯が敷かれている。
朝方には参拝者も多いらしいが、昼下がりのこの時間だ。人影もまばらで、小さな物音が、やたらと大きく響いて聞こえた。
みだりに話すわけにはいかない。それでアイビィは、目配せだけで俺に意図を伝えた。一度、祈っていきたいらしい。構わない、と首肯した。
彼女は祝福の女神の像の前に行き、そこで膝を折った。俺も何もしないで見ているのもなんだから、ついていって同じようにした。
ただ、俺には信仰心なんかない。祈るポーズだけして、そっと横を覗き見た。
アイビィは目を閉じ、手を組んで、熱心に祈っていた。
「ねぇ、アイビィ?」
祈り終わるのを待って、俺は小声で尋ねた。
「何を祈っていたの?」
すると、彼女は静かに答えた。
「ありがとう、って」
「へっ?」
「幸せな一日を、ありがとうって。それだけ」
幸せ、か。
でも、それが祈りの理由なのか?
「それだけ?」
「それだけって?」
「何か、他に思うこととかはないの?」
俺はてっきり、過去についての救いを求めているのかと思っていた。
無残に殺された故郷の人々のため、ではなかったのか。
「んー……もちろん、つらいこととか、思い通りにならないこともたくさんあったし、今もあるけど」
思いをなかなか言葉にできず、アイビィは意識をあちこちにめぐらせながら、たどたどしく答えた。
「それでも、これでよかったんだって。この一日があるだけでも、私は救われる。そう思うから」
いったい、どういうことだ?
どうしてそんなことを?
俺の表情の変化に気付いたアイビィは、曖昧な笑みを浮かべたまま、そっと頭に手を置いてきた。
「なんでもないよ。そう思うってだけ」
そこで、俺の思考を中断する物音が鳴り響いた。足音だ。
振り返ると、もうすぐ中年といっていい女神官長が早足に近付いてきていた。
「これはアイビィさん、今朝もいらしたのに」
「こんにちは。何度もお邪魔してしまって」
「いえいえ、いつもありがとうございます」
ザリナはまずアイビィと挨拶を交わしてから、俺に振り返る。
「今日はファルス君と一緒なんですね。珍しいことです」
「散歩のついでです」
「お休みですからね」
よくよく思い出してみると、俺、神殿に祈りにきたことなんか、ろくになかったな。寄付は結構してきたけど。
魔法が実在するこの世界だ。女神なんてのも、いるかもしれない。というか、本当にいるんじゃないのか? 一年ほど前の、あの不思議な一夜を思い出す。白銀の女神というのは、一体何者だったのか。この真っ白い壁に刻まれた女神達のうちの、誰かなのだろうか。
「でも、本当によろしかったんですか?」
「ええ、気になさらないでください」
「そんな、気にしないでいられるような金額では」
うん?
「何かあったんですか?」
「はい、アイビィさんから、結構な額の寄付金をいただきまして」
「へぇっ!?」
「ザリナさん、ちょっと」
なんだ、それ。
今、初めて聞いたぞ?
「特に、孤児や病人への援助のために使って欲しいとのことで」
「アイビィ?」
「ん? 大丈夫だよ? グルービーからもらった給料の、あまったのをあげただけだし」
それにしても、だ。
やっぱり何かおかしい。
「な、なんで? 何か、問題でもあるの? アイビィ? 病気とか? 何か」
「何にもないよ。健康そのものだし。お金ばっかり持ってても仕方ないから、使ってもらおうって思っただけ」
「い、いや、普通、そんな風に考えないでしょ」
「んー」
頭をポリポリ掻きながら、アイビィは言葉を捜していた。
「私も、ピュリスにいられなくなる時がくるから」
「えっ?」
「ほら、所詮は雇われでしょ? でも、この街にはいろいろお世話になったから」
「う、うん」
確かに、言われてみればそうだ。グルービーが別の仕事を割り振れば、彼女はここを去っていく。
だが、だとしても、だ。第一、彼にとっての俺の重要性が、今の時点では変化したとは思えない。俺について知りたいのなら、俺を利用したいのなら。アイビィをピュリスから引き剥がす気にはならないはずだ。
「でも、大丈夫じゃないかな」
「何が?」
「グルービーに手紙でも書こうか? まだアイビィをこっちに残しておいて欲しいとかって」
「ふふっ、うん、ありがと。でも、いいから」
実際、代理でエロメイドを送りつけられるくらいなら、アイビィが残ってくれていたほうがいいし。
それにしても、腑に落ちない。
神殿を出て、今度は西側から繁華街を抜けて、三叉路に出る。少し影が長くなりつつあった。
見上げれば、総督官邸のある大きな丘。そこに無数の白いブロックが密集している。そこから視点を西側に向けると、いくつもの帆が林立している。海竜兵団の駐屯する軍港がそこにあるのだ。
「いい街だねー」
伸びをしながら、アイビィはそう言う。
「まあね。もう少し、事故が少なければ」
この三叉路は、交通事故の多発エリアだ。サフィスのバカが、ここの問題に取り組んでくれればいいのに、といつも思う。
「何もかも完璧な場所! なんてないけど、うん、それでもいいところだよ」
道路を渡り、どこへ行くでもなく、フラフラと歩く。ふと、道の真ん中で立ち止まる。
ずっと向こうの北の広場のほうをしばらく見つめてから、彼女は振り返った。
「じゃ、いつもの酒場の親父さんに挨拶したら、帰ろっか」
「うん」
夕方。
俺は何をするでもなく、ぼーっと自室で寝そべっていた。
今日も一日が終わる。
明日から、また仕事だ。起きて、薬を作って、客を並ばせて、次々品物を捌く。夕方からはさっきの酒場でまたアルバイト。三日後にはまた、屋敷に出向かないといけない。
大変だし、億劫だという気持ちもある一方、その生活に慣れ親しんでいる自分もいる。
「さて」
ベッドから跳ね起き、俺は下の階に降りる。
とりあえずは、今夜の夕食を作らなければいけない。
キッチン兼ダイニングに入る前に、俺は隣の居間の扉を開けた。
そこでは、アイビィが相変わらず、毛糸と格闘していた。
「まだやってるの?」
「うん」
「もう、ご飯、作るよ?」
「うん」
上の空、といった様子だ。何かよっぽど頑張っているらしい。
「何作ってるの?」
「マフラー」
「小さすぎない、それ?」
「うん」
まあ、いいか。
俺は彼女を一人にして、キッチンに向かった。
日が完全に落ちた頃、俺は彼女を呼んだ。
彼女にとって編み物とは、随分と大変なものらしい。ここ数日間、必死になって取り組んでいるのに、まだ終わりが見えないとは。それでも、声をかけると、きりのいいところで道具をおいて、ついてきた。
「おいしい」
一口食べた、最初の感想がこれだった。
別に特別なものを作ったわけではない。肉と野菜の煮物、それに魚介類のスープ、それにあっさりしたサラダ。パンは近所の店のを買っただけだし。
「そう?」
「うん、おいしい」
そう言いながら、彼女はじっくりと噛み締めるようにして食べている。
「ねぇ」
「なぁに」
「やっぱり、何か変だよ」
ここしばらくのアイビィの態度の変化。それだけならまだ、わからなくもない。成長しつつある男の子と、適切な距離を保とうといろいろ考えた結果かもしれないからだ。
だが、大金を神殿に寄付した件。エディマやディーに『お世話係』をお願いしたのも併せて考えると。
「あのさ」
「うん」
「何か、悩んでることでもあるの? 相談してくれれば、できることなら、なんとかするよ?」
「うん」
「大抵のことなら、何かはできると思うから」
「うん、ありがと」
だが、彼女は何も言い出そうとはしなかった。
「でも、何もないから」
「本当に?」
「うん」
「本当の本当に?」
「うー……じゃ、一つ、お願いしてもいい?」
「なに?」
「一緒にお風呂、入ってくれる?」
「何言ってるの」
俺が呆れて溜息をつくと、アイビィも困ったような笑みを浮かべた。
入浴を済ませ、あとは明日に備えて寝るだけ。
だが、居間からはランタンのオレンジ色の光が漏れていた。
「アイビィ?」
俺が声をかけると、彼女は顔を向けた。
「何やってるの?」
「編み物」
「そうじゃなくって。もう、いい時間だよ? 明日は仕事だし……それに、いつも神殿行ってるし、早く寝たほうがいいんじゃない?」
「あー……うん、もうちょっとだけ」
「別に、編み物は逃げないんだし、明日だっていいのに」
「んー、でも……」
と言いながら、彼女はふと、編み棒を置くと、こちらに歩み寄ってきた。そしてサッと頭に触れる。
「ん、まだ髪の毛、湿ってる」
「これくらいなら平気だよ」
「平気じゃない」
そう言うと、彼女はドタドタと階段を登り、また下りてきた。手にはよく乾いたタオルが一枚。
そのまま、有無を言わせず俺の頭をゴシゴシやりだした。
「よく拭かなきゃ」
「う、うん」
「体を冷やしたら、よくないんだから」
「そ、そうだけど」
十分と思えるまで俺の頭を繰り返し拭くと、やっと手を止めた。
「よし! じゃ、体が冷える前に早く寝ないと」
「そうするけど、アイビィは?」
「私はもうちょっとあれをやってから寝るから、大丈夫」
しょうがないな。
まあ、一日くらい寝ぼけてても、仕事に支障はないだろう。趣味に夢中になるくらい、あったっていい。
「じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
それで俺は寝室に向かった。
それはいつも通りの夜だった。
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