最後の一日・上

 その日の朝も、いつもと何も変わりなかった。


「急がないと」


 俺は朝食の後片付けを猛スピードで済ませようとする。


「お皿洗うくらい、私がするよ?」

「割るでしょ、アイビィは」

「大丈夫だってば」


 そういいながら、彼女は俺の横に立つ。ちなみに俺は、小さな踏み台の上で作業をしている。洗い場含めいろいろなものが、子供のサイズには作られていないので、どうしてもこうなる。


「今日もお出かけ?」

「うん、せっかくの休みなんだし、たまには家でゴロゴロしたいんだけど、朝から北の広場だってさ」

「リンさん、何の用事かしらねぇ」


 サディスのために来て欲しい、と言われた。具体的に何をするかは聞かされていないが。


「でも、確か」


 顎に手を当てて、アイビィが思い出そうとする。


「北の広場って、あれじゃない? 今日は何か催しがあるとか」

「へぇ、じゃあ、それなのかな」


 教会関係の手伝いだろうか? チャリティーイベントとか? それなら事前にちゃんと説明してほしいのだが。


「まあ、昼には戻ってこられるよ」

「うん」

「今日はアイビィはどうするの?」

「ん? もちろん、あれ」


 皿の汚れを落としながら、視線だけ背後に。そこには編みかけの何かが。


「一応、今回はグズグズになってないね」

「でしょ、へへ」

「ところどころ、ひっつれてるけど」

「こらぁ」


 アイビィの作品、というかその紺色の塊は、パッと見た感じでは、どんなものに仕上げられるか、見当がつかない状態だった。一応、布のような形に編んではいるものの、小さすぎてまだこれといった形を成していない。なんだろう、毛糸で雑巾でも作るのかな?


 洗いものも、ほとんど済んだ。

 よし、急ごう。


 俺が部屋を出て、階段を下りようとしたところで、呼び止められた。


「待って、ファルス君」

「なに?」

「これ、着ていって」


 彼女に手にあったのは、立派な毛糸のセーターだった。何の装飾もない、灰色の。


「え? こ、これ、なに? 作ったの?」

「ううん、これは私じゃなくて、神殿の先生のなんだけど」


 なんだ。

 まあ、そうか。いきなりこんなに上手に作れるようになるわけないもんな。


「もう、冬だからね。風邪とかひかないよう、あったかくしないと」

「そうだね」


 今の俺が普通の風邪なんかにやられるわけはないが、どちらにせよ寒いのはつらいし、体にもよくない。


「ありがと。着ていくよ」

「うん、いってらっしゃい」


 今日も北の広場は晴れ渡っていた。

 石造りの建物に囲まれた、円形の広場。足元もきっちり石畳で舗装されている。但し、今日はいつもと違って、その脇にいくつも仮設テントが建てられている。それと、お立ち台もだ。

 それで、肝心のリンとサディスはどこにいるの……


「待って」


 不意に手を掴まれる。振り返ると、そこにはサディスの手を引く、ディーの姿があった。

 相変わらず髪の毛はツインテールに結んでいる。もうこれが彼女のスタイルなのかもしれない。もうすぐ十五歳という年齢で、容姿にはますます磨きがかかっている。しかもただ初々しいのではなくて、そこはかとなく妖艶さも漂いだしている。幼さと大人っぽさが同居する、微妙で危うげな感じ。仕事柄なのか、そういう素質があったのか。

 しかし、服装はというと、割としっかりした、余所行きのものを身につけている。パッと見た感じ、中流以上の家のお嬢さん、といった雰囲気だ。


「あれっ? お、おはよう」

「おはよう……」


 俺に挨拶を返しつつも、彼女は遠目にお立ち台を見やる。


「あっちには行かないでね」

「え? どうして?」

「リンさんがいるから」

「僕、リンさんに呼ばれてきたんだけど」

「うん、わかってる」


 そう言いながら、彼女は俺に三つの物を渡した。

 まず、銀貨一枚。それから、五枚綴りの紙のきれっぱし。最後に、ずっしりとしたカードの束。


「エントリーは済んでるから、あとは一回ずつ戦ってすぐリタイアすれば」

「と、ちょっと待って。何のこと?」


 俺の困惑を見て取り、彼女は小首を傾げつつも、すぐに状況を飲み込んだらしい。


「ああ、なるほどね。何にも説明してないんだね、あの人」


 呆れて溜息を漏らしつつ、彼女は手早く説明してくれた。


 今日、ピュリスの北広場で開催されるイベントは、なんとカードゲーム大会らしい。で、いつの間にか、俺もディーもサディスも、未成年の部に出場することになっている。ジョイスにまで動員をかけたのだとか。

 しかし、当然ながら俺はゲーマーではない。もちろん、ディーもジョイスもだ。自前のカードなんか持ってないから、こうして今、リンからとりあえずのデッキを渡された。もちろん、中身は大会用の公式カード。但し、クズばかり。本気の勝負ができる構成ではないらしい。

 この大会、二段構えになっていて、まず予選では、この紙のきれっぱしをチケットにして戦う。誰か適当な相手と勝負して、このチケットを消費するわけだ。勝ったほうがチケットをもらう。同じ相手と何度も戦うのは禁止だ。そして制限時間になった時点で獲得したチケットが多い順に、本選出場を果たせる。一方、自分のチケットを全部なくした人は、もう次の勝負ができなくなる。

 つまり……


「私達は、わざと負けて、サディスにチケットを渡すために呼ばれたの。銀貨は、そのアルバイト代ってわけ」

「……ア、アホらしすぎる」

「だよねぇ?」


 困った人よね、とディーも苦笑いを浮かべながら、眉を寄せる。

 大丈夫か? サディスをリンのところに置いておいて。語学とか医術を学べるなら、と任せてみたけど、どうにも何か、変な方向に育てつつあるようにしか思えない。


「だいたい、仕事の代金って言ったって。銀貨一枚じゃ、お昼ご飯で終わりじゃないか。相変わらずケチだな、リンさんは」

「ははっ、ま、今に始まったことじゃないよ、あの人のは」

「ディーだって、お仕事あるのに」

「ん、まあ、ね。でも、こんな朝からじゃ、どうせお客さん来ないし。久々にサディスと遊びにきたって思えばさ」


 そんなことを話しているうちに、もう時間になったらしい。

 お立ち台の上を見ると、しっかり余所行きの格好をしたリンが立っている。いつもの司祭の服ではなく、タイトスカートにスーツ、そしてループタイだ。


「あれぇ? なんであんなところに」

「審判なんだって」

「は?」

「未成年の部の審判。リンさんが」


 ひどい。だからディーはあっちに行くなと言ったのか。

 こんなの、サディスにイカサマをやらせてるようなものじゃないか。いや、「ようなもの」じゃなくて、明らかにズルだ。俺達を捨て駒にしてチケットを稼ぐんだから。まったく、何がしたいんだ、あの女は。


「じゃ、さっさと済ませようか」


 ディーが振り返ると、サディスはニコッと笑みを返した。

 相変わらず無口な子だ。じきに十一歳になるというのに、それより幼く見えてしまう。決して頭は悪くないし、教えたことはちゃんと学ぼうとする。根はいい子なのだが、どうにも危なっかしいというか、どこか感情の回路に目詰まりができてるんじゃないかと思わせるところがある。


 仮初のカードバトルはすぐに済んだ。わざと負ければいいのだから、ルールを説明してもらえば、あっという間だった。ちょっと遅れてやってきたジョイスも交えて、あっという間にサディスにチケット三枚を献上した。


「じゃ、いってらっしゃい」

「うん!」


 広場の真ん中の人込みの中に駆けていくサディスに手を振った。

 さて、どうしたものか。帰ってもいいのだが。


「ちょっと、お茶しながら待とうか」


 サディスを一人きりにしておくのも、少し心配だ。何かあったらついてあげられるように、と俺達は広場脇の飲食店に席を占める。


「はぁー」


 椅子の上で脱力しながら、ディーが息をつく。


「なんか、久しぶりだね」

「そういえば、そうかな」

「そうだよ。最近、全然、お店に来てくれないし」

「そりゃだって」


 結局、ガリナ達犯罪奴隷の所有権は、まだ俺が握っている。だが既に店の経営にはまったく関与していない。ちなみにウーラとステラはもう、自由民だ。


「あんまり出入りすると、子爵家がうるさいから」

「うんうん、ファルス君は立場あるもんね」


 紅茶のカップを揺すって冷ましながら、彼女はそっと口に運ぶ。


「でもさ、たまには顔出してくれればいいのに」

「う、うん」

「エディマとかさ、もういっつもファルス君の顔を見たがってるんだから」

「そうなの?」


 確かに、忙しさにかまけて、彼女らのことをほったらかしにしていた感はある。みんな自立して暮らせているのだから、俺の役割はもう終わり……ではあるのだが、それはそれとしても、人の縁とはそんな単純なものではない。


「うんうん、今日も、もしかしたら来るかも」

「ええ」

「今朝、たまたま掃除当番だったんだよね。でもそれが済んだら、間に合えば顔見に来ると思うよ」


 日々、来ては去るだけの客を相手にしている彼女らだ。それとは別に、本当に繋がりのある人は、となると、この点、実に貧しいのだ。地縁、血縁から切り離され、都会の片隅で春を鬻ぐばかり。金さえあれば、生活できさえすれば、という問題ではない。


「どう? 最近は」

「んー、仕事はなんとかなってるけど、気持ち的には、結構苦しい感じかな」

「あれっ、そうなの?」

「そりゃあねぇ。私達、この先どうなるんだろうって、みんな頭を抱えてるんだから」

「でも、景気は悪くないと思うけど」

「貯金はしてるし、無駄遣いもしてないよ。でも、お金だけあってもさ。それに、ガリナなんてもう二十一でしょ? 頑張っても、この仕事、あと何年できるかな」


 前世と違ってこちらの世界では、人が老いるのも早い。グルービーも、二十五過ぎの女は、客に出す商品にはしていなかった。二十代半ばといえば、アイビィなどはまだまだ美人だが、女の魅力という点でいえば、彼女くらいの年齢がそろそろボーダーになってくる。


「お金貯めて、次の仕事に生かすとか」

「うん、神殿にも通わせてもらってるし、勉強はしてるんだけど」

「やっていけそうにないとか?」

「それもあるけど、なんていうかさ」


 広場の中心にぽっかりと切り取られたような青空を見上げつつ、ディーは言った。


「そんなんじゃ、生きてても意味がないっていうか」


 何気なく、しかし物憂げに。

 言ってしまった、と気付いてから、彼女は慌てて座り直した。


「ううん、ごめん、今の」

「えっ」

「私達、助けてもらったんだもんね。それは忘れてないよ」

「いや、いちいち気にしなくても」

「だから、生きてることを粗末にする気はないんだ。ただ、ただね」


 言いたいことは、なんとなくだが、理解できる。


「誰のために生きてるんだろう、何のために生きてるんだろうって」


 地獄のような暮らしが終わって。その後、俺に引き取られてからは、大勢の客がたくさんの金を落とした。おかげで好きなものを食べ、飲むことができる。最初のうちは、それだけでも嬉しくて仕方なかった。

 だが、その熱狂が収まると、次にやってきたのは、広漠な空虚感だった。


「でも、僕にできることなんて」

「あ、だから、我儘言いたいんじゃないんだ。ただ、たまーに顔を出してくれたら」

「うん、今度みんなの顔を見にいく……」


 そこで、俺は隣に座るジョイスの気配に気付いた。

 こいつ、席を占めてから、じっと置物のようにおとなしくしているが……


「ジョイス」

「は、ひゃい?」

「何を見ている」

「な、何も! 何も!」


 対面に座るディーとばかり喋っていたから、気付くのが遅れた。


「あははは!」


 ジョイスの視線なんか、とっくに気付いていたと言わんばかりに、ディーが笑う。


「そうだよねー、男の子なんだもんねー、うんうん」

「お、おう」


 まったく、このエロガキが。

 百歩譲って、普通の男子が美少女に見とれるのは、まだ許される。勝手に服の下を妄想するのも含めてだ。思春期ともなれば、異性に興味を持つのも当然。

 但し、ジョイスはすべてを見通せてしまう。まさかディーも、自分の体を直接盗み見られてるだなんて、気付いていない。さすがにそれは卑怯だ。


 はぁ、と溜息をついてから、俺は言葉を選びつつ、静かに言った。


「どうせなら、体だけじゃなく、心もよく見てみろ」


 この一言に、ジョイスは目をパチクリさせる。

 ディーにしてみれば、少し変な響きではあるものの、これはなんてことない言葉だ。女の価値を見繕うのに、外見的な魅力だけで判断を下すべきではない。内心のきれいさもちゃんと見てあげろ、という意味に受け取れるからだ。

 だがジョイスにとっては、心を読む許可をもらったことになる。


 果たして、効果は覿面だった。

 数秒後、ジョイスの顔がクシャクシャになる。泣きそうになったり、怒り出したり。そして俯いてしまった。


「ちょ、ちょっと」


 いきなりの変化に、ディーが戸惑う。


「どうしたの?」

「どうもしないから大丈夫。ちょっとヤキを入れただけ」

「ヤキって」

「本当に、気にしなくていいから」


 ジョイスには今、ディーの人生が見えているはずだ。貧しい農村に育ち。十歳にして、あの不潔きわまるオディウスに手篭めにされ。犯罪奴隷にされてピュリスに連れてこられて、そこで汚物塗れのパンをかじって生き延び。蒸し暑い塔の最上階に鎖で繋がれ、あとは死ぬのを待つばかりだった。そして今もって、奴隷という身分、娼婦という職業から抜け出せていない。

 何も知らないディーは、手を伸ばして、よしよし、とジョイスの頭を撫でてから、また俺に向き直った。


「とにかく、特にエディマとかエディマとかエディマが寂しがってたからね」

「なにそれ」

「んー、もちろん、ガリナもリーアも、ファルス君のこと、大好きなんだけどさ。やっぱりしっかりしてるっていうか」

「エディマはしっかりしてないんだ?」

「だってほら。ガリナは故郷に娘さんがいるし、リーアは、もう亡くなった幼馴染が心の中にいるけど。私達は何もないじゃない?」


 なるほどな。

 直接、触れられるところにはいないとしても、彼女らには愛すべき誰かがいる。それがないのがエディマであり、ディーなのだ。


「他のみんなは? ウーラとステラは」

「仲がいいからね、あの姉妹は」

「じゃあ、あとは、シータとフィルシャは」

「んー……あの二人は」


 顔を曇らせたディーだったが、そこでジョイスがガバッと起き上がった。


「サディス!」

「えっ?」


 いきなり叫んだジョイスが、席を立つ。

 これで妹思いの彼だ。離れていても、心の声が聞こえたのだろう。ということは。

 よくないことが起きた、と判断して、俺も立ち上がる。


 会場の端のほう、よく目立つ金髪のおかげで、サディスはすぐ見つかった。もっとも、ジョイスが心の声を聞き取ったのだから、目をつぶっていても辿り着けただろうが。

 その場に据え付けられたカードバトル用のテーブルの上に、数枚の手札が並べられている。そのテーブルを挟んで、サディスは対戦相手の少年を、怯えた目で見つめている。


 一見して、ガラの悪そうなボンボンだった。

 着ている服からすると、それなりに富裕な家の出身らしい。


「うん? あれ」


 追いついたディーが、離れたところからサディスのテーブルを一瞥した。


「わー、厳しいね」

「何が?」

「相手のカード。私、お客さんにマニアがいたりするから、わかるんだ。あれ、高額なカードばっかりじゃん」

「高額? そんなのあるの?」

「こういう大会って、帝都の工房で作られたカードしか使っちゃいけないらしいから。工房で生産するのって、カードの種類ごとに枚数の割合が決まってるから、強いカードは数も少なくて、こっちに届く頃には値段も高くなっちゃうんだよね」


 なんというボロい商売。

 じゃ、帝都のカード工房は、公式カードを作るだけで大儲けだ。


「サディスが負けそうってこと?」

「うん、あれは無理かなー」


 けどまぁ、それはどうってことない。これはゲームなんだから、勝ち負けがあって当たり前だ。


「ジョイス」


 引き返そう、と思ったのだが、彼は対戦相手をものすごい目付きで睨んでいる。


「こんなの遊びなんだし」

「いや、あいつ」


 他に理由があるのか、と思って対戦相手を改めて確認する。

 そのボンボンは、ニヤニヤしながらサディスを観察していた。そして、彼女が何か集中して考えようとすると、爪先でカードを弾いて大きな音をたてた。ビクッとして、彼女は動きを止めてしまう。

 サディスは人一倍、臆病な少女だ。こういう威圧的な態度を前にすると、何もできずに硬直してしまう。


「おら、早くしろよ」


 そんな一言にも、いちいち反応していた。

 他にも、指を鳴らしたり、いきなり口笛を吹いたりと、とにかく相手の集中を妨げる行動ばかりだ。


 こんな真似をしなくても圧倒的優位にあるのに、わざわざ相手にプレッシャーをかけて、自滅を誘おうという魂胆か。

 たかが遊びなのに、くだらない……


「負けたらゴミだぞー!」


 ……と思っていたら、不意に場外から声が飛んできた。

 振り返ると、身なりのいいオッサンが、横から少年に呼びかけていた。


「あっちゃあ」


 痛々しい、といわんばかりに、ディーは片手で顔を覆った。


「いるんだ、本当に。話に聞いたことはあったけど」

「あれ、親?」

「そうみたいだね。いやー、イタいわー、子供に大金持たせて、カード揃えさせて勝たせるとか、どこのバカ親なんだか」


 ああ、アホらしい。

 万歳! 今日もピュリスは平和だ。

 なぜなら、アホが自由に街を闊歩しているからだ。


「ジョイス、問題ない」

「でもあの野郎、サディスをいじめやがって」

「大人になって、世の中で働くようになったら、あの程度じゃないんだから。これはこれで、社会勉強だよ」


 もっとも、実際に手をあげたら、ただでは済まさない。

 その場合、ジョイスが飛び込んでいきそうだから、まず、それは止める。でも、その後、ガキには『行動阻害』を浴びせて昏倒させてやろう。


 と思っていたら、横からリンが割り込んできた。


「何か問題でもありましたか?」


 そ知らぬ顔をして、ボンボンに声をかけた。


「あ、いえ」


 審判が相手だ。尊大な態度も鳴りを潜める。


「マナーよくプレイしてくださいね」


 そして彼女はサディスに振り返る。


「落ち着いて、『ゆっくり』プレイすればいいんですよ」

「あ……」


 俺は見逃さなかった。リンはサディスに目配せしていた。あれは何の合図だろう?

 ふと、振り返ると、既にジョイスの顔に怒りはなかった。それどころか、ニヤニヤしている。ということは、サディスの心境にもポジティブな変化があったのだ。


 だが、当のサディスはというと、なぜか相変わらずおどおどしていた。


「え、えっと……」


 時間をかけて、やっとカードを場に出す。


「遅ぇよ」

「うんと、えっと」

「おい、早く」

「ま、待って、待って……これかな、あ、違う、これだ、ああ、これでもない」


 俺達と消化試合をしていた時と比べても、明らかに反応が遅い。見ているこっちがイライラするほどだ。一枚カードを場に出すのに、五分はかけている。


「おい、いい加減に……!」


 ボンボンがキレて拳を振り上げた瞬間、お立ち台からピピーと笛の音が響いてきた。


「予選終了です! 参加者はチケットを提出してください!」

「ああ、クソ!」


 試合用のテーブルを、ダンと叩く。

 ボンボンが獲得したチケットは、三枚。だが、サディスの手元には四枚ある。

 この一枚の差は大きいだろう。予選突破できるかどうかを分けるのは、獲得したチケットの枚数順なのだ。

 果たして、有志の係員が獲得枚数を指定するプラカードをもって、参加者を整列させたところ、三枚以下の人は大勢いたが、四枚以上の人は、僅かしかいなかった。


 獲得枚数が同じなら、あとは黒星の数で差がつく。負け試合を中断され、無敗で予選を終えたサディスは、四枚獲得組の中でも上位だ。足切りは四枚獲得した集団の真ん中だったから、サディスは残り、さっきの生意気なガキは脱落、ということになる。


 その様子を遠目に見ながら、ジョイスは笑顔で頷いていた。


「成長したなぁ」

「あれって、わざと?」

「おう、リンさんの合図で、わざとゆっくり試合を引き伸ばしたみたいだな」

「大丈夫かなって思ってたんだけど」

「最初はマジでビビッてたけど、後のは全部演技だし、落ち着いてたみてぇだ」


 ……やっぱり、サディスをこのまま、リンに任せておいていいんだろうか。

 性格が捻じ曲がりそうな気がするのだが。


 広場の青空を仰ぎながら、俺はこの上もなく平和でどうでもいい問題に、呆れつつ悩まされていた。

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