とある冬の一日・下

「はいよっ! 『トンコツラーメン』、三丁あがりっ!」

「はいっ」


 トンコツラーメン、という日本語での呼び名が定着してしまった。俺がそう名付けたから、店長も客も、それで覚えてしまったのだ。


 ピーク前の仕込みと、客が殺到する夕食の時間だけ、俺は今でも酒場で働いている。既にいくつかのレシピは店長にも伝えてあるし、自分がいなくても、この店の繁盛は約束されているのだが。

 奇妙なことに、以前より労働時間は短くなったのに、給料は増えている。奴隷でなくなったからとか、年齢を重ねたから、勤続年数が長くなったから、といろいろ理由付けはできるが、ここは素直に、店長の厚意と受け取っておこう。


「お待たせしました」

「おー」


 もはや常連というより住人と化したガッシュ達に、トンコツラーメンを運ぶ。


「やっぱ、これがないとなぁ」

「一日の終わりにガツンとくるぜ」


 前世から持ち込んだこのメニュー、男性には好評なのだが、女性にはイマイチらしい。ユミもウィーも、あまりラーメンを食べてくれない。


「ウィム、お前も食えばいいのに」

「ボ、ボクは、いいよ。他のにしたから」

「お前なぁ、他の料理なんざ、他所でいくらでも食えるだろ。この『トンコツラーメン』ってのはなぁ、ファルスのいるここでしか食えねぇ料理なんだぞ」

「そ、そうなんだけどさ」


 ハリがユミに尋ねた。


「ユミさんも、あまり『ラーメン』を召し上がらないようですが……何か味が好みでないとか?」


 すると彼女は、やや訛りの残るフォレス語で、端的に言った。


「太る」


 確かに。炭水化物の麺に、脂ギトギトのスープだから。

 それでも冒険者なら、運動もたくさんするだろうし、エネルギーなんかすぐ消費できると思うのだが。

 いやいや、彼らの仕事はスポーツとは違う。じっと動かず待ち続けることもあるし、食事の時間も不規則になりがちだ。そういう意味では、太りやすいライフスタイルでもあるのだ。

 前世と違って、こちらの世界の人間は、よく動く。自動車もエレベーターもないのだから、人力によるところが大きいためだ。それでも、年を重ねた人の中には、横に太い人もいる。油断大敵なのだ。


「そ、そうだね、太っちゃうね」


 歯切れの悪い感じで、ウィーが同調する。


「ウィムよう」


 ドロルが眉を寄せながら言う。


「俺達の仕事は、食える時に食えなきゃ務まんねぇ。小せぇこと気にしてねぇで、ガツンといけよ」

「あ、まあ、そうなんだけど」

「最近、調子悪そうに見えるけどよぉ……せめて食うもん食わねぇと」

「まぁまぁ」


 俺が割って入る。


「それなら尚更、好きなものを召し上がるのが一番ですよ。今日は、何を注文しましたっけ?」

「えっと……野菜のスープ……」


 おっと。それだけ?

 最近、やけに小食になったな。


「だ、だめかな」

「駄目じゃないけど、さすがにそれだけじゃ足りないでしょ?」

「う、うん」

「よーし」


 ガッシュが背を反らして、その太い腕を組みながら言った。


「俺のオゴリだ! ファルス、鳥の丸焼き一羽分! ウィムに出せ!」

「ちょ、ちょっと!」

「ご注文、ありがとうございます」


 俺は店長に忠実なアルバイトだ。よってお客様の注文は迅速に伝える。ま、どうせ俺が調理することになるんだけど。

 それにしても、どうしてウィーは、あんまり食べなくなったのか。胃が弱ってるとか? なら、その辺にも配慮して調理するか。トウガラシは別として、大半の香辛料は、健胃効果がある。食べやすいよう、じっくり柔らかく焼き上げたのを、細かく切って出そう。つけるソースも二種類にしようか。酸味の利いたのと、ダシの味が強いのと。


「お待たせしました!」

「うおっ、うまそう」

「今回は頑張りましたよー」


 俺の力作だ。一瞬で平らげられてしまう、儚い作品だけど。


「おおお、じゃあ、一口」

「おいおい、まずウィムだろ」

「あ、そうか」


 ガッシュとドロルのやり取りに、目を泳がせていたウィーだったが、やっと意を決して手を伸ばす。


「ん!」


 一瞬、目をまん丸にした。


「これ、すごくおいしい!」


 それはそうだ。いつもより手間も材料もかけて作ったんだし。

 だいたい、俺とガッシュ達との付き合いも、もう二年以上になる。彼らの味の好みなど、もう知り尽くしている。


「よーし、その調子でガンガン食えよ」

「え、あ、う、うん」


 あれっ?

 また、なんか、ウィーの元気がなくなってきた。


「あの、ウィム?」

「なにかな」

「もしかして、体調、悪い? お腹が痛いとか、そういうことは」

「えっと、ないけど」

「うちには薬もあるし、遠慮はしなくても」

「そういうわけじゃ……」


 と、断りかけて。

 いきなりウィーは立ち上がった。


「ちょっと、いい!?」


 俺の腕を鷲掴み。


「少しだけ! ファルス君、ついてきて!」

「な、なに?」

「いいから!」


 そのまま、上の客室まで引っ張りこまれてしまった。

 バタン、と木の扉を閉じてから、彼女はまたすぐ開けて、左右を見回す。


「どうしたの? そんなに」

「誰もいないよね?」

「いないよ」

「じゃあ、ちょっとだけ」


 顔を寄せ、声をひそめて、彼女はポツリポツリと語りだした。


「あのね」

「うん」

「その」

「うん」


 急に彼女の顔が真っ赤に染まる。


「痩せる、薬、ないかな」

「は? 痩せる薬?」

「しーっ」


 はて。

 拒食症ってやつか?


 ウィーは、立派な美人だ。髪の毛を短くして男装しているが、生まれ持った色香はもはや隠しようがない。化粧もしていないのに、それに屋外でいつも活動しているくせに、なぜか肌も真っ白だし。当然、太ってもいないし、またそうなりそうな気配もまるで見えない。

 むしろ、これ以上痩せたら、せっかくの美貌が台無しになってしまう。


「あのね、ウィー」

「名前! 名前!」

「誰も外にはいないから。えっと、それ以上痩せる必要なんか、ないと思うよ」

「あるよ」

「そのままでも十分きれいだし、女の子は多少」

「だからまずいんだってば」


 きれいだとまずい?


「言いづらいんだけど、ほら、私、実年齢はもう十六歳でしょ?」

「うん」

「だから、その……どんどん、体が、女の子に」

「ああ!」

「しっ! しーっ!」


 どうしても体が丸みを帯びてくる。胸も膨らんでくる。まだ目立ってはいない。革の胸当てで覆えば、とりあえずはごまかせる。でも、それもいつまでもつか。


「なるほど」

「だから、それとわからないようにしないと」


 俺は記憶をまさぐる。痩せる薬、か。

 便秘解消に役立つ薬草ならあったっけ。でも、それでは皮下脂肪は減らないだろう。栄養吸収を阻害する薬草……探せばあるかも。食べなかったことにするわけだけど。

 いや、駄目だ。栄養失調になったら、直接ウィーの体力が奪われる。それは冒険者としては致命的だ。


「でも、食事はちゃんと食べないと駄目だよ。冒険者が、食べないでフラフラになっていたら、余計に危ない。みんなにも迷惑かかっちゃうでしょ?」

「それを言われると、そうなんだけど」

「だいたい、そこまで秘密にしなきゃいけないことかな?」

「えっ?」


 そう、そこだ。

 根本的に、対策するところが違う。


「確かに、下級冒険者だった頃とかは、身を守るためにも、男のフリをしていたほうがよかったかもだけど。もう、ウィーはアメジストの、それもあとちょっとでジェードに昇格する、一人前以上のベテランなんだし。それに、一人で行動してるならともかく、今はガッシュ達もいる。下手に手を出せば、タダでは済まないって誰だってわかるよ」

「う、うん」

「だからこの際、もう、秘密にするのはやめて……」

「それはできない」


 だが、彼女はキッパリと言った。


「今。ボクは今のままがいいんだ」

「っていっても、体は勝手に成長するんだし」

「だから困ってるんじゃないか」


 うーん、そんなに仲間が信頼できないのかな。今更、ウィーが正体を明かしたところで、去っていくような人達には見えないけど。


「でも、そんな薬はないよ」

「うう、じゃ、じゃあ」


 また口にしかけて、彼女は頬を染める。


「えっと、せめて、その」

「うん?」

「あの……あの日を止めるのは?」

「あの日?」

「その、だから! 女の子の日だよ!」


 そっちか。

 確かに、こちらも苦労しているだろう。前世ほど便利な生理用品もないだろうし。


「今は、分厚い革のズボンを履いて、万が一の場合でも見えないようにって工夫してはいるんだけど」

「大変だね」

「だから、そういうのを止める薬があればいいなって」


 ピルみたいな薬品か。

 これは、俺の知識にはないが、もしかしたら、グルービーであれば、思い当たるところがあるかもしれない。


「んー、わかった。そっちはすぐにはわからないけど、調べてみるよ」

「本当? 助かるよ」

「女の子だってこと、みんなに知らせるとしても、冒険者を続けるなら、あったほうがいい薬だろうしね」

「う、ん」


 話がまとまって、また下の飲食スペースに戻ってくると、俺の作品はきれいさっぱり消え去っていた。


「遅ぇーよ」

「わりぃな、全部食っちまった」


 あらら。

 しょうがない。冷めたらおいしくないしな。


「ファルス君」


 ウィーはいつもの笑顔で振り返って俺に注文した。


「じゃ、もう一つ。みんなで食べるから」


 彼らに一通りの料理を振舞ったところで、俺の勤務時間が終わった。

 挨拶して、すっかり暗くなった道路に踏み出し、数歩。


「待ってください」


 後ろから足音。振り返ると、ハリが走って追いかけてきていた。


「どうなさいました?」

「少し、お話しませんか?」


 どういう風の吹き回しだろう?

 まあ、いやだ! なんて返事は考えられない。三叉路に向かう大通りを歩きながら喋る。


「なんでしょう?」

「ウィムのことです」


 ああ、やっぱり。

 食うや食わずやじゃあ、力なんか出るわけもない。集中力もなくなる。思った通り、みんなの足を引っ張っていたのか。


「さっき、どんな相談をされていたのかなと」

「えっと、それはとても個人的なことなので」

「そうですか。しかし、私達は、互いに命を預けあっているのですよ」

「それはそうですけど……なら、余計に仲間同士で話し合うべきでは」

「そこなのですよ、ファルス君」


 ハリは立ち止まり、腕組みして俯いてしまう。


「私達の何がいけないのでしょう?」

「いけない、ということはないんじゃないかと……」

「では、何が足りないのでしょうか。もう二年も一緒に頑張ってきた戦友です。私は、少しでも彼女の力になりたいのですよ」


 確かに、二年も一緒に……え?


「今」

「気付いていないと思いましたか」

「あ、いい、え」


 なんだ。とっくにバレてるじゃないか。


「だってそうでしょう。実際の歳は知りませんが、もしあれで十八歳の男だといったら……声変わりもしてませんし、喉仏も出ていません。いくらなんでも幼すぎます。それに、何が何でも自分の体を見せないようにしてきましたよね。あの、今、ガリナさん達が働いている場所を掃除した時だって」

「わかりました。もうわかっていたんですね」

「はい。ただ、他の仲間がどうかはわかりません。恐らくガッシュはまったく気付いていないでしょう」


 ああ、彼らしい。

 他はどうだろう? ドロルあたりは、わかってて知らないふりとかしてそうだ。ユミは、もっと敏感かもしれない。何しろ言葉が不自由な分、相手の所作などから感情や意志を読み取らなければいけないのだから。それに、自身が女性で、それゆえに気をつけなければいけないことも多いから、自然と察知できそうだ。


「知られたくないと思っているようなので、あえて何も言わずに、それとなく秘密を隠せるように振舞ってきました。ですが……」


 問題が起きてきた、か。


「近頃、あからさまに集中力がありません。狙いを外すのもしばしばで」

「仕事柄、それは無視できないですよね」

「はい。ですが、それだけではなく」

「まだあるんですか」


 ハリは、力なく溜息をつき、組んでいた腕をだらりと下ろした。


「……最近、ひどく思いつめているようで」

「思いつめる、ですか」

「さすがに仕事中に変なことはないのですが、やることが済んで、ギルドに戻ったりすると、何か難しい顔をしていたりしますね。普通は一仕事済んだと気が緩むところなのに」


 確かにそうだ。

 だが、自分の体が女になっていくのが、そこまで重大な問題だろうか? だいたい、そんなのはわかりきった未来であって、今から悩むことでもないはずなのに。


「そんな様子なので、ギルドの職員からランクアップの話があっても、どうも前向きになれないようです。ですが、私達がアメジストに昇格してから、二年も経っているのですよ。そろそろ次の段階を目指してもいい時期なのですけど」

「そうですね」

「まあ、気持ちはわかります。ジェードを目指すとなれば、ここピュリスを離れなければいけませんからね」


 そういえば、前にそんな話を聞いたことがあったな。

 冒険者というのは、いろんな土地で様々な経験を積んでこそ、一人前になれるもの。だから、一箇所でどれほど功績をあげても、それだけでは不十分だ。どうしても新しい場所での実績が必要になる。


「そうなったら、ファルス君のおいしい料理も食べられなくなります。それに何より、この街は居心地がいいですから」

「はい」

「でも、さすがにみんな、焦れてきています……」


 なるほど。

 ウィーの食欲のなさ、集中力の低下は、周りの仲間達から見ても顕著であるらしい。食事の時に、とにかく「食え、食え」と強い口調で迫っていたのも、そういう事情があったからか。

 しかも、せっかく次のランクに進めるチャンスがあっても、ウィーは前向きに取り組もうとしない。だが、ガッシュ達としてはもちろん、上を目指したい。そういうわけで、摩擦が増えてきているのだ。


「ええと、でも、ハリさん」

「はい」

「今日、相談を受けたのは、もう気付いているようなので言ってしまいますが、見た目を男性っぽくすることについてなんですよ」


 まだ彼女は自分の性別を偽ろうとしている。


「なぜですか。どうしてそんなにまでして」

「僕も言いましたよ。そんな秘密、バレたってみんな態度を変えたりなんかしないって。でも、どうしてもそれはいやみたいで」

「ふうむ」


 またハリは腕組みし、考え込み始めた。


「とすると、何か理由があるとしか考えられませんね」


 そうなのだ。

 確かに冒険者の世界は、男性が多い。しかし、女性だからやっていけないかというと、そうとも限らない。現に彼らのパーティーにはユミがいる。ならば、ウィムがウィーになったくらいで、大きな問題が起きるはずがない。

 だから、ウィーの抱える問題は、単に恥ずかしいとか、今まで嘘をついていたことが申し訳ないとか、そういうレベルのものではあり得ない。


「わかりました。それについては、もう少し調べて、考えてみます」


 ハリは頭の中で整理をつけて、当面の結論を出した。


「そうなさってください。僕も、どこまで踏み込んでいいか、わからないですし」

「ああ、それと」


 思い出したように、ハリは手を伸ばして俺に声をかけた。


「アイビィさんですが」

「は?」

「少し気になる様子が……」

「何か? というか、どこで?」

「いえ」


 クルッと振り向いて激しく反応した俺に、彼は弁解するように肩をすくめてみせた。


「何かよくないことがあるわけではないんです。ただ、近頃、神殿にいらしてますよね」

「はい、それは」

「神官長も言っていたのですが、どうにも熱心と言いますか。毎朝、ものすごく真剣に祈っておいでだということで」


 そうなのだ。

 出かけたいというから、好きにさせているけど。


「あれなんですけど、こう、神殿のほうでアイビィを誘ったりとかしてるのかな、とか思っていたんですけど、違うんですか」

「まさか。女神の神殿は、特に誰かを信者にと勧誘したりなんかしませんよ」


 それ、宗教組織としてどうなんだ。よくやっていけるな。


「じゃあ、自分から?」

「そうみたいですね」


 つまり、アイビィは自発的に、何か思うところがあって、朝の祈りに出かけるようになった。女神様に祈るとご利益がありますよ、とかそんなことは、ハリもザリナも吹き込んでない。

 俺には刺繍とか編み物を習いにいきたいから、と説明しているが、どうもそれだけではないらしい。


「たまにいらっしゃるんですよ。本当に深い悩みを抱えていて、黙って祈りを捧げにくる方が」

「となると、アイビィも」

「可能性はあるかな、と」


 ガッシュ達とウィーとの関係をどうこう言ってる場合じゃない。俺のほうも、足元が疎かになっていたかもしれない。

 元気そうにしているけど、実は……なんてのはやめてほしい。


「わかりました。ありがとうございます」

「いえいえ。気をつけてあげてくださいね。……仮にも子供に言うことではありませんが」


 そう言って、ハリは苦笑した。


 冷たくなったドアノブを引っ張る。軋みをあげながら、俺の背を遥かに越える扉が開く。


「ただいま」


 鍵はかかっていなかった。ならば、中にアイビィがいるはずだ。


「おかえり」


 声だけ。しかし、ややあって、ドタドタと足音が。

 ああ……


 前世のクリスマスツリーを思い起こさせる格好で、アイビィは駆け寄ってきた。体中に毛糸が絡まり、そこにいろいろものが引っかかって、一種の装飾のようになってしまっている。

 片手には携帯用の燭台。もう片方には、編みかけの何かがあるのだが、既にして形が崩れかけている。あちこちほつれているし。

 うん、見た目には普段通り。これぞ、いつもの残念お姉さん、アイビィだ。


「お腹、すいたでしょ。今、夕食を用意するから」

「うん」


 背後で鉄の扉が響きをたてる。外の光がなくなって、今はアイビィの手元の蝋燭だけが、廊下を温かいオレンジ色に染める。

 階段に足をかける前に、ふと、俺は振り返る。


「ねえ、アイビィ?」

「ん? なあに?」

「その……もしかして、何か悩んでることとか、ない?」


 直球だ。

 あれこれうまいやり方で考えを引き出せるなら、それもいいのだが。どうにもイマイチ、俺は駆け引きというものがうまくない。それならいっそ、ストレートに訊いてしまった方がいい。


「んー」


 立ち止まって少し考えて、それから彼女は笑顔で言った。


「おっきくなっちゃうことかな」

「は? お? おおきく?」

「私のファルス君が、どんどん大きくなっちゃうから」

「そりゃ、子供だから、育つよ?」

「大きくなったら、一緒にお風呂に入れなくなるでしょ?」


 はぁ、と溜息をつく。

 ごまかしてるのか、それとも本当にそういうアホな理由で悩んでいるのか、どうにも判別しにくい。


「でもね」


 妙に透明感のある微笑だった。


「今は、すごく楽しいよ」

「……そう?」


 心の奥底で、何かを感じながら、俺は注意深く彼女を見つめる。


「うん。これ以上ないくらい」


 ならば、彼女を祈りに駆り立てるものは、なんだろう?

 もしそれが、未来の問題でなく、過去への想いからであるなら、俺の立ち入れる領域にはない。

 だいたい、今に不満があるのなら、俺に相談すれば済む。そう結論付けて、俺は話を打ち切って、階段に足をかけた。


「今日はお土産に鳥の丸焼き、持ってきたよ」

「えー、楽しみ!」

「半分だけだけどね」


 こうして、一瞬の懸念も、何気ない日常の中に紛れていった。

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