人の選択
「あ、あれ? ない? ない!」
「あー、もう、いいですから!」
ピュリスの北門付近の広場にて。
俺は馬車の中で、梱包された荷物の山をひっくり返していた。
「そんな、だって。せっかく病気の原因を調べてもらおうと思って」
「あー、あー、いらないです。そんな汚いもの。形だけ救援活動すれば、問題ないので」
とんでもないことをサラッと言いやがった。
この女司祭、どこまでいっても。
本当にいい根性をしている。
……タンパット村を出て数日。
俺達は無事、ピュリスに帰り着いた。
道中、俺達に例の症状が出ることはなかった。感染せずに済んだとみてよさそうだ。
それにまた、現地の水を飲ませたネズミも、相変わらず元気なままだった。
しかし、せっかく水やら、食べ物やらを採取してきたのに。どういうわけか、今、どんなに探しても見つからない。原因の調査に役立てようと思ったのに。
「リンさん、仕方がないです。じゃ、一応、資料として、このネズミを提出します」
「いりません。動物は狂暴で不潔で臭いです」
「そういう問題じゃないでしょう?」
半ば呆れつつ、俺はネズミの入ったケージを引っ込めた。
「そういう問題です。だいたい、私は動物とは相性が悪いのですよ」
「相性って、なんですか」
「知り合いの家に犬や猫がいると、たいてい、私にはひどい態度をとるのです。引っかいてきたり、吠え立ててきたり」
「そうですか。やっぱり動物にもわかるんですね」
人間以上に人間の表情をよく見抜くというからな、動物は。
「かわいそうに。動物ほど、特に犬や猫ほどかわいいものなんか、滅多にないんですけどね?」
「一度、実家で猫を飼っていたことがありましたけど」
首を横に振りながら、リンは言う。
「かわいいと思ったことはないですね。歩く時に足元に擦り寄ってきたりとか、チョロチョロするから邪魔で、思わず蹴飛ばしたりしていましたね」
それだ。
懐いてもらえない原因は。
「まぁ、それはそれとして」
リンは懐をまさぐった。
「あなたも一応、ド田舎の村まで行って、苦しむ人々の役に立ったわけですから、報酬を渡さなくてはですね」
おっ。
くれるのか。
何をもらえるんだろう? 現金かな? それとも食べ物とか、衣類とかの現物?
なんなら、リンの習得している光魔術の教本とか、そういうものだったら喜んで受け取るが……
「はい、これを」
「は?」
差し出されたのは、小さな銅のバッジだった。
「なに、これ?」
「奉仕者銅勲章です。あなたのような悪魔の申し子には、もったいない代物ですけどね」
いや、いや。
待て。
これ? これだけ? あれだけ苦労して。
「えっと、これだけ?」
「これだけとは何ですか。名誉なものなのですよ?」
頭の中で「ふざけやがって」という叫び声がする。しかしそれ以上に、とにかくあっけにとられて、声が出ない。
「そうでしょう、ありがたいでしょう、それを見てニヤニヤしながら家路につきなさい。では、ご苦労でした」
こうして、俺は家に帰り着いた。
あれこれ報告して、手続きをして、とやっているうちに、すっかり夕方だ。
今夜辺り、ガッシュ達はいつもの酒場で、打ち上げをするんだろう。でも、俺は今回は遠慮させてもらった。とにかく疲れたのだ。
店のほうも、明日、明後日と、二日ほど、臨時休業にさせてもらった。たまにはいいだろう。けれどもその間に、あちこちに挨拶回りをしておかなければ。俺が留守の間にジョイスを借りたから、まずは女神神殿のザリナ、それにマオ・フーにも。それから子爵家のほうにも、明日辺り、改めて正式な報告をしないといけない。
なお、タンパット村から連れ帰った実験用ネズミは、あの後すぐ、女神神殿に引き取ってもらった。引き続き、症状が出ないか観察して、問題なければそのまま、ペットとして飼育することにしてもらえた。意外にハリが動物好きなのもあって、引き受けてもらえたのだ。
こうして今は、自宅の居間にいる。靴なしで足を伸ばせる空間。久しぶりだ。ほっと息をつく。
……疲れた。
俺は、手の中の奉仕者銅勲章なるものを、じっと見つめる。
すぐに放り出して、床に捨てた。
そして、窓の外を眺める。暮れていくピュリスの街。その裏通り。だんだんと薄暗くなっていくその光景は、いまや見慣れたものとなっていた。
今回の旅で、俺が得たものは、何だったのだろう。
くだらない勲章なんかじゃないのは、間違いない。
心の中には、何かドス黒い、ヘドロのようなものが、こびりついている。
目に焼きついて離れない。海賊どもとの戦闘、その記憶だ。
アイビィは、容赦なく喉に短剣を突き立てた。相手に抵抗する力がないとわかっても、その手を止めようとはしなかった。
彼女が戦うのを見るのは、あれが初めてではない。だが、ピュリスで見たそれは、相手に戦う力と意志があり、彼女がそれに対応した結果でしかなかった。
タンパット村での殺戮は、まったく別物だった。相手の力と意志がなくなっても。殺すか殺さないか、選べる状況で、彼女は迷わずトドメを刺した。
海賊船の中での戦闘も、そうだった。
疫病で完全に動けなくなった相手を、次々殺していった。今にして思えば、あんなのはいくらでも捕虜にできた。動けないのだから、縛り上げるなりなんなりすれば、簡単だったはずなのに。
なぜそうした行動に出たのか。海賊に対する憎悪ゆえなのか、それとも彼女の余裕のなさ、戦いというものに対する認識によるのか。
けれども。
それでも彼女は正しい。
戦うというのは、そういうことなのだ。
これはスポーツじゃない。試合じゃない。殺し合いだ。
ガッシュ達も、あの虐殺を快くは思わなかったはずだ。いや、心が痛んだに違いない。それでも見逃した。容認せざるを得なかったのだ。それは、直前にアイビィが、俺の甘さに怒りを示したからというだけではない。
なぜなら、俺達は最初から、海賊と戦うつもりであの場に踏み込んだからだ。そして戦いにおいて、有利な状況を活用しない理由などない。
形ばかりの正義より、確実な生存を選ぶべき。当たり前すぎる話だ。
アイビィは、剣を持つなら、あれと同じことをしなさいと言った。
まさしく、剣とは、殺戮のための道具なのだから。
だが、あれが。
あれが、あんなものが、俺の望みなのか?
そういう問いかけのように思われてならない。
前世より遥かに野蛮なこの世界。
何か我儘を通そうと思ったら、暴力ほど頼りになるものはない。不老不死を目指して旅をするなら、剣なしではやっていけまい。
だが、そうしたところで、俺は本当に価値ある未来を手にできるのか?
俺にとっての前世も、そしてこの世界も、恐らく悲惨な場所だ。
それは、俺がリンガ村で生まれ、育ち、死を目前にしたあの時に、身にしみてわかった。
しかし、本当は前世も同じだったのだ。日本は割合、平和だったが、それでも貧困や差別が存在した。海を渡れば、あちこちで紛争や飢餓が広がっていた。この野蛮な異世界は、それがほんの少しだけ、わかりやすい形になっているだけだ。
そして自分のように、不幸な生い立ちを背負った人間でなかったとしても、さほど事情は変わるまい。いや、愛するものがあればあるほど、積み上げたものが大きければ大きいほど、それと引き離される苦しみは、より激しくなる。結局は、世界の悲惨さを突きつけられる。
多くの人は、それに耐え切れないから、剣を手にしてでも、そこから逃れようとする。
だけど剣は、その悲惨さをなくしはしない。
剣は、苦しみを誰かに押し付けるための道具だ。
でも、ただ押し付けるだけだ。ババ抜きのジョーカーと同じ。苦しみそのものがなくなるわけではない。やがて世界を一巡して、自分の手札に戻ってきてしまう。そればかりか、オマケに利子までついてくる。
アイビィのあの表情を見ればわかる。
それは、苦しい運命を先延ばしにするだけ。借金のようなものだ。
思い出せ。
あの旅で、俺が一番幸せだった瞬間は、いつだったのか。
俺がすべきこと、本当に選び取るべきものは、何なのか。
……気付けば、窓の外は真っ暗になっていた。
俺は、剣を手に、立ち上がった。
市街地の南端。遮るもののない、神殿付近の空き地。
今夜は穏やかな風が吹いている。温かくもなく、冷たくもない。ただただ優しい風。
神殿のほうからは、薄ぼんやりとした光が見える。だが、周囲はほぼ、真っ暗だった。
それでも、うっすらと差しこむ月明かりのおかげで、足元を誤ることはない。
思えばピュリスにやってきて二年。いろんなことがあった。
最初は、好き勝手に暴れまわってやろうと思っていた。外の世界に出れば、能力を奪い放題だ。毎日自分を強化して、なんでもできるようになってやろうと思っていた。
でも、実際には、そうはしなかった。ミルークが言っていたっけ。最初の一年くらいはおとなしくしていてくれ、さもないと私の信用に関わる、とかなんとか。実際、俺もそれで遠慮して、律儀にも、子爵家のひどい扱いに、敢えて我慢してみせたものだ。
すぐに接遇担当を外され、カーンの隊商に組み込まれて、それもすぐやめになって。そこからはずっと、今の家で暮らしている。
徐々に俺の心境は変わっていった。
不老不死を求めつつも、今の暮らしも悪くない……そんな風に思うようになったのは、いつ頃からか。
目的に向かってまっすぐ進もうと思っていた。どんな犠牲を払ってでも、自分の望みを叶えるつもりだった。今の暮らしは、そのための手段なのだと。
でも、気付いたら、その目的は、手段そのものより値打ちがないように思われた。そうだ、何のために剣術を学ぶのか。誰かを殺して、自分を生かすためか。
もちろん、死ぬのは怖い。もし今、誰かが俺に剣を向けたなら、俺は全力で戦うだろう。でも、そこに喜びはない。恐怖と、苦痛と、悔恨と……
だから。
俺は、改めて生き方を選び直さなければ。
あるかどうかもわからない不老不死。
それより大事なものが、ここにありはしないか?
精一杯作った一皿の料理は、ただの一瞬で平らげられる。だが、その一瞬こそが、真の永遠ではないのか?
手にした剣に目を落とす。
お嬢様が、七歳の誕生日に贈ってくれたものだ。
ありがとう。
これからも力になりたいと思う。でも、できるなら、こんな形ではなく……
俺は、足元を確認しながら、海のすぐ近くへと、一歩を踏み出した。
「ファルス……様」
ふと、後ろから声が聞こえた。
いつの間にか、すぐ後ろにアイビィが立っていた。
「いたんだね」
「何をなさるおつもりですか」
確かに、こんな時間に、崖っぷちに立とうだなんて、思慮が足りなかった。うっかり落ちても不思議ではないのだから。
でも、大丈夫。心配は要らない。
「アイビィが言う通りだったよ」
俺は彼女にそう告げた。
この上なく穏やかな気持ちで。
「これは、僕が持つべきものじゃない」
剣を指し示しながら、はっきり言い切る。
「僕には、僕に相応しい人生がある。これはもういらないんだ。だから……」
これ以上、言葉で説明する必要もない。
俺は、この剣を崖下に投げ捨てる。
それで、終わりだ。
もう、俺は誰かを傷つけるような生き方はしたくない。
ピアシング・ハンドの力も、なるべく使わない。あれは、誰かが持っているものを、俺の手に写し取るだけだ。何か新たな価値を作り出すわけではない。
不老不死なんて、必要ない。
やっぱりこの世界は不完全だ。美しい瞬間もあれば、どうしようもなく汚らわしい時だってある。
だけど、だからこそ、だ。
これからは、この手で幸せを作り出す。
世界の欠片の力を使わずに、ただの凡人だったこの俺、かつての佐伯陽に、果たして何ができる?
それは多分、小さな小さな何か。構わないじゃないか。結果が、たった一皿の料理でしかなくても。
ただ全力で頑張ればいい。それも楽しみながら。きっとそうだ。
この半年間、ずっと気持ちの中に迷いがあった。
地獄の苦しみそのものだった夢魔病、そしてその後の美しい一夜。
それがずっと心の中に焼きついていた。
このまま不老不死を目指すべきなのか、それとも……人として、生きて死ぬべきなのか。
正直、まだ迷いも恐れもある。それは否定しない。
だけど、やっと決められそうだ。
俺はここで生きる。
ただの一人の人間として。
そしていつか、やはり人間として死ぬだろう。
俺は改めて彼女に背を向け、海へと踏み出した。
「……えっ?」
その足が止まる。
アイビィが俺を抱き止めたからだ。
「アイビィ?」
なぜだ?
俺が以前、どんな犠牲を払っても目的を達するのだと言った時、そんな生き方はできない、向いていないのだと……
彼女は確かに、そう言った。
俺は、やっとその言葉を受け止めることができるようになった。
なのに。
「どうして?」
アイビィは、俺の問いかけには答えなかった。
ただただ、固く抱きしめるばかり。俺の背中に顔を押し付けて。
「アイビィ? ……泣いてるの?」
息を殺し、肩を震わせて。
やっとのことで、少しだけ顔をあげて……彼女は、首を横に振った。
「僕は、もう剣を持たない。そういう生き方は、したくなくなったんだ。だから」
「……だめ」
か細い声。
まるで、地獄の底から聞こえる幽霊の泣き声のような。遠く遠く、力のない、今にも絶え入りそうな。
「どうして」
「だめ……」
「だから、どうして」
「……ごめんね」
それきり、彼女は力なく地面に崩れ落ち、俺の足に縋りつきながら、激しく咽び泣き始めた。
結局、俺が剣を手放すのを断念するまで、彼女は泣き止もうとはしなかった。
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