追憶の場所

 碧玉の月だというのに、最近、雨が降らない。好天の下で旅を続けられるのはいいことだが、とにかく暑い。

 そうだ、ただでさえ、この暑苦しいのに。


「はむはむ、はむはむ……」

「いつまでしがみついてるの! ちょっと、もう」


 狭い馬車の中で、相変わらず、アイビィは俺にしがみついている。それどころか、耳まで甘噛みしてくる。そんな様子を、ウィーがやや、呆れつつ見物している。


「大変だね、ファルス君も」

「助けてよ」


 俺の懇願に、彼女はぷいっと横を向くことで応えた。視線の先には、御者席のユミ。辛抱強く馬を走らせてくれている。


「だって」


 俺を羽交い絞めにしているアイビィが、アホスイッチの入った顔で言う。


「やっとやっと、一緒に旅行にいけるんだもん」

「遊びに行くんじゃないから」


 これから危険な場所で野外活動をする予定なのに、今のところ、彼女は相変わらず、街中と同じ服装、つまりシャツにタイトスカートを着用している。首元には紺色のリボンまで。働く気がまるで見えない格好だ。


「でもぉ、現場着くまでは、暇でしょ?」


 それは一理ある。

 今回の仕事は、魔物の討伐でもなければ、海賊退治でもない。疫病に苦しむ人々のところに駆けつけて、可能な限りの治療を施し、食料その他の物資を引き渡せばいい。もし、危険な猛獣などが現れたとしても、せいぜいのところ、追い払えば充分だ。リスクを冒して追いかけて、きっちり片付ける義務などない。

 そして、多少知性のある魔物や海賊は、わざわざ武装している冒険者の集団に、積極的に攻撃をしかけようとは考えない。得られる利益に比べて、予期される損害が大きすぎるためだ。もちろん、巣穴や隠れ家を見つけられたりした場合には、話は変わってくるのだが。

 要するに、危険な場所に向かうとはいえ、実際の脅威はそこまででもない。一番の不安要素は疫病の存在だが、俺達は既に流行地に出向くことを想定して、対策をとっている。ましてや、同行している彼らは知らないが、俺が全員にこっそり、ゴキブリ由来の病原菌耐性スキルを付与している。余程のことがなければ、まず大丈夫なのだ。


「暇だけど、イチャつく理由もないよ?」

「イチャつかない理由もないよ?」

「あるよ、暑苦しい」

「まだ午前中だよ? 本当に暑いのはこれからだし、まだいいはず」


 ああ言えばこう言う。もう処置なしだ。

 しかし、そこで車内の間抜けなやり取りに、水が差された。


「おかしい」


 ユミがポツリと言う。

 何が、と思って顔をあげると同時に、彼女が馬を止めた。

 問題でも起きたのかと、俺達はすぐに馬車の外へと飛び降りる。すると、前を行くガッシュ達の馬車も止まっていた。既に彼らも降りていて、馬車の横に立っている。


 ハリが、車輪の一つの前にしゃがみこんで、深い溜息をつく。


「これはいけませんね。壊れかかっています」

「マジかよ」

「ちゃんと直すのに、少し時間が必要ですね」

「時間ってどれくらい」

「半日ほど」


 これは手痛い。先を急ぐのに。

 だが、物資を届けられないのでは、救援の意味もない。


「とりあえず、近くに野営できるところがないか……落ち着けそうなところまで行って、馬車を止めましょう。そこで修理します」

「わかった」


 それで全員が馬車の中へと引き返していく。


「何してるの? アイビィ?」

「え……ううん、なんでもない」


 周囲をキョロキョロ見回していた彼女だったが、声をかけられて、すぐまた馬車の中に駆け込んだ。


 それから十分ほどして、また馬車が止まった。外から足音が聞こえる。それと、波の音も。

 どうやら、それらしい場所に行きつけたらしい。


 外に出てみると、明るい日差しに目を覆いながら、ガッシュがぼやいていた。


「まだ昼なのになぁ……」

「まともな場所があっただけ、御の字だ。諦めようぜ」


 ドロルが忌々しそうに、そうこぼす。

 こう見えて、良識もあればプロ意識もある彼らのこと。今も疫病に苦しむ人々がいると思えば、逸る思いはある。同時に、休めるうちに休んでおく、焦っても仕方がないことは焦らない……無駄な力みを捨てるべきという気構えもある。


 それはそれとして、このロケーション、悪くない。ざっと見回した限り、海が近すぎるくらいしか、気になるところはない。見晴らしもいい。少し遠くには岬が見える。

 街道の反対側には、小高い丘があり、そこに木々が生い茂っている。そのすぐ下には、古い石造りの井戸が見えた。一方、砂浜の少し上には、朽ちかけた木切れがいくらか落ちている。どうやらここは、放棄された村落の址らしい。

 もともと人が住んでいたところなら、野営するのにも都合がいい。すぐ近くにいい場所があってよかった。


「なるべく急ぎますが、日没くらいまでかかるのは避けられないかと……とりあえず、手伝いがいる場合には声をかけますので」

「おう」

「ファルス君達は、今日は私が手を離せないので、そちらで野営の準備を」

「はい」


 ハリは工具を取り出して、早速仕事に取り掛かる。他のメンバーも、時間を無駄にはしない。ドロルは早速、付近の探索に乗り出した。ガッシュはハリの手伝いをしながら、周囲の警戒。その間、ウィーとユミは、馬車から野営用のテントを引っ張り出して、組み立てている。


「ほら、アイビィ、僕らも仕事しないと、お昼ご飯……アイビィ?」


 俺が振り返ると、彼女はなんともいえない、泣き笑いのような表情を浮かべて、その場に立ち尽くしていた。


「えっ、あっ……ファルス……君?」

「どうしたの?」

「あ、な、なんでも」


 口にしかけて、喉が詰まってしまっている。


 体調でも悪いのか、と言いかけて、そんなはずがないとすぐ打ち消す。さっきまでふざけていた彼女が、今になって急に。

 ということは、まさか、ここが……


 さっと振り返る。

 駄目だ。ハリは既に、馬車の車輪を一部解体して、取り替える作業に入っている。あの調子だと、もしかすると車軸ごと交換しなければいけないのかもしれない。

 今から移動しようと言っても。


 俺は知っている。

 アイビィの故郷が、既にないことを。海賊の襲撃に遭って、家族も友人も皆殺しにされた。

 だけど、それはイーパとジョイスから聞き知ったことだ。俺がやすやすと首を突っ込んでいい過去じゃない。


「あー……」


 相変わらず、泣き笑いのような顔のまま、アイビィは、わざとらしくも、なんとか間の抜けた声を漏らしてみせた。


「これはひどいですねー」

「えっ……」

「村が跡形もないじゃないですかー」

「う、うん」


 戸惑って、生返事をして……しまった!


「……もしかして、何か知ってます?」


 彼女は、俺の顔色だけで、悟ってしまった。


「ええと、うん、その、なんとなく」


 少しの沈黙。

 それが痛々しかった。


「そっか」


 弱々しい微笑を浮かべて、アイビィは頷いた。


「ここ、私の村だったんですよ!」


 不意に明るい声で、彼女はそう叫んだ。


「おいしいもの、たくさんあるんです! ちょっと待っててください!」

「あ」


 そう言うと、彼女はそのままの格好で、海辺へと走り出していく。ややあって、水音。

 慌ててウィーが駆け寄ってきた。


「な、なに? どうしたの?」

「アイビィが、あっちに」

「大変! 海に落ちたの!?」

「い、いや、泳げるから、多分、潜っただけだと思うけど」


 心配そうに海を見つめるウィーとユミ。

 しばらくして、砂浜に人影が見えた。少しヨタヨタしている。


「あ~……危なかった~……」

「アイビィ!? 大丈夫?」

「あ、うーん……眼鏡、外すの忘れてた、落っことすとこだった」


 ポカンとしているウィーに、ゴロッと大きなアワビを三つ、持たせると、俺には眼鏡を差し出してきた。


「人数分、取ってくるから。金網と七輪、出しておいて」

「う、うん」


 それだけ言うと、彼女はまた、海に飛び込んだ。


「はぁ~……」


 ウィーが感嘆とも呆れとも取れるような、気の抜けた声を漏らす。


「眼鏡くらい、飛び込む前に外せばいいのに、おっちょこちょいだね~」

「あ、まぁ、そ、そうだね」

「それよりこれ」


 手元のアワビに、ウィーは困惑しているようだ。


「食べられるの?」

「見たことなかった? おいしいよ?」

「ほんと!?」


 ちゃんと調理すれば、絶品だ。前世のアワビと同じなら。

 そういえばピュリスでは、なぜか見かけなかった。単に取れないのか。それとも、食べる習慣自体がなかったのか。


 言われるままに七輪を取り出し、火をかける。

 ほどなく、残り四つのアワビを手に、アイビィが戻ってきた。全身びしょぬれの状態で。


「あの、アイビィ?」

「ん? なぁに?」

「その……びしょ濡れだよ? 体拭いて、着替えてきたら? シャツとか、透けてるし」

「うん、もっと見ていいよ?」


 いつも通りのアホキャラ、に見える。


「それより、そのアワビ、どうするの? 僕が調理しようか?」

「あー、それはねー」


 意外にも、アイビィは手際よく立ち回った。

 見回りから戻ったドロルが、水を汲んできてくれたので、それを使ってアワビの汚れを洗い流す。七輪の火は遠慮も調整もなく、ひたすら強火。そこに彼女は、次々アワビを置いた。


「ちょ、ちょっと」

「ん、何かおかしい?」

「いや、変じゃないけど」


 大丈夫か? アイビィに料理なんて。

 だが、いかにも慣れた手付きだったので、つい、なすがままにさせてしまった。


「うわっ」


 横で見ていたウィーが、気味悪そうに声をあげる。七輪の火に、アワビが熱がって身をよじっているのだ。だが、しばらくすると、その動きもなくなった。

 するとアイビィは、アワビを拾い上げ、手にしたナイフで、殻と身とを引き剥がす。裏返してそのまま、また七輪に乗せた。


「ファルス君、お皿」

「あ、うん」


 あんまり鮮やかに片付けるものだから、ついボーッとしてしまった。

 三分もしないうち、最初のアワビが焼きあがった。アイビィはそれを、大雑把に切り分ける。


「はい、どうぞ」

「えっ?」


 戸惑うウィーだったが、差し出されたものを食べないわけにもいかない。恐る恐る手を出し、一切れ口に含んで……


「んっ!? これ、なに!? なんかものすごく、香りが」

「おいしいでしょ! さ、ユミさんも」


 ユミはといえば、アワビを知らないわけでもなかったらしく、ごく当たり前のように手を伸ばした。そして、一口含むと、やはり幸せそうな表情を浮かべる。

 っと、このままじゃいけないな。


「ガッシュさん! ハリさんも! アワビ、焼けてますよ! できたら、ちょっと食べにきてください!」


 これがなければ、保存用に塩漬けした肉を調理するところだった。でも、言うまでもなく、こっちのほうがずっとおいしい。女性陣だけで独占するのは、少々残酷というものだ。


「おっ、なんだそれ」

「これは、アイビィさんが?」

「どーぞどーぞ、食べてくださーい」


 いつもは俺に料理を禁じられている彼女だが、なぜかアワビの網焼きだけは、うまくできている。というか、うちでの初めての料理があんなのになったのも、もしかしてこれが原因か?

 この網焼き、火加減もへったくれもない。強火でガンガン焼くだけだ。ついでに、味付けも考えなくていい。調味料を振り掛けるとか、余計な真似をしなくても、そもそも最初から塩味がきいている。それでこの旨さだ。こういう食生活が当たり前だったのだとしたら。彼女の中の「料理」とは、そもそもこういう代物だったのだ。


「うめぇ!」

「もっとないのか?」

「次、焼いてます」

「酒が欲しくなるな」


 先を争うように、みんな手掴みでアワビにがっついている。出来上がるのはすぐなのに、それまで待てないようだ。

 ふと、俺はアイビィを見上げた。俺の視線に気付くと、彼女は腰に手をやり、ふふーんと自慢げに笑ってみせた。


 結局、ハリの作業は夕方遅くまでかかった。翌朝一番に出発と決まり、全員早めに眠りについた。


 ふと、真夜中に目が覚めた。

 身を起こすと、傍には誰もいない。眠る時には、アイビィがしっかり抱きついていたのに。テントの中には、俺一人だけだ。


 それで、そっと外に出てみる。

 見張りには、ユミが一人きり。


「……あの、みんなは?」


 すると、彼女は馬車の荷台を指差す。ウィーは、荷物の見張りという口実で、一人で寝る場所を確保している。だからそれはいいとして、問題はアイビィだ。


「アイビィは?」


 ユミは少し周囲を見回す。男性用の大きいテントがあるが、そこに三人が寝ているのは、いちいち指摘するまでもない。彼女は、ややあって、岬のほうを指差した。


「あちら、歩いた」

「ありがとう。出かけたんだね」


 すると、ユミは頷いた。


「ごめん、すぐ戻るから、ちょっとだけ行ってくる。まさかとは思うけど、一応、アイビィの様子を確認してきたいから」

「気をつける」


 星明かりだけの暗い夜だ。出歩くべきでないとも思ったが、どうにも彼女のことが気にかかった。

 昼間の笑顔は、どう考えても空元気だ。こんな場所、目にするだけでもつらかっただろうに。


 足元は平坦で、歩くのに難儀することはなかった。岬の突端に近付くにつれ、打ち寄せる波の音が大きく聞こえる。

 暗い灰色の海を背景に、黒いシルエットが浮かび上がる。ポツンと生えている木。積み重ねられた石。そして、そこにしゃがみこむ人影。


「あ、あの……アイビィ?」


 俺はおずおずと声をかけた。

 すぐには返事はなかった。


「なぁ、に? ファルス君」


 声を出しかけて、一瞬、彼女は言葉を引っ込めようとした。自分の涙声に気付いたからだ。


「えっと」


 まったく、俺は何しに来たのだろう。彼女が心配だったから、様子を見ようと思った。でも、アイビィからすれば、本当に個人的な時間を過ごしているのに。俺なんかにズカズカ踏み込んできて欲しくなかったかもしれないのに。


「その……」

「うん、平気。心配しなくて、大丈夫だから」


 俺が言葉に詰まると、彼女は先回りしてそう言った。


「イーパさん? いろいろ喋ったのは」

「ん、と、まぁ」

「そっか。じゃ、あとでお仕置きしないとね」


 軽い調子でそう言う。

 いつになく弱々しい、か細くて、それでいて優しげな声色。


「ここね」


 月明かりのない夜。見えるのは黒い輪郭だけ。どんな表情をしているかも、まったくわからない。


「みんなのお墓なんだ」


 そんなところだろうと思っていた。

 ジョイスが覗き見た記憶では、あの海岸に無数の死体が転がっていた。だが、いかにグルービーといえど、それをそのまま、放置しておいたりはしなかったはずだ。アイビィと相談した上で、彼らをここに葬ったのだろう。


「小さいけど、いい村だったんだよ」


 肩の力の抜けた、素の声。

 丁寧語で話す彼女も、容赦のない暗殺者としての彼女も、ここにいた頃には存在しなかった。今、この場にいるのが、本来のアイビィに違いない。


「みんな顔見知りで、窓も扉も開けっ放し。毎日海に潜って、貝や魚を採って。今思うと不思議だけど、新しいことなんか何もないのに、毎晩焚き火の前で、お喋りしてたっけ」


 貧しい海辺の村。けれども、自然の恵みは豊かで、アイビィ達はそれに満足していた。


「いつも海賊の話になると、みんな笑って言ってたんだよ。ここは取る物が何もないから、来てもすぐ帰るって」


 実際、その日がくるまでは、そんな感じだったのかもしれない。


「だけど……いきなりだった」


 淡々と彼女は、つらい過去を口にする。


「近付いてきた船に、お父さんが手を振って。その頭に、矢が刺さった」


 最初、何が起きたか、理解できなかったに違いない。即座に逃げ出す、という選択肢は、思い浮かばなかったらしい。


「剣を持ったのが何人も降りてきて。村長が出て行って、話をしようとして、何か言う前に斬られて。気付いたら、私も袋叩きにされて倒れて……目が覚めたら、みんな死んでたっけ」

「アイビィ」

「平気だよ。平気。もう、終わったことだから」


 そんなはずがない。

 俺は知っている。一度心に刻み込まれた傷跡は、けじめなく血を流し続ける。


「だけど」


 彼女はやや俯きながら、低い声で自分の感情を搾り出す。


「いいのかなって」

「何が?」

「私ね、今、毎日楽しいんだ」


 彼女の中の葛藤。

 それは現に今、彼女自身が不幸ではないことからきていた。


「見たこともなかったような大きな街で暮らして。毎日おいしいものも食べて。普通にお仕事するのも楽しいし。それに……ファルス君も、一緒にいてくれる」

「う、うん」

「いいのかな。みんな、冷たい土の中で、寂しい思いをしてるのに、私だけ。いいのかな」


 生き延びる、というのは、ときとして残酷な運命だ。

 それは場合によっては、死そのものより過酷なものなのだ。


「いいんだよ」


 だから、言ってやるしかない。


「むしろ、楽しまないと。もっといい思いをしないと。みんなの分まで、いろんなものを見て。いつかまた会うことがあったら、たくさん土産話をしてあげないと」


 本当は、知っている。

 死んだら、人はそこで終わり。その魂は世界の外に弾き出され、記憶も失う。どんなにアイビィがここで嘆き悲しもうと、その声は、彼女の家族や友人だった魂には、決して届かない。


「そうだね……きっと、そうだね」


 彼女は同意した。

 同意しながら、その場に泣き崩れた。


「なんなら、もっと楽しく生きたっていいんだ。やり直せばいいんだよ。まだアイビィは若いんだから」

「うん、でも、ちょっと無理かな?」

「どうして」

「私ね」


 もはや涙を隠そうともせず、彼女は自分の思いを口にした。


「子供が好きなんだ。本当は、自分の子供が欲しかった。あの子は……ちゃんと産んであげられなかった。名前もつけてあげられなかったから」


 海賊の襲撃の後、彼女は流産してしまった。それはなんとなく、わかってはいたが。


「また産めばいいよ。結婚だってすればいい」

「ううん、無理。もう、産めないから。グルービーでも治せなかった」


 初産での流産、それも最悪の形であれば。

 これには、返す言葉がない。


「それにね」

「……うん」

「殺しすぎたから」


 これも。

 彼女の人生に染み付いた、拭いがたい穢れ。

 グルービーの傍で、彼女は生きた。それ以外、道はなかった。今のアイビィは、漁村の娘ではない。恐るべき暗殺者なのだ。


「本当はね、こんなに汚くなっちゃったから、もう、ここには……」

「アイビィ!」


 自責の念に押し潰されそうになっている。

 でも、それはだめだ。


「アイビィが悪かったんじゃない。仕方がなかった。運が悪かった。海賊どものせいだ。とにかく、周りが悪かったんだ」


 俺がそう言い切ると、彼女はしばらく息を殺して泣き、それからそっと言った。


「そうだね」

「そうだよ。絶対そうだ」


 きっと言葉だけの肯定だ。

 彼女の中には、どうしても洗い流せないほどの汚泥が、積み重なってしまっているのだろうから。


 ややあって、彼女は声を絞り出した。


「ごめんね、ちょっと、まだ」

「ううん、ゆっくりしたらいいよ。邪魔しちゃったね」

「ううん」


 泣きじゃくる彼女に、今、俺がしてやれることなんてなかった。

 彼女は今、死者の世界にいる。俺ができるのは、こちらに戻ってきた時、その手をとることくらいだ。


「僕はもう、行くよ」

「うん」

「おやすみ。村に泊めてくれてありがとうって、みんなに伝えておいて」

「うん」


 俺は背を向けて、歩き出す。

 そこに、後ろから声が飛んだ。


「生きてね」


 アイビィは、ぽつりと俺に言った。


「ファルス君は、生きてね」

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