第十三章 密林の異変
降って湧いた遠征
久方ぶりの太陽に、遠慮はなかった。膨れ上がった初夏の雲を左右に押しのけて、地上を圧する勢いで、遮二無二輝き続ける。
眩い光の下は気持ちのいい青空で、ずっと遠くに水平線が見える。遠くから、控えめな波の音が聞こえる。時折、揺れる波頭が陽光を照り返し、海面が煌く。
碧玉の月も、もうすぐ終わり。雨季が明けたら、真夏の始まりだ。この街での、三度目の夏。
神殿付近の空き地で、今日も俺は剣を振る。
ガッシュ達はいない。いつもいつも俺に付き合えるほど、彼らも暇ではない。それでもこうして、店の昼休みには、ここで一人で練習するようにしている。イフロースが教えてくれた型を、丁寧になぞるのだ。
だが、ただ真似ても意味がない。状況は常に変化する。同じ技を用いるのに、同じ結果を想定すべきではない。実戦とは、目の前の海のようなもの。同じことの繰り返しに見えて、本当に同じ瞬間は一時たりともない。
なのに……
「ふう」
俺は、手を止めて、首に巻いたタオルで汗を拭う。
集中できていない。イメージがあやふやだ。
よくない。これでは悪い癖ばかりがついてしまう。
「私のファルスくーん」
後ろから呼び声が近付いてくる。どうやら、そろそろ昼休みも終わりらしい。
「あ、珍しい。サボってる」
「サボってるんじゃない、考えてるんだよ」
「あらら、そうなの?」
サディスが店番をしてくれているおかげで、アイビィも余裕を持って、俺の迎えに来られるようになった。なので、こうして毎日、俺は外で練習を重ねている。
ただ、最近、どうにも行き詰まっている感じがある。
「なんていうか、ちゃんとできてる感じがしないんだ」
「ふうん、でも、もう充分だと思うけどねぇ」
「そんなことないよ。ここまでできれば安心、なんてものはない代物なんだから」
新しいタオルを受け取り、それで顔を拭く。
それから店への帰り道についた。
剣というのは、実に厳しいものだ。
道場に掲げる免状が欲しいだけなら、ただ修練すればいい。一定の水準に達したと認められれば、立派な師範になれる。
だが、実戦ではそうはいかない。理由や状況の如何にかかわらず、一度でも敗れれば死ぬ。
「でも」
「うん?」
「なんだか、どうにも集中できなくって」
「ふうん」
俺にとっては深刻な問題なのに、アイビィはさもどうでもいいといった感じで聞き流す。
「お料理する時には、いつもしっかりしてるのにねぇ」
「うーん、言われてみれば、そうかな」
「もしかして、ううん、多分、間違いないんだけどさ」
足を止めて、アイビィは俺をじっと見る。
「飽きちゃった?」
「へっ?」
「頑張る理由がないんじゃない?」
「えっ!」
それだけ言うと、彼女は気の抜けた笑顔を浮かべたまま、早足に歩いていってしまう。
俺は慌てて追いかけた。
最近の日課は、だいたいこんな感じだ。
朝、起きて店を開ける。昼前にサディスが訪ねてくるので、休憩時間に手料理を振舞う。ジョイスが顔を出す場合もあるので、雨が降らなければ、屋上に陣取って四人で昼食だ。
それから、店をアイビィに任せて、俺は一人で剣の練習に出かける。その間、サディスは、店の器具を使って薬剤製造の練習をする。戻ってきたら、俺ができばえをチェックする。
その後は、日によって少し違いが出る。早めにサディスが帰る日もあれば、夕方まで手伝ってくれることもある。
今日は、後者だった。
そして……俺は店のカウンターを前に腰掛けつつ、控えめに抗議する。
「えっと。あのさ、アイビィ」
「ん? なぁに?」
「僕、まだお風呂にも入ってないんだよ」
「うん」
「それに近頃、また蒸し暑くなってきたし」
「うん」
「汗臭いよね」
「うん」
サディスが通りに出て、お客の交通整理をしてくれている。なので、あとは店内に一人、売り子がいればいい。俺かアイビィのどちらか片方で済むわけだ。
ところが、あえて人員の無駄遣いをしようという不届き者がここにいる。
「だったら離してよ!」
「えー、やだぁ」
「やだじゃなくって」
「だぁってぇ」
今、俺は椅子の上で、アイビィに抱きすくめられている。剣の練習の後で入浴も済ませていないのに、さっきから彼女は、俺に頬擦りしてばかりいる。
それを、通りすがりの人々にじろじろ見られているのだ。
「そういうのもファルス君の味? みたいなー」
「味じゃない味じゃない」
「だってさぁ」
俺の文句など聞く耳持たず、彼女のほうこそ愚痴を口にし始める。
「いっつもいっつもファルス君ばっかりなんだもん」
「何が?」
「ムスタムに行ったりさぁ、ティンティナブリアまで旅行してきたりさぁ、王都で暮らしたりとかさぁ」
「全部仕事だよ」
「ずるいずるい」
「それとこれの何の関係が」
椅子の上でもがくが、いったん捕まるとなかなか脱出できない。
こんな様子も、エンバイオ薬品店の日常の光景として、街の人々に認知されつつある。通りすがりのオバちゃんが、ああ、またやってる、と一瞥して、さっさと歩いていってしまう。
「そろそろ二人でお泊り旅行しよっか」
「お泊りも何も、とっくに同居してるんだけど」
「そういうのじゃなくって。ほらぁ、マンネリ解消っていうか? こう、新婚旅行?」
「結婚してないから」
「じゃ、婚前旅行?」
やめろ。
シャレにならない。俺は仮の息子なのか、擬似彼氏なのか。せめてどっちかにしてくれ。
「どこか温泉のあるところがいいねー」
「はぁ……」
「そういえば、しばらく一緒にお風呂に入ってないなぁ、ね、今度」
「今度も何もないから……あっ、いらっしゃ」
そこで俺は言葉を途切れさせる。
「このっ……穢れた色魔……っ! 幼女の前で! 幼女の前でっ!」
僧衣に身を包んだリンが、いつの間にか目の前で、握り拳を作っている。
「わ、わたっ、ってか、な、なに?」
「やはりあなたのところには、サディスは置いておけません。教育に悪影響があります」
「僕のせいじゃない! リンさんからも言ってやってください、アイビィに」
「問答無用! 恥を知りなさい」
ただでさえややこしいところに、更にややこしい奴がやってきた。
まぁ、実害はない。今となってはこの女司祭も、やかましいだけだ。これも平和といえば平和な日常の一コマではある。
「それで、何の御用ですか」
「そうでした。あなたの振る舞いがあまりに不潔なので、うっかり忘れるところでした」
すぐに用件を思い出し、リンは居住まいを正す。
「穢れたあなた方をピュリスから追い出す、非常に都合のいいお話です」
「なんですかそれ」
だが、彼女の語りだした問題は、かなり深刻そうなものだった。
ピュリスから南西方向、スーディアにほど近い、貧しい海岸地方の人々の間で、原因不明の疫病が流行しているらしい。これまでも感染症が広まることはあったが、今回のように一気に拡大したことはなく、現地の人々は途方に暮れているという。
その症状も独特で、患者は全身が弛緩し、力が出なくなる。結果、ほとんど動けなくなってしまうという。立ち上がれず歩けないために、日常生活すらままならなくなる。自力では食事の支度はもちろんのこと、トイレにも行けない。さすがにスプーンを持ち上げたり、食べ物を噛んだりするくらいはできるらしいので、介護があれば、この病気だけで死ぬことはない。
但し、感染力が凄まじく、一人が倒れた翌日には、もう村の半分は寝込んでいるというありさまだったりする。こうなると、彼らの生活の面倒をみる人がいなくなるため、状況は一気に悪化する。既に村全体が壊滅状態になっているところも出始めているのだとか。
かてて加えて、彼ら寒村の人々は、ピュリス市民のように、城壁に守られているわけではない。付近の森林には野生動物の群れや魔物などが潜んでいることもある。普段なら、自警団などが村への侵入を防いでいるのだが、こうなってはそれらも機能しない。農作物が食い荒らされるだけならまだしも、直接人命が危機にさらされる可能性も大いにある。
そして、こうした寒村は、実質的にほぼ見捨てられている。領主はいるのだが、彼らの多くは、地元にいない。貧民からの税収などたかが知れているので、王都で官僚として働いている。一応、領地に代官を配置してはいるが、充分な人員や資金があるのでもなく、形ばかりの統治をしているだけ。中央集権化を進める王家ですら、こうした地域の取り込みについては、後回しにしているくらいだ。彼ら貧困地域の領主にとって、自分の支配地には、貴族の称号を保つ道具という以上の価値はない。
では、こうした貧しい人々のセーフティーネットとなるのは、誰か。宗教組織だ。
「セリパス教会に、救援依頼が届きました。正義の女神の名の下に、彼らを救済せねばなりません」
「なるほど、おっしゃる通りですね」
人道的見地から、まったくもって無視しがたい問題だ。ならば、薬品も大量に必要だろう。そういう理由ならば、うちとしても利益はさておいて、格安で商品を提供しよう。寄付金もいくらか出したほうがいいのだろうか。
「とりあえず、住民に最低限の飲食物を届けること。それと魔物や海賊などの襲撃から、彼らを保護すること。これをしなくてはなりません」
「そうですね」
「というわけで」
目を閉じ、息を吸い込んで、リンはおもむろに言った。
「罪びとファルスよ。その身にこびりついた罪業を清める機会を与えましょう」
「はぁ?」
「護衛としての冒険者は手配済みです。あとはあなたが医療担当として」
「って、ちょっと待った」
なんでそんなワケわかんない話になってるんだ。
「なんで僕なんですか」
「適任でしょう? 薬学に通じていて、そこそこ戦う力もある。それなりに旅慣れていて、料理の腕もある……うってつけではありませんか」
言う通りかもしれない。
でも、俺はまだ子供なんだぞ? 頭の中はともかく、肉体的には。また何か、あの夢魔病みたいなヤバいのにやられたら、どうするんだ。
「治療ができて、戦えるっていうなら、別にあなたが自分で行ったっていいでしょうに」
「人手が足りないのです。疫病にやられた村も一箇所ではありませんから、私はここ、ピュリスで本部の統括をと」
あっ、なんかわかった。
「リンさん」
「なんですか」
「あなた、単に暑苦しくて汚い、南の村に出かけていくのが嫌なだけなのでは?」
「なっ! 何をおっしゃるのですか!」
「じゃ、現地で陣頭指揮を執ればいいじゃないですか」
「そっ、それでは、そのっ、教会の都合がですね」
「人命が優先でしょ? 常識で考えれば」
「ええと、あの、いや、だから、教会本部からお金を引っ張ったりとかですね、いろいろとやることが」
図星だな。
こいつ、実は面倒がってやがる。ま、性格考えたら、当たり前か。
「行きません」
「は?」
「そんなヤバいところ、行きたくないです」
「なんということ! やはりあなたは悪魔の申し子です!」
「義捐金なら出しますよ。だからあなたが自分で行ってきて下さい。それで人手が足りなければ、その時は手助けに出向きます」
「ぬっ、ぬぬぬ」
その場で地団駄を踏みつつ、リンは言葉に詰まる。
「チョコス、どこか行っちゃうの?」
足元からサディスが問いかける。
「どこにも行かないよ。大丈夫」
「いえ、サディス。彼はもうすぐお仕事で遠くに行かねばならなくなります」
「勝手なこと言わないでください」
するとリンは、サディスの手を取って、俺に背を向けた。
「今に見ていなさい。あなたは絶対に行くことになりますから」
冗談じゃない。
だが、リンは宣言を済ませると、勝手にサディスを連れて、歩き去っていってしまった。
「うーん」
とはいえ、今の話が本当なら、かなり深刻な事態に違いない。俺とは縁もゆかりもない人々の頭上に降りかかった災難でしかないが、何もせず見殺しにするというのも、やはり寝覚めがよくない。
「どう思う?」
「ん? 何が?」
「やっぱり、行ったほうがいいのかな」
リン自身も遠征に行くべきだと思うのだが、それで足りないなら、本当に俺達も出向くべきではないか。
俺のお人よしセンサーが、真っ赤に点滅している。
少し考えてから、アイビィはポツリと言った。
「行かなくていいと思う」
「そうかな」
「危ないことは、大人がやればいい。ファルス君にやらせるような仕事じゃないよ」
珍しく常識的なことを、彼女は真顔で言った。
それでも納得がいったので、俺の中でこの話は、終わったことになった。
総督官邸に呼び出されたのは、その翌日だった。
「お前が希望するのも、もっともな話だ。出かけることを許そう」
官邸では下のランクの簡易的な客間にて。
正面の椅子に腰掛けたサフィスが、上段からそう言い放つ。
「総督閣下。私どもの我儘を聞き届けてくださり、真にありがとうございます」
俺から少し離れたところで、リンは恭しく跪いている。
チラッとサフィスの胸元を見やる。そこには銀色のバッジが輝いていた。
昨日、申し出を拒絶されたリンは、その足で総督官邸に出向いたのだ。そして、そこでサフィスに媚びつつ、美辞麗句を並べ立てた。
決め手となったのは、あのバッジだ。各宗派のセリパス教会で共通の、聖献身者銀勲章。善行を重ねた人物に教会から贈られる、ある種の名誉となるものだ。虚栄心の強いサフィスは、これの誘惑に抗えなかったのだろう。
ファルスをちょっと派遣するだけでこれがもらえるなら……とあっさり決断を下したらしい。しかも、リンは彼に、ファルスがこの遠征への参加を希望している、ただ子爵家の仕事を投げ出せないから困っているのだと吹き込んだ。それではサフィスとしても、行ってこいとしか言いようがない。
俺はキッとリンを睨みつける。だが、彼女はすまし顔のまま、こちらを見もしない。畜生。
こうなっては是非もない、か。
「ではせめて二日、準備に時間をください」
「よかろう」
くそっ、自分を解放するのに必要な金なら、ほぼ準備できたも同然なのに。なんでこんな厄介な仕事が降ってくるんだ。
とにかく。
疫病の流行地域に無策で突っ込むなんて、自殺行為だ。だが、俺には対策を講じるだけの能力がある。
なんとか無事、この案件を乗り切らなくては。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます