仮初の父娘

「へぇぇ、ウィーがそんな風にしていたなんてねぇ」

「ちょ、ちょっと、ファルス……君! その辺で」


 赤くなったり青くなったりと忙しいウィー。その横で、俺は見聞きしてきた彼女の日常を、クレーヴェに話す。すると彼は面白くてならないらしく、いちいち頷いては感心する。


「いや、楽しそうじゃないか、何よりだよ、ねぇ」

「はい、最初の頃はもう、ずーっと張り詰めてましたから、今の方が」

「ちょっと、もう、本当に」


 耳たぶまで真っ赤にして、ウィーが弱り始めている。まだ『下着狩り』の話はしていないのに。


「いやぁ、わざわざうちまで来てもらって、本当に良かったよ。こんなに笑ったのは久しぶりだ」

「喜んでいただけて幸いです」


 そこで、正面の扉をノックする音がした。


「旦那様」


 この家唯一のメイド、ベドゥーバの声だ。


「いつもの例の方が」

「うん? そうか……まったく……済まない、ファルス君、少しだけ席を外すが」

「お仕事ですか? 僕は失礼したほうが」

「いや、いや! 本当にすぐ済むんだ。戻ってくるつもりだよ。君とはまだ、話したりないからね」


 そう言うと、彼は扉から出て行った。

 途端に部屋の中が静かになる。


 ふと、ウィーのほうへと振り返る。

 彼女は、身をすぼめて俯き、肩を小刻みに揺らしていた。


「ん? どうしたの?」


 そこで我慢の限界に至ったのか、ガバッと起き上がり、俺の肩を両手で鷲掴みにしてきた。


「ファルスッ! ファルス君っ! ボ、ボクを、ボクのっ! どうしてあんなに喋るんだよっ!」

「え? い、いや、ちょっと」

「恥ずかしいじゃないかっ! 人をダシにしてっ! どうしてくれるんだっ!」

「どうしても何も、本当にまずいことは喋ってないよ」

「これ以上何があるって言うんだっ……」

「下着狩り?」


 その一言で、ふっと硬直し、彼女の手が俺の体から離れる。

 ウィーの視線が、何もない中空に固定され、表情が虚ろになる。が、すぐに我に返って、火がついたように叫びだした。


「だーっ! 駄目っ、ダメダメダメっ、も、もし! もし、それ喋ったら……」

「喋ったら?」


 スッと表情が消える。


「……肘と膝、キレイに撃ち抜いてあげる。二度と出歩けないように」


 うひょお。

 本気だ。本気で焦っている。絶対に知られたくないのだろう。


「お、落ち着いて。僕もちゃんと、話題は選んでるから」

「な、ならいいけど……」


 ストンと椅子に座り直すと、ウィーは、ほっと息を吐いた。


「にしても、すごい慌てようだね。それに、その格好……」


 指摘されて、また彼女は身を縮めた。


「いつもとは別人みたいだよ」

「い、言わないで」


 今度は恥ずかしそうな、いかにも女の子、といった感じの声。


「こんな格好、みんなには見せられないよぉ」


 我に返って、また信号機みたいに顔色をコロコロ変えている。


「ねぇ」


 弱々しい声で、俺に尋ねてくる。


「なに?」

「もしかして……みんな、とっくに気付いてたりってこと、ないのかな」

「どうだろう? 僕も気になるところだけど……うーん」


 彼女の正体に気付ける人。

 何人か、心当たりはある。


「まず、支部長は気付いてると思う」

「マオさん?」

「うん。アイビィの正体も見抜いてたし、僕が戦えることもわかってた」

「ああ、あれ、不思議だよね。ボクも、実際に見るまでは、ファルス君があんなに強いとは思ってなかったけど……なんでだろ? やっぱり経験なのかなぁ」


 神通力のせいだ。

 となると、同じ理由でもう一人。


「それと、ジョイスもかな」

「ジョイス? え? あの、金髪の……言っちゃ悪いけど、おサルさんみたいな子? なんで?」

「ああ見えて、実はものすごく勘が鋭いんだ。だから、バレてると思う。でも、僕が黙らせてるけど」


 言葉尻を捕まえて、ウィーが指摘する。


「ん? 変な言い方だね? バレてると『思う』のに、『黙らせて』るって」

「ええっと、それは……とにかく、何に気付いても、余計なことは言うなって、あらかじめ言ってあるんだ」

「ああ、なるほどね」


 この二人はほぼ確実に彼女の正体を知っている。

 だが、あとはどうか。


「他は、正直、わからない。確認したら、かえって事実が広まっちゃうし」

「そうだよね、うーん」


 それにしても、だ。

 前々から気になっていたことでもあるし、少し尋ねてみよう。


「ねぇ、ウィー」

「なぁに?」

「どうして冒険者をやってるの?」


 この質問に、一瞬、間が空く。

 だが、ややあって、彼女は普通に返事をした。


「それは……力試しをしたかったから、かな。王国でも指折りとか、その辺の話はおいといてもさ、それなりにはやれるつもりだったから」

「うん、でもそれ、変だよ」

「えっ?」


 彼女の不自然さ。取り繕えているつもりかもしれないが、ここにきて、俄かに矛盾が浮かび上がってきた。


「それならどうして、わざわざエスタ=フォレスティア王国まで戻ってきたの? 向こうにだって、冒険者ギルドくらいあったんじゃない?」

「えっ……ま、まぁ、そうだけど、その」

「おっと。故郷に戻りたかった、なんてのも、なしだよ? だってウィーはその当時、せいぜい四歳とか、五歳とか……僕じゃあるまいし、そこまで小さい頃の場所に愛着があったなんて、思えない」

「う、うん」


 つまり、彼女は最初からこの国のどこか、恐らく……


「もともとピュリスに来たかったんじゃないの? でも、なんで?」

「そんなことないよ。そもそもボクが国を出たのには、ちゃんと訳があるんだ」

「それは?」


 すると、彼女は翳のある表情で言った。


「……もう、身寄りがいなくなったから」

「って、それは、お父さん」

「違うんだ。お父さんは、ボクが四歳の頃になくなったんだけど、そうじゃなくって。あっちについてから、五年くらいして、お母さんも。それと、兄も」

「ええっ」


 しまった。

 これは、変に邪推して、悪いことを訊いてしまったのかもしれない。


「残ったのは、連れ子だったボクだけ。ワーリア伯は、ボクのことを自分の娘としては扱ってくれなかった。それは仕方ないし、納得できるけど……」


 まさか。

 娘でなければ、つまり。


「その、さ……ファルス君ならわかると思うけど、『そういう目』で見られるのは、ちょっと我慢できなかったんだ……ほら、お母さんの再婚相手なのに、ボクはその娘なのに」

「ま、待った! ごめん! それ以上、言わなくていいから!」


 なんてこった。

 そりゃそうか。


 ウィーも母親に似たのか、かなりの美少女だ。引き取った当初は五歳かそこらの幼女でも、五年もすれば、隠しようもなく女らしさが滲み出す。一年、また一年と時間が経つたび、義父の視線の意味合いも、変わっていったのだろう。


「いくら家を出てもさ、国内にいたら、変なのが追いかけてきてもおかしくない、でしょ?」

「確かに」

「それに、ボクは最初からピュリスに向かったわけじゃない。はじめは王都を目指していたんだから」

「そうなんだ?」

「そうだよ。だから、おじさま……クレーヴェ様とも出会えたんだから」


 そう語る彼女の表情には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 彼女にとって、クレーヴェとの出会いは、そんなにも心温まるものだったのか。


「じゃあ、出発前に言ってた、ウィーの実家って、ここのこと?」

「そうだよ。今では、ボクの家は、ここしかない。おじさまの顔も見たかったし……それに」


 少し頬を赤らめながら、彼女はボソッと呟いた。


「……私が女の子に戻れる場所って、もうここしかないから」


 なんという。

 どうやらこの場所は、ウィーにとっての『聖域』らしい。


「でも、そんなに居心地がいいなら、いっそ、ずっと王都で暮らせばよかったのに」


 見た限り、彼女にとって『おじさま』は、とても好ましい相手らしい。ならば、ずっと傍にいればよかったはずだ。

 今でこそ、ピュリスで仲間達にも恵まれ、それなりに楽しく冒険者の生活をこなせているが、以前は完全に一人きりだった。あの状況で、どうして王都に戻ろうと思わなかったのだろう?


「その、クレーヴェ様だって、ウィーのことをかわいがってくれたんでしょう?」

「えっと、それはそうなんだけど、その」


 言いにくそうにして、ウィーは視線を逸らし、体を揺すりながら言葉を探す。


「ほら……だって、おじさまは、その、あんまりお金ないし」

「でも、貴族でしょ? 年金ももらえるはずだし……いくらなんでも、切り詰めすぎに見えるんだけど」

「そうだけど、見ての通りだからね。ボクとしては、甘えられなかったんだ」


 確かに。仮にも伯爵ともあろう人が、こんな家でしか暮らせない。

 こんな家、とはいっても、一応見た目は美しい。玄関は立派で、この応接室もよく整えられている。調度品の質だって低くない。だけど、こうした接客用以外のスペースが、どれくらいあるだろう? ざっとみて一階と三階、屋上は自由になる。でもきっと、クレーヴェ本人の居室と、ウィーのためにもう一部屋、あとはメイド用の部屋を除けば、風呂場やキッチンくらいしかないはずだ。

 どう見ても裕福とは言えず、しかも本人は高齢でもあり、役職にも就いていない。子供達もおらず、仕送りも期待できない。エンバイオ家みたいに、利権ビジネスを手がけているわけでもない。

 伯爵なら年金がそれなりにありそうだと思ったのだが、これも一概にそうとは言い切れないか。伯爵ということは、大昔に国王から領土を与えられた配下の子孫にあたるが、そのご先祖様が授かった領地というのが、猫の額みたいに狭いところだったら? そもそもの年金支給額も、比例して小さくなる。


 こんなクレーヴェの窮状を目にしてしまったら、いかに十代前半の少女といえど、居候させてくださいとは言えまい。それにもともと、ウィーは一人で生きていくつもりで、わざわざ国を出てきたのだし。

 いや、待てよ?


「ん、でも、今なら違うんじゃない?」

「えっ?」

「だってさ、もうウィーはアメジストの冒険者で、立派に一人前なんだから……ガンガン稼げば、クレーヴェ様の生活を助けることもできるかもしれないじゃない」

「あっ、うん、でも」


 いや、それも難しい。自分で言っておいて、また自分で打ち消した。


「でも、そうか。王都に引っ越したら、また仲間探しからやり直しだもんね」

「うん、ボクもこれで、いろいろ悩んでるんだよ」


 うーん、ややこしい。ややこしいな。


「それに、アメジストくらいの収入じゃあ、さすがに貴族の家を支える稼ぎは難しいよ」

「あれ? そう?」

「そうだよ。確かに、難しい討伐依頼を請け負うこともできるけど、そんなの、いつもいつもあるわけじゃないし。頑張っても、その辺の人よりちょっと多めに稼ぐくらいしかできないのが普通なんだから」


 なんと、なかなか厳しいらしい。


「じゃ、いっそ、仕官しちゃうとか」

「それこそ無理だよ。どこの軍団に入るのさ? 弓ってことは、海竜兵団とか? でも女の子ってだけで、まず落とされるよ。まさか、そこでも男のフリをするの? 兵舎の中で暮らすのに?」

「いや、王国の正規軍じゃなくて、どこか貴族の家に仕えちゃうんだよ。例えば、そうだな、エンバイオ家でよければ、僕がイフロースに話をもっていってもいいし」


 そう言われて、彼女は真剣な表情を浮かべ、顎に手を当て、じっと考えた。

 ややあって、やはり首を横に振った。


「ありがとう。でも、やめておくよ」

「うん、でも、どうして?」

「理由は、いくつもある。まず、単純に大変そうってことかな。ほら、ファルス君を見てもそうじゃない?」

「ま、まあね、あそこはね」


 ウィーほどの腕があれば、イフロースなら即決で雇ってくれるだろう。金も惜しまないはずだ。護衛に、若君の武術の師匠にと、使い道には困らない。ましてや、生まれ持った美貌に、貴族の娘という毛並みの良さまで兼ね備えているのだから、他にも活躍の場がありそうだ。

 ただ、彼女が、あの息苦しい子爵家に合わせられるかとなると、ちょっと疑問符がつく。


「それに、今まで一緒にやってきたみんなとも、お別れになっちゃうし」

「それもそうだね。なんだかんだ、お世話にもなってきたんだろうしね」


 ガッシュ達は決して弱くはないし、努力もしている。ウィーのおかげで成功を重ねてきたのも事実だが、彼らもまた、彼女を支えてきた。

 それが今になって、自分だけ貴族の家に迎えてもらおうだなんて、勝手すぎるか。


「なにより、しがらみができるのが、嫌なんだよ。ボクはおじさまのところにいたいけど、もしエンバイオ家に仕えたら、こうやって自由にここに来るのだって、できなくなるかもしれない」

「なるほど」


 貴族同士の関係というのは、いまいちわかりにくい。このナラドン家、今では当主一人だけの弱小貴族でしかないが、彼がエンバイオ家とどんな関係性をもっているのか、俺にはよくわからない。

 ただ、もしウィーが子爵家の下僕ないし客分に収まったなら、当然、付き合う相手も制限される。今、こうしているように、来たいから来た、会いたいから会う、なんてのはもう、許されなくなる可能性がある。


「ボクにとっては……おじさまは……なんていうかな」


 少し照れくさそうに、そしてどこか儚げな笑みをうっすら浮かべながら、彼女は言った。


「二人目の、お父さんみたいな人だから……」


 ウィーの父は、彼女が四歳の頃に亡くなっている。その後は、冷たい視線を向ける義父がいただけだ。だが、そこを逃れて辿り着いた王都で、親切な老貴族に出会った。

 それは願望でしかないのかもしれない。息子をなくし、狭い家でつましく暮らす年老いた男。だが、その男は、行き場のない危うげな少女に手を差し伸べた。ウィーは、遠い記憶に微かに残るだけの父の姿を、彼に重ねてしまったのだろうか。

 もちろん現実は厳しい。彼女はいまだ、名目上はワーリア伯の娘だ。隣国に義父がいる身で、勝手に養子縁組なんて、できようはずもない。それでも、ほんの一時だけでも、まるで父と娘のような時間を過ごせるのなら。

 今の彼女は、決して孤独ではない。ピュリスに帰れば、ガッシュ達が笑顔で迎えてくれる。もし仮に彼女の正体が知られたとしても、彼らは態度を変えたりしないだろう。きっといい友人でいてくれる。それでも。

 気兼ねなく、ただ安らげる場所。それは手放せないものなのだ。


 ガチャ、と背後で音がした。


「はぐっ」


 急にウィーが顔を真っ赤にして、俯いてしまう。

 クレーヴェが正面の扉から、戻ってきたのだ。


「お待たせ……おや、どうしたのかな」

「いえ、なんでもありません」


 そこへ、またベドゥーバが、後から部屋に入ってきた。


「旦那様、庭のほうを手入れしておきます」

「ああ、済まないね、頼むよ」


 急にウィーがガバッと立ち上がる。


「ボ、ボク! じゃなくって私! 手伝ってきますね!」


 キョトンとして見上げるクレーヴェを他所に、ウィーはドタドタと部屋の外へと駆け出していってしまう。

 バタン、と扉が閉じて数秒、彼は俺に尋ねた。


「……どうしたのかねぇ? あの子は……」

「さ、さぁ?」


 クレーヴェには聞こえていなかったのだろう。なにせ、ここは壁も扉も分厚いのだ。だが、ウィーは自分のさっきの一言が聞かれていたのではないかと思ったのだ。

 パパみたいに思ってる、なんて恥ずかしい。他人には言えても、本人には。


「ま、いいさ。私は私で、君と二人で話したいこともあったんだ」

「それは……なんでしょうか?」


 俺は少しだけ、心を引き締める。

 どんなにフレンドリーに見えても、彼は貴族だ。実は見えないところで、エンバイオ家と何らかの利害関係がある可能性もある。

 まぁ、サフィスなんかはどうだっていいのだが、一応、リリアーナを悲しませたくはないし、イフロースだって俺に目をかけてくれている。もちろん、俺にとっては俺自身の意志と目的が最優先ではあるが、とはいえ、外部の人間にやすやすと買収されたいとも思えない。


「なに、難しい話じゃない。ウィーはピュリスで苦労してはいないかね」

「それなりには苦労していると思いますけど、冒険者として生きるなら、避けられないものかと」

「うむ、それはそれでいいんだが……つまりね、私が君に頼みたいのは」


 テーブルの上で手を組み、深呼吸してから、彼は言った。


「彼女の味方をして欲しい、ということなんだ」


 それなら、とっくにそうなっている。というか、彼女が俺を助けてくれたことの方が、ずっと多い。


「それ、今更、いちいち頼むことですか?」

「君が仲良くしてくれているのは知っているよ。でも、その上で、なお力になってやって欲しいんだ」

「言われなくても、機会があればとは思っていますけど……?」


 はて。

 そもそも、俺の立場は子爵家の召使であり、薬屋の店長でしかない。あと、居酒屋のアルバイトか。

 自分にできる範囲で、となると。彼女になるべく質のいい薬品を提供し、一番おいしい料理を振舞う、か? そんなの、いつもやっていることだし、彼女にだけ特別そうしているわけでもない。

 では、子爵家の召使としても、彼女のために何か……そういう意味なのかと、勘繰ってしまう。


「ああ、だから、そんな、特にして欲しいことが、具体的にあるわけじゃないんだ。ただ、ただね……」


 困った笑みを浮かべつつ、クレーヴェは説明を続ける。


「私もこの年齢だからね。跡継ぎもいない。となると、いざ何かあった時には、もう私はウィーに何もしてやれない……こう言えば、理解できると思うが」

「えっ」


 じゃあ、まさか。

 おいおい、勘弁してくれよ?


「もしかして、クレーヴェ様、何かご病気とか」

「ああ、持病があるね。でも、まだ、その、すぐってわけでもないんだ。ただ、ただね……」


 ほっと胸を撫で下ろす。

 死期が迫っていて、俺にこんな話をするのかと想像して、一瞬、焦ったじゃないか。


「でも、私としては、何かを残してやりたいわけだ……わかるかな」

「はい」


 俺が返事をすると、彼は静かに立ち上がった。


「少しだけ、ついてきてくれないかな」


 彼は扉の反対側、カーテンで覆われているほうへと歩き始めた。そちらの壁も扉があり、開けるとそこは、左右の階段の間の踊り場になっていた。手摺りを掴むと、一歩ずつ、足元を確かめながら、登っていく。

 やっと三階に辿り着くと、彼は右側の部屋の扉を開けた。


「私の部屋だ」


 何のために場所を変えたのだろう?


「失礼します」


 俺が室内に入ると、彼は扉を閉じ、そのまま本棚に手を伸ばした。


「これがわかるかね」


 背表紙もボロボロになった、古い本だった。

 手渡されて、俺はしばらくじっと表紙を見たが、題名を判読できなかった。それで、誤って破ってしまわないようにと、ゆっくりページをめくった。


「……こ、これは!」

「やはりわかるのだね」

「火魔術の秘伝書じゃないですか!」


 クレーヴェが魔術師であることは知っていた。だが、魔術の知識というものは、本来、貴族にとって門外不出のもの。俺のような、初対面同然の子供にいきなり見せるような代物ではない。


「これを……正確には、これをきれいに書き写したものを、君にあげるといったら、どうするかね? もちろん、裏表紙には、正式な写本であることを保証するため、ナラドン家の印をつける」

「そんな! お支払いできるものがありません」

「あるとも。さっき、言っただろう? ウィーを支えて欲しいのだよ」

「たったそれだけで?」


 すると、彼は長い溜息を漏らしながら、傍らの椅子に腰掛けた。


「それだけも何も、老い先短い私に、他に何があるのかね?」


 言われてみれば、それもそうだ。彼が死ねば、ナラドン家の歴史は終わる。遺産を受け継ぐ子供達もいない。その遺産らしい遺産にしても、この本と家以外にはないのだが。一人きりのメイドを除けば、部下も領民もいない。それゆえ、いくら貴重とはいえ、魔術書だけ残しておいても、意味がない。

 それはわかる。わかるのだが。


「だけど、この……魔術書があれば。売るとかすれば、お金には困らないんじゃないですか?」

「そうだな。その魔術書は、諸国戦争以前からの、正式な写本だ。最上級魔術こそ書かれてはいないが、かなり広い範囲について語られているし、何より、誤った情報が混入していない。その意味では、非常に貴重だ。その本なら……やり方次第だが、金貨三千枚くらいの値打ちはあるだろう」

「それなら」

「売ってお金にして、ウィーに遺すのかね? でも、そんなことをすれば、彼女は目立ってしまうよ?」


 どこぞの娘が、貴族の遺産として、その持ち家と、金貨三千枚を受け取った。いったい、どこのシンデレラだ? ウィー? 誰だ、そいつは?

 すると、ワーリア伯が……ああ、面倒な。


「なら、ウィーに魔術を教えるとか」

「それも考えたがね。せっかくあれだけ弓の才能があるわけだし、それに彼女は考えるより、体を動かしているほうが向いているみたいだ。第一、魔術の訓練には、それなりにお金もかかる。今の私には、それをさせてあげるだけの資金がない」


 確かに、今のクレーヴェの財力では。

 若い頃は、役職にでもついていたのかもしれないが、これから魔術の勉強なんか始めたら、この家土地までなくしてしまいそうだ。


「何より、火魔術を実戦に生かそうと思ったら……これがなかなかね」


 そう言うと、彼は右手を掲げて、何やら詠唱を始めた。

 二、三秒後に、ポッと赤い光のようなものが手を覆う。詠唱はまだ続いている。そこから更に四、五秒後、やっと手が燃え始めた。


「時間がかかるだろう?」

「は、はい」

「この状態に持っていってから、更に詠唱を重ねないと、火の玉を作り出せない。急いでも二十秒はかかる。先に殺されるのがオチだよ」


 そういって彼は鼻で笑った。


 なんと面倒な。

 でも、アネロスは、一瞬で火の玉を出していたが、あれは。


「もっと早く行使することはできないのですか?」

「できるが、触媒が必要だな。それにはお金もかかるし、お金だけあってもなかなか手に入らないこともある」


 そして、彼は手の中の火を、フッと消した。


「触媒がなくても、今やったように、段階を踏んで力を高めていけば、火の玉くらいは出せる。出せるが、実戦でこんなものを役立てようなんて、馬鹿げてるよ」

「はい」

「だが、それもやり方次第だ。状況を選べば、使えないこともない……そういう技術なのだよ、これは」


 そこでまた、ふーっと長い息を吐く。


「頼むよ。助けると思って、受け取ってくれないか」

「で、でも」

「私の目の届かないところにいるウィーを、少し気にかけてくれれば、それでいい」


 本当にそれだけなのだろうか。

 もしそうであれば……


「こうするのが、私の安らぎになるのだよ、ファルス君。ウィーに……何か、いつまでも残るものを、遺してあげたいのだ」


 椅子に深くもたれこみながら、彼は遠くをみるような目をした。

 弱りきった彼が、あと何年生きられるのか。


 俺にとっては初対面でも、彼のほうでは、事前に彼女の話も聞いている。手紙をやり取りしていた可能性もある。もしかすると、夜会で出会わなくても、どこかで彼が俺に接近してくる可能性も、或いはあり得たのだろうか。

 その結論が。少しでも力のある人間を見つけて、ウィーの後援者にしたい……それが、この年老いた男の、最後の願いかもしれないのだ。


「まだ時間はある。よかったら、また遊びに来て欲しい。なに、構わないだろう?」


 そう言って、彼は穏やかに微笑んだ。

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