守護者の幸福
論理的に言い負かされた。彼の意見は正しいと思う。
だが、では、どうすればいいのか。ただ黙って、運命のなすがままに身を任せるしかないのか。
「なぁ、ファルス」
遠くを見るようにして、彼は言った。
「死は避けられんよ。お前が不死を得ても、世界は死んで、生まれる。時間はただ流れる。建てたばかりの立派な城も、いつしかただの瓦礫に変わる。たとえ寿命のない何かになったとしても、やはり生まれて死ぬのを繰り返すのと、さして変わらないのではないか?」
「……そうかもしれませんが、ではどうすれば」
「私なら、もっと大事なことに人生を使うだろうな」
なんと、どうやら彼には解決方法があるらしい。
俺が顔をあげると、彼は今まで見せたこともないような穏やかな表情で語りだした。
「何をするんですか?」
「ん? いつも通りだ。今日も残った仕事を片付け、明日は朝からまた打ち合わせだ。昼と、夕方と、夜と、またこなさねばならん用事があるからな」
「結局、目先のことをするしかないってことですか」
「違うな。これは私にとって、かけがえのない大事な仕事だ。だからそれをする」
わけがわからない。
あれだ、前世でよく、心理テストみたいなので質問された「明日世界が滅ぶとしたら、何をする?」という質問の答えみたいだ。彼のそれは、普段と同じ一日を過ごす、というものだということか?
「あまりよくわかっていない、という顔だな」
「納得できていないだけです」
「ふむ」
いくらか思案した後、イフロースは説明した。
「私が一番大事にしているものは何か、わかるか?」
「それは、なんとなく。エンバイオ家を守りたいんですよね?」
「そうだ。その意味では、閣下も、奥様も、お嬢様も、若君も、みんな守るべき存在だな」
そこで彼はいったん、言葉を切った。
いきなり立ち上がり、背後にあるポットとティーカップを取り出した。
「こんな長話をするつもりもなかったのでな……冷めているが、まぁ、飲んでくれ」
カシャッ、と陶器のたてる音が、静かな石造りの部屋の中に響く。
「もともと、私がエンバイオ家の執事となったのは、二十年ほども前のことだ。フィルと話し合ってな」
一瞬、違和感を覚えた。フィル? 先代の子爵を呼び捨てにしている? サフィスのことはご主人様とか、閣下と呼ぶくせに?
「クククッ、人前では、そんな呼び方はしなかったからな。あいつが死んで、もう四年も経ったのか。早いものだ」
「……何か、個人的な知り合いだったとか?」
「四十年来の友人だったよ」
はて? 噛み合わない。
イフロースが三十歳頃まで、紛争地帯で傭兵をしていたのは知っている。最後には部隊を率いる立場になっており、それなりに有名でもあったらしい。それが四十年来、とは?
「あれは、十歳になるかどうかの頃だった。貴族同士の紛争に巻き込まれて、家をなくした。もっとも、はじめから父親などおらんかったがな。自分ひとり、それも一目で混血だらけとわかる流民の子供だ。生きるためには何でもやったよ」
王をいただかないあのマルカーズ連合国の弊害だ。ムスタムに似て自由な気風がある一方で、争いが絶えない。
イフロースは、そんな社会の中でも、下層に属する少年だった。
「だが、泥棒など長続きする仕事ではなかった。ついにどうしようもなくなって、東に向かう船で密航することにしたのだ。行き先はピュリスだった」
どうやって乗り込んだのだろう。いや、それより、どうやって下りるつもりだったのか。
ピュリスは王領だ。よって、管理は厳しい。三つの市門のうち、東西の二つは、普段は閉じられている。残りの北門でのみ、守備兵に見張られながら、通行ができるのだ。残る南側も、船からの出入りは監視下にある。密輸商人どもならいざ知らず、身元不明の少年が、海上から勝手に立ち入れるほど、警備は甘くない。
だが、そんな俺の懸念など、お見通しのようだった。
「……そう、お前が今、思い浮かべたように、下りる時のことを考えていなかった。無理やりでも飛び出して、またかっぱらいでもやればいい、というくらいにしか、な。だが、案の定、すぐ警備兵に取り押さえられたよ。下手をすれば、あのまま犯罪奴隷になるところだった。だが」
昔を懐かしむように、彼はそっと笑みを浮かべた。
「偶然、そこにフィルがいたんだ。ちょうどトヴィーティアから出てきて、帝都の学園に留学しようというところだった。明日には出航という予定で、一日空いたからと、波止場を散歩していたそうでな」
兵士達に取り押さえられてもがくイフロースを、フィルは見かけてしまった。
「あの時、フィルが気まぐれを起こさなければ……今の私はいなかった。あいつはこう言ったんだ。その少年は、田舎から来た私の下僕です、と」
仮にも貴族の長男だったフィル。だが、トヴィーティアは狭く貧しい領地だ。帝都への留学費用も、やっとどうにか捻出したくらいに。当然、貧乏学生の彼は、一人で渡航し、一人で生活する予定だった。
「見知らぬ私のために、散々頭を下げてくれたよ。それで兵士達も、まさか貴族に逆らうわけにもいかないから、私をフィルに引き渡した。だが、そうしてもらったところで、私に何かアテがあるわけじゃない。身の上話を一通り聞いたフィルは、いっそ本当にお供にならないか、と誘ってくれた」
それは、大丈夫だったのか?
お金から何から、問題だらけだったのでは……
「もう、大変だったな。そもそも船は定員いっぱいだったから、フィルが無理やり捻じ込んで、一人部屋のところに二人で寝ることにした。金は手持ちの分では足りなかったから、到着払いにしてもらった。船の中では雑用を引き受けまくって、毎日腹を空かせながら小銭を貯めた。やっとのことで、帝都に着いた時には、嬉しかったよ」
「……すごい話ですね」
「お前ほどでもないがな。だが、着いてからも楽ではなかった。何しろ、フィルからして貧乏貴族だったから、学校から帰ったら、すぐ副業だ。私の分の食い扶持もあるから、それはもう、朝から晩まで、動きっぱなしだったよ」
まだ十五歳だったフィルが、どんな思いを抱いていたか、それはわからない。だが、彼は目の前に現れた少年を見捨てないことにした。
「さすがに私も、何もかもを彼に頼って生きていくわけにはいかん。だが、盗みは駄目だと言われていたから、困ってしまってな。それで仕方なく、冒険者ギルドに駆け込んで、雑用からやらせてもらうことにしたのだ」
後の傭兵隊長の人生は、そこから始まったのか。
だが、若すぎないか? フィルは十五歳、だがイフロースは十歳前後、ということは……
「最初は年齢をごまかして働いていたが、すぐバレてしまってな。結局、またフィルが交渉してくれた。思えばあの頃からあいつは、とにかく人を説得するのがうまかった」
「よくそこまでしてくれましたね」
「ああ……私達は妙に馬が合ってな。全然、好みも違えば、性格も正反対だったのに……それと、慣れない異国で、もしかしたら寂しかったのかもしれない。三年間、一緒に貧乏生活をしていたよ」
そう言いながら、彼は目を細めた。
懐かしい少年時代の思い出、か。貧しかったにせよ、故郷の戦禍に比べれば、どうということもなかっただろう。
「だが、フィルがいよいよ国に帰るというところで、私も力試しをしたくなっていた。もう一度、生まれ故郷に戻って、一旗揚げてやろうとな。いや……」
そこで、彼の顔に一瞬、翳が差した。
「そうではないな。華やかな帝都で、金持ちの貴族どもを見て。今から振り返ると、私は羨んでいたのかもしれん。俺ならもっとやれる、能力ではこんな奴らには負けない、いつか絶対にのし上がってやる、と」
貧しさゆえの劣等感、か。
それで彼は、一度はフィルの従者としての人生を、捨ててしまった。
「それで再会を約束して、私はまた、マルカーズ連合国に舞い戻った。そこからは知っての通りだ」
十代前半で帰国したイフロース。だが、二十歳前にはもう、一人前の戦士に育っていた。そこからの十年間で、彼は傭兵としての名声を高めていく。
「気付いたら負けなしになっていた。調子に乗りもしたものだ。傭兵の仕事ならいくらでもあった。そして戦えば勝つ。勝てば金になる。金さえあれば、なんでも手に入った。勢いで結婚したのが二十歳の時だが、それからも好き放題に暮らした」
「ご……ご結婚、なさっていたんですね」
その割には、エンバイオ家では彼の子供達を見かけなかったが。
普通に考えて、執事の息子とかなら、やはり高い地位についていそうなものなのに。
「ああ。子供も産ませた。だが、ろくに家に帰りもしなかったがな。何しろ、当時は他に女どもが……片手の指では足りなかったぞ?」
うわぁ……ひどい男だ。
かっぱらいの乞食が刃物を持って、腕っ節が強かったから成り上がって。金があるから遊びまくって。奥さん子供をほったらかしにして、暴れまくって。
やんちゃ、という言葉では済まない。
「それで、やらかしたのだ。三十四の時に、つい調子に乗りすぎて、ちょっとした勢いで、とある貴族の居城を攻め落としてしまったのだ」
「ついって。勢いってなんですか」
「ん? 酒場での口喧嘩がきっかけだな。なんかどっかのボスザルに、お前でも、今夜中にあの城を陥とすのは無理だろうとかなんとか言われて、カチンときてな」
「ひ、ひどい……それだけで?」
「この風魔術の懐剣も」
そう言いながら、彼は燕尾服の内側から、銀色に輝くそれを出してみせた。
「その時、魔術書と一緒に略奪したものだ。だが、詰めが甘かった。生き残りが逃げて、行方知れずになった」
「ってことは、報復されたんですか」
「そうだ……私にではなく、家族にな」
はっと息を呑む。
「殺されたんですか」
「いいや、人質になった。そして、奪った城を返せ、傭兵団を解散しろと」
これは難しい局面だ。
だが、団長としては、断固拒否しかあり得まい。
「あの時は迷った。いざとなって初めて、本気で後悔した。いつもいつも自分の身勝手に付き合わせて、ろくに後始末もせず、金ができれば遊び歩き……最後には見殺しか、と」
しかし、傭兵団を解散すればどうなるか。いくらイフロースが強かったといえ、一人では。攻め落とした城の関係者だけでなく、それこそ今まで打ち負かしてきた相手すべてが、彼の命を狙うだろう。
「必死で結論を先延ばしにして、知恵を絞った。だが、時間が過ぎていくばかりで、何も状況は変わらなかった」
「それじゃ、どうなったんですか」
「また、フィルだった」
「え?」
「どうにもならなくなった時に、助けに来てくれたのが、フィルだったのだ」
ちょっとびっくりだ。
ということは、どうなる? 二十年も前に別れた友人のために、当時のフィルが動いた? しかし、計算すると、その時点の彼は三十九歳だ。サフィスも生まれていて、十歳前後のはず。そんな状況で、どうやって?
「でも、その時期、フィル様は王都で官僚になっていたのでは」
「そうとも。だが、運がよかった。マルカーズ連合国は、フォレスティア王国の従属国という扱いになっているから、しばしば両国からの使節が派遣されてくる。フィルは、私が貴族の城を攻め落としたという事件を遠くで聞き知って、慌ててその使節団の一員になりたいと申し出たそうだ」
いったい、先代子爵とは、どんな人だったのだろう? やり手だとは聞いていた。その政治力でピュリスの総督職を射止めた男だ。しかし、イフロースの話からは、それだけではない……どこか純朴そうで、情熱的な……少年の心を捨てられない人物像が浮かび上がってくる。
「落としどころを見つけてくれたよ。城は返還する。傭兵団は解散しなくていい。但し、私は連合国から退去すること。それで面子が立つ、と」
「つまり……命は取らないでやろうと」
「こちらの面子も潰さずにおいてくれたわけだ。表向きは、私があの国での傭兵生活に飽きて、勝手に立ち去ったことにしたそうだからな」
なるほど。
しかし、こうなると、あのキースがイフロースにこだわった理由もわかるというものだ。彼が三十四歳ということは、キースは五歳かそこらの少年だった。物心ついた頃に見た世界は紛争地帯、そしてそこで、一介の傭兵が遊び半分に城を攻め落としたのを間近で見知ったのだろう。あの時憧れた男に勝ちたい、といったところだろうか。
「だが、さすがのあいつでも、説得できない相手がいてな」
「城を奪われた貴族より厄介なのがいたんですか」
「ああ。私の妻と子供だ」
そういうことか。思わず顔が強張る。だが、彼は淡々としていた。
「フィルは私の代わりに、精一杯謝ってくれたよ。私の稼ぎはかなりのものだったが、ろくに家に金を入れなかったせいで、妻も子供達も、貧しかった。おまけに、ずっと捕虜だったから、薄汚れてもいた。そんな譲渡奴隷同然の状態の女子供に、仮にも貴族が頭を下げたのだ。この男は反省しています、もう危険な紛争地帯を離れて、平和な地域で真面目に働くつもりです、貴族の私が責任を持ちます、とな」
「なんと腰の低い……あり得ないです」
「まったくだ。だが、それでも妻と子供の怒りは収まらなかった。離婚するしかなくなったが、財産を譲ろうとしたら、それすら拒否されたよ。最終的には、フィルの骨折りもあって、半分は受け取ってくれたが」
それもすごい。
食うや食わずやの生活をしていた人間が、大金を拒むのだ。いったいどこまで恨まれていたのだろう?
「要するに、私はほぼすべてをなくしたのだ。望み通り、妻と子供の命は助かった。だが、連合国にはもういられない。手塩にかけた傭兵団も、二人の副官に任せた。家族からは縁を切られた。これからどうしようかと思ったよ。まぁ、サハリアにでも行けば、まだ戦場はあったし、私の名前があれば、高給で雇ってもらえただろうが……どうにもそんな気になれなかった」
突っ走りすぎたのかもしれない。上へ上へと。
だいたい、口喧嘩とか気分とかで城を占拠するとか、正気の沙汰ではない。
「だが、今にして思えば、やっとまともになれたのかもな」
「まとも……じゃなかったんですか?」
「ああ。あれだけ金があって、有名にもなって。毎晩、最高の酒を飲み、女どもは選り取り見取り。長椅子の上にふんぞり返ってえばり散らして……だが、よくよく思い返してみると、少しも楽しくなかったのだ」
楽しくない。
その一言が、すべてを物語っている気がした。
つまらないのは、刺激がないせいだ。ならばもっと。酒。女。戦争。その延長線上に、行き過ぎた暴走があったのだとすれば。
「フィルは、しばらくうちで休んでいったらと勧めてくれたよ。無気力になっていた私は、言う通りにした」
「てっきり、うちで働いてくれと頼まれたのかと思っていました」
「まさか。逆だったよ。三ヶ月くらい、ぼーっとしていたが、申し訳なくなって、こちらから頼み込んだのだ。だが、最初は頼むからやめてくれと言われてしまった」
「それはどうしてですか?」
すると、彼は鼻で笑った。
「そりゃそうだろう? 当時の私は、どこから見ても、狂暴な野蛮人だ。人殺ししか取り得のない……貴族の召使が務まるような男じゃなかったからな。ただ……多分、それだけではなかった」
少し寂しげな表情をして、彼は続きを言った。
「あいつは……俺に友人のままでいて欲しかったんだと思う。雇い主と部下。そんな関係になるのが、怖かったんじゃないかとな」
俺はフィルを一度も見たことがないから、その辺はわからない。実はイフロースが成り上がったのを見て、自分の手札にしたくなっただけなんじゃないか、とも疑ってしまう。今日、ちょうどタンディラールとサフィスのやり取りを見ただけに。
いいや、そうではなさそうだ。もしそんな腹積もりがあれば、さすがにイフロースなら気付ける。一癖も二癖もある傭兵どもを相手に指揮官を務めてきた男が、そこまで間抜けとも思えない。
「だが、じっとしていられなくて、周囲の召使どもに頼んで、こっそり仕事をさせてもらった。礼儀作法その他についても、勉強し直しながらな」
「そりゃ、今まで戦場にいたわけですしね……暇すぎて、困ったでしょう」
「まったくだ。しかし、働き出したら、すぐにまた、別の苛立ちを感じるようになった」
「といいますと」
首を左右に振りながら、彼は溜息をついた。
「あまりに非効率でな。そのくせ、上下関係にはやかましい。やがて気付いた。私がフィルの客人だからと頭を下げてはいるが、内心ではむしろ、この傭兵風情がと見下しているのだと」
「うわぁ、ありそう」
「まぁ、それは飲み込んだ。何しろ、私はフィルの情けで滞在させてもらっていたのだ。それこそ金に余裕があるわけでもないのに、狭い王都の屋敷の一室を与えられて。いつまでも穀潰しがいたのでは、邪魔で仕方なかろうからな。だが、どうにも我慢ならなかったのは、連中の甘ったれた態度だった」
甘ったれた……
子爵家にきたばかりの、子供部屋での理不尽を思い出す。確かに、連中は子供の頃から、特権階級のすぐ傍で生きる有利を実感していて……
「フィルはな、一人きりで頑張っていたんだ。あとの連中はもう、召使なんてのも名ばかり、要は王都で出世したご主人様にぶら下がって、甘い蜜を吸うだけ。おまけに、奥方もひどかった。貧乏だったせいなんだろうが、二十六まで待たされてやっと娶った、たった一人の女があれとは」
「反吐でも出そうな顔してますよ」
「反吐どころか、内臓が裏返るわ、あのクソ女め。金遣いは荒いわ、嫉妬深いわ、その上に見栄っ張りで、やかましくて、もう悪夢のようだった。しかも、一人息子を産んだらもうおしまい、と言わんばかりに、フィルを寄せ付けんかった。見ておれんかったわ。あの女の唯一よかったところは、まぁ、せいぜいのところ、早死にしたことくらいだな」
よっぽど嫌な思いをさせられたのか。彼が愚痴るところなんて、初めて見たぞ?
で、多分、彼女の悪いところばかりがサフィスに遺伝した、と……
「そういう場所だったからな。さすがにたまりかねて、正式な立場をつけてくれとフィルに頼んだのだ。こんな足手纏いどものために、お前だけが頑張ることはない、とな。それであいつも了承して、私は執事となった。家中は大騒ぎだが、他ならぬご主人様の決定でもあったし、私自身、恐れられもしていたから、なんとかなった。ただ、それでも自分だけではどうにも仕事を切り盛りできなかった。だから、一年後にはカーンも呼んだ」
「そういう経緯だったんですね」
「ああ。だが、最初はもう、恨み言しか出てこなかったぞ? なんでこんなに馬鹿みたいなことを繰り返すんだ、とかな。だが……やっているうちに、まったく違った気持ちが湧いてくるのに気付いた」
目を閉じ、手を組んで、イフロースは深呼吸した。
「そう……気付いたんだ。思えば、人のために働きたいと思ったのは、これが初めてだったんじゃないか、と」
「人のため、ですか」
「それまでの私は、何でも自分、自分だったからな」
彼は身を起こし、じっと俺を見た。
「金が欲しい、女が欲しい、質のいい武器が欲しい、名声が欲しい……それは確かに、私のやる気を掻きたてはした。だが、手に入れたらもう、興味がなくなった。いつでもそうだ。あんなに恋焦がれた女だったのに、一晩で飽きる。そんなことを繰り返していた」
その言葉だけで、当時の彼の生活の不毛さが目に浮かぶ。高級な酒をガブ飲みし、居並ぶ美女をぞんざいに選り分けて。大声で喚き散らして、暴飲暴食をして。それでいて、すぐに気分が変わる。言うこともコロコロ変わっただろう。周囲も振り回されただろうが、彼自身も同じだったのではないだろうか。
「そんな退屈さがな。気付いたら、どこにもなかった。自分の利益より、何ができたか、どう進歩したか、仕事そのものの結果が気になって仕方なくなった。私がしたことで、下した決定で、どれだけの人間が、どんな幸せを得られたのかと……気付いたら夢中になっていたよ。なんといっても、終わりがないからな、これは」
「終わり? ですか?」
「ああ。自分のためだけに何かをするというのは、案外すぐに終わってしまうし……結果が出なければ気分が悪いだけだった。だが、これは違う。うまくいっても、いかなくても。やればやるほど、もっと、もっと、となる……そうだな、例えば」
顎に手をやり、彼は考える。
「カーンに初めて商隊を組ませて、利益を出した時のことだ。あの頃は何もかもが行き届いていなくてな。一応黒字にはなったが、結果は散々、もう自分の間抜けさに腹が立って仕方なかった。だが、フィルは私に、ありがとうと言ってくれたのだ」
「……フィル様の笑顔が嬉しかった、とか?」
「それはそうだが、二の次だった。もちろん、私はフィルのために働いていた。だが、フィルの笑顔を報酬にして、それに満足するような真似はできなかった。出てくるのは不満ばかりだ。なのに、どんどんのめり込んでいった……」
やおら立ち上がり、彼はゆっくりと室内を歩いた。
「確かに私は、フィルに感謝はしていた。何しろ助けてもらったのだから。だが、どれだけ友情を覚えていたのだろうな? 二十年間、ろくに便りもよこさず、自分の栄達ばかり考えていた。あの三ヶ月間、仕事もしないでブラブラしていた時期に、もし私がサハリア辺りにでも行くことにしていたら……きっと、それきりだったろう」
ピタッと立ち止まり、真っ暗な窓の外を、彼はじっと見つめた。
「だが、とにかく偶然にも、私はフィルのために働くことにした。それが今にして思えば、人生の転機だったのだ。あの時、動かなければ、この幸せには絶対に気付けなかった」
俺に向き直り、イフロースは力をこめて言った。
「人生を価値あるものにするのは、仕事だ。それも、ただ働けばいいわけではない。誰かのため、何かのために、全力を尽くす。それを仕事というのだ。そして、この本物の仕事には、ただの給与とは別に、特別な報酬が用意されている」
厳しい。厳しいが、真心のこもった言葉だ。
彼は、まず全力を尽くせという。当たり前のように。だが、それは苦しい。だから、多くの人がそれをしない。
前世でもそうだった。就職する時、どんな条件で会社を選んだか? 福利厚生がしっかりしている? 給与がいい? 残業が少なめ? 「何をもらえるか」を基準に考えるなら、そこに「全力」などあり得ない。
「それは……一言でいうなら、愛、だ」
なんとも彼に似合わない言葉が出てきた。
散々暴れまわってきた元傭兵隊長が、鉄面皮の執事殿が、真顔でいう言葉だろうか?
「そう、愛だ。……世間の連中は、これをひどく誤解しておるがな」
「どう誤解しているというんですか? いや」
少し考えて、思ったことを口にした。
「だって、範囲が広すぎる言葉でしょう? あれも愛、これも愛……」
「そうだな。だが大抵、それらの愛には、共通点がある。それがあれば、一緒に幸せも天から降ってくるかのように考えているのだ、馬鹿者どもは……だが、そんなものはな、物欲と性欲、不安と期待、誤解と妄想の入り混じった汚物のようなものだ。私のいうそれとは、似ても似つかない」
言われてみれば、確かにそうだ。
前世のとある女性は、男の愛情は自分に使った金額で測ると放言していたっけ。こういう愛は、なんだかんだいって、要するに相手から報酬を得ることを目的にしている。よく言っても、相手と一緒に利益を生み出すためのものだ。
「ここでいうのは、まったく別物だ。外から何かが与えられるのではない。自分の内側から、何かが生まれるのだ。それは、道を歩くのに似ている。右足で一歩、お前が前に出る。すると、続く左足はその右足の後を追う。するとまた、右足がそれを追いかける……行動と愛とは、同じ物事の別の側面なのかもしれん」
彼は、かつてないほど熱意をこめて、俺に語っている。自分の人生の意味そのものを、伝えようとしているのだ。
「そうして歩き続けるうち、そこはお前の道になる。横に見える見慣れた風景も、後ろに横たわる懐かしい足跡も、真正面に広がるまったく新しい世界も、どれもこれもがいとおしい。ファルス、これは遠いどこかにあるものなどではない。どこにでもある、ここにだってあるものなのだ」
大事なことを言い切った彼は、ストンと腰を下ろした。
力の抜けた、ぼやけた声で、続きを口にする。
「それがわからない人間というのは……誰であっても、不幸にしか見えないな。覚えておるか? お前が接遇担当だった頃、よく顔を出していたヘーキティ男爵夫人は」
「はい」
「私はよく応対に遣わされていたから、言葉を交わしたこともあるのだが、彼女こそ、私のいう、不幸な人間だ。せっかく貴族に生まれて、無事に貴族の家に嫁ぐこともできて。当面の生活にも不自由はないし、こうしてピュリスに遊びにくることもできる。だが、彼女には唯一、ないものがある。それが仕事だ」
「でも、貴族の妻なら、普段の仕事なんて、ないでしょう?」
「なければ作ればいいのだ。誰も禁じたりはすまい。だが、それにすら気付けない。ただ与えられることに慣れきってしまって、想像もつかないのだ。夫のためでも、領民のためでも、誰のためでもいい。なのにそれをしないで、ただ食べ、ただ遊んでいるから、どれだけ裕福でも、その口からは不満と悪口しか出てこない。何を与えられても、それはただ、自分の前を通り過ぎていくだけ、ただの風景でしかない。自分で手を泥の中に突っ込み、汗を流して働くのでなければ、味わえないものがある。違うか?」
そうかもしれない。
誰にだってわかる喩えがある。自分で作った料理はおいしい。俺はいわば本職だから、うまく作るのが当たり前になってしまったが、初めはひどいものしかできなかった。火の通りにムラがある野菜炒めとか……でも、夢中になって食べたっけ。ましてや、それをおいしいと言ってもらえたりした時には……
「更に喩え話をしよう。病気の家族がいるとする。お前ならどうする? 見捨てて自分だけのために生きるか? それはそれで楽だし、合理的な選択だ。だが、一緒に暮らすことを選んだとしても、それは決して間違いではない。その家族がどうなるかはわからない。病気が治れば喜び合える。だが、仮に悪化したり、死んだりしたらどうだ? それまでその家族にかけた時間や治療費は、無駄だったことになるのか?」
「……いいえ」
「そうだろう? 治療費を稼ぐために働いて、ボロボロになった指先も。買い換えることもできずにツギハギだらけになった服も。それはかけがえのない景色の一部だ。家族との死別はもちろん苦しいだろう。だが、その感動の中には、どこか温かなものも、きっと残されているはずだ。努力が報われるとは限らない。だがそれは結果についての話だ。歩み続けた道がなくなるわけではないのだ」
……家をなくす前のイフロースの人生のことを言っているのだろうか。
ふと、そう思った。
大事な家族がついに亡くなり、すべてをなくしたと思った少年が、自暴自棄になって泥棒に身を落とし……
「だから、私は別に、子爵家の家宰という仕事が好きなのではない。もし子爵家があのトヴィーティアに戻るというのなら、それでも構わないとも。泥に塗れて土を耕す。それも一興だろう?」
農民になりきっている彼の姿。麦藁帽子をかぶって、鋤を片手に……遠くに見えたリリアーナに笑顔で手を振る……想像してしまった。
今の彼なら、迷わずそういう人生も選べるのだろう。
「最初はただ、フィルと一緒に歩むのが楽しかった。今は……あいつが死ぬ間際に、子供達のことを私に託したからな……でき得る限り、あいつの子供達を守っていきたい。そのために働けることが、ただ嬉しいのだ」
「そんなに、ですか」
「ファルス、関わるのだ。関わりあう。他人のことにするな。いつでも自分のことにしろ。すると、なんでも抜群に面白くなるぞ」
そこで彼は、深い溜息をついた。
「逆に、お前が選ぼうとしている、不死になる道というのは……その逆をいくものだ。お前は誰とも生きられない。関わらなくてもいいし、関わりきれない。よほど頑張らなければ、誰かとともに生きるなんて、できないだろう。確かに死にはしないだろうが、どんな繋がりも薄く引き延ばされて……お前は誰でもなくなってしまう。それでは、無限の人生を無駄遣いしているも同然だ」
「それは」
反論しようとして、言葉が出なかった。
「そんな道をいくくらいなら、お前はピュリスの居酒屋で、死ぬまで料理でも作っていたほうが、まだマシだ。そうではないか?」
でも。
その後、死んだらどうする? いや、確実に死ぬのだ。
だが。それについてはもう、イフロースが答えた。不死は死と同じなのだと。
自分の中に、言葉にできない迷いが生まれるのを感じないわけにはいかなかった。
そこで彼は、幾分表情を和らげつつ、付け足した。
「まあ、お前なら大丈夫だ。こんな説教などしなくても、本当はとっくに自分でわかっているだろうからな」
「そうですか? 案外、自分のことしか考えてないかもしれませんよ? さっき、どうやって生き延びたか、言いませんでしたか?」
「ククッ、それでも心配などいらんよ。見ていたぞ。自分の悪口を言われている間は飄々としておったのに、お嬢様に飛び火するや否や、目を剥いておった。更にナギアが打たれたところで、本気で怒っておったわ。要するに、お前はもともと、そういう人間なのだ」
そう……なのかもしれない。
お人よしな点にかけては、とにかく自分を呪いたくなるほどなのだ。
しかし、だからこそ、そこを克服して、今度こそ不死を得ようと思っていたのだが。
「私としては、できれば生きる意義をここ、エンバイオ家で見つけて欲しいと思っているがな、ククッ」
「なんだかんだいって結局、その気にさせようとこんな話を」
「だから、悪い話ではないと言っておるだろう? 限りある時間を費やすからこそ、愛着も湧くものだ。どうだ? お嬢様のお傍で、ともに成長を見守っていくというのは」
冗談めかして、そんなことを言う。
ならば、俺もお返しだ。
「長続きしない夢ですね?」
「なんだと?」
「お嬢様も、もうすぐ微妙なお年頃になりますから」
「ふむ」
間をおいて、きっちり強調して言ってやった。
「じいや、クサい! って言われますよ」
「ぬごっ!?」
俺の一言に、彼はモチで喉を詰まらせた老人のような顔をした。
「年頃の女の子は、匂いに敏感になりますからね?」
「そ、そんなにか、う、うーむ……い、いや! そ、それは楽しみだ。楽しみだな、うむ」
やや取り乱しつつも、彼はそう言って笑みを浮かべた。
「そうやって育っていって、最後には立派な貴公子と結ばれて……一目、フィルの曾孫を見られれば、もう、満足だな」
妄想たくましい。入れ込むにもほどがある。
それにどれだけ長生きするつもりだ。あと二十年くらいはかかりそうだが。
「いや、だが、しかし……今は今で捨てがたい。かわいらしい子供のうちも、とっつきにくい思春期も、大人になってからも……」
「お嬢様のことばかり」
「いやいや、私はウィム様にも期待しておる。いつか、もう少し大きくなったら、剣術を教えてみたい。それで、な。いつか、ウィム様はこの私を打ち負かす。もちろん、本当に実力をつけてな。そこで私は言うのだ、もう何も教えることがございません、お強くなられましたな、と」
その日が来るとしてもずっと先のことだろうに、彼はまるで自分のことのように、目を輝かせてそう言った。
「でも、サフィス様は……どうなんです?」
「もちろん、大事なフィルの息子だからな。ただ、あれはもう少し厳しくせねばならん。一人前になれるよう、それとなく気をつけていかねばな。なに、そのために私がいる、カーンがいる」
そして、こう言って締めくくった。
「ファルス、やっぱり私は幸せだ。どこを切り取っても、楽しみしか見つからんよ」
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