ノール購入の真相
なるべく音をたてないように、そっと扉を閉じる。
さすがは王都の高級住宅地、狭いし値段も高いが、作りはしっかりしている。石の壁も木の扉も分厚く、隙間がない。これなら音が隣の部屋に漏れることもないだろう。
もっとも、それがメリットとは限らない。安眠を保証するという意味では好ましいのだが、裏を返せば、非常時の対応が遅れやすい、ということでもある。例えば今、子爵一家の寝室に賊が入り込んでも、聴覚でそれを察知するのは難しい。
「こんな時間に済まんな」
まったくだ。子供は寝る時間だ。
リリアーナは、両親が帰宅するギリギリの時間まで、俺とナギアを脇に置いて、ひたすら遊び続けた。いや、甘え続けた、というべきか。
だが、ナギアはともかく、俺が長居するのはまずい。だからその後、俺はさっさと物置に引き返した。今夜もあの部屋で一人、静かに眠るのだ……そう思っていたのだが、ふと見ると、寝床にしていた長椅子の上に、紙切れが乗っかっていた。
『夜十一時に私の部屋までくるように イフロース』
さすがは執事殿、サービス残業などお手の物らしい。もっとも、この屋敷で彼ほど働いている人もいない。今回の旅行では楽をさせてもらっているのだし、この程度で不平を言うのもどうかと思う。
だが、さて、どんな用事だろう?
「まぁ、そこへ座ってくれ」
いつになく、彼は上機嫌だった。傍目にもわかるほど、ニヤニヤしている。ニコニコなんてかわいいものじゃない。
「何かいいことでもあったんですか?」
「ん? ああ」
口元を綻ばせながら、彼は答えた。
「なに、今日のことだ。お前がベルノストを打ちのめしてくれたからな」
はて?
あんな程度の相手に勝ったのが、そんなに嬉しいのか? 確かに、あの年齢からすればエリートなのだろうが、俺が遥か上をいくのは、知っていただろうに。
いや。
そうじゃない。勝ったことではなく、ああして戦ったことで、彼は何か、目的を果たしたのだ。
俺は口を開きかけて、また閉じる。
「ククク……考えておるな?」
お見通しか。けど、その先がわからない。あれの何がよかったんだ? 揉め事を起こしただけじゃ……
まさか、それか?
「王子と……距離を置きたかった」
「その通り。ますます喜ばせてくれるな、お前は」
そう言うと、彼は懐から小さな袋を投げて寄越した。
「僅かだが、これは報酬だ。取っておけ」
「報酬? ですか?」
「この後、お前は街を見て回ることもある。欲しいものがあったら、好きに使え。もちろん、返さなくていい」
この感じ……金貨が二十枚ほど、か。
子供の小遣いにしては大きいが、俺の身請け金額からすれば雀の涙だ。
「ありがとうございます」
「なに、この程度ではなく、利益が得られたと思っておるよ。それとこれだ」
目の前に、ブローチが一つ。
繊細な印象を与える金の台座の上に、やや大粒のオニキスが飾られている。
「昨日、舞踏会があったな。今後も、ああいう機会があれば、お前もお嬢様のお付きで顔を出さねばならん。服はあるようだが、装飾品があの程度のものしかないと、恥をかくだろう。受け取っておけ」
そう言うと、彼は執務用のデスクの書類を、脇に寄せた。
「あのままでは、閣下が何を言い出すかもわかったものではなかったからな」
「それは、やはり」
「うむ。ピュリス総督職を辞して、中央の高級官僚の職位を手にするとかな。もちろん、今はポストに空きがないから、すぐにどうこうということはないが、言質を取られたくはなかった」
なるほど。ピュリス総督なんかやめてお傍で仕事したいです、父がなれなかった財務大臣とかやってみたいです……こんな言葉を聞かれてしまったら。王位を手にした後、タンディラールは本当にその椅子を用意するだろう。まさか、その時点で「やりません」とは言えない。
「でも、その、それがそんなに悪いことなんですか? 出世だとは思うのですが」
「一時的には、その通りだな。だが、王都での生活は見ての通り、とにかく家賃も高い。仮に陞爵して年金が増えても、使用人の数も減らさねばやっていけまい。しかし、最大の問題は、なんといっても中央にいること、それそのものだな」
「王都にいるのが、そんなによくないのですか」
「そうだとも。なにしろ、どんな失態をしでかしても、すぐに伝わってしまうからな。だいたい、あちこちの大貴族の使用人どもが、中央の、特に高級官僚の様子を窺っておる。今、我々がピュリスでやっているような、癒着だらけの商売など、すぐに攻撃材料にされてしまうぞ?」
なるほど。それは大問題だ。
子爵家は今、蓄財に励んでいる。これは代官の特権といってもいい。カーンが陸上、フリュミーが海上で交易を繰り返し、ほとんどろくに税金も支払わない。しかもそれらの物品は、市内の情報を独占した子爵家の判断で取引される。一番高い時に売り、安い時に買える。それこそサルでも稼げる方式で商売をしているのだ。
ならば、中央で財務大臣になれば、さぞかし……ところが、額面上の俸給は増えるし、官位もずっと上になるのだが、実質の収入では、総督には及ばない。同じことをその立場でやらかせば、すぐさま弱みになってしまうからだ。もちろん、雑音を掻き消せる大貴族なら、或いは時の国王が絶対的な信頼をおいてくれているなら別だが……つまり、子爵家の身の丈にあっていないのだ。
そもそも、それでなくても、フォレス人貴族は「商売で金を貪るなんて卑しい」という価値観を持っている。
「そうなると、もう下手な仕事はできないな。最初こそ、地位に擦り寄る連中から、多少の集金もできようが、そのうち罠に落ちるのが関の山だ。だから、なんとしても断らねばならん。なにしろ我々は、ピュリスを私物化しようと頑張っているのだからな」
そう言って、彼はニヤリと笑う。
要するに、王家と仲良くするメリットは、もうないのだ。こちらとしてはもう、報酬を先払いしてもらった。王子の側でも、政治力もさしてない、投票権すら持たないサフィスなんかを重く用いる理由などない。政治的には、とっくに「事後」の関係なのだ。
もちろん、タンディラールが王位につくのは必須だ。これでフミールが逆転勝利を収めようものなら、エンバイオ家など吹き飛んでしまう。うまいこと敗戦処理をしても、せいぜいド田舎のトヴィーティアに引き返すのがせいぜいだろう。だから、サフィスは引き続きタンディラールを支持はすべきだ。しかし、それだけ。
今のところ、エンバイオ家の計画に、大きな狂いはない。だが、大きな不祥事とか、失言とか、何か状況を左右するような要因が出てくると、話が違ってくる。だからこそ、恐らく敵対する貴族達から、クローマーのような連中が送り込まれてくるわけだ。しかし、危険は前方だけにあるわけではない。味方であるはずのタンディラールからして、ある面では敵でもあるのだから。
「だから、なんとかして問題を起こしてやろうと思っておったところだ。それがたまたま、お前のところで起きてくれた」
「あんまり嬉しくないですね。本当にたまたまですか?」
「狙って起こせるなら、もちろんやっただろうがな」
じゃ、どうせあのお茶会は、ぶっ壊れる予定だったわけだ。
確かに、ベルノストが運び出された後は、微妙な空気になった。まさか、あんなことがあった後で、子供同士仲良くお喋りしましょう、なんてなるはずもなく。急遽、王子は楽団を呼び寄せて、全員でお茶を飲みながらそれを鑑賞する、という流れになった。要するに非常用の時間潰しだ。途中で散会するのも体裁が悪いから。
「でも、ひどいことをしてくれましたね」
「ん? 何がだ?」
「魔法のことまで、ベラベラと」
「ああ、それか」
またイフロースがニッと笑う。今日はとにかくやたらと上機嫌だな?
「そろそろ、お前の秘密主義もやめにさせたくてな。それに、あそこまで見せて、言わないと、閣下にはお前の値打ちがわからん」
「評価されたくもないですけどね」
「お前はそれでよくても、私が困る」
「どう困るんですか」
彼は眉を吊り上げて、ククッと笑った。
「私の金がな」
「お金?」
「金貨五千枚。この分は回収せねば」
「は? 僕の落札金額は、六千枚でしょう?」
「ククッ……クハハハ!」
珍しい。あのイフロースが大笑いだ。
「ファルス、お前、大丈夫か? ……ククッ、プッ……クク」
「な、何がですか」
「もう、話してもいいだろう。なぁ、あの閣下が、平気で使用人を見下す閣下がだな……たかが接遇担当にする予定の少年奴隷なんかに、金貨六千枚も出すと思うか?」
……そういえば!?
「私の財布から出したのだよ、残りは」
「な、なんでそこまでして?」
「わざわざ訊くか? 我がエンバイオ家は人材不足なのだ。なるほど、今はカーンもフリュミーもいる。だが、私を含め、主要な仕事をこなしているのは、みんな外から無理やり引っ張ってきた人間ばかり。ド田舎出身の騎士もどきの子供達に、なんとか最低限の教育を施して、そこそこ使えるようにはしてみたが……あの程度では、到底、私の後継者にはできん。覚えているだろう? フリュミーの代わりにしようとした男がどうなったか」
そう言われて、メックの醜態を思い出す。読み書きソロバンに、一通りの礼儀作法だけ叩き込んで、秘書課を創設はした。そこを人材のプールにしたかったのだろう。だが、なんといっても素材が悪すぎた。
「あれでも、まだマシなほうだったから、試してみたのだ。ところがどうだ。確かにあの不幸な事件がなければ、今頃、奴はサハリアとピュリスの間を行き来していただろう。だが、フリュミーのように、あちこちで新規の取引相手を確保したりなどはできまいな。やはり、急ごしらえの人材では、能力の差は埋められん」
「わかりました。でも……なら、どうして僕に期待したんですか」
すると、彼は座り直して咳払いをした。
「まずは、子供だからだな。最初はとにかく、なんでも吸収する少年の感性に期待した。それに、ミルーク・ネッキャメルのことなら、少しは知っている。あそこは長兄のクリムが病弱だったが、その分、次男坊の彼が有能だった。傭兵を辞めてフィルのところで働き出した頃……ミルークは二十歳そこそこだったはずだが、その若さで氏族と『赤の血盟』の中心人物だった。それだけの男があそこまで勧めるのだ。買わない手はないだろう」
「はぁ……」
「とにかく、そういうことだ。出した分だけ、元は取らんとな? 大事な傭兵時代の貯金がゴッソリなくなったぞ? ……だが、まさか、ミルークの商品がバケモノだったとは、まったく計算外だったが」
そこで笑みを少し収めて、やや真面目な理由を口にした。
「それに何より、お前を私の後継者にできないからな」
おっと。
でも、俺は子爵家に留まるつもりなんか、ないからな? 一年半後には、なんとかきっちり借金を完済して、ピュリスから脱出するから。そして、不老不死になる道を探すのだ。
「不満か?」
「不満というより、無茶ですよ。奴隷上がりの言うことなんて、誰が聞くんですか」
「もちろん、すぐではない。私のあとは、カーンが引き継ぐ。そこで実績をあげていけばいい。だが、そうだな、できれば今から二十年以内には、代替わりを済ませたい」
それがイフロースのプランか。
今から二十年後、つまり俺が二十八歳、ウィムは二十四歳だ。サフィスはというと、もう五十代に突入してしまう。この世界、前世日本ほど長寿が一般的ではないから、そろそろ死去してもおかしくない頃だろう。実際、彼の父のフィルは、五十八歳で亡くなった。イフロースは、存命ならば七十過ぎ。さすがにそこまでは頑張れないから、カーンに席を譲る。だがそのカーンも、この時期にはやはり六十代だ。
三十年以上に渡ってピュリスを統治し、エンバイオ家の支配が行き渡った段階で、頼りになる人物を家宰に据えて、ますますの発展を図ろうと。
「無論、騎士の腕輪も与える。なしでは済まんからな」
「幹部になるならそうなんでしょうけど、閣下がくれるとも思えないんですけどね」
「いいや、遠からずお前は腕輪を授かる。今日の事件で、それが早まったな」
今日の事件で? サフィスに怪物扱いされることで、なぜ……いいや、そこじゃない。くそっ、イフロースめ、俺が結論を見つけるのを、ニヤニヤしながら待ってやがる。
そうか、タンディラールか!
「ボヤボヤしていると、王子のほうから」
「その通り」
眼鏡の位置を直しながら、イフロースは続けた。
「今頃、王子の手下どもが、お前の情報を探し回っているはずだ。ピュリスにも人が派遣されるだろうな。すると、お前がただ強いだけでなく、独立して店舗を経営し、飲食店で客の相手をこなしていることも知られてしまう。グルービーのお気に入りだというのもな。となれば、多少のリスクはあっても、手を出そうとするはずだ。お前は明らかに普通ではないし、仮に危険人物とみなされ、使い道がないと判断されたにせよ、そのまま子爵家にくれてやるのも怖い。だから、いずれにせよ、触れずにおくわけにはいかん」
うわぁ、面倒だ。俺を付け狙うストーカーが増えたってわけか。
「だが、私はお前を手放す気はない。今後とも、もっと多くを与えてやろう。とりあえず、欲しいものはなんだ? 金か? 女か?」
「ナギアはお断りですよ」
「そうだな、お前は女には不自由してないようだからな」
「あっちの店は手放してますから」
「居酒屋でしょっちゅう顔を合わせているのにか?」
ひとしきり笑ってから、急にすっと、彼は真顔に戻った。
「……不満か?」
「はっ?」
「本当に、お前が心から欲しいものは、ここにはないようだ」
風魔法を教えて欲しい。イフロースの持っているものの中で、一番高価なものは、きっとそれだ。
口に出すまでもなく、彼は察した。
「魔法を学びたいか? 教えてやってもいいが……それを手に入れれば、お前はここに留まるのか? 違うだろう?」
そう。魔法を学びたいのは、いつか旅に出るためなのだから。
俺がピュリスに、エンバイオ家の元に留まり続ける理由にはなり得ない。
「何が足りない? 仕事があり、収入がある。責任があり、信頼がある。これだけでも、素晴らしいことではないか?」
「いえ、おっしゃる通りです」
「お前は気に入らないようだが、あれでナギアも一本、筋の通ったところがある。今はいけすかない子供でも、十年もすれば、身も心も、それこそどこに出しても恥ずかしくない娘に育つだろう」
それは、ついさっき見てきた。
人には誰しも弱さがある。ナギアもそうだった。だが、彼女の立派なところは、その醜さを直視し、自分なりに戦おうとしている点だ。まだ九歳の若さで、それができる。確かに評価できると思う。
「それに、騎士の腕輪もそうだが、このままいけば、お前は貴族の家の、いわば支配人になれるのだぞ? それも三十前にだ。いったい、庶民の中で、そこまで出世できる人間が、どれだけいる?」
これまた反論の余地がない。
つまり、俺の将来は、こうだ。
高収入な仕事があり、自慢できるほどの地位を与えられ、美人の奥さんと結婚できる。まさに成功者だ。リア充だ。
イフロースの言い分は正しい。何が不満なのか?
「不満はありません。充分すぎる将来だと思います」
「ならば、お前は何がしたいのだ」
「旅に」
「旅、だと?」
どこまで話していいのだろうか。
俺が逡巡していると、イフロースが言った。
「行けばいいではないか」
「え?」
「騎士の腕輪を……そうだな、十五歳前には授かるだろう。その後、お前をどうするか……順当に考えれば帝都の学園に通わせるところだが、あそこで学べるものがあるかどうか……まぁ、それはどちらであったとしても、その後、二年か三年くらい、あちこちで見聞を広めるのもいいのではないか? いや、将来のことを考えれば、それくらいの経験はしておくべきだ。なんなら、フリュミーと船をつけてやろう。たっぷり学んでくるがいい」
これまた申し分ない提案だ。フリュミーさんにいろいろ教わりながらの船旅……一瞬、楽しそうだと思ってしまった。
だが、駄目なのだ。
「そうではないんです」
「なに?」
これは、言うしかない、か。
「僕には、探し物があるのです。旅に出るのは、そのためです」
「ほう。では、何を探している? それは余程のものなのだろうな?」
「はい……」
目を閉じ、すっと息を吸い込んでから、俺は言った。
「不死を見つけようと思います」
「なんだと!?」
ついに、言ってしまった。
イフロースも、目が点になっている。俺の欲するものの大きさに、わけがわからないようだ。
「馬鹿な。不老不死を得たいというのか」
「そうです」
「そんなもの、あるわけがなかろう。歴史上、不死を得たといわれる人物は確かにいた。聖女リントしかり、英雄ギシアン・チーレムしかり。だが、彼らが本当に生きているはずがない」
また座り直し、彼は身を乗り出して、語りだす。
「もし本当に聖女リントがまだ生きているのなら、なぜ人々の前に姿を現さない? ギシアン・チーレムもそうだ。七百年前からの諸国戦争はなぜ起きた? 彼が出てくれば、なにしろ魔王すら倒した人物だ、世界を纏め上げるなど、たやすいことではなかったか。どうだ?」
確かに。
セリパス教の伝道、世界の統一……これらの目標に生涯を捧げた彼らが、もし、いまだに生きているのなら。彼らの事業が無になるのを、黙ってみているはずがない。
だから、彼らはもう、死んでいるのかもしれない。
それでも。
「そうかもしれません。でも、それでも僕は、不死を手にしなければいけないのです」
「なぜだ」
やっぱりそうなるか。どうしよう?
「死ぬのは誰だって嫌でしょう?」
「そうだな。だが、それは理由ではなかろう?」
「……やっぱり、わかります?」
「当たり前だ。不死を手にするより、不死を探す冒険のせいで早死にする可能性の方がずっと高いわ。話にもならん」
しょうがない。これも言ってしまおう。
「では……仮に、ですよ? もし、死んでもまた、生まれ変わるとしたら……どうします?」
「生まれ変わる? ふむ……」
「但し、普通は記憶をすべて失います。また人間になれる保証もありません。もしかしたら、虫けらになって、生まれてすぐにネズミに食い殺されるかもしれません。いや、生まれ変わった先の人生のほとんどが、そういうものだとしたら? それでも、おとなしく死ぬ気になれますか?」
イフロースは、手を顎に当てて、しばらく考えた。
ややあって、返事があった。
「それは嫌だな」
「でしょう?」
「だが、気にしても仕方がないのではないか? 選べるわけでもなさそうだし、それに記憶をすべて失うのだろう?」
「そうですが、生まれた先は、地獄のようなものなんですよ? いつも怯えて、いつも飢えて、いつも苦しむ。それをずっとずっと繰り返すのですよ? それでも?」
彼は、じっと俺を見た。
「……では、お前は……」
当たり前すぎるが、これで彼はわかってしまった。俺が前世の記憶を引き継いでいると。
普通なら、あまりに荒唐無稽で、妄想としか思えない話だ。だが、彼は俺の異常な能力を目の当たりにしている。
「僕は、こちらの世界でも、地獄のようなところで育ちました」
問題ない。
彼は俺の秘密を漏らしたりはしない。メリットがないからだ。それに俺の能力がどんなものであれ、それが彼を葬り去るくらいできる代物だと、ちゃんと理解できているだろうし。
「紛争地帯で育ったあなたほどではないにしても、です。ただでさえリンガ村は貧しかったのに、あの伯爵は飢饉になっても税を取り立てようとしました。それで村の出入口に兵士が置かれて、誰も逃げ出せなくなりました」
思い出す。
あの地獄の一夜を。
「僕には、食べるものがありませんでした。親も何もしてくれません。どうしたと思います? ゴキブリを捕まえて食べたんですよ?」
「……そこまでだったか」
「いいえ、その程度ではありませんでした」
あの時は、それが地獄だと思っていた。だが、本当の苦しみは、その先にあったのだ。
「飢えに耐えかねて……大人達が何をしたか。互いの子供を交換して、殺して食べたんです」
さすがのイフロースも、これには絶句している。
これが地獄でなければ、何が地獄なのか。
「お前は、それで、どうやって生き延びたのだ?」
「知りたいですか?」
内心から吹き上がってくる何かの感情のままに、俺は吐き出した。
「殺したんですよ。僕を受け取った男と……それから、僕の両親を。そうやって、村から逃げ出しました」
イフロースは、目を見開いたまま、沈黙した。
どうやって、とは尋ねなかった。それは愚問だ。俺にそれが可能なこと、その方法が秘密であることなら、もうわかりきっている。
「そうか……」
「僕はもう、人生を繰り返したくないんです。これで終わりにしたい。もう一度『生まれない』ために。それが僕の望みです」
彼は腕を組み、目を閉じて、溜息をついた。
かけるべき言葉を選んでいるのだろう。
「なるほどな」
頭の中を整理するためか、しばらく沈黙していた彼が、ゆっくりと口を開く。
「私も、恐ろしい戦場なら何度も目にしてきた。殺されそうになったのも一度や二度ではない。飢えや渇きに苦しんだのも。だが確かに、お前が味わったそれは、私の経験したどんな困難にも、勝るとも劣るまい……」
そこで彼は目を開いた。鋭い眼光だ。
「だが、お前は忘れられるのか?」
「何をですか」
「お前が味わった恐怖を。痛みを。なにより、悲しみを」
悲しみ、という一言を、彼は強調した。
「無限に生きるということは、永遠に覚えているということだ。逆も然りだがな。お前が不死を得たとして、やがて時が経てば、私のことなど忘れ去るかもしれん。だが、誓っていえるが、お前は決して忘れられんぞ。その苦しみだけはな」
俺が、何より不安に思っていることを、彼は的確に見抜いた。
不老を手にすれば。あとはピアシング・ハンドの能力さえあれば、どこまでも強くなれる。そうなれば、誰も俺を脅かすことなどできなくなるだろう。また、その理由もない。俺は富にも権力にもそこまで執着していないから、衝突する原因がない。つまり、不老不死になりさえすれば、俺はずっと平和に暮らしていける。
しかし、それでも俺は繰り返し思い出すだろう。苦しみぬいたあの日々を。そして……
「それだけではない。幸せな記憶も、お前を苦しめるぞ? 今のお前には、知り合いが大勢いるようだ。同居しているアイビィともうまくやっているようだし、街中の冒険者達にも信頼されている。あの酒場では、みんながお前の料理を楽しみにしていたな。それがもし……仮にここに女神が現れて、今から百年、『天幻仙境』にこもって修業すれば不老不死になれますと言ったとして……どうなると思う?」
「それは」
「お前は女神についていく。そして、見事不老不死を得るだろう。だが、ピュリスに戻ってきても、誰もいない。また頑張って知り合いを増やせばいい? 構わんさ、お前ならできるだろう。だが、その知り合いはみんな、寿命のある人間だ。お前より後に生まれて、お前より先に死んでいく。本当に耐えられるのか?」
言葉もない。
俺が何を求め、そのために何を犠牲にしようとしているのか。彼はすぐに理解した。
「ならば、お前を愛してくれる者も不死身にすればいい? 仮にできればの話だが、そうしたとして、その者がお前を永遠に愛し続けるという保証はどこにある? むしろ、一度仲違いしたら、いつまでも憎みあい続けるぞ。そうなったら、そいつを殺すのか? イタチごっこだな。ムーアンの底なし沼のようなものではないか」
背筋を伸ばすと、イフロースは言い切った。
「お前がそういう理由で旅に出たいというのなら、私は賛成できかねるな」
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