人と人の間で

「スープ、あがりました」

「よぉし、今年も間に合いそうだな」


 縞瑪瑙の月、三十五日の夕方。一年で最も昼の短い、暗い時期だ。既に窓の外は、橙色に染まりつつある。

 そんな日にも、俺はやっぱり働いている。いつもの酒場で、今年最後の客を迎えるために、料理の下拵えだ。今回は、時間と場所と材料費の許す限り、あらゆる料理を作った。今夜はここに顔見知りが大勢やってくる。そのみんなに、俺の心づくしを食べてもらうのだ。

 この前の「お返し」というつもりはない。もちろん、一応、形ばかりの挨拶はしてきたが、それで終わったとは思っていない。いや、終わりにしてもいいのだ。但し、それはそれとして、俺も、俺のしたいようにする。


 扉に吊り下げられた鈴が、軽やかな音をたてた。


「おっしゃぁ! 一番乗りだ!」

「おっちゃん、エール四つな。あと、ミルク三つ。席、確保すっからな」


 やはりというか、最初にやってきたのは、ガッシュ達だった。遠慮なくドカドカと踏み込んできて、勝手にテーブルと椅子を引き摺り、真ん中に自分達の島を作る。


「いらっしゃいませ」

「おー、フェイ! 元気か?」

「はい、おかげさまで」


 それだけで、俺はすぐ奥に引っ込み、ジョッキをいくつも抱えて、テーブルに運ぶ。


「お待たせです!」

「おーっし、早ぇけど乾杯すっか!」


 この宴の参加者は、主として冒険者ギルドの人間だ。ガッシュにドロルにハリ、それにウィーとユミ。ここまではいいとして、そこにマオ・フーも顔を出している。更に、早速彼に弟子入りさせてもらったジョイスまで。

 たどたどしく、ユミがフォレス語で話す。


「では、マオ様、挨拶」

「ん? いや、わしがやると、堅苦しくなってしまうでな……こういうのはガッシュでいいんじゃ」

「よーし、じゃ……うー、あー、みんな……」


 そこで割り込むように、ウィーがミルクの入ったコップを、掲げられたジョッキの中に叩きつけた。


「今年もお疲れ! はい、乾杯!」

「あー!」


 ガッシュに最後まで言わせず、面倒な挨拶を終わらせてしまった。

 ウィーも、本当に明るくなった。一年半ほど前に出会った時には、どうにも堅苦しくて、人を寄せ付けないところがあったのに。


 すぐにまた、出入口が開く。


「おっ……と、一番乗りかと思ったのですが」


 いつもの法衣を脱いだリンと、連れられてきたサディスとが、早めに店へと駆けつけた。今日は年末のお祭りの、いわば本番だから、急がないと座る場所すら確保できないのだ。


「兄ちゃん」


 とてとてとサディスが駆け寄る。傍に座る場所が必要と察して、マオが立ち上がる。すると、年長者に働かせるわけには、とユミが急いで動いて、椅子とテーブルを引き寄せる。


「チョコスもいるー」

「いらっしゃい。何食べる?」

「んー」


 もともと席が八つのところに七人で座っていた。そこへもう一つ、二人用のテーブルを引っ張ってきたのだ。サディスだけを座らせるなら、こんな手間は必要ない。

 今、席はあと二人分、浮いている。つまり、マオは暗に、リンにもそこに座るよう、勧めている。しかし、彼女としては、そこには座りたくないのだ。問題は座席の配置。マオ・フーの右にはユミとウィー、左がジョイスで、その真横にサディスが座ってしまった。向かい側はハリ、ドロル、ガッシュの順番だ。

 聖女派のセリパス教徒であるリンにとって、がさつな男性の隣に座って酒を飲むなど、思いもよらない。とはいえ、大好きな幼女の傍にはいたい。しかし、サディスの向かいに座るとなると、一人分、椅子が空く。詰めろよ、と言われたら……

 だが、その迷う時間こそ、まず排除すべきものだった。


「へい、らっしゃい!」

「お世話様ですー」


 もはやここでも余所行きの顔など忘れたアイビィが、ノタノタとやってくる。表情を見ればわかる。あれはもう、アホモードのスイッチが入っている。


「サディスちゃん、もう来てたんだねぇ」

「あー、アイビィおばちゃん」

「お、ね、え、さ、ん。さ、もう一度っ」

「おばちゃん」


 アイビィは、サディスの向かい側のテーブルに突っ伏して、落ち込んだ。そんな彼女を見て、サディスは満面の笑みを浮かべる。


「ううっ、ひどい、ひどいわっ」

「おい、フェイ」


 案の定、アイビィと自分の間に浮いた椅子を見て、ガッシュは声をかけてきた。


「ここ、座れよ」

「僕、仕事中ですよ?」


 すると彼は、カウンターの向こうに大声を飛ばした。


「おい、オヤジ!」

「うるせぇな、聞こえてるよ」


 奥から、追加のコップをトレイに載せて、店長が出てきた。


「おらよ」


 そのまま彼は、アイビィと、その隣の空席に、ミルク入りのコップを置いた。


「あの、店長?」

「今日はお前はしまいでいいや。たまには遊べや」

「えっ……? あ、ありがとうございます」

「ふん」


 片手で椅子を引くと、早く座れ、とジェスチャーで示す。俺はおとなしく従った。


「あっ……あっ……」


 一人、別の島に取り残されたリンが、口をパクパクさせている。うん、ほっとこう。これ以上、座席を横につなげるのは、スペース的にも無理っぽいし。

 そこへまた、入り口のドアが開く音がした。


「おいーっす」


 ゾロゾロと踏み込んできたのは、ガリナ達だった。


「よぉ、フェイ。もう始めちまってるみてぇだな」

「さっき、急にお休みをいただきました」

「今夜はあたしらも飲むぜ!」


 そして、どこに腰を落ち着けようと周囲を見回して……リンと目が合う。


「おうおう、こいつぁよかった。なぁ?」

「な、な、なにがです」


 リンの周囲の椅子とテーブルを占拠しながら、ガリナ達はリンをがっしりと掴む。


「一度、一緒に飲みてぇなぁって思ってたんだよ」

「わ、私はそうでもありませんよ? だからその手を」

「あれー? いいんですかー? でも、確かお姉さんって、セリパス教の司祭様ですよね?」

「それがどうしたというんですか」

「この店、もうすぐ、男の客がたくさん来る。そうなったら」


 そうなったら、なにせ物理的に異性に触れるだけでアウトなリンだ。周囲を女性で固めてなければ、不可抗力とはいえ、教義に背くことになる。


「ぐぐっ」

「なぁ、ほんっと、アンタとはいろいろ話したくってよぉ……」


 肩を抱きすくめられ、囲まれている。逃げ場はないと観念したのか、リンはされるがままだ。ガリナもエディマも、悪い顔をしている。

 そこへまた、扉が開いた。


「へい、らっしゃい!」

「えーっと……十五名、かな。多少バラけてもいいから、座れないかな?」

「へい、少々お待ちを」


 フリュミーと、その部下の水夫達だ。


「フリュミーさん、いらしてくださったんですね」


 思わず席を立つ。


「やぁ。話は聞いたよ。大変だったんだってね」

「はい。あちこちにご迷惑を」

「ははっ、そういうこともあるさ」


 軽く俺の肩を小突く。


「こっちに帰ってきたのが、一昨日でね。君の事を聞いたのが、つい昨日なんだ。だったら、ここに来るかなと思ってさ」

「そうなんですか。わざわざありがとうございます。でも、皆さんは?」

「ああ」


 それぞれ席につく船員達を見回しながら、彼は答えた。


「前回、ほら、出航前に、ここで食べただろう? で、また来たいっていうのが何人かいてさ。だから、それもあって、ここにした」


 ありがたい。俺の味を気に入ってくれて、また来てくれたのか。


「でも、さすがに大変だったろうからね。今回はフェイ君の料理はないのかな」

「ありますよ! 下拵えはバッチリです!」

「そりゃ楽しみだ。僕も、途中までは、楽しませてもらうよ」

「途中?」


 俺が怪訝な顔をすると、彼はウィンクしてみせた。


「先回りして、お迎えに来てるんだよ」


 時間と共に席は埋まり、席が埋まっても人の流れは止まらず、立ち食いする人が目立ち始め……そのうち、真っ暗になった窓の向こうにも、人垣ができた。いよいよ祭りも最高潮、今夜はここからが本番だ。


 そんな中、既に開けっ放しにされている店内に、奇妙な三人組がフラリとやってきた。燕尾服を着込んだ老紳士に、上等な服を着込んだかわいらしい少女が二人。どう見ても、こんな酒場には似合わない。

 っていうか。イフロースとリリアーナ、それにナギアだった。何しにきたんだ?


「へい、らっしゃい……?」


 違和感に、尻すぼみになりながらも、店長は声をかける。

 イフロースは口を開きかけて、やめた。自分の普段の声と表情では、悪目立ちしてしまう。腰の低い店長に対して、ともすれば高圧的にも見える執事。この雰囲気で話をすべきではない、と思ったのだろう。

 そこからの彼は、失笑モノだった。無理に笑顔を作り、腰を曲げて、恭しく、というよりむしろ卑屈な感じで、店長に尋ねたのだ。


「あの、その、席は……ありますかな?」

「えーっとぉ、済みませんが、埋まってしまってるんですよ」


 そんなの、見ればわかる。

 立場を考えれば、俺やフリュミーが席を差し出すべきだが……と思い至って、彼のほうを見ると、なるほど、悪戯っ子のような、キラキラした目を向けてきた。


「お父さん!」


 ナギアがフリュミーに駆け寄る。ぼふっ、と懐に抱え込むと、彼は娘を膝の上に乗せた。

 店長がイフロースに尋ねる。


「ご親戚か何かで?」

「え、ええ、ああ、そうです……田舎から参りましてな、右も左もわからないもので」


 下手糞な作り笑いと、ぎこちない受け答え。それに彼の表情から、想像がつく。ここに来たいと言い出したのは誰だろう? きっとお嬢様だ。

 なにしろ、俺は夢魔病で倒れてから、つまりはティンティナブリアに向かう前から、ずーっと彼女とは会っていない。やけに俺に懐いているリリアーナのこと、もうこれ以上、我慢できなかったのだろう。

 駄目だ、と言っても無駄だ。リリアーナは平気で屋敷を抜け出す。そうなったら、この年末に大騒ぎだ。しかし、こんな人込みの中、果たしてお嬢様を無事、確保できるだろうか? それよりは、いっそのこと最初から、彼女に最強の護衛をつけたほうがマシだ。


 ここでもう一つ、疑問が生じる。俺がここにいるからこそ、リリアーナは遊びに来ることにした。しかし、その情報を横流しした犯人は? ナギアだ。

 フリュミーは、部下の水夫達と年越しを祝わないわけにはいかない。なぜなら、彼は船長だから。もしかしたら、単に屋敷に留まるのが嫌だったのかもしれないが……召使同士の噂話でしかないが、最近、特にフリュミーと乳母のランの関係が、冷え込んできているのだとか。

 だが、ナギアは父が大好きだ。家庭が不安定になれば、なおのこと、少しでも彼の傍にいたいと思う。とはいえ、理由もなしに、半ば仕事の忘年会に顔を出せるわけもない。しかしそこに「お嬢様のお忍びのお供」という大義名分があれば。

 リリアーナはその提案を、無邪気を装って利用したに違いない。


 さて、イフロースはまだいい。立たせっ放しにしておいたところで、問題はない。彼はお嬢様の見張り兼護衛であり、のんびり座って飲食すべき立場にない。それでも執事と奴隷という身分の差を思えば、本来なら無視などできないところだが、俺は事前に相談も受けていないし、それにそもそも、ここで彼の正体を知られるわけにもいくまい。

 そう、サウアーブ・イフロースは、去年の夏に、ピュリス市を三日間も封鎖した迷惑ボケ老人として、いまだに人々の記憶に残っている。それに必然、お嬢様の身分もバレるわけで、それだけは絶対に避けたいと考えているはずだ。

 しかし、お嬢様はとなると……


 すっとアイビィが席を立った。そして、いかにも知人ですよとアピールするがごとくに、話しかけた。


「まぁ、フリュミーさんとこのおじいちゃん、遠いところからわざわざ」

「ああ、これはアイビィさん、どうも、ご無沙汰しております」


 さすがはアイビィだ。アホキャラに見えて、ちゃんと計算しつくしている。まず、身の置き所のないイフロースに対して、自ら知り合いですよと名乗り出ることで、とりあえずの立場を与えた。声の掛け方にしても、イフロースの身分をぼかしている。名前も言わず、どこから来たかも口にしていない。そして、この三人組に対する注目のほとんどは、いまやナギアとイフロースに集中している。まぁ、そのうち半分は、顔を見知っている水夫達の驚きと戸惑いでできているのだが。

 更に、ごく自然に、リリアーナに席を譲った。彼女は、スススと目立たないように、椅子の横に回りこみ、チョコンとその上に座った。


「ああっ、かわいい幼女! 幼女が増えた……っ! なのにっ……!」


 酔っ払い始めたガリナ達に絡みつかれながら、リンは必死で手を伸ばす。そんな彼女を、リリアーナはキョトンとしつつ、見つめていた。だが、すぐに我に返ると、俺の肩をペチペチと叩いてきた。


「フェーイー」

「お嬢様、これは」

「遊びにきたよー!」


 背中から、それとなくイフロースの視線が突き刺さる。言葉にしなくてもわかる。命に代えてもお守りしろ。


「うおおお!」


 目の前のサルが、興奮して声をあげる。


「すっげかわい……いっ!?」


 あ、まずい。


「ジョイス!」

「うおっ?」

「黙れ」


 咄嗟に命令した。もはや条件反射なのか、その一言だけで、ピタッと硬直する。

 隣に座るガッシュが、びっくりしたような顔をして、俺に声をかけてきた。


「おいおい、フェイ、ちょっとそりゃあひでぇんじゃねぇか? ジョイスはただ、かわいいって言っただけだろ?」


 確かに。慌て過ぎた。

 ジョイスの能力は、今も秘密だ。知っているのは俺と、マオ・フーだけ。ジョイスの暴走を未然に防止するためでもあり、また同時に、彼を守るためでもある。

 今のところ、彼は自分の秘密を知る二人の人間を、心から恐れている。だから、ちゃんと意識して命令すれば、問題は起きない。ただ、なにぶん、彼は野生のサル同然なので、すぐに命令を忘れる。だから、その都度思い出させてやらねばならないのだ。

 今、ジョイスはリリアーナのことを、かわいい、と言った。それだけなら問題ないし、好きなだけ鼻の下を伸ばせばいい。だが、最後に驚きおののいていたのは。心が見えてしまって、リリアーナが総督の娘だとわかったからだろう。それは口外させてはならない。


「んなもん、俺だってかわいいと思うよ。ったく、もう一人の……なんつったっけ、あの船乗りのオッサン」

「フリュミーさんですよ。ディン・フリュミー」

「そうそう、フリュミー……って、あの人の娘さん? もそうだし、この子も親戚なんだろうけど、なんつうか、いわゆる美男美女の血筋ってやつか? 羨ましいもんだよ」


 顔をやや赤くしつつ、ガッシュはまた一口、エールをあおった。

 事情を察しているであろうマオが、声をかけてきた。


「お嬢ちゃん、名前はなんというのかな」

「リリーっていいます。いつも叔父がお世話になってます!」


 フリュミーは叔父さん役か。で、イフロースがお爺ちゃん、と。


「ほっほう、よくできた子じゃな。ジョイス、お前もちゃんと挨拶できるようにならんとな」

「おっ、おう……」


 屈託のない笑顔でヌケヌケとウソをつくリリアーナに、ジョイスは若干、引きながら、生返事をした。まぁ、気持ちはわかる。お嬢様は、決して悪人ではないけど、とにかく裏表があって、狡賢いから……


「はい、ミルク。で、いいのかな?」


 後ろからウィーが、コップを持ってきた。目の前にはアイビィが使っていたコップや食器があるが、それはさりげなく回収する。


「わぁ、ありがとうございます」

「リリーは、どこから来たの?」

「えっと、ムスタムです」

「へぇ……こっちにはよく来るのかな?」

「うんと、たまぁにお爺ちゃんに連れてきてもらったりしてます」


 フリュミーの姪、という設定ならば、必然、ムスタム出身ということになる。フリュミーの父がムスタムの顔役の一人で、その兄弟の娘ということなのだから。となると、イフロースは、その兄弟の誰かの妻の父、という立場を演じることになる。ややこしいな。


「そっかー……どう? ピュリスは楽しい?」

「とってもきれいな街だと思います」

「うん、そうだね。ボクもそう思うよ」


 笑顔でリリアーナと言葉を交わすウィー。だが、俺の向かいでは、ジョイスがまた顔を歪ませている。


「ジョイス!」

「は……ひっ?」


 ビクッと震えて、目を泳がせる。

 だが、この時、はじめてジョイスは俺に逆らった。


「でも、でもよ、あの、だって今」

「今、何が見えても、何も言うな。全部忘れろ。いいな」


 まったく。

 心の中が「見えてしまう」のは仕方がない。だけど、それを言いふらすとなると。


「うっへぇ、フェイはジョイスにはキツいなぁ」


 エールのお代わりをガバガバ飲みながら、ガッシュは笑った。


「今日は祭りだぜ? なんか知んねぇけど、そんなにピリピリすんなよ」

「あ……済みません」

「あー、いい、いい。ま、絵になるよなー」

「え?」


 ガッシュは後ろを見やって、ウィーとリリアーナを眺めた。


「かたやイケメン、かたや美少女。んで、俺はゴツいだけの普通の男。世の中不公平だぜ」

「そ、そんなこと」


 そうか。

 たぶん、ジョイスはウィーの性別が食い違っているのに、驚いたのだろう。俺の中では、その辺の使い分けが自然になってしまっているから、いちいち意識することはなかったのだが。


「フェイ。お前もイケメンっぽいよなぁ」

「は……いや、それは」


 ふと、後方で歓声があがった。


「それ、一気、一気、一気、一気……!」


 ガリナ達だ。ジョッキの中身を干しているのは、リーアだ。


「……全部、飲んだ……」


 浅黒い肌を微かに赤く染め、ふらつきながらも、彼女は向き直った。


「次、お前」

「ちょ、ちょっと! そんなの無効です! 私は」


 何やら騒ぎになっているらしい。それでガッシュの絡み酒も止まり、みんなの視線が女達に注がれた。

 フィルシャとシータに両脇を固められ、逃げも隠れもできなくなったリンが、必死で抗弁している。


「胸しかない女には、頭ない、お前そう言った」

「あ、あなたがたの頭の中がカラッポなのは、本当でしょうが」

「言葉遣い直せともお前が言った」

「い、言いましたとも! 『人の大罪は、その日々の小さな行いを好餌とす。大罪の前に小さな過ち、小さな過ちの前には、必ず穢れた言葉が先立つものである』……聖典の言葉に誤りはありません!」


 はい、アウト。

 矛盾してるだろ。胸があるってだけでバカ扱いしてるんだから。その穢れた言葉の次には、きっと小さな過ちが待っている。


 横から、フィルシャが突っ込みを入れる。


「こういう言葉もあったっけ? 『約を違えるなかれ。人との約束を』……なんだったっけ?」

「ほら見なさい! こうです! 『約を違えるなかれ。人との約束をないがしろにする者には、正義の女神もまた、忘却をもって応じるだろう』……さっき教えたばかりなのに、この程度のことも思い出せないから、頭がカラッポなのだと」

「約束、したよな?」


 今度はシータだ。


「今度暴言吐いたら、言ったやつが酒、一気飲みするって」

「だからそれはっ! そこの色黒が私のことを貧乳だと」

「ちゃんと飲んだ」


 リーアはビッと親指を突き立てて、私は約束を守ったとアピールする。

 ガリナがニヤニヤしながら、エディマに運ばせたジョッキの群れを引き寄せた。


「で、司祭様よぉ、今、いくつ暴言吐いた? じゃ、飲んでもらおうか」

「ちょ、ちょっと待っがぼっ」


 ……随分と打ち解けているようだ。うん、交流は大切だ。分かり合えるまで頑張ってくれ。


「ねぇ、フェイー」

「あっ、リリ……リリー? なっ、なにかな」

「大丈夫だった?」


 こんな年末の祭りの夜に、わがままを言ってここまで出てきたのは。

 遊びたかったからではなく、俺を気遣ってか。こんな子供まで……本当に、かなわないな。


「みんなのおかげで」

「そっか」


 珍しく無茶な要求も、脅迫もせず。リリアーナは、おとなしく俺の隣に座っている。

 その視線の向こうには、楽しげに飲んで騒ぐ人々。彼女にとっては、初めて目にする等身大の庶民の姿なのかもしれない。


「ホイサー、ホイサー、ホイサッサ!」


 いきなり、背中から大合唱が聞こえてきた。フリュミー達のいる島のほうだ。

 酒に赤らむ上半身をはだけて、男達が立ち上がって肩を組む。その格好のまま、野太い声で、調子外れの歌を喚きたてる。これまた祭りの夜らしい、なんとも楽しげな光景だ。自然と手拍子が始まり、楽器を手にした人が、頼まれもしないのに伴奏を引き受ける。


「おっいらっのふっるさっとトヴィーティア~、山道越えた、そっの向っこう~♪」


 水夫達の合唱なのに、歌詞が山の中の、あのド田舎の盆地の話とは、これいかに。


「かっわいいあっの子っはキッノコ狩り~、そんなにほっしけりゃオラやるぜ~♪」


 う……まぁ、お祭りだし、多少の下ネタは、許されるべきか。

 なんのことだかわかっているのか、隣のお嬢様はケタケタと笑って手を叩いている。


 そんなことより、差し迫った問題がある。肩を組んで歌う屈強な男達の合間に、なぜかイフロースまで挟まれていることだ。ハイテンションな男達の中で、もみくちゃにされ、立たされているイフロースは、いかにも不本意そうに項垂れている。そんな彼を、フリュミーは脇の椅子に腰掛けて、苦笑いしながら見ている。


「そんじゃかっわいいお嬢さん、一緒にしようぜ水浴びを♪」


 あっ。

 スクラムに加わっていなかった船員の一人が、小さな樽に入ったエールを、居並ぶ男達にぶっかけた。ど真ん中に立っていた男はびしょ濡れになるが、お構いなしだ。むしろ楽しそうに大笑いしている。


「いいぞー!」

「もっとやれー!」


 店内のあちこちから、無責任な野次が飛ぶ。


「アハ、アハハハ」


 そこへ、フラリと細身の女が立つ。リンだ。顔が真っ赤で、目がトロンとしている。飲ませすぎたらしい。

 彼女はヨロヨロとよろめきながら、別の樽を手にすると、中身を勢いよく、目の前にぶちまけた。


 その真正面に、イフロースが立っていた。

 盛大な水飛沫があがり、彼の髪の毛も、眼鏡も、燕尾服も、すべてずぶ濡れになる。


「ブワーッハッハッハ!」


 そんなイフロースを指差して、リンは大笑いしている。

 酒場全体、既に酒が進んでいるのもあり、これを問題と捉える人はいなかった。むしろ、口笛や拍手喝采が飛んでくるほどだ。


「次、わたし~」


 フラフラッとよろめき出てきたアイビィだが、珍しく顔が真っ赤だ。酔っ払った姿は初めて見るが、どうやら、しこたま飲んだらしい。

 ズズッ、と音を立てて、大きな樽を引き寄せると、カパッと蓋を開け、まずジョッキで掬い出して一杯飲み干し……振り返って、酒場のみんなに手拍子を要求した。


「ハイ! ハイ! ハイ! ハイ!」


 リンが頭上で手を叩いて、みんなを促す。

 その手拍子のリズムに合わせて、アイビィは中身の酒を汲み出しては、イフロースの顔にぶっかけた。避けようにも、左右をガッチリ固められては、さすがの彼にもどうしようもない。

 悪ふざけも度を越すと、さすがに我慢の限界に達する。いいかげんにしろと、イフロースの目が昏く光り出す。

 あああ……小さな過ちどころか、これ、どうするんだ。あとでしらふに戻ったら……!


「キャハハハ!」


 そこへ、リリアーナの笑い声が響く。


「ぬごっ!?」


 気付いたイフロースは、怒りを飲み込む。

 つくづく忠義の人というのは大変だ。お嬢様が祭りを楽しんでいる。となったら、場の空気を壊すわけにはいかない。例の、卑屈すぎるシュールな笑みを浮かべて、彼は我慢を続けた。

 ま、大丈夫だろう。イフロースは、公平な人物だ。酒の席での無礼を理由に、誰かを罰したりはしないはずだ。


 ドーン……と、遠くから大きな音が聞こえた。

 一瞬、店内の全員の動きが止まる。

 これは。


「うおお! 花火! 花火だ!」

「見ようぜ! おら、どいてくれ!」


 酒を浴びせる遊びに飽きたのか、アイビィもジョッキを投げ出した。やっと解放されたイフロースは、疲れ果てた顔で、石の床に突っ伏す。


「ねぇ、フェイ、見に行こうよ!」


 隣でリリアーナが袖を引っ張る。どうしよう、と少し迷ったが、頼みの綱のイフロースはあのざまだ。仕方がない。俺がしっかり気をつけていれば、滅多なことは起こらないだろう。まして、周囲にはガッシュ達だっているのだ。


「行きましょうか、フェイ様。それに……リリーちゃん?」


 酔っ払っていたはずのアイビィが、いつの間にか正気に戻って、酒にまみれた手もとっくに拭って、こちらに手を差し出してくる。

 俺は、その手を取った。


 店の外に出ると、真冬の、あの張り詰めたような……冷たく引き締まった空気が、火照った頬に吸い付いた。そのせいか、左右に繋いだアイビィとリリアーナの手だけが、不思議と温かく感じる。

 また、轟音。光と熱とが、頭上で明滅する。


「ヒャッホー!」


 誰かが奇声をあげている。花火があがるたび、持ち出したジョッキで乾杯を繰り返すのが、遠くに見える。

 通りには、いろんな人が行き交っていた。この時期をピュリスで過ごそうと思う人は多いらしい。今、こちらをチラッと見た二人組、片割れはなんと、ハンファン人だ。細い黒髭に、いかにも東洋人といった肌の色、そして着ている服もゆったりとした袖が特徴的な、こちらではあまり見ないものだ。いわゆるサーカスの類でなければ、滅多にここまで来ないのが普通なのに、珍しい。もう一人はフォレス人かルイン人か、判別が難しい。大柄な美青年だが、こちらで雇った護衛か何かだろうか。

 俺が通行人に気を取られているうちに、またドーンと街中の建物を震動させる音が響く。


「わぁー!」


 隣でリリアーナが笑顔を浮かべている。

 それで気付いたが、背後にはガッシュやウィーが、それにイフロースがいる。ガッシュ達は普通に花火を楽しんでいるだけのようだが、イフロースはやはりいつも通りだ。お祭りなんかに気を取られることなく、徹底してお嬢様を見守っている。もっとも、それが楽しくないわけではないらしい。喜ぶ彼女の姿を前に、心なしか微笑んでいるように見える。


 この花火は、女神神殿の敷地から打ち上げられている。今頃ザリナは、神殿で大忙しのはずだ。この点、セリパス教会は、お祝い事にはあまり関心がないらしく、この通り、リンはここで遊び呆けている。


「フェイ様?」


 不意に斜め上から声をかけられて、俺は振り向いた。


「花火……ご覧になられないのですか?」


 見たくないわけではないが、今夜は月夜だ。万一を思うと。


「え、いや、見てるよ、うん」


 適当にそんな返事をしてしまう。

 気配を感じて振り返る。そこには、空を見上げるのをやめて、不思議そうな顔でこちらを見つめるリリアーナがいた。


 彼女らは、俺の過去を知らない。あの、悲惨な夜のことを。

 だが……


 俺は、この気持ちに、どう折り合いをつけたらいいんだろう。


 今から五年前、俺は夜空を見るだけで、気が狂いそうだった。あの飢餓、殺戮、絶望。

 だが、俺が月を見上げるのをやめたのは、その恐怖だけが理由なのか?


 俺にとっての月の光。

 前世にとってのそれは、心のよりどころだった。

 誰にも言えない思いを、そっと夜空に輝く月に向かって念じた、あの頃……


 それだけに、この手を血で染めた自分を、どうしても許せなかった。なんのことはない。俺は、自分自身に怯えていたのだ。いつか罰が下るのではないか、またそうなって当然ではないか。なんといっても、自分で自分を裏切ってしまったのだから。心の中のどこかで、そんな気持ちが残っていた。

 しかも、そんな弱さ自体を忘れようと、心に蓋をした。それが、俺の恐怖の正体だったのだ。


 だけど。


 この街で出会った人々が、俺に気付かせてくれた。

 俺は、他人には、過ちに囚われるなという。許しもしてきた。だけど、肝心の自分を許せずにいた。

 でも、そもそもこの世界、そんなに完璧にはできていない。


 アイビィは、自分の家族をすべて失った。グルービーの部下となり、暗殺技術を磨いたのも、きっとその復讐のためだったのだろう。その力で、どれほどの血を流してきたことか。だが、そんな彼女も、やはり人間だった。

 きっと昔の彼女は、陽気な女性だったのだろう。それでも、俺と暮らし始めたばかりの頃は、すべてが演技だった。俺が心を許すように、隙を見せるようにと、とにかく下手に出るばかりだった。それが日々、この街で暮らすうち、徐々に変わっていった。

 彼女が目にしているのは、もしかしたら、幻かもしれない。俺はアイビィの息子でも甥っ子でもない。彼女がこの街にいられるのは、グルービーの命令が続いている間だけだし、俺だって子爵家の意向次第でどうにでもなってしまう身の上だ。それでも。

 それでも、いいじゃないか。そう思いたければ。俺がアイビィの息子で、何が悪い?


 ガリナ達もそうだ。

 娘を守るために夫を殺した彼女の、その時の気持ちは、どんなものだったろう? 無理やり結婚させられた相手が、愛する婚約者の仇と知って、復讐を遂げたリーアは? 自ら命を絶とうと思ったのも、一度ではないだろう。

 そんな地獄の底を這いずりまわりながら、彼女らは手放さなかった。暴力にさらされると知りながら、あえて暴徒達の前に立った。袋叩きにされていた彼女らを庇おうとして、俺が巻き添えになった時、どんな顔をしていたか……今でも思い出せる。


 ガッシュ達だって、もしかしたら、同じような気持ちになったことがあるのかもしれない。冒険者の仕事には、盗賊の討伐だってある。剣を交えた相手が、ただ邪悪なだけの人間ではないことが、彼らに気付けないはずがない。迷わずに生きてきただなんて、どうして俺にわかる?

 そんな彼らも、この街では互いに寄り添い、笑いあって生きている。


 本当はみんな、か細い樹木の群れでしかない。だけど、必死で地面に根を張ろうとしている。自分一人では雨に流されてしまう。だけど、その前に、後ろに、左右に、同じように根を張る誰かがいてくれる。


 勇気を出して。

 今、この時だけ。

 少しだけ、少しだけ……頼らせてもらおう。


 俺は、手に力を込めて、そっと空を見上げた。


 そこにはただ、銀色の満月が静かに佇むばかりだった。


 あっけなかった。

 拍子抜けするほど。

 夜空の星々に取り巻かれ、輝く月は、ただただ穏やかだった。


 突然の轟音と、目を焼く閃光に、俺は我に返った。


「ウホホホッ!」

「キャーッ!」


 もしかしたら。

 もしかしたら、の話だ。


 この世界が、実は俺の思っていた以上に優しかったとしたら。


 俺はこのまま普通に生きれば、いつかは大人になり、年老いて、やがて死ぬ。イフロースも、アイビィも、ガッシュも、リリアーナも。みんなそうだ。

 死んだらまた、どこかで生まれ変わる。そうしたら、また隣に誰かがいる。それは、この中の誰かの生まれ変わりかもしれない。もちろん、そうでもないかもしれない。だけどそれは、どこかで誰かと時間を共にした人間なのだ。

 出会い、笑いあい、時に涙を流して、いつかは別れる。でも、きっといつかどこかで、また出会える。出会って、また笑いあえるのだとしたら……


 俺は、不老不死を目指そうとしていた。

 だけど、それでいいのか。


 死ななくなったら、みんなが死んでいくのを見送るだけになる。一緒に生きて、一緒に死ねない。一人だけ、みんなの笑顔を遠くから見るだけなのか。


 俺が生まれる時に手にした『世界の欠片』は、確かに大きな力をもたらした。不老不死なんて、肉体の取り替えさえ承知すれば、とっくに叶ってしまっているのかもしれない。だけどそれでこれ以上、何が得られるというのだろう。

 富や地位、名誉や権力が欲しいなら、それは今すぐ手にできる。サフィスの肉体を奪って、次期国王の肉体に乗り換えればいい。政敵は、全部肉体を奪って捨てれば、証拠を残さず始末できる。もし年をとったり、王国が危機に瀕したら、また別の肉体に乗り換えてやり過ごす。簡単だ。

 だが、そんな人生を送りたいか? いちいち自問自答するまでもない。


 もしかしたら。もしかしたら。

 俺は、これからもここで生きられるかもしれないじゃないか。


「わぁ! きれいだね!」


 リリアーナが嬉しそうに飛び跳ねる。


「おい、えっと、どこのオッサンだっけ? ま、いいや」


 後ろでガッシュが、上着を脱いで、イフロースにかけてやる。


「年寄りが、風邪引くぞ? これでも着てろ」

「……! す、すまん、な」


 少し離れたところでは、フリュミーがナギアに声をかけている。


「見えるか? 肩車しようか」


 一瞬だけ、ナギアは顔を輝かせて、すぐに頬を赤らめて、不機嫌そうに口を尖らせる。


「もう! お父さんたら! 私、もうそんなに小さくないもん!」

「ははは、そうか」


 でも、そう言ってしまってから、後悔しているのが見え見えだ。なんだか微笑ましい。


「イヤッホーィ! 今夜は飲み明かすぜっ!」

「ちょ、わ、わはひはもうさすがに」

「いいから最後まで付き合えよ! な? な? おごってやっから」


 そのまた向こうでは、まだガリナ達がリンに絡み付いている。花火を見ながらもジョッキを手放さず、飲みながらだ。


 そんな喧騒を、月は静かに見下ろしている。

 あの輝きは、どこからきたのだろう。そう訊かれたら、今の自分なら、きっとこう答える。地上を埋め尽くす人々の想いが、月を照らしているのだと。


 人と人の間で。

 人と人の間で。

 俺は、今、生きている。


 やってきたことすべてが、無駄だったわけじゃない。俺だって、黒ずんだ石ころなんかじゃなかった。アイビィは、毎日楽しそうに暮らしている。あんなに孤独だったウィーも、今ではガッシュ達と打ち解けている。ガリナ達だって、今、ここでこうして生きている。ジョイスとサディスを再会させることだってできた。

 俺が頑張れば、もしかしたら、もっとたくさんの人が幸せになれるのかもしれない。頑張る、といっても、今までのような、苦しい努力じゃない。慈雨の後に草木が育つように、自然に体を伸ばすのだ。


「ねぇ、フェイ」


 手を繋いだままのリリアーナが、俺の顔を覗き込んで、尋ねる。


「今、どんな気持ち?」


 人の表情に敏感な彼女だ。徐々に晴れていく俺の心の、その変化を感じ取ったのかもしれない。

 俺はこの上ない清々しさを感じている。そこにたった今、そっと温かな手が添えられた。


 そして、また気付いた。

 ここじゃないか。

 俺の「故郷」は、ここにあった。


 俺は、作り物でない、心からの笑顔を浮かべて言った。


「幸せだよ。今までにないくらいに」

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