落涙

 下の階から、足音が聞こえてくる。ゆっくりだ。木の階段が微かに軋む。しかし、一人ではないようだ。

 ややあって、キィ、と部屋の扉が開いた。


 落ち着きなく辺りを見回してから、アイビィは俺を凝視する。ちょっと目を離した隙に死んでいたらどうしよう、と言わんばかりだ。

 その彼女の後ろに、大柄な男の姿が見えた。ハリだ。


「本当ですね……目が覚めたなんて」


 大声は出さなかったが、彼も驚いているようだ。

 出入口で立ち尽くしていると、ハリの邪魔になる。そう気付いて、またアイビィは慌しく横にどく。そこを、トレイを持ったハリが、そろそろと通り抜ける。

 運んでいたのは、水の入ったコップと、木の匙、それにやたらとおいしそうな香りのするスープの皿だった。


 ハリがベッドの脇の椅子に座り、さぁ、スープを飲ませようとすると、そこへ猛然とアイビィが駆け寄ってきて、木の匙を奪い取った。そして、そっと匙をスープに突っ込むと、俺の前に差し出してきた。


「……飲める?」


 頷いてみせると、ゆっくりと匙が口元に寄せられる。

 一口……芳醇。この一語に尽きる。このスープは、かなりの代物だ。腕のある人間が、贅沢に材料を使った結果だ。ということは。


「おいしい?」


 まだ声が出ないので、頷くだけだ。


「これはね、お屋敷のセーン料理長が、わざわざ作ってくれたのよ? 目が覚めたら食べさせなさいって」


 そういうことだったか。この一品については、納得だ。

 でも、腑に落ちない部分もある。俺を気に入ってくれているのは知っているけど、ここまでしてくれるとは思っていなかった。だって、材料がおかしい。最高級の食材を長時間かけて調理したような……金も手間もかかっている。これではまるで、子爵本人が来客と口にする料理ではないか。

 よくサフィスが、このまま目覚めないとも限らない俺なんかのために、そんな食材の使用許可を与え……いや、まさか。

 料理長の独断か!?


「あっ、無理しなくてもいいんだよ。食べられる分だけでいいから」


 味は申し分ないが、胃腸が思った以上に弱っている。これ以上は、あとで腹痛になりそうだ。それでも、多少なりとも温かい食べ物を口にできた。


「では、あとは私が後片付けをしておきます」


 ハリがまた、トレイを持って、下のキッチンまで降りていく。彼の足音が遠ざかるのを見計らってか、アイビィが口を開いた。


「ハリさんも、他のみんなも、順番に様子を見に来てくれていたのよ。ガッシュさんも、ウィムさんも」


 そうだったのか。


「私はそこまで薬に詳しくないから……神殿から、ザリナさんにも来ていただいたりね」


 ちょっと、大事件にしすぎたんじゃないのか。

 どうしよう。治ってからの挨拶回りが、今から気がかりだ。


 俺が内心で慌てふためく一方、アイビィはアイビィで、自分の気持ちの整理に手一杯だったらしい。泣き笑いのような表情を浮かべたまま、膝の上の手を固く握り締めている。

 随分やつれたな。


「五日も寝たきりだったから……もう、だめかと」


 五日も!?

 なるほど、俺もここまで衰弱するわけだ。


 また足音が戻ってくる。扉が開く。


「アイビィさん、とりあえず、そろそろ休んでください。続きは私が見ていますから」

「でも」

「ずっと寝てないでしょう? 何かあったら、すぐ呼びますから」


 すると、一瞬、彼女は俺のほうを振り返った。まさか、五日もの間、一度も休んでないってことは……そんな風に考えている俺の顔色を察してか、すぐに彼女は返事をした。


「じゃ、じゃあ……少しだけ、横になってきます。お願いしますね」

「任せてください」


 アイビィが扉を閉じると、ハリは、ふぅ、と息を吐き出した。


「フェイ君、君も休んだほうがいいです。まだ疲れが抜けていないでしょうからね」


 疲れ? 変な表現をするな? 俺はずっと、ここで寝込んでいたんじゃないのか?


「覚えていませんか? それもそうですか。ずっとのた打ち回っていたのですよ。最初、子爵様のお屋敷からここまで運ばれてきた時にはぐったりしていたそうなんですが、それから一日くらいして、急に発作的に暴れだしたり、喚き散らしたりするようになったらしくて……」


 ああ。あの悪夢か。

 凄まじい拷問だった。前世以来、痛みに慣れていた俺にして、心が折れるほどだった。


「それがほぼ、三日三晩、ぶっ通しです。暴れて怪我をするといけないので、ずっと誰かが近くで見ていなくてはいけなくて……でも、それもここ一日で、動かなくなりまして、まぁ」


 ハリが少し言いづらそうに、目を逸らした。

 それは……つまり、夢魔病が悪化したせいで、俺に暴れる元気もなくなったことを意味している。あとは死を待つばかりだったのだ。


「でも、目が覚めたのなら、回復も期待できそうです。とはいえ、油断禁物ですから、よく休んでください」


 そう言って、彼は毛布をかぶせてくる。

 おとなしく目を閉じる。すっと意識が遠のいていく。


 また目が覚めた。

 窓の外から差し込む光の色が変わっている。もう夕方らしい。


 そして、俺の脇に座る人物もまた、切り替わっていた。


「ほう、目が覚めたようじゃな」


 真っ白なカンフースーツを着た老人。マオ・フーだ。


「マ、オさ……ん」

「声もなんとか出せるようじゃな。うむ、脈を診た限りでも、順調に回復しておるよ」


 ピュリスの冒険者ギルドのマスターが、こんなところで油を売っていていいのだろうか。


「なかなか面白い子供を連れてきてくれたようじゃな?」


 ……面白い……ああ、ジョイスか。

 あれは人の心が読める。前もって教えておかないと。口を動かそうとする。喉がまだ、かすれる感じがする。


「ああ、まだいい。なんとなくはわかっておるからな」


 識別眼の能力で、ジョイスの能力をどこまで把握しているのだろうか。一方、マオの心は、ジョイスには見えているのだろうか。


「まずは体力回復に努めることじゃな。あれこれ考えたり、手を動かすのは、後でもできる。思えば、お前さんは子供のくせに、何かと働きすぎじゃったからな」


 自分で自分を子供扱いしていなかったのだから、当然だ。けれども、体がついていかなかった。


「さて、固形物はまだ厳しいようじゃが……薬なら、飲めるかのう?」

「は、い」

「それはよかった」


 テーブルの上にある壷を取り出すと、彼はそこに木匙を突っ込んだ。中から、ドロリとしたドス黒い粘液が見える。


「少し苦味があるが、特に喉や胃腸には効き目があるぞ。さ、口を開けなさい」


 言われるがままに口を開ける。そこへそそくさと匙が。あっ。


「ごっ、ごえっ」

「おっと、吐き出してはならんぞ。飲み下すのじゃ」

「ぐぇぅ、ぐぇぅ」

「そうそう、そのまま、喉を開いて一気に」

「ポッ、ポゲェッ、ングッ」


 こっ、この爺ィ。

 あまりの苦さに反射的に吐き出そうとしたが、そしたらいきなり、俺の鼻を摘みやがった。息継ぎと同時に匙を喉の奥に突っ込んで、無理やり飲ませやがった。


「ま、まず」

「水は少し我慢したほうがいいのう。薬が薄まってしまうわい」


 俺の反応を見越して、意地悪そうに片眉を揺り上げながら、マオは笑った。

 口の中がひどい。今朝は料理長のスープで天国だったのに、夕方にはこれか。


「まあ、この様子なら、心配はいるまいな。よく養生することじゃ、はっはっはっ」


 翌日の昼前、下の玄関が開け放たれるのが聞こえた。

 そのまま、重そうな足音が、上へと登ってくるのがわかる。

 バン、と扉が開け放たれる。


「フェイ! いやらしい罪人、フェイはいますか!」


 そんな呼び方をする女は、この世界に一人しかいない。

 紺色の法衣に身を包んだリンは、片手に大荷物を抱えていた。


「サディスの代わりに見舞いに来ましたよ。どうですか、気分は」

「あ……ありがとう、ございます」


 お。なんとか一応、普通に声が出る。

 昨日の薬のおかげか。


 それはそれとして……


「あの」

「サディスですか? 幼女をこんなところに連れてこられるはずがないでしょう? 当たり前ではないですか」


 そこは同意する。俺は病人なのだ。抵抗力のある大人ならいざ知らず、サディスみたいな子供に立ち入らせたら。夢魔病は恐ろしい。俺は助かったが、他の子供は無理かもしれない。逆に、ここに連れてきていたら、即座に追い返すところだ。


「不潔でいやらしいフェイの褥ですよ? いたいけな幼女の貞操を考えれば」

「あの……」


 死にかけの七歳児に、どうやって少女の貞操を狙えというのか。こいつの頭の中は、やっぱりわからない。


「その、荷物はなんですか?」

「ああ、これですか」


 ズシンと床を響かせながら、彼女はそれを下ろした。


「あなたは病人ですからね。ちゃんと食べて、体力をつけねばなりません」

「は、はい」

「ですから、私の故郷の村に伝わる、一番よい料理を食べさせてあげます」

「それは……ありがとうございます……?」


 料理、か。どれだけ食べられるかはわからないが、ありがたいことだ。

 しかし、それならここに食材や調理器具を持ってくる必要はないのではないか。二階にちゃんとキッチンがあるのだから。


 だが、俺の内心の疑問を無視するかのように、リンは手際よく荷物を取り出した。まず、小さな炉。黒い金属製のものだ。そして、その炉の左右に、鉄の棒を立てる。その棒の先端は二又になっていて、棒状のものを引っかけられる。そこへ、ずっしりとした骨付き肉が据えられる。


「あっ、えっ?」

「火をつけて……と」


 俺の戸惑いを余所に、リンはそのまま、炉に着火した。そして、骨付き肉をグルグルまわしながら、程よい色になるまで、加熱し続ける。前世でいうところのドネルケバブみたいなものか?


「ふふふ、驚きましたか、フェイ」

「あ、あの、これ」

「こう見えても、私は狩人の娘だったのですよ? セリパシア留学に行く前までは、フォンケーノ侯爵領の雪山で暮らしていたのです。この程度の獲物を捌いて食べるなど、まさに朝飯前」


 それでか。あんなに弓術の腕前があるのは。

 ウィーほどではないにせよ……いや、他にも数多くの技能に通じていることを考えれば、この女、才能だけは、決してウィーにも引けを取らない。


 しかし、だ。


「うっ……ゲホッ、ゲホッ!」


 何かが。何かが決定的に欠けている。そう言わざるを得ない。

 焼いている最中の生肉から、煙が出始めた。正確には、肉から漏れ出た余計な脂分が、炉の中の炭火の上に落ちて、蒸発しているのだ。脂っこい空気が室内に満ちてくる。


「もう少しですよ、いい感じです」

「あの、リンさん、ちょっと空気」

「はい、とってもよくできました」


 焼き上がりのタイミングを見て、彼女はすっと肉を引き上げた。


「さあ、フェイ」

「う?」

「両端を持つのです」


 持つのです、って。俺は今、ベッドの上にいるわけだが。

 そんなでっかい骨付き肉を両手で持ったら、指先が脂でベトベトになるのだが。


「持つのです」


 改めて彼女は促してくる。


「肉は焼き上がりが一番おいしいのですよ?」


 引いてくれる気配がないので、俺はしぶしぶ手を伸ばす。

 ああ、やっぱり。手がベタベタする。しかも、肉汁が今にも布団の上に落ちてきそうだ。


「そして、そのまま一気にかぶりつく! これが一番おいしい食べ方です」


 無茶苦茶言いやがって。


「あの、リンさん」

「病人は口答えするべきではありません。『身も心も乱れし時に、あえて人に逆らうべからず』……聖典にもありますよ?」


 あ、ダメだ。

 こいつがどういう女か、すっかり忘れていた。そうなんだよな。


「さあ、食べなさい」


 俺は諦めて、肉にかぶりついた。

 ……お?


 確かに。言うだけのことはある。

 ただ肉を焼いただけ。もちろん、塩や香辛料で味付けはしてあるが、調理そのものは単純極まりない。

 それなのに、この旨みはどうしたことか。


「その調子で、全部食べるのです」


 病人だぞ、俺は。

 無理して胃袋に詰め込むのも、どうかと思うのだが。


 しかし、不思議なほど腹に入る。これは昨日のマオ・フーの薬が効いたのか。


「ふむふむ、ほぼ完食しましたね」

「……おかげさまで」

「それだけ食べられれば、回復も遠いことではないでしょう! 生き長らえたことを喜びなさい、穢れた罪人よ!」


 それだけ言うと、リンは身を翻して去っていった。何の後始末もせずに。

 部屋の隅では、炉が煙を吐き出し続けているし……俺の手には、ベトベトする大きな骨。当然、その下の布団も、巻き添えを食って、油汚れでいっぱいだ。


 どうしよう、これ……

 俺の罪業の穢れより、まずこの部屋の汚れをなんとかしていってくれ。


 そんな困った状態も、一時間後には解決していた。


「……ったくよぉ、何やってるかと思えば」

「助かりました」


 次に見舞いに来てくれたのは、ガリナ達だった。エディマとリーアも一緒だ。


「あのアマァ、ちっと再教育が必要だな? どうしたらいいんだ?」


 ガリナの問いかけに、エディマが挙手しながら答えた。


「はいはーい! お店で働かせるのがいいと思います!」

「店って、ウチのかよ?」

「うん! いいよね、フェイ君!」

「いいとか悪いとかじゃない気がするんだけど」


 リンがあの売春宿で働く……そんなの無理……あ、でも、ちょっと面白いかも。けど、そもそも務まるのか?


「はい、手、洗う」


 リーアが洗面器に洗剤入りのお湯を入れて、運んできてくれた。これで手のベトベトが解消される。しかし、なぜそこに濡れたタオルまで添えられているんだ?


「掛け布団がひどいことになってんな」

「うん、どうしても肉汁が」

「ま、とりあえずシーツ替えて、干すしかねぇな。どの道、汗かきっぱなしで一週間くらい寝てたんだ。敷布団も毛布も交換しねぇと」


 言われてみれば、確かにその通りだ。


「あと、そのきったねぇパジャマと下着も、着替えだな」

「あっ、そっ、そうだね」

「ついでに、汗だくの体もきれいにする」

「う、うん」


 異様な気配を察して、俺は後退りをする。だが、所詮は病気の子供。数日振りに何とかベッドから立ち上がったような状態では、逃げるも何もない。

 ガリナとリーアが、一気に突進してきた時、俺は身動きもできずに、ベッドの上に押し倒された。


「よっしゃあ! 肩押さえてるから、さっさと下、脱がせ!」

「フェイ、動かない。脱がせない」

「ちょ、ちょっと!」

「上も脱がすか」

「何をするんですか!」

「何って、おめぇ」


 当たり前のことを、と言わんばかりにガリナが首を傾げる。


「お前の体をきれいにしてやろうって言ってんじゃねぇか」

「あ、ありがとうございます。でも、自分でやりますから」

「いいから病人は寝転がってろ。あたしらがやっちまうからよぉ」

「ちょ、やめて」


 だが、抵抗空しく、俺はやすやすと服を剥ぎ取られ、全身に触れられてしまった。こいつら、店でもこんなノリなんだろうか。もうお婿に行けない。


「よーっし。第一段階、終わり」

「第一って、続きがあるんですかっ」

「最低限の汚れを取ったら、次は入浴だな。下でディーが風呂沸かしてるから、浴びてきな」


 入浴するのなら、今のはいらなかったのでは……

 俺はそそくさと足元に落ちていたバスタオルで体を覆う。


「えっと、そういえば」


 気になっていたので、尋ねてみた。


「アイビィは?」

「ああ」


 ガリナが肩をすくめる。彼女の代わりに、リーアが答えた。


「相当疲れてる。今、下の居間で寝込んでる。ステラ達が見てる」


 なるほど。看護疲れでアイビィまで倒れたか。

 でなければ、彼女がこんな暴挙を許すわけがない。というか、アイビィ自身がやるだろう。「フェイ君は私のだから!」とかなんとか、アホなことを言いながら。


「そっか……迷惑かけちゃったね」

「かーっ、つまんねぇこと言ってんじゃねぇよ!」


 そう言うと、彼女はシッ、シッと手首をパタパタさせた。


「さっさと風呂入ってこい。その間に、こっちカタすからよぉ」

「ありがとうございます」

「あ、危ないよ!」


 エディマが駆け寄ってきて、俺が階段から転げ落ちないようにと、手を貸してくれた。

 この後、今度は風呂場で、エディマとディーに散々、体中をまさぐられる破目になったのだが……


 夕方、俺は妙に穏やかな気分で、まどろんでいた。

 充分に食べ、体中の汗を洗い流し、よく干された布団の中にいる。これだけでも、心地よい。

 体は確実に弱ってしまった。それでも少しずつ力を取り戻しつつある。それが実感としてわかる。


 下から足音。今度は誰だろう?

 ややあって、ノックだ。


「はい」


 扉を開けて入ってきたのは、イフロースだった。


「ふむ……思ったより元気そうだな」

「ご迷惑をおかけしました」

「そう思うなら、今後はこれまで以上に子爵家に尽くして欲しいものだな」


 見舞いにきたのだろうに、言うことはいつもと変わらない。思わず苦笑した。


「二言目にはそれですね」

「今回は、これでも苦労させられたのだぞ?」

「屋敷で倒れたせいですか」

「セーンの馬鹿めが、えらいことをしてくれたからな」


 あのスープ。そういえば。


「よりによって、閣下の会食用の高級肉を、お前に飲ませるスープのために、ほとんど使ってしまいよって。挙句に、その端材で作った間に合わせのスープを客に出したものだからな……揉み消すのに、どれだけ手間取ったことか」

「うわぁ……」


 危うくクビになるところだった。最悪の場合、物理的に。


「それは、大変でしたね……」

「まったくだ」


 そう言いながらも、イフロースの顔に、怒りや苛立ちは見て取れない。むしろ、笑ってさえいる。


「でも、いいんですか?」

「何がだ?」

「年末のこの時期ですよ? 相当にお忙しいかと思うのですが」

「私としても、余計な時間は取りたくはなかったのだが、お嬢様がな」


 そういうことか。

 夢魔病の発症は、屋敷内だった。となれば、まず噂は、使用人の間で広まる。リリアーナが聞きつけるのも、すぐだったろう。

 俺が病気と聞いて、彼女はどうしただろうか? しかし、夢魔病は老人や子供の命を奪う、恐ろしい感染症だ。滅多にうつったりはしないが、万一のことがあっては……だから、イフロースも仕方なく、自分が直接、様子見に行くと申し出て、お嬢様を思いとどまらせたのだ。


「では、お嬢様には、まもなく元気になりそうだと伝えてください」

「無論、そうするとも」


 そう答えてから、イフロースが、何やら奇妙な笑みを浮かべた。


「なんです?」

「ククッ、いや、なに」


 ニヤニヤしながら、彼は言った。


「お前も一応、人間だったか。病気ごときで死にかけるとは」

「そりゃあ、そうですよ」

「海賊の根城に流れ着いても死なないお前が、アネロス・ククバンの目をかいくぐって生き延びるお前が、病気でとは、ククッ」

「それは……そういうことだって、あってもおかしくないですよ」

「まあ、いい」


 笑いを収めて、イフロースはやや真面目な顔をした。


「それはそうと、名前は決めたか?」

「名前?」

「奴隷解放の手続きだ。そろそろはっきりさせないと、年内には間に合わなくなる。なるべく早く、できれば年明けすぐにでも、お前をお嬢様の学友にしてしまいたいのでな」


 そうだった。俺が何も言わないと、そのままチョコス・ティックになってしまう。


「えっと、まず」

「うむ」

「名前は、ファルス、で」

「うん? ファルス、だと?」

「はい」


 佐伯陽でもいいのだが、それだとさすがに変に目立ちすぎる。

 この世界での俺の、本来の名前。それは、チョコスでもノールでもフェイでもない。生まれた後にまず与えられた名前、それはファルスだった。


「僕は、シュガ村のチョコスではありません」

「なに?」

「あれは方便です。僕を拾った農民が、手続き上、僕を自分の子供にして、名前をつけただけです。だから本当の名前は……ファルスといいます」

「ほう……なるほど。では、姓は?」


 それは……


「わかりません」

「ふむ?」

「自分の家名を教えてもらう前に、両親も、自分の村も、なくなってしまいましたから」

「込み入った事情がありそうだな」


 俺の生まれ育った場所、リンガ村。

 あれはもう、ただの廃墟になってしまった。今はまだ、伯爵の残虐行為によって僅かにその名を知られているが、そのうち、みんなに忘れ去られてしまうだろう。


 だが。

 それでいいのか?


「しかし、詳しい話は後日として、まずはどうあれ、姓を決めてもらわねばならんが……フェイ?」


 俺にとっては、ひどい場所だった。虐待もされたし、殺されかけもした。

 それでも、俺は確かにあそこからやってきた。あそこで生まれ、育った。そして、あそこから、この人生が始まったのだ。


 それに、あの村の人々だって。

 全員が悪人だったわけでもないだろう。それが、伯爵とアネロスの欲望の犠牲になった。今もあの広場には、野ざらしになった白骨が転がっている。


 誰にも弔ってもらえない。

 誰にも思い出してもらえない。


 ……本当に、それでいいのか?


「……リンガ」

「ふむ?」

「ファルス・リンガ。そう名乗りたいと思います」


 気付けば、自然とそう口にしていた。


「いいだろう。手続きしておく」


 そう言うと、彼は踵を返した。


「フェイ」

「はい」

「こんなところで死んでもらっては困るぞ? お前にはまだまだ、やってもらわねばならんことが、山ほどあるのだからな」


 鼻で笑いながらそう言うと、彼は扉を開けて、部屋から出て行った。


 夜。また階下が騒がしくなった。

 遠くから女の声が聞こえるが、声色から判断するに、アイビィもいるようだ。もう起き上がって大丈夫なんだろうか?

 ややあって、複数の足音が近付いてきた。


「どうぞ」


 ノックの後に踏み込んできたのは、やっぱりガッシュ達だった。


「すっかりよくなったみたいだね!」


 ウィーが満面の笑みで、そう言ってくれる。


「おお? 今度は正気そうじゃねぇか! ははっ、よかっ……いってぇ!」


 無神経な一言に、ウィーがガッシュの爪先を、踵で思い切り踏ん付けたのだ。


「ははは……いいですよ、なにか、随分ご迷惑をおかけしたようで」

「なぁ、フェイよぉ」


 そこへドロルが口を挟む。


「そういう、気を遣いすぎるところが、なんつうか、病気の元なんじゃねぇのか? もっと楽にしろよ」

「そうだな。もっと大雑把でも生きていけるぞ、フェイ!」


 笑顔のまま、放言するガッシュを、ウィーは睨みつける。


「そうですね、見習いたいと思います」

「ダメだよ、フェイ君。こんな大人になったら」

「おいおい、ひどいな」


 だが、ウィーは構わず、話を続けた。


「はい、これ。今夜のご飯。店長からだよ」

「どうも済みません」

「あと、体力のつく薬湯だけど、今、ハリさんが、神殿で作ってもらってるから、もうすぐ持ってくると思うよ」


 これは、あちこちに盛大に世話になってしまったな。

 どうお返しすればいいだろう?


 だが、そんな俺の思いを読み取ったかのように、ウィーは先回りして、言った。


「気にしなくていいんだからね?」

「はい?」

「みんな、自分でそうしたいと思ってやってるだけなんだから。ね?」


 ハッとした。

 そうだ。


 お返し「しないと」。これが「気を遣っている」ということだ。

 でも、これって、実はものすごく失礼なんじゃないか?


 みんな、病気の俺を心配して、あれこれ動いてくれた。

 俺は焦ってお返しをしようとする。何のことはない、これは俺が礼儀正しいんじゃない。臆病なだけだ。背負った借りを早く返したい、というだけの。

 だけど、そんな真心に対して、急いで取って付けのお返しをするのが、そんなにいいことだろうか?


 ……なにか、どこか。

 俺は、生き方を大きく間違えていたのではないだろうか?


 とりあえず、差し出された料理を食べた。もう、普通に固形物も食べられるようになっていた。

 それから、ハリがやってきた。ザリナが作ったという薬湯は、やっぱり苦かったが、そこは何とか飲みきった。

 まだ病人だから、ということで、彼らはすぐに部屋を出た。灯りのない室内は、ほぼ真っ暗になった。


 それからしばらく。

 小さな足音が、ゆっくりと近づいてくるのがわかった。


 ノックもなしに、扉がキィ、と押し開けられる。


「フェイ? 起きてるか?」


 部屋に入り込んできたのは、ジョイスだった。


「うん、まだね。食べて間もないから」

「そっか」


 片手にランタンを持ったまま、左右を見回すと、彼はそっと後ろの扉を閉じた。


「びっくりしたぜ。まさか、いきなりぶっ倒れるなんてよ」

「僕もだよ。思いもよらなかった」

「あれから、俺もしばらく閉じ込められたんだぜ? 病気かもしれないってな」


 幸い、年齢より育っているジョイスには、充分な体力があったらしい。夢魔病に苦しめられることもなく、今もこうして元気に動き回っている。


「あれから……僕はほとんど、この部屋から出てないんだ。みんな、どうだった?」


 どうせだから、ジョイスから、外の様子を聞いておきたい。その程度の気持ちで尋ねたのだ。

 だが、その質問に、彼は見る見るうちに、顔を曇らせていった。


「……なんつうか。見てらんなかったよ」

「見ていられなかった?」

「ほら、俺、見えちゃうだろ、考えてることがさ」

「ああ」


 俺の心は見えないらしいが、他の人のなら……ということは、夢魔病に苦しみ、のた打ち回る俺を見守る人達の気持ちも、自然とわかってしまうのだ。


「特に、一昨日の夜は、もう」

「何かあったの?」


 すると、ジョイスは首を振った。


「医者が、帰っちまったんだ。もう、手遅れだって」

「そうだったんだ?」

「いや、はっきりそう言ったわけじゃないんだけどさ。みんな、なんとなく察してた。俺なんか、医者が考えてること、聞こえちまったから、もう……」


 一昨日の夜、一瞬目覚めた時の体の感覚は、今でも覚えている。確かにあの時は、死に瀕していた。


「そうしたら、アイビィさんがさ……金切り声で、なんとかしてください、なんでもいいから助けてくださいって。ハリさん? の胸倉を掴んで揺さぶって……あと、リン? あの、サディスがお世話になってる、なんとかって寺院の女にも泣きついて。だけど、誰も何もできないんだ。それで、女神神殿から、なんかえらい女の人ってのが来たんだけど」


 話しながらも、だんだんと涙声になってくる。

 その時、その場の人達の気持ちを思い出しているのだろう。


「どうしようもない、って言われたら、もう、アイビィさん、床にへたりこんじまって……なんでもいいから、女神様でも龍神様でもなんでもいいから、自分を身代わりにって……俺、俺、そん時、見えちまったんだ、その……」


 指先で、目尻の涙をそっと拭いながら、彼は続けた。


「もう、二度もこんな思いはしたくないって、子供に死なれたくないって……」


 次から次へと、ポロポロと涙の粒が、転がり落ちる。もう、袖で拭っても、間に合わない。


「明け方の海辺が見えたんだ。でも、波の音しかしない。海岸にみんな、転がってんだ。そこで腹を掻っ捌かれてるのは旦那さんで、波打ち際に突っ伏してるのが甥っ子で……抱えてたのが……っ」


 それは覗き見てはいけないものだ。

 だが、今更、そう言ったところで、何になろう。


「俺、あんなにつらい気持ちを見るのって、はじめてだ。どうしたらいいか、わかんなかったよ」


 こうして、拙い言葉で説明を聞くだけの俺でさえ、そうだ。直接、人の思いを感じ取れる彼なら、尚更だろう。

 故郷の村で、恐らくは凶悪な海賊達に襲撃されて、自分以外の村民を皆殺しにされた。その中には、彼女の夫も、甥も、そして恐らく、腹の中の子供まで含まれていた。

 俺が死に瀕した時、彼女の中に渦巻いた感情は……その時の喪失感を思い返すほどだったとすれば……いったいどれほどの苦痛をもたらしたのだろう。


「なぁ、フェイ」


 嗚咽を漏らしながら、肩を震わせながら、ジョイスは言った。


「お前、死ぬなよ。絶対に、死ぬなよ。死んだら、泣くからな」


 意味の通らない、曖昧な言葉だ。

 しかし、感じやすく、熱くなりやすい、純朴な少年の思いだ。


 階下で何か、物音がした。

 それで我に返ったらしい。


「俺、もう行くな。よく寝ろよ」


 そう言うと、彼はまた、そっと部屋を抜け出していった。

 そうして、ようやく俺の部屋は、静かになった。


 カーテンの隙間から、青白い月明かりが差し込んでくる。

 思えば、なんと優しげな光だろう。


 月は太陽の光を反射して輝いている。前世でなら、子供でも知っている理屈だ。だけどそれなら、どうして満月を見ることができるのか。小さな月なのだから、地球の影に隠れてしまってもよさそうなものではないか。もちろん、滅多にそうはならないし、その理由だってわかっている。それでも、不思議に思うのだ。

 本当は、月は、あの太陽なんかのおこぼれで輝いているのではない。では、どんな光に照らされているのだろう?


 ……その光の源は、もしかしたら。

 遠い太陽にではなく、ここ、地上にあるのかもしれない。


 そう思い至った時、不意に一滴の涙が、頬を伝った。


 様々な思いが胸に満ちていく。けれども、今の俺には、それをどうすることもできなかった。

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