真夜中の邂逅
ふと、目が覚める。
夜だった。
見慣れた自室。南東向きの窓にはカーテンがかかっており、その隙間から、微かな月明かりが差し込んできていた。その窓の脇、壁沿いに、俺が身を横たえているベッドがある。
俺はぼんやりと、ただ前を見た。暗い灰色の壁が見える。
ここは……ピュリス、だ。
そうか、さっきまでのは、夢か。
でも、ただの夢じゃない。半ばは現実だ。
俺が人を殺し続けてきたことも。
そして今、俺の肉体が蝕まれていることも。
かなりの熱があるらしく、こうしているうちにも、頭がふらつく感じがする。目もしょぼしょぼしていて、手足にも力が入らず、感覚も鈍い。
心当たりは、あれしかない。『夢魔病』だ。
旅の疲労に弱っていた俺は、あの病魔の餌食となったのだ。
イフロースへの報告中だった。疲労を押して行動を重ね、ついにあの場で急に発症した。無理もない。もうすぐ八歳という体で、やってきた仕事は大人以上だった。
あたりはひっそりとしている。
俺が倒れてから、どれくらい時間が過ぎたのだろうか。
あの時、ジョイスから聞き出した情報を思い返す。夢魔病の死亡率は高く、特効薬は存在しない。体力がない子供や老人には、致命的。
ならば、俺はどうすればいい?
今まで、何度も死に瀕してきた。
だからこそ、わかる。自分の体の状態が。
この発熱も、あまり長続きはしない。死にかけたプノスの、シトールの肉体の最期の状態に近い。搾り出せる力が、もうどこにもないのだ。
夜が明けるまで、俺は、もたない。
こんなにいきなり?
こんなにあっさり?
何の脈絡もなく、唐突に?
でも、死ぬ。
デスホークの肉体に乗り移れば、死を遅延させることはできる。だが、長くはいられない。知性が失われるからだ。
となると、生き延びるなら、この肉体を捨てて、別の人間になるしかない。
人間に……
……誰を「殺す」んだ?
誰かになりすますなら、俺がよく知っているのがいい。その上で、周囲からはあまりよく知られていない……ジョイスか? あれなら、サディスさえ始末すれば、いくらでもごまかしがきく。ついでに神通力も横取りすれば……
「は、は……、かはっ……」
乾いた笑いが漏れる。が、すぐに咳に変わる。もう喉がカラカラだ。ろくに声も出せない。
この上、人を殺すのか? それも恨みもない、そこまでの悪事を働いたわけでもない……俺を信じて頼ってきた相手を。
いやだ。
そこまで堕ちるくらいなら……
なら、死ぬのか?
そうだ。
もともと、それでよかった。
苦しみに耐えて、真面目に頑張って生きてきても、ある日突然、理不尽が襲いかかってくる。それこそ、前世の最後の交通事故のように。
人生とは、そういうものだ。だから、俺は二度と生まれまいと思った。
目蓋が重くなってくる。
今の覚醒も、どうやら時間切れらしい。苦痛のあまり、一瞬、目が覚めたものの、この体にはもう、長く意識を保つだけの力さえ残されてはいない。このまま夢の中に堕ちれば、今度こそ、目覚めることはないだろう。
俺は、そっと目を閉じた。
暗闇の中、俺は遠のく意識で、鳥の羽ばたきのようなものを耳にした。何者かが閉じられているはずの窓を越えて、この部屋の中に舞い降りた。その瞬間、森の中にでもいるかのような、瑞々しい空気が辺りを満たした。
不思議だ。今度の夢は、また随分と優しくなったものだ。或いは死を受け入れれば、夢魔病も、情けをかけてくれるのか?
……夢の中なら、目を閉じている必要もあるまい。
目を開けた。
相変わらず、部屋は暗かった。目の前に見えているのは、灰色の壁だった。
部屋の隅には、ドロルから借りたままの練習用の木剣が立てかけてある。壁には、お嬢様からいただいた剣が掛けてある。それと、時計も。ちょうど午前零時を指していた。小さな箪笥に、本棚。分厚い魔術教本の背表紙が、カーテンの隙間から漏れる微かな光を反射している。
いつも通りの俺の部屋だ。だが、どうしたことだろう? その木剣も、箪笥も、魔術教本さえも。どれもこれもが、まるで命を得たかのように生き生きとしている。壁もだ。壁さえも。俺が訝しんで凝視すると、レースのカーテン越しのぼやけた光が当たっている箇所が、まるで微笑を返してきたかのように見えた。
なんだ、これは?
何が起きている?
これは、夢か? 本当に?
その時だった。
俺は、気配に気付いた。
ベッドの脇に置かれた、色褪せた木の椅子。その上に、人影が見えた。
虫けらや小鳥でもあるまいに、誰かがそこにいて、どうして今まで気付けなかった? 扉も窓も、開いた様子はなかった。なのにそいつは、その女は、当たり前のようにそこに座っている。
何の装飾もない真っ白なワンピースに、真っ白な肌。銀色の長い髪。そして、この上なく優しそうなその眼差し。悲しそうに眉を寄せ、なのに不安にさせまいとしてか、口元には笑みを浮かべて。その前髪が、カーテンの隙間から差し込む月明かりに煌いた。
「かわいそうに……どうしてここまで」
そういって、彼女は手を伸ばす。真っ白な手が、俺の手に触れた瞬間、何か熱いものに触れたような感じがした。ただ、痛みはなかった。
俺の頭の中では、疑問が渦巻く。
誰だ? 何のために来た?
「我がいとし子、あなたは死に瀕しています」
それはわかっている。
だから、お前は何者だ? それとも、これも夢の一部なのか?
そう問いかけたいが、声が出ない。体も動かない。
「私は忘れられたもの、古くからのもの、招かれた新しきもの。そして、あなたを守るものです」
耳に心地よい、優しさの中にも芯の通った声が、沁み渡る。
この感覚は、うっすらと記憶にある。
リンガ村の、裏手の滝……
「ええ、覚えていますよ」
笑みを深くして、彼女は続ける。
「いつぶりでしたでしょう、私のもとに人間が迷い込んだのは」
ということは、やはり、この女は、あの白い鹿……
「どうやら、私のことを知りかけているようですね」
俺の心が読める?
神通力、か?
「いいえ。私には、この世界の祝福は備わっていません」
この世界の?
どういうことだ?
「私は、知られてはならない身の上です。それも察しているでしょう、いとし子」
では、やはり……
だが、なぜだ?
俺は、もっとも忌むべき行為を繰り返してきた。この若さで、既にどれだけの血を……
「だから、あなたの血も流して構わないというのですか?」
それが世の常だ。
殺したものが殺される、それに何の疑問があろうか。罪があり、罰がある。報いがあって当然だ。
「いいえ、罰とは、悔い改めさせるためにあるもの、そして赦しに至る道筋に過ぎません。その後にはまた、共に手を携えて生きるため。滅ぼすためであってはなりません」
そうだとしても。
俺は、醜かった。必要とあればこの手を血で汚し。日常に戻れば罪を恐れ。善意で上塗りして、ごまかそうとまでした。
前世、俺は自分に清さがまだ残っていると思っていた。とんでもない。俺がもっと幸せだったら、力があったら、どうしていたか。その答えを、自分で出してしまった。
「いいえ、いいえ」
もはや笑みさえ浮かべていられず、彼女の目尻には、涙さえ浮かんだ。
腰を浮かして手を伸ばすと、俺の体を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。
「どうしてここまで」
ここまでも、何もない。
これが世界じゃないか。
何もない大地に、苔が生える。苔が元気に生きているところに種が飛んできて、草が生える。草が元気に伸びているところに、今度は木が生える。木と木が高さを競い合って、限界まで枝を伸ばす。森の地面はもう真っ暗だ。
そうして争いの絶えない空間に、更に動物達が割り込んでくる。地面にへばりつく苔が、草が、広げられた葉っぱが、次々齧られていく。その犯人どもの後ろから、もっと大きな獣が出てきて、森の地面に血を滴らせる。
誰が幸せか?
森で一番強い、狼どもか? だが奴らは、獲物の奪い合いに忙しい。栗鼠どもは? 肉食獣に狙われるのが怖くて、いつもビクビクしている。少しくらい葉っぱを齧られても、そんな恐怖とは無縁な木々か? いいや。奴らは奴らで、他の木との縄張り争いに必死だ。
要するに、この森のどこにいても、いつもどこかで痛みを味わい、恐れ、争い、飢えて……いずれ、死ぬ。
俺も、そんな世界に生えてきた、貧相な樹木の一本でしかなかったのだ。
それが悲しい。そんな生き方、死に方しかできないのが。
「いいえ、あなたは……いとし子よ、あなたは、もっと幸せに生きられるはずでした」
……なに?
「呪われているのです。大きなものと、小さなもの。でも、どちらも力が強すぎて、私では消し去ることができません」
どういうことだ?
呪い? いつ? どこで?
彼女は、やっとその身を離した。
「けれども、あなたが望むのなら、それらの呪いは、覆い隠すことができます。仮住まいではありますが、ここより北の地、私が身を置く、山間の静かな棲家に連れていくことなら。そこは一年中花が咲き乱れ、空気は澄み、水は清らかで、数々の果物がたわわに実り……安らぎと喜びがあります」
まるで天国のような話だが……
「そう、そこは私のかつての居場所に似ています。その地では誰も苦しまず、悲しみもいずれは喜びに取って代わられるものでした」
……だが、天国なら。今となっては、俺が立ち入っていい場所ではなさそうだ。
こんなに手を汚すくらいなら、いっそリンガ村を出た後、あの冷え切った川の中で、息絶えていれば……なぜ、偶然、子供達に拾われてしまったのか。
「まだそんなことを……それに、あれは偶然ではありません」
どういうことだ?
「あなたは、集落の近くの川べりに投げ出されました。そうさせました。あれより下流に流されると、しばらく別の村には行き着けません。それではもう助かる術はありませんでしたから。でもその後、三日もの間、誰も近くを通りませんでした」
三日?
馬鹿な! あの寒空の下、弱りきった俺が三日間も生き延びていた?
では、俺がシュガ村で拾われたのは、リンガ村の虐殺の三日後だと?
「あれは、悲しい出来事でした」
彼女は目を伏せる。
「目の前で、あのような非道が……けれども、予め定められた約束は、後から違えることはできないのです。目の前で子供達が殺されていくのを、私はただ、泣きながら見ているだけ」
苦しそうに、唇を噛みながら、彼女は手を握った。
「もう、今となっては、あなた一人だけとなりました」
だから、か。
俺が、あの日、祝福の女神の像の向こう側へと立ち入ったから。だから、守っていた?
「……それとはわからないように。あなたに命の源を注いでその身を保たせ、遠くに救いを求めたのです」
よくわからない。わからないが、俺があの寒い季節に、ずぶ濡れの全裸で、三日間も川べりに寝転がっていたのだとすれば。何の助けもなく、生き延びられたはずはなかった。
やはり、偶然などではなかったのだ。
だが、それが本当だとして。
それなら、どうして、その天国みたいな場所に、すぐ連れて行かなかった?
「私と共に来れば、あとは隠れて生きるしかありません。でもあなたは人です。人は、人の間で生きるべきだと思いました」
なるほど。
理解はできる。
……だが、その人としての生も、そろそろ終わりそうだ。
「これを」
どこから取り出したのか、彼女の手に、銀色に輝く大きな杯があった。大人が両手で輪を作ったくらいの大きさがある。動物を象った複雑な紋様が刻まれている。そして中は、いい匂いのする真っ白な液体に満たされていた。
「これを飲みなさい、いとし子よ」
これは、いったい……?
「私には、直接、病を癒す力はありません。せめてフーニヤの力があれば、或いは……ですが、希望がないのでもありません。癒す力はなくとも、育む力ならばあるのですから。だから、あなたの中の生きようとする力に手を添えて、命の流れに運命を委ねます」
俺は動けない。飲めといわれても、手を伸ばすことさえできない。
彼女はそっと俺の背中に手を回し、もう片方の手で、俺の口元に杯を近付ける。白い液体が、少しずつ口の中を満たしていく。コクン、と喉が動く。少しずつ、少しずつ……この上なく澄み切った銀色の雫が、体の中に注ぎ込まれるような気がした。
「強く、強く望んでください。あなたは既に打ち勝っているのです。そのことに気付いてください」
……なんのことだ? さっぱりわからない。
俺は死ぬのか? それとも、まだ生きられるのか?
もし生きられるのなら、その楽園のようなところに、連れて行ってはくれないのか?
「そうしても構いません……でも」
彼女は顔を寄せ、俺の頬をそっと撫でながら言った。
「あなたには、もう大切なものがあるのでしょう? そして、あなたもまた、かけがえのない……」
じんわりと、だが急激に眠気が襲ってきた。
「もし、どうしても生きられないのなら、私のもとへ。でも、人でいるうちは、人の中で。あなたの幸せは、きっとここにもあるはずですから」
その声を聞いたのが最後で、そこで急に視界が黒く染まった。意識が遠のいていく。
どこまでも深い闇の中。だが、そこにはもう、不安も恐怖も、もちろん苦痛もなかった。
……冷え切った空気が、ほぐれていくような感覚があった。長い長い眠りから、意識が呼び起こされてくる。
まず目にしたのは、半開きのカーテンだった。隙間から朝の光が差し込んできていて、微かに舞い上がる埃が、白く輝いている。
温かみのある木の色。隣の部屋との仕切りになっている木の壁だ。そこには、少しだけ橙色に染まった剣と、時計とがあった。時刻は六時半。明け方だ。
いつも通りの部屋だった。
昨夜のような奇妙な躍動感はない。
ただ……椅子の上には、女が座っていた。白衣に銀髪の女神ではない。
アイビィだった。
「目が……覚めた、の?」
かすれかけた声で、アイビィは目を見開きながら、そう言った。
返事をしようとするが、まだ喉が痛くて声が出ない。
それにしても、少し痩せたか? 目の下に隈ができている。目元も充血しているし、髪の毛もほつれている。そして、いつになく、弱々しげだった。
最初、彼女はとにかく驚いていた。俺の意識が戻るとは思っていなかったのだろう。そこから、いろんな感情が噴き出した。戸惑い、悲しみ、喜び……だが、それらを押さえ込むと、彼女は俺に尋ねた。
「お腹空いてない? スープがあるから、すぐ持ってくるからね」
不器用に笑みを作ってそう言いながら、彼女はそっと立ち上がり、部屋を出て行く。
扉が静かに閉じられてから、俺は気付いた。
冷えていく右手。さっきまで、俺が目を覚ますまで。
彼女は、ずっと俺の手を握り締めていたのだ。
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