夢魔

 生まれてこなければよかった。

 目が覚めなければよかった。


 その日の朝も、まず、いつもと同じことを思い浮かべる。それが、これだった。

 目覚まし時計もないのに、朝七時きっかりに起きる。そして、自分の部屋を出て、すぐ目の前の階段を駆け下り、素早く食卓に向かう。既に僕は、頭の天辺から足の爪先まで、隙もなく緊張させている。


 朝から暑い日だった。

 居間の窓は開けっ放しにしてあったけど、風があまり入ってこない。白っぽい床に光が反射して、一瞬、目を焼く。

 夏休みも、もうすぐ終わり。あとちょっとで二学期だ。もっとも、休みという割に、毎日学校には通っている。部活が厳しいところで、練習も多い。他の部員は、それで文句を言っていたが、僕には大助かりだ。


 上の兄は、サマーキャンプに出かけていて、家にいない。今夜帰ってくる予定だ。

 下の兄は、僕の向かいに座っている。座って、素早くご飯ばかり、勢いよく喉に流し込んでいる。

 父が、僕の右斜め前に座っている。食事をしてはいるが、どんな顔をしているかはわからない。目を合わせるのも危険だからだ。

 なお、朝食の準備をしていた母は、ここにはいない。父の顔をなるべく見ずに済ませるためか、さっさと店のほうに出て行ってしまった。


 大根入りの味噌汁がまずい。なんだか苦味さえ感じる。

 おかずが足りない。でも、ご飯だけでも一気に食べる。時間はかけたくない。


 七時五分。


「ごちそうさまでした」


 僕は素早く椅子から立ち上がる。さあ、部活の時間だ。

 うちの部活は朝八時スタートだ。着替えも済ませて、すぐに練習開始できる状態になっていなければいけない。学校までは三十分くらいかかるから、急がないと。という口実。


「犬の散歩をせよ」


 ボソッと父が言った。


 冗談じゃない。

 そうしたら、二十分くらいかかる。口実が口実でなくなってしまう。

 ……なにより、この家にいる時間が増える。


「ぶ、部活に遅れちゃうから」


 そう言って、僕は急いで食卓を離れ、二階に駆け上がる。そして、ベッドの上に置きっぱなしにしていた着替え一式を掴んで、さあ、部屋から出ようとした時だった。


 バン!

 と扉が撥ね飛ばされた。本当に、ドアが根元から吹き飛ぶ勢いだった。


「イウィヌゥノォサァンポヲォセヨォォッ!!」


 最初は、ただ人が吠えただけのようにしか聞こえなかった。それが少し経って、意味のある言葉だと理解できた。

 そうだった。迂闊だった。父は、僅かな反抗も許さない。そこに理由があろうがなかろうが、関係ない。せっかくここまで夏休みを乗り切ってきたのに。虎の尾を踏まずに、なんとかやり過ごしてきたのに。


 部屋の前で仁王立ちする父は、もはや狂気にとりつかれているとしか思えなかった。たかが犬の散歩を断ったというだけで、もう理性をなくして、今にも暴れだしそうになっている。

 僕はそっと部屋から出て、荒い呼吸を繰り返す父の前を通り過ぎる。この、部屋の前の下り階段。ここでいきなり殴られたり、突き落とされたりしたとしても、驚くことではない。家の中は、本当に危険な場所になってしまった。

 人の目があれば、少しはマシになる? それはない。ついこの前、店で父が暴発した。土曜日の真昼間で、大勢お客さんが入っていたのに。父は大声で喚きながら、母を殴打した。仕上げに、髪の毛を掴んで厨房を引き摺り回し、勝手口から放り出した。母は、目から血を流していた。僕は慌てて救急車を呼び、母はそのまま入院した。


 何も知らないトロは、僕が近付くと嬉しそうに飛び跳ねる。それでも顔色の変化には気付いたのか、微妙におとなしくなる。鎖を外して連れ出すと、元気に走り出した。

 どうしよう。どうすれば丸く収まるだろう。とりあえずは、散歩をなるべく早く終わらせる。走って、走って、とにかくすぐに。家に戻って、着替えを回収して、そのまま学校まで走る。そうすれば、ほぼ一日、家に戻らなくてよくなる。


 近所を一周して、また家の敷地に戻ってきた。よし、これで後は学校に行くだけ……

 だが、そこでまた、裏手の店の勝手口の扉が開閉する音。恐怖に足がすくんで、動けない。


「草取りをせよ」


 一瞬、頭の中が真っ白になった。

 部活に遅刻する? あとで顧問の先生に叱られる? そんなのはもう、小さなことだ。

 父は、僕が困るのを知っている。知っていて、あえて自分の命令を優先させる。逆らえば、限度のない暴力が待っている。もちろん、四六時中見張られているわけではないから、この場を逃げるだけなら、できるかもしれない。でもそれだって一時的なものだし、僕がいなければ、誰かが代わりに制裁を受ける。

 問題は、そんな目先のことじゃない。今さっき、父は僕の反抗を根に持った。部活がある? そんなもの、理由にはならない。いや、理由にしてはならない。何かを根拠に、命令を拒否した。だから、徹底的な罰が下る。

 これで、あとはちょっと痛い思いをして、ことが終わるなら……そうなってくれればいい。顔に数日、腫れが残る程度で済むのなら。でも、たぶん……


 そこへ、下の兄が通りかかった。

 父は、見境なかった。


「お前も草取りをせよ」


 いきなり巻き添えを食った下の兄は、びっくりしたらしい。


「店の手伝いは」

「いいから草取りせよ」


 反抗は苦痛の元だと、心身に刷り込まれている。兄は無言で従い、僕の隣で草をむしり始めた。それを見届けると、父はいったん、店のほうへと引き返していく。

 そこからは、静かになった。僕も兄も、しばらくは何も言わない。命令には従わなければ。もし、作業が遅かったりすると、怠けていたと判断される。そうなると、もっと恐ろしい懲罰が待ち受けている。


「陽」


 草を引っこ抜きながら、兄は目に暗い光を宿らせていた。


「嫌いだろ、あれ」

「う、うん」

「いなくなりゃいいのにな」


 この下の兄……富能は、少々用心深さが足りない。恨みの気持ちを抱くのはわかるが、それを形にすべきではない。

 前にこっそり、隠し持っていた家族の写真をナイフで傷つけていた。見つけられた結果、どうなったかは言うまでもない。

 以来彼は、直接、家族と関係するものに手を出すのはやめた。代わりに、彼の部屋には昆虫の瓶詰めが増えた。必要な時に引っ張り出して、痛めつけて殺すためだ。肢や触覚、羽のない蝶の死骸が、そこら中にゴロゴロしていたのだ。


 僕は、ちゃんとわかっている。

 今、兄はこうして僕に父の悪口を漏らしているが、これだって偽りの連帯だ。本当は、他の人が殴られていても、自分が安全ならばと思っている。人間の体は一つしかないから、誰かが危険なら、自分は安全だ。だから、僕が兄の仲間だというなら、今、同じところで暴力に怯えている間だけ、仲間なのだ。


 数分後、また店の勝手口から、ドアを乱暴に閉じる音が響いてきた。大きな影が、ずんずん迫ってくる。


「やっとるか」


 僕も兄も、黙々と草を抜く。

 その二人の前に、父はスッとしゃがみこんだ。


 バシン、と耳の中を衝撃が通り抜ける。いきなり頬をはたかれたのだ。言葉も説明も何もない。返す手で、今度は兄の顔だ。続いて僕、また兄。命令に逆らった僕だけでなく、ただそこにいただけの兄まで。いや、理由を求めること自体、それは許されざる反逆だ。


「ンン、お前ら」


 蕎麦でも打つかのごとく、それこそ日課のように慣れきった仕草で、父は淡々と僕らの顔にビンタを浴びせ続ける。


「いつでも、出て行って、いいんだぞ」


 文節ごとに、一発。平手打ちが積み重ねられていく。


 まだ子供だから。どこでどう生きていけばいいかわからないから。

 どうやって? と思う。

 それに、僕はこの期に及んでまだ、守りたいものがあった。


 ……家族を失いたくない。

 愛情を取り戻して欲しい……


 今更、何をばかげたことを、と思うかもしれない。でも、あの時は本気でそう思っていた。

 なぜって、ここが家だから。帰る場所だから。一緒に生きる中でいろいろよくないことがあったとしても、最後に身を置くところであって欲しかったから。


 だから、そのためになら、犠牲になっても構わない。

 僕なら我慢する。

 小学校を卒業する時、先生に座右の銘を決めなさいと言われた。他の子はいろいろ書いていたけど、僕は「我慢」と書いた。

 将来の夢を書きなさいと言われた。少し考えて「世界の最後の一人になりたい」と書いた。きっと誰にも意味は通じていないだろう。何の最後かって、幸せを貰う順番だ。


 そこに大事なものがあるのなら……いや、価値の根幹そのものがあるのなら。

 どんなに苦しくても、手を離してはいけない。


 数分間、打たれ続けた。僕も兄も、慣れたものだ。顔はきっと、数日間は腫れたままだろう。プールに入ったら沁みるに違いない。でも、涙はおろか、呻き声ひとつ漏らさない。痛がってみせると、もっと激しい虐待に曝される。だから、無反応が一番いい。昔は暴力が怖くてならなかったのに、いつの間にか、それができるようになっていた。


 時間の余裕が無限にあれば、この暴力も無限に続いただろう。けれども、開店時間が迫ってきていた。

 適当なところで父は切り上げて、店のほうに戻っていく。

 だが、ほっとする間もなかった。


 車庫のほうに、動くものがある。

 退院して間もない母だ。


 ああ。

 この時がきてしまった。

 そう悟った。


 そうさせまいと頑張ってきたつもりなのに。

 あろうことか、僕が引き金を引いてしまった。


 何も言わなくても、やるべきことはわかった。自分の部屋に戻り、着替えを取る。部活用のだけじゃない。数日分の下着もだ。それと、身の回りの生活用品一式。少ないけど貯金。兄は、今まで掻き集めていた漫画本も必死になって運んでいた。それらをすべて、軽自動車の座席の後ろに積み上げる。ここまで、きっと三分もかかっていないだろう。

 エンジン音が響く。このまま、出て行くことになるのか。そう思うと、車に走り出して欲しくはなかった。でも、早く出発しないと。ここまであからさまに逃走の様子を見せておきながら、父に捕まろうものなら。次は死者が出る。

 軽自動車は、その車体をよじらせながら、やや乱暴に公道へと踏み出した。そのまま、どこへともなく、ただまっすぐ走り続けていく。


 どこからともなく、すすり泣く声が聞こえる。自分が? 兄が? わからない。頭の中は真っ赤だった。

 そんな僕達の様子を見て、母は舌打ちした。手を叩きつけるようにして、ラジオのスイッチを入れる……


『――今朝のクラシック全集、今回は、ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲の、二つのバイオリンのための協奏曲! では早速どうぞ!』


 母がボリュームを上げる。あの調和の取れた、この場には相応しくない音色が、車内に響いた。


 ……


 ……


 ……


 これは……


 ……急速に息苦しさを感じながら、俺は暗闇の中でもがき続ける。

 記憶、だ。

 俺の、前世のだ。


 この後、昼過ぎまで何をしていたか、思い出せない。三時過ぎに、母の友人のいる家に転がり込んで、遅めの昼食をいただいた。でも、何を食べても味がしなくて、結局ほとんど残した。

 それから俺達は親戚の家々を点々とする。毎晩、寝る場所に困った。親戚の家とはいえ、そう何日も厄介になるわけにはいかない。新学期が始まったら、学校にも行かねばならない。食べるにしても、手持ちの金は限られていた。


 一ヶ月後、俺の転校が決まった。高校生だった兄二人は、今まで通りの友人と過ごせたのに、自分だけ。離れた場所に引っ越したせいで、学区外になった。時間がかかってもいいから、今まで通りの学校生活をしたかったのだが、教育委員会か何かが、特例を認めてくれたりはしなかった。

 ゴキブリの出るボロいアパートでの生活が始まった。毎日カップラーメンと菓子パン、あとは特売の卵を食べる毎日だった。金がなかったから、入浴もできなかったし、部屋の電灯も消したままだった。

 しばらくして、上の兄は父の援助を受けて、大学に通うため、ここを出て行った。下の兄は、すぐに悪い連中とつるむようになった。酒に煙草、それがそのうちシンナーになり、最後は覚醒剤になった。そうと知ったのは、兄のメガネケースの中に、血の滲んだ注射器が何本も見つかったからだ。

 母もまた、絶望していた。人生、ここで一発逆転しなければ気がすまなかったらしい。それで自己啓発系のセミナーに通い、マルチ商法まがいに手を出して、却って手元の僅かな貯えもなくしていく。どんどん貧しくなった。


 これが。

 これが、『俺の世界』。


 幼い頃から、ひたすら人に頭を下げて生きてきた。思ったことがあっても、ろくに言えなかった。いつもいつも、何かを恐れてきた。ずっとずっと、俺は負け犬だったのかもしれない。

 そんな態度が、自然と表に出てくるのだろう。誰も俺を「大事な人間」とはみなさなかった。おとなしくしていれば、友達の輪の中に混ぜてもらうことはできたけど、俺はただ、そこにいるだけだった。

 仕事で努力して結果を出しても、俺の貢献は、下々の当然の義務か何かのように受け取られた。横目で、ろくに頑張りもしない奴が、ちょっとの努力で評価されるのを見ながら、俺は下を向いた。

 何もいいことはなかったけど、悪いことなら、いくらでもあった。権利は主張できなかったのに、義務や責任は、次から次へと降って湧いた。


 でも。

 それでもいい。大事なものを、一つだけ持っておけば。


 なるほど、この世界は俺を痛めつけたかもしれない。底辺にいるのかもしれない。どこから見ても、敗北者なのかもしれない。

 だけど。俺はきっと、彼らと同じことはしない。


 この握り締めた拳。殴るためじゃない。誰も知らないけれど、この手の中には、砂金がある。いつの日にか、それを差し出すため。

 痛めつけられ、傷つけられて、息を引き取る時。俺はついにこの手を開く。


 誰の上にも立たなかった。何も得られなかった。世の中すべてから忘れられた。それでも、俺はとうとう、悪には染まらなかったのだと。そうすれば、誰に勝たなくても、すべてに勝ったのと同じだ。


 あの頃の俺は毎晩、自室の窓から、月を見上げていた。あの優しげな光に照らされると、日々の悲しみを少しだけ、忘れられる気がした。


 相談できる人なんていなかった。苦しみを打ち明けられる人なんていなかった。だけど、もしかしたら。世界のどこか、遠い彼方に、そんな誰かがいるかもしれない。

 こんな自分なんかに値打ちはない。どうなったって構わない。だとしても、自分を泥の中に捨ててしまっていいのか。もし、その誰かがいたら。その人のために、自分をとっておかなくては。

 だってそうだ。自分で自分を投げ出してしまったら。あとからその人がやってきた時、きっと寂しい思いをするだろう……今の自分と同じように……世界のどこかに、この手を握ってくれる人はいないのか、と。それはだめだ。それだけは、絶対に。


 俺は、優しい月光の中に、そんな自分の思いを預けた。


 だが……


『本当に?』


 暗がりから、そう問う声が響く。


『それは本当に?』


 誰だ?


『本当なら、お前は喜んでいていいはずだ。なぜ、あんなに悲しそうだった? なぜあんなに苦しそうだった?』


 それは、もちろん、苦しかったし、悲しかった。

 だからこそ、思いを大事にしてきた。

 あの『賢者の贈り物』のように、俺も、この手の中にあるものを大事にしていたかった。


 真っ暗な視界が切り替わる。

 今度は……もっと幼い頃。小学校の教室。その休み時間だ。


 俺は絵本を読んでいる。


 昔々、インドにシビ王という、とても慈悲深い王様がいました。

 ある時、一羽の鳩が飛んできて、王様に助けを求めました。

 鷹に食い殺されてしまうというので、王様は鳩を懐に入れてやりました。

 そこへ鷹がやってきました。

 鳩を出せ、あれを食べないと自分も雛鳥達も、飢えて死んでしまうのだ、と。

 王様は、鳩の代わりに、同じ重さだけ自分の肉を与えるから、それを持ち帰ってくれと頼みました。

 それで、天秤の一方に鳩を載せ、もう片方に……自分の体を切り裂いて得た肉を載せました。

 ところが、どういうわけか、鳩はこんなに小さいのに、いくら肉を載せても、天秤が釣り合いません。

 ついに王様は、自分自身を天秤に載せました……


 そこで予鈴が鳴る。読書は終わり。俺はページを閉じてしまう。

 この物語の続きは、どうだったのだろう? 今となっては、知る術はない。


 でも、ここまでで俺は、なんとなく感じ取ってはいたのだ。

 尊いものを得るには、自分のすべてを捧げなくては。


『自分のすべてを捧げれば、見返りが得られるのか?』


 暗がりから、今度はねとつくような声が問いかけてくる。


 もしそうだとして。

 そう思って何が悪い?


 俺は、物心ついた時から、一度も安心を味わったことがない。愛されたという実感を得たことがない。

 ここにいれば大丈夫、これさえあれば、この人さえ傍にいれば……一度もだ。

 でも、俺のすべてを差し出して、何もかもを支払いにまわしたなら、やっぱり人一人分の何かが得られたっていいのではないか?

 だけどもちろん、そんな高望みはしない。


 前世での心残り。

 それは、一度も笑顔が見られなかったこと。

 笑っている顔ならいくらでも見たが、本当に俺に対して笑顔を向けてくれた人は、いなかった。


 懐中時計なんか、いらない。

 銀の鎖だけでいい。


 もし叶うなら、ほんの一時でも。

 夢でも幻でもいいから、そんな時間が欲しかった。

 ただ、手を繋いで、その温もりを感じて。

 そんな時間が一時間もあれば、いや、十分でも、せめて一分だけでも。


 俺のすべて、人生全部を支払いにまわしても、たったそれだけのものも購えないのか?


『その答えは、お前自身が知っている』


 暗闇から、また視界が開けてくる。

 見えたのは……青い満月と、鈍く輝く鉈。大柄な男のシルエット。

 思わず息を呑む。


 コーン、と音がして、鉈が牛小屋の汚れた床に転がる。


『まず一人』


 同じ暗闇。足元に生温かい感触。今思えば、あれは俺の足に血が降り注いでいたからなのかもしれない。

 首元を押さえながら、苦しそうに息を継ぐ男。だが、いきなり力をなくして、その場にへたりこむ。


『二人目』


 ゴッ、と鉈を通じて、鈍い感触が腕を伝う。

 栄養失調で真っ白になった顔に、ツウと赤黒い鼻血が伝う。そのまま、全裸の彼女は、血溜まりの中に横倒しになった。


『三人』


 暴風吹き荒れる断崖絶壁の上で、シンはよろめいた。剣を避けようとするあまり、足場を失って……

 その瞬間、俺と目が合う。

 見下ろした先には、腹部を赤く染めた彼の遺体が横たわるばかりだった。


『これで四人』


「カハッ」

 左右上下に剣を自在に行き来させる。それだけで、二人の大人が膝をつき、体中から血を噴き出す。

 メックの血と尿で汚れた床に突っ伏しながら、男達は息絶えた。


『五人、六人』


 真正面から唐竹割り。

 体の中心を切り裂かれた海賊は、即死した。


『七人だ』


 胸に傷を受けた瞬間、ゾークは周囲に血を撒き散らした。

 よろめきながら後退り、木を背中にしてうずくまる。

 そのまま、死んでいった。


『八人』


「死にたく……ない……」

「死にませんよ! しっかり!」

「……母ちゃん……ごめん……」

 悪臭漂う船倉で、体中切り刻まれた彼は、高熱を発しつつ、ついに息を引き取った。

 故郷を一目見ることも叶わずに。


『九人』


 闇の中、エキセー川へと走るシトール。

 俺は無我夢中で念じた。

 その瞬間、彼の姿がこの世界から消える。


『十人! もう十人だ』


 気持ち悪い。胸の奥から、得体の知れない熱が、じわじわと溢れてくる。


「仕方なかったんだ」

『なに?』

「やらなければやられる。そうしないと、殺されるか、もっと犠牲者が」

『お前が死ねば、相手は死なない』


 だけど、そんな。


『お前がリンガ村で死んでおけば、その後の犠牲者も出なかった』

「だけど、その分、どうせ悪い奴らが」

『悪い? 誰が? 何が?』

「それはっ」

『人殺し』


 突きつけられた言葉に、何も言い返せない。


『お前も同じだ』

「なんだと」

『力がなければ、誰か正しい人に、救ってくださいという。力を得たならば、当たり前のようにそれを振るう』

「そんなことは」

『お前の両親も、二人の兄も、確かにひどい人間だった。でも、お前が一番だ……十人も殺したなんて、さぞ鼻が高いだろう?』


 なんて嫌な言い方をする奴だ。

 反吐が出る。


『……これがお前の望みなんだろう?』

「なに?」

『奪い取ってやりたい、奪われる側から奪う側になりたい……そう願ってこの世界に生まれてきた。違うか?』

「それは、だけど、俺は前世がああだったから、だから」

『よかったじゃないか。願いが叶ったのだから』


 確かに、どう言い繕っても、俺がやったことは事実。

 だけど、じゃあ、どうすればよかったんだ。


『知らんな。お前が自分で決めていたんだろう? 善良でありさえすればいい、そうだったな?』


 いや。善人が善人であるためには、正しい世界に恵まれなければいけない。

 シトールを片付けなければ、ジョイスが死ぬところだったんだ。


『いいのか? そんなことを言って……』

「なに?」

『シトールはただの小悪党、だがジョイスは神通力を持った少年だ……もし、後々、悪に染まったとすれば、その害は……』

「なっ!? 違う! そんなことにはならない! ジョイスは」

『村で盗賊の真似事をしていたな』


 またもや、事実。

 単純な事実が、俺に突きつけられる。


『お前が正しいんじゃない。ただの自己満足だ。奴らが悪いんじゃない。お前の敵だった、それだけだ』


 反論の余地もなく、俺は膝をつく。


『わかったな? お前が前世、望んだものは、分不相応な代物だったのだ』


 ……何年間も苦痛に耐え。

 地味な仕事を繰り返しこなし。

 面倒ごとを引き受け続けて。

 その上、我が身を奴隷同然のところに落としても。


『ただ一度の笑顔? 一分だけでもいいから、せめて手を? それを、たった? たったそれだけのものだと? 笑わせるな』


 自分の何もかもを差し出せば、せめて一分間でも笑顔を買えると思ったのか?

 思い上がりも甚だしい!

 それは、自分の全存在を売り渡したところで、欠片さえ手にできるものではなかった。自分にはその程度の値打ちもなかったのだ。

 はじめから……そう、決まっていた。


『そうだ、恨め! 憎め! 呪え! そして存分に悲しめ! それがお前にはお似合いだ』


 馬鹿な。

 そんなのひどすぎる。認めてたまるか。


『さあ……そこで、プレゼントの時間だ……』


 その言葉に、俺は身を縮める。

 まさか、まさか。


『もう渡したはずだな? さあ、その手を開いて、見てご覧……』


 固く握り締めた右手。絶対に開くまいと、力をこめる。


「……っ、や、やめろっ」


 だが、何かが中で暴れだし、どうしても握っていられない。左手で押さえる。すると右手が勝手に動き出し、左手を撥ね退けて、掌を俺に向けつつ、ゆっくりと指を開いていく。

 そこに見えたのは……


「うっ……うわあぁぁっ!」


 ……滴る真っ赤な血、だった。


 きれいな黄金色の粒なんか、どこにもない。

 いつまでも、どこまでも、ただただ、赤黒い血が滴り続ける。

 そして俺は、心の底から這い上がってくる恐怖の衝動のままに、絶叫し続けた。


『さあ、それはお前のものだ! それで何と交換するつもりだ? さあ、さあ!』


 そうか。

 そうだったんだ。


 俺は、自分の人生を無駄とは思いたくなかった。

 どんな痛みにも、意味があり、値打ちがあると、そう信じたかった。

 でも、事実は単純だった。俺が弱かったから、やられっぱなしになっただけ。強ければ、この通り、好き放題にする。立場が違うだけだった。

 つまり、俺の思いには、何の意味もなかった。


 自分のすべてを差し出しても。

 笑顔一つ、買えるわけがなかった。

 それこそ全人生のあらゆる努力と美点を掛け合わせても。俺はそれには見合わない。


 この血塗れの手がその答え。

 この手を、こんな汚れた手を握ってもらうなんて、どだい無理な話だったのだ。


『罪を感じるか? なら、今、楽にしてやるぞ』


 その声とともに、虚空に無数の剣や槍、ハンマーや鋸が浮かび上がる。どれも古く、刃先が錆びついている。

 それらがフワリと浮かび上がり、いきなり俺にぶつかってくる。


「がっ!?」


 腹部に、胸に、指先に。

 ティンティナブリア城で受けた拷問さながらに、指先にも針が突き立てられる。赤熱したハンマーが何度も俺を打つ。皮膚が焼きついて剥がれ、その悪臭が鼻をつく。


「ああっ……うは……うああ」

『もっと! もっとだ! こんなものではないぞ、何せ十人分だからな』


 そこから、絶え間ない拷問が続いた。俺は叫んで叫んで、ついに喉がかすれて、声も出なくなる。


 こんなに苦しむくらいなら。

 いっそのこと……


 そう思った瞬間、目の前に、黒い渦ができる。

 黒い雲が台風の目のようなものに飲み込まれていく。それが徐々に速度を上げて、何もかもを混沌の中へと吸い込んでいく。


『おい』


 どこかから響いてくる声が、俺に告げる。


『そろそろ休んでいいぞ』


 そう……だな。

 それがいいかもしれない。


 何もない場所へ。

 真の安息へ。


 俺は手を伸ばした。

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