理想的な名前をどうぞ

「フェイ君も、またコラプトに遊びにきてよ。今度は僕がもてなすよ」

「はい! ありがとうございました」

「じゃあ、また! 皆さん、お元気で!」


 そう言うと、イーパは馬に鞭を入れた。ガタゴトと石畳の上を、馬車は走っていく。


 昨夜は、いつもの酒場兼宿屋でパーティーだった。イーパと一緒に、旅行中の土産話をして、ついでにイーパが用意してくれたお菓子をお土産に配って。

 リンに連れてこられたサディスは、兄の姿を見るなり、無言で走り寄っていった。それからずっと離れようとしなかったので、一晩は一緒にさせておくことにした。今も、イーパを見送りながらも、手を繋いだままだ。

 一度は自宅に帰ったリンも、サディスを迎えにくるためもあって、この場に駆けつけてきている。とはいえ、病的に幼女大好きな彼女も、兄妹の間を引き裂いてまで、無理やり拉致するほど非常識ではなかったようだ。


「リンさん、どうです、微笑ましいでしょう?」

「ええ、心温まる肉親の情ですね」

「というわけで、ジョイ」

「引き取るのは幼女だけですけどね」


 ブレない。こいつはブレない。

 こうして待ってあげているのも、すべてはサディスのためであって、ジョイスはオマケなのだ。

 やっぱり女神神殿に任せるしかないか。


「あの、ハリさん」

「ええ、昨夜聞きましたからね。今日にでも、それこそこれからでも、神殿に連れて行きます。任せてください」


 彼は嫌な顔一つせず、ジョイスを引き受けてくれた。


「あと……」

「ギルド長ですね。そっちも、今日中に行きますよ」


 よかった。これで一安心だ。


「楽しい人だねー、イーパさんって」


 にこにこしながら、ウィーが言う。

 人間、誰しも長所があるものだ。小物臭しかしないイーパだが、その一方でよく気が利くし、誰とでも仲良くなれる。物怖じせずにひょうきんな姿を見せられるというのは、なかなか得がたい能力なのかもしれない。


「それより、フェイ」


 いつもの如く、酔いつぶれた仲間に溜息をつきながら、話しかけてくる。ガッシュは、見送りのためになんとか立ち上がったものの、今も路上でへたりこみそうになっている。それを肩で支えているのがドロルなのだ。


「そろそろ、あれだろ、屋敷で報告があるとか」

「そうなんですよ。だから、失礼しないと」


 本当は少し時間がなくて、焦ってもいる。まったく、この疲れているのに、どうしてこうも忙しいんだろう。

 ウィーも笑顔で言ってくれた。


「急ぎなよ。後片付けはしておくから」

「じゃあ、なんかいろいろやりっぱなしなんですが、済みません、これで失礼させていただきます」


 それから二時間後。

 俺は押し寄せる眠気をこらえつつ、イフロースの執務室で、一通りの報告を終えていた。


「ふむ……」


 分厚い絨毯の上を、ゆっくりと歩き回りながら、彼は深い思考に沈んでいた。


「だが、確かなのか? アネロス・ククバンが潜伏しているというのは」

「間違いありません」

「名前を騙っているだけということは?」

「ないでしょう。知られれば暗殺者が群がってきますし……何より、あの剣の腕、それに火魔術。そんなにいるものではありません」


 本当はピアシング・ハンドで確認しただけなのだが、そう言っておこう。

 もちろん、俺がシトールの肉体を奪って活動していたことも、伏せてある。だから、かなり無理があるとはいえ、城内に忍び込んでみてきたと言ってある。


「それが事実であれば、我々はティンティナブラム伯に対して、切れるカードを一枚持っていることになるな」

「そうですね」


 但し、脅しをかけたら、アネロスかルースレスのどちらかが、暗殺しにくるかもしれないが。特にアネロスが来たら、イフロースでも危ないだろう。まぁ、正面から来てくれれば、あとはそこに俺が居合わせさえすれば、むしろカモなのだが。


「しかし、それより……戦争の準備、か。尋常ではないが」

「それも、見てきた通りです」

「こちらは対処が難しい。お前が言う通り、伯爵をこちらから蹴落とすわけにはいかん。さりとて……」


 腕組みしながら、イフロースは溜息をついた。


「奴が何かやらかせば、こちらにも火の粉が降りかかってくる。だからといって、今、あれを太子派から外すのもまずい。ここで投票権を失うのは避けたい。それに何より、今、伯爵は政治的に我々を援護している」


 そうなのだ。

 返事の手紙の中身、これもイフロースが教えてくれた。伯爵は、他の太子派の貴族と連名で、サフィスのために政治活動をしてくれているらしい。まず、先代の頃からの実績を評価して、子爵家にも投票権を与えること。それから陞爵の是非についても、書面で奏上してもらっているのだ。


「難しいとは思うが、まずは彼らの身辺を徹底的に洗ってみよう。近いうち、王都に向かう予定がある。その際に、近しい貴族達にも注意を促すことにしよう。それも情勢次第ではあるが」


 ティンティナブラム城への潜入は、まずやめたほうがいい。アネロスもルースレスも、かなり目敏い。そして、いったん正体がバレたら、まず助からない。

 だから、下調べするにしても、別方面からにせざるを得ないだろう。


「ふむ、まぁ、ご苦労だった。困難な状況下で、思った以上の成果をあげてくれたようだな」

「満足していただけたなら、幸いです」


 俺の目の前に座りながら、イフロースは切り出した。


「というわけで、だ」


 彼は笑みを深くする。


「お前に褒美を与えよう」

「何か、また痛みを伴う何かですか」


 この前は、褒美と言われて、いきなり斬り合いになったからな。この爺さん、たまにとんでもない。基本的には、アネロスやキースと同じ人種なんだろうし。


「それはおいおいだ」


 そう言いながら、彼はテーブルの上の書類を引き寄せた。


「フェイ。お前を今年いっぱいで、奴隷から解放する」

「やっとですか!」


 つい声が大きくなってしまった。

 やっぱり、奴隷と肩書きがついているだけで、窮屈さはあったのだ。だがこれでやっと、誰にも気兼ねせずに生きられるようになる。そうそう、サハリア東部のネッキャメル氏族の集落にも行かなくては……急ぐ理由もないが。

 しかし、逆に考えてみる。金貨六千枚ものコストをかけたのに、たった二年ぽっちで解放とは。もっとも、それに見合う働きはしている。誘拐されたお嬢様を救出し、海賊に殺されかけた船員達を守り、今また、危険極まりないティンティナブリアの情勢を調査してきたのだ。


「というわけで、お前もついに、ちゃんとした名前を名乗れるな」

「そうですね」

「名と、姓だ。解放時には、どちらも自分の好きなように決めていいことになっている」


 つまり、佐伯陽と名乗ってもいいのか。いいんだろうな。やらないけど。


「ただ、な」


 イフロースは、微妙な笑みを浮かべつつ、条件をつけてきた。


「一応、規則だから、一通りの説明をせねばならん。こういう場合、理想的な名前と、禁止されている名前とがある」

「というのは? どういうことですか?」

「まず、理想的な名前からいこう」


 指を一本突き立てて、それを俺に向けてきた。


「お前は現時点で、子爵家の奴隷だ。それが主人の厚意で解放される……当然、今後も主人に仕え続けるという前提において、だ。そこで」


 左手を開きながら、彼は言う。


「まず、フェイ、これがお前の一番良い名前だ。主人がつけてくれた大事な名前……ゆえに解放されてからも、これを使うのが望ましい。そして姓。これも主人に因んだものが好ましい。そこで私としては、お前に『フェイ・エンバイオス』と名乗ることを勧めたいのだが」


 げぇっ……


 フェイ・エンバイオス。

 自由民になってもフェイ。

 しかも、エンバイオ家のモノですよ、と触れ回る。それも今度は一生だ。


 イフロースは、眉毛で山を作り、苦笑いを浮かべながら言った。


「そんなにいやそうな顔をするな」

「えっ、でも」

「まあ、予想はしていたがな」


 クッ、クッ、と笑いながら、彼は説明を続ける。


「で、今度は、つけてはいけない名前のほうだ。まず、主人と同じ名前。これは避けねばならん。具体的には、先代のフィル様、それにサフィス様、それと跡取りたるウィム様。この名前は使用禁止だな。姓のほうも同じだ。絶対にエンバイオとか、トヴィーティなどと名乗ってはならん」

「はい」


 常識的な話だ。主人の血筋にあるかも、などと勘違いさせるような名前は、使うべきではない。


「それから、当然だが、王室関連の名前もいかんぞ。レージェとかフォレスティスなんて名乗ったら、ただでは済まん」

「そうですね」

「それと、王室に敵対するものの名前も許されてはおらん。特に、ここはピュリスだ。以前、ここを支配していたラーナ家や、それを連想させる名前も駄目だ」


 これまた当たり前の話だ。

 しかし、こうしてみると、結構制約があるものなのだと再認識させられる。


「まだあるぞ。神や魔王の名前も、基本的には駄目だ。間違ってもモーン・ナーとか、ギウナとか、モゥハとか、イーヴォ・ルーとか、ゼクエスとか……そんな名前は使うべきではない」

「さすがにそれはしませんよ」

「同じ関係で、チーレムもよくない。あれは今では称号の一部になっておる。六王家の血筋を引くものの中でも、特にギシアン・チーレムの子孫だけが名乗れるものだから、これも無断で使用すれば、大変なことになるぞ」


 それだけは、許可されても絶対に名乗りたくない。


「だが、ギシアン・チーレムの呼び名だったファルス、これは一般的な名前だ。名乗っても構わない」


 ちなみに、歴史上の有名人である聖女リントあたりだが、彼女に因んだ名前をつけるケースも少なくない。ちょうど、幼女好きのリンが、そのいい例だ。しかし、そこはやはり信者だから、そのままでは使わない。

 同じように、呼び名であるファルスは一般的な名前でも、正式名だったギシアンのほうは、まず使用されることがないのだとか。大変結構なことだ。


「お前の元の名前は……チョコス・ティックだったな」

「そうですね」


 書面上では、シュガ村出身になっているから、それで間違いない。


「この名前であれば、そのままで使用しても問題ない。どうする?」

「……少し考えさせてください」

「よかろう」


 どうせ正式に自由民になるのは年明けだ。もう少し、どんな名前にするか、迷っていてもよかろう。


「それで、奴隷解放の手続きなのだが」


 そう言いながら、また別の書類を出してきた。


「読んでみろ。破格の条件だぞ?」


 そう言いながら、彼は意地の悪い笑みを浮かべてみせる。

 どれどれ……


 トヴィーティ子爵サフィス・エンバイオは、所有する奴隷であるフェイを、以下の条件にて解放する。

 フェイは、サフィスがフェイの購入に充てた金貨六千枚について、サフィスに対する負債とみなす。

 したがってフェイは、負債を返済しなければならない。

 返済の条件は以下の通りである。

 サフィスはフェイと労使契約を締結する。

 これは二年に一度、自動的に更新される。

 フェイは労使契約の更新時に、一括で金貨六千枚を返済する権利を得る。

 負債が返済されない場合、サフィスは契約の更新を決定できる。

 なお、初回の契約締結時には、この権利は発生しない。

 この負債についての利息は発生しない。


「……これ、奴隷とどう違うんですか」

「名前が変わるぞ? やれる仕事の幅も広くなる」

「形だけじゃないですか、解放って」

「ククッ、前に言っておったではないか。金くらい、すぐ集められるとな」

「それはそうですがっ……」

「但し、返済するなら、機会は二年後のその一日だけ。しかも一括だ。でなければ、また自動的に……ククッ」


 この野郎。

 俺をからかいやがって。


「まぁ、そう怒るな。いろいろと事情があってな」

「どんな事情ですか」

「お前にやって欲しいことがあるのに、身分が邪魔する」

「何をさせるつもりですか」


 そこで彼は笑いを納めて、少し真顔になって言った。


「まず、お前には、お嬢様の学友になってもらいたい」

「学友?」

「うむ……」


 また腕組みをしながら、彼はやや考え込むような顔をした。


「最近、お嬢様のご様子がな……」

「なにか? よくないのですか?」

「何事にも無気力、無関心になっておられる。当然、勉学にも支障をきたしておってな」

「それは……」


 それは、夢も希望も抱けない、この屋敷内での生活が原因だ。

 既に二十歳にもなる伯爵の息子との結婚を決めようとする男が、父親なんだぞ。


「言いたいことはわかる。だが、抑えろ」

「……ええ」

「私にとっては、閣下も、お嬢様も、等しく主人だ。なんとしても幸せになっていただかねばならん。絶対に譲れぬところだ。そこだけは、信頼せよ」


 暗に、不幸な政略結婚などさせない、と言っている。

 以前にリリアーナと入れ替わっていなければ、この言葉も信じられなかっただろうが……


「お前には、お嬢様の支えになってもらいたいのだ」

「店はどうします」

「続ければいいではないか」

「酒場の手伝いもあるんですよ」

「まだやっておるのか」

「あれで顔繋ぎをしているから、店の人気があるんです」

「ふむ、なるほどな」


 少し考えるようにしていたが、すぐに頭を切り替えたようだ。


「なに、お前なら、今更子供の勉強をするまでもあるまい。それなら一週間に一日でも構わん。顔だけ出して、お嬢様の励みとなれ」

「そういうことなら」

「一人でやれとは言わん。ナギアもつける」

「えっ」


 それはいらない……と思ったけど、お嬢様にとっては、ナギアは信頼できる下僕だ。

 リリアーナ自身がどう受け止めているかはわからないけど、ナギアのほうでは、本気で彼女の盾になろうとしているのだから。

 ただ、俺は毛嫌いされている。


「かわいらしい少女二人と机を並べて勉強だ。悪くあるまい」

「いいも悪いもないですよ」

「もっとも、お嬢様には指一本、触れさせんがな」


 思わず舌打ちしたくなる。

 そういうことか。


「前にフリュミーさんと乳母のラン様をくっつけて、後悔したって言ってたのは、もう忘れたんですか」

「忘れてはおらんよ。大事なのは当人同士の意思だ。それを学んだ」

「なるほど、大変結構です。覚えておきますよ、そのお言葉」

「それも忘れはせんよ。だが、ナギアはきっと、稀に見る美人に育つだろうがな」


 なりふり構わん爺さんだ。本当に。


「お前の本気の献身が見られれば、なに、こちらも差し出せるものが増えるんだがなぁ、ククッ」


 面白がりやがって。


「それともう一つ」


 ふざけるのをやめて、イフロースはもう一度、居住まいを正した。


「負担ばかりかけて悪いが、春にまた時間を空けて欲しい」

「またですか」

「お前を奴隷から解放するのは、本当はこちらが理由だ。陛下の即位二十周年を記念して、王都で祝賀の会がもたれる」


 それで、か。

 さっき王都に行くといったのは。


「それで、お前には、お嬢様の侍従としての役割を果たして欲しい」

「他に誰かいないんですか」

「いても、お前が最適だ」


 面倒そうだ。

 きっと堅苦しい場所で、またオブジェになるんだ。


「それはありがとうございます」

「お嬢様も喜ぶだろうし、何よりお前には戦う力がある。滅多なことは起こるまいが……先程の伯爵の話もあるからな」


 ……なるほど、無理もない。

 イフロースにとっては、主人の命は何より大事だ。伯爵の件がなくても、健康状態の悪化が危ぶまれる現国王、そして貴族同士の勢力争いも激しくなってきているこの情勢だ。

 お嬢様は以前、誘拐されかけたことがある。もちろん、通常の護衛も配置するのだろうが、それ以外にも、見えないところに武力を置いておきたいと思うのは、当然のこと。


「で、そうなると……お嬢様が付き合うお相手は、皆、貴族の子女だ。中には王家の人間もいる」

「はい」

「奴隷の立場では、そこへは連れていけない。だから、自由民になってもらうしかない」


 なんか、アレだ。

 前世の、ほら、なんつったか。

 名目だけ管理職、みたいなノリか?


「なんか、僕の都合がひとかけらもないんですが」

「下僕とはそういうものだ。諦めろ」

「容赦ないですね」

「その分、報いてやる。頼むぞ」


 そう言いながら、彼は俺の肩を叩いた。

 全然報われてない気がするのだが。命懸けだったんだぞ、アネロスの相手は。


 まぁ、その辺の話は後にしよう。

 とりあえず、店を開けなくてはいけない。薬のストックが切れているから、三日は仕事漬けになりそうだ。さっさと家に帰らないと……

 俺は腰を浮かせた。


「では、これで失礼しま……」


 あ……れっ?


 一瞬、クラッ、ときた。

 なんだ?


「む……フェイ?」

「は、ふぁい?」


 あれっ?

 急に。

 急に口が。


 何か、体の中に針金でも詰め込まれたみたいに、うまく動かない。


 まっすぐ立とうとして、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。

 なんだ、なんだこれ?


「フェイ!」


 イフロースが血相を変えて立ち上がる。

 怒鳴らないでくれ。耳元で響く。

 と思ったら、急に静かになった。ドスッ、という音がして、視界が切り替わる。分厚い絨毯の上、水平に立つイフロースの足が見える。


 ……なんだ、どうして、なにが。

 思考が、まとまらない。


「しっかりせよ! どうしたのだ……」


 声が遠い。

 視界が薄暗くなっていく。


 どうして。

 どうして……

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