リンガ村にて

 整備状況の悪い路面を、ガタゴト揺れながら進む。車輪に弾き飛ばされた小石の音が、ひっきりなしに聞こえる。

 もうすっかり冬だ。空気は冷たい。だが、幸いにして、今日は快晴だ。風もない。


 馬車の中は無言だった。といっても、微妙な雰囲気を醸しだしているのは、ジョイスだけだ。イーパはというと、この気持ち悪いティンティナブリアから脱出できて、心底嬉しいといった様子だった。天気もいいし、身も心も軽い。そんな表情をしている。

 それに対して、ジョイスは、薄暗い馬車の中で下を向いてしまっている。俺と目が合うと、慌てて顔を伏せる。

 多分、怖がっているのだ。


 今朝、許可証を取りに行くついでに、伯爵のところにも顔を出した。子爵への返事の手紙も受け取って、さあ、城を出ようという時だった。

 あの、地下鉄の構内のような城下のロータリーを一周して、西側の出口から馬車を走らせる時に、数人の男達が木の板の上に何かを載せていたのとすれ違った。目立たないように布をかぶせてあったが、ジョイスにとって、それはないも同然だ。なにせ、望めば物体を透過して見られる上に、心もガラス張りなのだから。

 あれはシトールの死体だった。どこか川底で岩にでも引っかかっていたのだろう。城壁から落ちたのは昨日の夕方だから、すぐに探しに出たとしても、夜間の暗さもあって、発見できなかったに違いない。翌朝、広い範囲を捜索したら、見つかったのだ。それが引き上げられ、首実検されて、今、こうして城内に運び込まれている。

 ジョイスは心が読めるから、わざわざ兵士達に近付かなくても、彼らの心の中にあるシトールのイメージが見える。体中につけられた拷問の形跡も。焼け焦げた足、引き裂かれた脇腹、穴だらけの指先。身震いするような、無残な死だ。

 そして。ジョイスは、昨日一日、俺が留守にしていたのを知っている。俺はジョイスの憤りを目の当たりにしていたし、あの状況でわざわざ子爵家の仕事などと宣言してまで行くような場所があるとすれば、どう考えても城の中しかなかった。つまり、ジョイスは、俺が、行きがけの駄賃とばかり、シトールを惨殺したのだと思っている。


 実際には、惨殺されたのは、またしても俺だったのだが。とてもじゃないが、昨日の午後の凄まじい拷問は、ジョイスには見せられない。イーパにもか。二人とも、きっと卒倒してしまうだろう。あんなに痛い思いをしたのは、前世でも今回の人生でも、初めてかもしれない。戦闘中の打撃や負傷と違って、あの手の痛みは、本当に苦しい。

 まぁ、こうして出発できて、俺も嬉しいといえば、嬉しい。あのティンティナブラム城は、今はもう、魔窟といっていい。いくらおいしい獲物がいるからといって、長居したいとも思えない。ちょっとしたことで罰を受けたり、疑われたりして、あっという間に死刑だ。すぐに正気をなくしてしまう。


 最後の坂道を乗り越えたところで、また大きく馬車が揺れる。

 さらば、ティンティナブラム城。俺のいないところでなら、戦争でもなんでも、勝手にやってくれ。


 さて、次の目的地は、そんなに遠くない。

 俺がイーパに頼み込んだ。


「もうちょっといったところで、脇道に入ることになるんだ」


 行き先はリンガ村。だから、この街道に沿って進むと、行き過ぎてしまう。盆地の南西から、フォレスティア中央部に向かうこの道だが、少々南寄り過ぎる。エキセー川の水源は、ティンティナブリアの西側の山脈だが、その麓にあるのがリンガ村なのだ。


「一日じゃ着かないから、到着は明日の朝かな」


 確か、そんな感じだったと思う。前に領主に陳情に向かった村長も、片道二日ほどかけていたはず。


「済みませんね、寄り道なんかさせてしまって」

「いやいや、これくらいはね。それに、誰だって故郷には思い入れがあるもんだしさ」


 故郷、か。

 俺の故郷は、どこなのだろう?


 それは、前世の日本か? だが、あそこに何がある?

 家族を虐待し、我儘放題に生きて、最後は認知症で散々俺を振り回した挙句に死んだ父。ニコチンとアルコール、それとパチンコに溺れて、いつもヒステリックに喚き散らし、癌で死んだ母。その二人の墓と、女好きの上の兄、刑務所の檻の中の下の兄。それと、彼らから背負わされた借金の残りが少々。

 でも、見慣れた東京の街を歩いたら。いい思い出もなければ、友達もいなかった学生生活ではあったが、それでも校舎を見上げたなら。アルバイト先だったうなぎ屋の裏手に立ったら。思い浮かべるだけで、心が揺さぶられるような気がする。


 それとも、ミルークの収容所か?

 今のところ、この世界で俺が一番長い時間を過ごした場所は、あの四角い建物の中だ。リンガ村には二年半しかいなかったし、子爵家に引き取られたのは六歳の時点だから、これも二年経っていない。だが、あそこでは三年以上を過ごした。

 リンガ村の養父は大酒飲みのろくでなしだった。それに対して収容所での養い親だったミルークは、一見冷酷だが、実は知的で懐の深い人物だった。前世から、自分を引き取って育てた人物を列挙していくと、何人もの顔が浮かんでくるが、誰か一人を親に選べと言われたら、俺は迷わず彼を指名する。

 でも、あそこは奴隷収容所だ。子供が里帰りするような場所ではない。きっとミルークも、それを望んではいないだろう。


 そして、リンガ村だ。

 侘しい、どこかいじけた雰囲気の漂う寒村だった。

 行動範囲が限られていたこともあって、どんな村だったかと言われても、きれいに思い出せない。もちろん、部分的には覚えている。だが、全体像が浮かんでこないのだ。


 それでも、確認しなければならない。何もわからないかもしれないが、もしかしたら、今の俺にも、何か影響を及ぼしているかもしれないものがある。

 あの女神の像の裏手に行けば、今でも白銀の鹿に出会えるのだろうか?


 昼前、ある地点で、イーパは馬車の向きを北西に変えた。何年間も整備されず、人も通らなかった砂利道へと突っ込んでいく。

 周囲の森は鬱蒼としていて、およそ人気というものを感じさせない。冬ということもあり、葉の落ちた木も多いので、そこまで暗くはないのだが、代わりに動くものも見当たらないし、物音もしないのだ。

 故郷、と言われても、まだ実感が湧かない。この辺り、俺は初めて通るのだ。かつて伯爵に面会するため、驢馬に乗っていった村長は、この風景を目にしているはずだが。

 あまり距離を稼げた気がしなかったが、夕暮れになって、イーパは馬車を止めた。手にした地図によると、もう、目と鼻の先らしい。今日は早めに休んで、明日朝早くに出発しよう、ということになった。


 翌朝、夜明け前に、俺達は目覚めた。ほぼ無言で軽い食事を済ませ、馬をせきたてて進む。

 ほどなく、森を抜けた。


 そこは一面の草原だった。丈の高い枯草が、吹き荒ぶ北風に押しのけられて、聞き取れない囁きを交わす。まだ西の空は、濁った色をしていた。夜明けの橙色と、真夜中の藍色、それに灰色の雲が交じり合ったまま。そんな中を、ただ進む。

 夜が明けてきた。馬車が枯れ草を押し分ける以外、何も聞こえない中に、ふと、新たに混じる音があった。水音だ。

 馬車を止める。飛び降りて、草を掻き分けつつ、前へと出る。ほどなく、草叢のカーテンは途切れ、目の前が開ける。

 冷たい清水の流れる、エキセー川の源流。それでも、まだ川幅は二メートル弱ある。


「イーパさん」

「うん?」

「近くに石の橋があるはずです」


 ジョイスと俺とが、手分けして左右を見に走る。程なく、南向きに走ったジョイスが、それを発見する。

 そう、ここだった。


 記憶の中では、もう少し大きなものと思っていたのだが、現に見てみると、案外小さな橋だった。作りはしっかりしているが、欄干も大人の膝くらいまでの高さしかない。幅もそんなには広くない。イーパの馬車が、辛うじて通れるくらいか?

 夜が明けてきた。橙色の光が、後ろから俺達を照らす。そして、俺は見た。


 橋のこちら側。石組みの上に残る、黒いしみ。

 あれから何年も経ち、そのほとんどは雨に洗い流された。それでも、石と石の狭間に流れた血の痕までは、消えなかったのだ。


 俺はあの時、恐怖と不安に戸惑いながら、この橋を渡った。そして、兵士達に串刺しにされ、アネロスに斬られた。

 下流のほうに目を向ける。

 たった二メートルほどの川幅の間に、俺は浮いていた。蛇行しながら、遠くの森へと繋がるこの川を、俺はひたすら流されていったのだ。


 となると。

 俺は対岸に渡り、足元を見回す。たぶん、あの辺り……

 少し手間取ったが、見つかった。


 鉈、だ。


 あの日、あの時。

 俺が殺戮の夜を生き延びるために、やったこと。

 今では夢か幻のように思われるのだが、確かにあった出来事。


 木の取っ手の部分は完全に腐蝕して、なくなっている。

 金属部分が残っているが、全体がひどく錆びている。


 俺が奇妙な場所に釘付けになっているのが気になるのか、ジョイスが駆け寄ってきた。


「なんなんだよ、それ」

「……鉈」

「ナタ? なんでそんなもん、いちいち探してんだよ?」


 顔をあげ、ジョイスをじっと見る。


「俺がこれで、両親を殺したからだ」


 ジョイスが息を呑む。

 言わなくていいことだった。だが、なぜか自然と喉の奥から出てきた。


「戻ろう」


 口止めは、不要だろう。

 ジョイスの表情を見ればわかる。


 石の橋を馬車で越えるのには、難儀をした。それでも何とか渡りきってしまうと、あとはもう、簡単だった。足元は意外と固く、馬車で進むのに問題がなかった。

 流れるように草原を走っていく。こんなものか。あっさりしすぎている。かつて、ここを走った俺は、どこまでも続く闇の中にいるような気持ちだった。不気味な草原は途切れることなく、俺はどこまで行けばいいかもわからず。そんな時間を過ごしたはずの場所を、まるで省略するかのように。


 ほどなく、遠くに村落が見えてきた。初めて見る景色だ。俺は、村をこちらから見たことがなかった。


「着いたね」


 そういって、イーパは馬車を止め、村の外れの大木に、馬を繋ぎとめる。


「ゆっくりしておいでよ」

「済みません」


 一礼して、俺は一人、歩き出す。


 夜はすっかり明けていた。頭上には青空、それにいくつか白い雲が見える。肌寒かった。

 無人になってしばらく経つリンガ村だが、少し離れた場所から見る分には、そこまで荒れ果てているようにも見えなかった。足元の道も、踏み固められてきたせいか、いまだに草が生い茂っていたりもしなかった。


 だが、近付くにつれて、違和感が増してくる。

 村外れの納屋。村の外側からはなんともなかったが、回り込んでみると、半分黒焦げで、ぺしゃんこに潰れていた。

 やはり領主軍の襲撃を受けたのだ。


 そのまま村の中心に向かう。ここで、あるべきものがないと気付いた。鐘楼だ。

 村の中心には、木組みの物見台があった。甲高い音をたてる銅鑼があって、祭りの時とか、火災のあった際には、打ち鳴らされていた。

 広場に着いて、その理由がわかる。根元に火を掛けられ、倒れたのだ。横倒しになった柱と木組みが、朽ち始めている。その横には、三つのサイロがあった。これも、それぞれ壁や天井が燃え尽きて、がらんどうになっている。サイロの脇の、木材の山は、そのままだった。収穫祭の日、俺はここに座っていた。


 先に進もうとして、俺は見つけてしまう。思わず呻き声を漏らすところだった。

 白い塊。思わず目を逸らしたくなる。なのに裏腹に、足は前へと進んでいく。


 白骨の山だった。

 大きなものも、小さなものもある。頭蓋骨しか数えていないが、だいたい十人分くらいの骨だ。


 これだけの人間がまとまって死んでいるということは。村人同士の争いによるものではない。アネロスは、ここでもやったのだ。生き残りをかけて、剣で勝負せよ、と。ここの骨は、誰のものだったのか。

 だが、これを見てしまった以上、俺には寄らなければいけないところができた。女神の聖域は、村の北側にあったはずだが、俺は一転して、南に足を向ける。


 途中、一軒の土壁の家が目に付いた。なんとなく引っかかる。あれは……

 そうだ。思い出した。あの婆ぁの家だ。

 あまり気持ちのいい思い出ではないが、ついでだからと、俺は中に入る。


 ここも焼け焦げていた。玄関近くの壁際に、一組の白骨死体があり、そこに槍が刺さったままになっている。領主軍は、一人の生存者も出すまいと、とにかくしらみつぶしに殺して回ったのだ。

 軋む扉を押して、奥の部屋を見る。ここはほぼ、当時のままだった。汚らしい寝台も、壁際に並べられた茶色の壷も。ただ、壁際に小さな骨と、血の滲んだ痕がある。ということは、ここの老婆も子供を食べたのだ。骨の量からすると、多分、そのきれっぱしだけをだが。


 リンガ村の最期は、ここまで悲惨だったのだ。子供を殺して食べる、まさにこの世の地獄。そこへ更に兵士がやってきて、誰彼構わず虐殺だ。

 ただ、この老婆に関しては、同情する気になれない。本来なら、俺が殺していてもいいくらいだ。そういえば、銅貨五枚で俺を買ったのだったっけ。取り返してやろうか。いや、僅かでも現金が残っているはずもないし、そんな手間をかけるのも馬鹿らしい。

 壷の中の薬は、もう劣化していて、どんな調合をされたものなのか、正確には判断できない。ただ、薬物の知識を得た今の俺からすると、あまり健康によくない刺激物の塊だったように見える。わざわざ持ち帰る値打ちもなさそうだ。


 ここを出ると、もう、かつての我が家は目と鼻の先だ。ここから少し、坂道になる。リンガ村の南端にあった実家からは、村全体を見下ろすことができた。

 左側の段々畑を見ながら歩く。もう手入れされることのない麦畑。ポツポツと、麦の残骸が目に付くが、ほとんどは雑草だった。この世界で最初に見た景色、それが、ここで風に揺れる、まだ青い麦達だった。


 実家には、火の手は及んではいなかった。照明のためにランプに火を点してはいたが、他に燃え移ることもなく、そのまま消えたらしい。

 開けっ放しの入口から、一歩。しん、と冷え切った薄暗い家の中。知らず、胸のうちが締め付けられるような気がした。


 一瞬、異臭がした気がした。血の、腐ったような。

 そんなはずはなかった。


 家の中の広間。床一面が黒く汚れている。あの時、流された血の痕だ。そこに転がる、三組の白骨。

 一つは、頭頂部に割れ目が入っている。ということは、これが……俺の母親だ。

 その横の、大柄で、見るからに骨太なのが、義父。

 そして、ボロ布の内側から、顔だけ出している白骨が、あの時の少年なのだろう。


 血の臭いなど、残るはずもない。

 密閉されていない場所で、数年間が過ぎたのだ。とっくに周囲の野生動物が、昆虫達が、死骸を食い荒らしたに決まっている。


 見たからといって、今更、何があるでもない。

 彼らは、俺の親だった。だが同時に、俺を殺そうとした奴らでもある。

 だが、胸の奥に、疼痛のようなものが滲んでくる。


 脇の扉は開けっ放しになっていた。俺があの時、プノスの体で水を飲んだ、そのコップがそのままに置かれている。

 あのベッド。埃まみれになっているが、あの衣類は、母親のものだろう。プノスの肉体を乗っ取った俺を誘惑してきた、その時の姿が思い出される。嫌悪感でいっぱいになった。あの時だけでなく、俺が生まれて二年間、ずっとあの調子で、いろんな男と寝てきた。そして俺は、逃れようもなく、この家の子供だった。

 ふと、朽ちかけた木の器が視界に入る。あれは……ここで俺が、ファルスとしての俺が最後に食べた、麦粥だ。痺れ薬入りだった。抱きすくめられて、人の肌の温かみを感じて、一瞬喜んだ自分を思い出す。

 用済みの毒粥の後始末をする前に、二人は死んだ。殺さなければ、殺されていた。プノスとどんな人間関係があって、あそこまでの殺し合いに至ったのかは、永遠の謎となった。


 ここで起きたこと。すべては現実だったのだ。


 家を出る。

 感傷と同時に、どこか冷めた部分が、ある事実を認識する。

 あの殺戮の夜の、ほぼ直後だったのだ。アネロス達が村を攻撃したのは。でなければ、彼らの死骸が手付かずで済んでいるなんて、あり得ない。村の誰かが気付いたなら、きっと食べていたはずだから。


 そう考えると、俺が村を脱出したのは、まさにギリギリのタイミングだったことになる。

 あのまま、俺がピアシング・ハンドの能力に覚醒することもなく、村外れの隠れ家にいたとしたら。

 領主軍に発見されていれば、間違いなく殺されていた。もし捜索を免れても、食べるものがなかった。それはそれで、餓死していただろう。


 村の中心に戻り、北側に向かう。そういえば、この近くに、俺の『秘密基地』があったはずだ。


 どこだったかと探し回るうち、先に別の物を見つけてしまう。プノスの家畜小屋だ。

 こんな場所だったか? と思ったが、証拠が残っていた。入口の左側に残る砥石と水瓶。入って左側には、土にまみれた子供用の衣類の残骸。

 ここで俺は、はじめての殺人を犯した。


 あの時には、未来なんて想像もつかなかった。

 気付けば俺は、あの頃よりずっと「この世界の人間」らしくなっている。何もかもを前世日本と比べていた幼年期。今では、自動車でなく馬車、ガスでなく薪で沸かす風呂に、俺はもう、慣れてしまった。


 少し進むと、川沿いに、それが見つかった。

 当時はカモフラージュとして、倒木の隙間に仮設キャンプを組み立てたのだが、時と共に、それは本当に目立たない場所になっていた。

 汚れた金属の器が見える。それと、籠が三つ。一つを開けてみる。中には縮んだ虫の死骸がいくつか転がっていた。およそ食べ物には見えなかった。


 こんなところで。こんなものを食べて。


 この世界、ひどすぎる。

 ここまでして生き延びようとしたのに。結局は人を殺し、血に塗れ。奴隷となって。

 結局俺は、俺の生まれた場所を、全部ぶち壊した。それだけが生きる道だった。


 全身に重石が載せられたようだった。鈍くなった肉体を引き摺るように、俺は北へと歩いた。


 いよいよ俺は、問題の場所へと足を踏み入れた。

 祭りの日に通った道。広場を通り越して、辿り着いたのは、祝福の女神らしき石像の前。

 当時二歳の俺は、ここを通り抜けて、更に奥へと入り込んだのだ。


 しかし、見覚えがある割に、どうにも違和感が拭えない。確かに、あの時は秋の初めで、今は冬だ。葉を落とした木々も多いから、景色が寒々しいのも、無理はない。だが、それにしてもだ。ティンティナブリアの他の地域と同様、やけに荒んだ雰囲気が漂う。いってみれば、無人の家のような。

 そうだ。「無人の家」……この言い回しが、しっくりくる。主を失って数年、生活感の微かな残り香が、心を刺すような、そんな印象が。

 確かにあの時も、夕暮れ時で、辺りは暗かった。だが、なんというか、温かみのようなものがどこかにあって、俺は不安など感じなかった。ところが今はどうだ。危険がないのを知っているから、恐怖はない。だが、大事なものが抜け落ちたような物寂しさ、空漠とした雰囲気が辺りを覆っている。


 落ち葉を蹴散らし、枯れた小枝を踏みながら、俺は奥を目指す。ほどなく水音が聞こえてきた。あの小さな滝だ。

 自然と俺は思い浮かべた。あの美しい場所。何年経っても忘れられない。リンガ村にいた頃で、一番気持ちが安らいだのは、あそこだ。


 だが、目にした光景は、俺を落胆させるのに充分だった。

 かつて身を横たえた丸い石の脇から、何本も雑草が伸びてきている。それらはひょろ長くて、どれも季節のせいか、枯れかけている。かつては澄み切っていたはずの水も、やや濁っていた。無数の落ち葉がいぎたなく溜まりこみ、流れ落ちる滝の衝撃で小刻みに揺れている。その水音もどこか無機質で、何の感情も宿していなかった。滝を取り囲む木々にも、あの時感じたような優しさ、見守られているかのような安心感などなく、みんなそっぽを向いて、ただ無表情にその場に立ち尽くしているのみだった。

 そして、周囲を見回しても、何の気配もなかった。真っ白な鹿が、突然、姿を見せたりもしなかった。


 なぜだ?

 どうしてこうなった?


 実は立ち入り禁止の聖域といいながら、あの頃もリンガ村の一部の人間が、いちいち清掃していたとか? 誰も管理していないから、荒れ果ててしまったのか?

 違う気がする。もっと何か、重要なものがない。


 もしかして、伝説は真実を語っていたのか。

 白銀の女神は、流血を嫌った。だが、今から五年前のここで何があったか。村人同士が互いに殺し合い、その肉を食らいあった。その後、今度はアネロス・ククバンが住民を皆殺しにした。もし、女神がここにいたのなら、残虐行為の数々を目の当たりにしたことになる。

 ましてや、リンガ村はもう、廃村になったのだ。ここには誰もいない。千年前、彼女を拒んだ人々の子孫。それすらも。


 いや。

 今、ここに、俺がいる。

 こうして、彼女の存在を確認しにきたのだ。

 村を出た時に助けてくれたのなら、お礼を言いたい。そして、できれば真実を教えて欲しい。


「……誰か」


 声をあげてみる。なぜか喉がかすれた。


「いないのか。もし、この声が聞こえているなら」


 俺の言葉は、無情の空気の中に吸い込まれて、響きもせずに立ち消えていく。


「教えて欲しい。本当のことを」


 滝が無視を決め込んで、騒音をたてる。

 俺に返事をしてくれるものは、どこにもいなかった。


 駄目なのか。

 そうかもしれない。俺は、殺しすぎた。


 村が飢餓に見舞われてから、俺は食べるために、昆虫を殺しまくった。これについては、きっと許してくれたのだろう。その後、両親を手にかけた。生きるためとはいえ、ひどいことをしたものだ。だがこれすら、女神は見逃してくれたのかもしれない。

 だが、その後は。収容所を出て、子爵家に引き取られてから。力があるからといって、俺は無闇に戦いを挑み、六人もの海賊を殺した。そしてここ、ティンティナブリアでも、また一人。

 殺したくて殺したのではない。だが、それでも、十人もの命を絶ったのだ。


 不思議の羽衣で、女神は姿を隠してしまったのか。

 だから、村からも、この滝からも、豊穣が失われてしまったのか。

 でも、それでは、どうすればよかったのか?


 ……俺が生まれ、生きたこと、それ自体がいけなかったのか。

 永遠に、あの紫色の死者の世界に留まっていれば。

 でも、そうだとしても。それなら、せめてここに姿を現して、俺の過ちをはっきり指摘して欲しい。許してくれとは言わない。ただ、罰を受けるのなら、納得して罪に服したいと思うだけだ。


 だが、俺が心の中で何を思おうと、何も変わらなかった。

 冬の冷たい風が吹き過ぎていき、枯れかけた草が一瞬、冷たい声色で噂話をした。


 見るべきものは見た。

 これ以上、どうしようもない。

 俺は、黙って踵を返した。


「……ん? もういいのかい?」


 大木の下で日向ぼっこをするイーパが起き上がって、近付く俺に声をかけてきた。


「ええ」

「急がなくってもいいんだよ?」

「見るべきものは……もう、見終えましたから」


 そう言って、俺は振り返る。


 リンガ村。

 この世界における、俺の出身地。

 そこはもう、死に絶えていた。


 青空の下。大きな白い雲がいくつも流れていく。遠くに白い背中の山脈が見える。その清々しい景色の中に、小さな村が佇んでいる。

 その村は、意外なほど、あっけらかんとしていた。村人が生きていた頃の、あのじとじととした、汗臭さのようなものは、きれいさっぱりなくなっていた。誰もいない。何もない。風は右から左へと吹き抜けていく。村はただ、口を開けたまま、風のなすままに任せている。


 さようなら、リンガ村。

 きっと俺はもう、二度とここへは戻らない。

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