地下の訓練場にて
暗闇の中で、俺はほっと息を吐く。
二人を言いくるめて、追い返した。近くにいないことを確認した上で、シトールの着衣を回収する。そしてたったついさっき、肉体を乗り換えた。途端に顔に火照りを感じる。昼間、ジョイスに散々打たれたせいで、腫れ上がっているのだ。
服を着て、革の鎧を身につけ、剣を腰に帯びる。さて、どうしたものか。
仮にも城詰めの兵士なのに、夜中にこんな風に出歩くなんて、問題にならないだろうか。まず、気になったのはそこだった。
しかし、どうやってかは知らないが、うまいこと許してもらえる方法があるはずだ。でなければ、仕返しなんかのために、わざわざ夜這いになど出かけられない。
とりあえず、歩く。目指すは城だ。
川沿いをしばらく歩いたが、ふと、スラムのほうが気になった。この時間に焚き火をしているのが、遠目に見えたからだ。
昼間の事件があったから、どんな目に遭うか……そう思ったのだが、杞憂だった。ついでに、城にこっそり戻る心配についても、無用だった。
なんのことはない、真夜中に兵士達が堂々と、スラムの女どもとイチャついているのだ。安酒で顔を赤くした男が、胸をあらわにした女にむしゃぶりついている。かと思えば、黙って女を品定めして、小屋の中に消えるのもいる。
これはひどいものだ。いったい、城内の秩序はどうなっているのか。
「シトール? わぁ、ひどい顔ねぇ」
声をかけられたのが自分と気付くのに、数秒かかった。
はっとして振り返ると、そこには、ねとつく視線を向けてくる、色白の女が立っていた。この寒さなのに薄着だ。豊かな胸のふくらみが、いやに目立つ。
これはよくない。シトールの個人的な知り合いか?
もちろん、城の中に入れば、そういう厄介な奴は、もっと大勢出てくるだろう。そのうち、ごまかしきれなくなるのは避けられない。ただ、なるべくなら、周囲に疑念を抱かれる前に、そっと姿を消したいと思っている。ここで変な足跡を残していきたくはないのだ。
「ほっとけ」
不機嫌を装い、短くそう吐き捨ててみせた。
普段、彼が彼女にどう話しかけていたか、わからないからだ。機嫌が悪ければ、いつもと違った態度をとっても、そこまで変には思われない。相手を遠ざけるにも都合がいい。この打撲傷だらけの顔も、その意味では役に立つ。
「ねぇ、ほんとなの? 子供にやられたって」
「うっせぇな」
「あっ、待ってよ」
本気で怒らせたと思ったのか、女は慌てて俺に追い縋ってくる。
腕に指を絡ませて、俺の肩に頬を寄せる。
「ねぇ、どこに行くの?」
「城に帰る」
「えっ? まだそんな時間じゃないでしょ?」
「そんな時間だ」
「……でも、今、戻ったら、逆にヤバいでしょ? どうせ開いてないと思うけど」
最初はこいつをいかに追っ払うか、それしか考えていなかったが、最後の一言で足が止まる。
もしかすると。
まず、ここにいる兵士ども。夜間外出が常習化しているが、これは多分、伯爵に公認されているものではない。となると、門番とか、顔役の隊長あたりに金を払って、出してもらっているものと推測できる。
そうなると、夜明け頃のどこかのタイミングで、こいつらはまた、城内に戻るわけだ。そしてその時間でないと、門番も出入りを許さない。そもそも、夜遊びの途中で帰ってくるような奴なんて、普通はいないだろうし。
……となると、ここで一人、城に向かって歩くというのは、かなり不自然な行動ではないか?
「ねぇ、ねぇったら!」
俺が思考に沈んでいるうちに、女は不機嫌になり始めた。
「もしかして、また他の子に乗り換える気? 昼間のだって、アレでしょ、きったないのをタダでやろうとしたって聞いたわよ! なによ、散々、あたしに言い寄っておいて」
「あー……わかったわかった」
今夜は、城に戻るまでの間は、こいつの小屋の中で過ごすとしよう。
「浮気なんかしないから、少し静かにしてくれ」
「じゃあ、うちにくる?」
「そうする」
俺がそう答えると、女は一転、喜色満面だ。もちろん、シトールが好きなのではなく、もらえるお金が嬉しいのだろうが。
他のと区別できないボロい小屋。だが、ちゃんと立ったまま中に入れるだけマシだ。戸をくぐり、閉めると、室内の蝋燭の灯が、顔の火照りを思い出させる。この寒さの中、こんな小さな火があるだけで、ずっと温かく感じる。不思議なものだ。
シュルッ、と音がした。狭い小屋の中、首を回すまでもなく、すぐにわかった。女は、薄い上着を肩から滑らせ、いまや下着姿だ。
「ま、待て」
どうする? どうすれば?
「ん? なに? また脱がしたいの?」
振り返った女は、トトッ、と歩み寄って、表面だけ冷えた、柔らかな肌を擦り付けてくる。
これはまずい。
「今日は疲れてるんだ。だから、寝るだけだ」
「えー!? ちょっとぉ、何しにきたのよ」
「金は払う。いいだろ」
「なによそれ。やっぱり浮気してんじゃん」
「してない」
そう言いながら、俺は懐をまさぐる。指に一枚、引っかかる重み。この前、こいつがイーパから巻き上げた「通行料」だ。
「ほら」
「わっ! 金貨ぁ? ねぇ、シトール? あんた、どうしちゃったの?」
「やるから、静かにしろ」
「う、うん」
ベッドの上で正座して、手元にきらめく貴重な一枚に見入る女。
やや不自然ではあったか。だが、こうするしかなかった。
本物のシトールなら、この程度の傷など構わず、この女を抱いたかもしれない。むしろ、ジョイスにぶちのめされた憂さ晴らしも兼ねて、派手に遊ぶことだって考えられる。
だが、だからといってそれをしてしまうと、余計にリスクが高まる。俺は、シトールがこの女をどんな風に抱いていたか、まったく知らない。もし、俺が普段と違ったやり方で楽しんでみせたら、こいつはびっくりするだろう。
それにまた、すぐに寝てしまわないと、余計な会話が発生する。俺にはピアシング・ハンドがあるから、この女の本名ならわかる。とはいえ、うっかりその名前で呼びかけると、ドツボにハマる可能性がある。この女が、シトールと本名で呼び合っていた保証などないのだ。それにシトールの普段の興味関心がどこにあったのか、この女と何を話したかなど、知る余地もない。
だから、余計なことはせず、すぐに寝る。
「城に帰る時間になったら、起こせ。遅刻したくない」
「あ、うん、わかった!」
大金を手にして、上機嫌になった女は、素直に頷くと、ベッドに横たわる俺の体に絡みつき、上から毛布をかぶせてきた。
「……起きて、シトール、そろそろだよ」
いつの間にか、本当に眠ってしまっていたらしい。
揺り起こされて、ハッとする。
「ああ、そうだな、すぐ行かないと」
「もうみんな、帰り始めてるよ」
「わかった」
俺は素早く身支度を済ませて、小屋の戸を押す。だが、そこで後ろから、女が抱き着いてきた。
「ね」
めいいっぱい甘えた声を出しながら、彼女は足を絡ませてきた。
「今度は寄り道なんか、しないでね?」
そう言ってから、唇を重ねてくる。
腹立たしいものを感じながらも、あえて表情を変えずに、俺はそれを受け入れた。
この女とシトールの関係は、どんなものだったのか。あんなクズ野郎でも、必要とする人間がいた? それとも、ただの金ヅルか? 後者であって欲しい。
朝靄の中、スラムの中央を貫く大通りには、何人かの男達の背中が見える。みんな城の兵士だろう。黙ってこいつらについていけば、無事に城内に入り込めるというわけだ。
「お? シトール!」
後ろから声をかけられた。またか。
舌打ちしながら、声のしたほうを振り返る。
「どうだった」
「なにが」
「はぁ? お前、何しにきたんだよ?」
「ああ」
多分だが、ジョイスの件だろう。
あんなガキにやられっぱなしでは、メンツも立たない。だから、仲間内には、仕返しにいくと公言していた。恐らくは、そういうことだ。
「ボコボコにぶん殴るまではやったんだが、逃げられた」
「おい」
「しょうがないだろう? 大人の……あのグルービーの部下って奴が出てきたんだ。そっちはやっちまうわけにもいかねぇしな」
「たーっ、なっさけねぇなぁ? 俺がせっかく、情報仕入れてきてやったのに」
「また行けばいい。今夜にでもぶっ殺してやるさ」
だが、俺の言葉を負け惜しみと取った男は、残念そうに溜息をついた。
ゾロゾロと群れを成した男達は、城門に繋がる橋には向かわず、川べりの小船に続々と乗り込んだ。ギィ、と音がした。城に向かって漕ぎ出していく。何食わぬ顔で、俺はそのまま座っていた。
誰も何も言わない。だが、みんな、慣れているはずだ。この後、どうすればいいか、ちゃんと見て、うまく合わせる。
小船はすぐに、城のすぐ下に到着した。だが、目の前には分厚い城壁が横たわるのみ。とてもではないが、登れそうにない。
そう思っていると、頭上から、縄梯子が降ってきた。二十メートルは上にある窓からだ。男達は、手馴れた調子で、縄の先端を小船の両脇にある取っ手に結びつける。それが済むと、前にいる者から、梯子をするすると登っていった。俺も遅れずについていく。
全員が城内に入ると、今度は縄梯子と、その先に結わえ付けられた小船を回収する。全員が縄を引っ張って、移動手段を引き上げるのだ。これまた当たり前のように手伝う。
ほっと一息。
これで無事、城内に潜入できた。
周囲を見回す。薄暗い倉庫のような部屋だった。古びた木の棚に、大きな壷や、スコップなどが詰まれている。どれも埃をかぶっているところを見ると、普段は使用されていないのだろう。ただ、足元だけは、いつも兵士達が出入しているせいもあって、やけにツルツルしているが。
窓際の兵士が、手早く窓を閉じる。これでほぼ、室内は真っ暗になった。
誰も何も言わないが、行くべき場所がわかっているのだろう。どんどん廊下に出て行く。これは困った。とりあえず、同じように外に出るが……。
「おい、シトール、どこに行くんだ」
さっきの男が、俺に声をかけてくる。
「あんまりガキに殴られすぎて、ついに頭がパーになったか? お前の部屋はこっちだろ」
「あ、ああ」
危ない。
うっかりすると、とんでもないことになりそうだ。
まぁ、この顔も体も、シトール本人のものだから、まさかバレる、なんてことはないと思うが。いや、もし城内に精神操作魔術や読心術の神通力を使える奴がいたら……それも大丈夫か。少なくとも、ジョイスには俺の心が見えなかったらしいし。
兵士達の寝床に到着した。
さっきと変わらず薄暗い部屋で、二段ベッドが左右に並べられている。プライベートな領域は、ベッドの上だけらしい。俺の寝床は、下の段の右側だ。
そこに身を投げる。粗末なシーツに、粗末な枕。居心地がいいとはとても言えない。兵舎なんて、こんなものだろうが。
「おい、何寝てんだよ。すぐメシだぞ」
「あー」
俺は適当に返事をしながら、周囲の様子を観察した。全員が起きて、革の鎧を身につける。身支度が済むと、連れ立って廊下に出る。そのまま、下層階の食堂へと向かう。
かなりの広さの部屋に出た。一度に四、五百人は座れるんじゃないかという、大部屋だ。それにしても、大人数が食事をしているはずなのに、やけに静かだった。遠くから、厨房の物音がよく聞こえる。食事中に喋る奴がいないからだ、とすぐに気がつく。
はて、こんなものだろうか。
兵士といえども人間だ。そして、今は戦時中でもない。食事中に口をきいたって、問題ない気がするのだが。そもそも、夜遊びしまくる連中がいる時点で、軍紀なんて、ないも同然なのだし。
異様な雰囲気の中、俺は順に並んで、トレイの上にパンとスープを受け取る。適当なところに座って、食べ始める。
まずい。
一口食べて、そう思った。
いろいろ思い返す。確かに、ゴキブリスープよりはマシだ。しかし、ピュリスで普段、俺がアイビィに食わせているようなものと比べると、天と地の差がある。料理の仕方も雑だし、そもそも素材もよくない。塩も豆も節約した、味気ないスープに、古くなりかけた黒パン。うまいはずがない。
ただ、これが理由ではないだろう。みんな急いで食事をしている。それも、緊張した面持ちで、だ。この後、何かあるんだろうか?
空気を読まずに行動するとどうなるか、俺は子爵家でそのことを散々学んだ。食えるものは食えるうちに。
「おい、急げよ」
さっきから俺と行動を共にしている男が、短く言う。
「次がつっかえてるんだ」
見れば、食堂に入りきれない兵士達が、廊下で並んで待っている。
「それに遅刻したら……見せしめにされちまう」
見せしめ?
どういうことだ?
俺が食い終わるのを待って、男はイライラした表情を見せつつ、立ち上がる。そのまま早足で食堂を出ると、更に下層へと急ぐ。俺も遅れまいとついていく。
更に下層に駆け下りていく。そう、駆け下りているのだ、みんな。その表情、誰もが緊張した面持ちで、まったく余裕がない。そうして走る中には、昨夜、スラムで見かけた顔もあったのだが、まるで別人のようだ。あの緩みきった顔が、今では恐怖に引き攣っているとさえ、いえるほどだ。
ほどなくして、広間に出た。さっきの食堂と同じくらい、いや、それ以上に面積がある。だが、広さは段違いだ。というのも、天井が高い。だが、圧迫感がある。この訓練場、窓がない。分厚い石の壁に覆われている。
訓練場? そうに決まっている。この殺伐とした雰囲気。兵士達は、きれいに整列して、直立している。そして、誰かが来るのを待っている。
足元には、砂が敷き詰められている。だが、足が沈み込んでいくような感じはない。どちらかというと、この砂の目的は……
ザッ、と足音がした。
途端に空気が変わる。
「敬礼!」
緊張の滲む声での号令が、どこかから響いてくる。
砂の上を踏みしめて、歩いてくる男。銀色のゴテゴテした鎧が目に付く。特に肩の部分の張り出し具合がすごい。全体として流線型が目立つデザインだ。なんか、実戦用というより、パレード用の鎧に見える。
顔立ちは、能面のようだった。肌は白く、目が細い。焦げ茶色の髪の毛は細く、ぺったりと撫で付けられている。どこか高貴さを感じさせる顔立ちだが、同時に酷薄さも滲ませている。その口元には、常にうっすらと笑みが浮かんでいるが、とにかく、俺には薄気味悪さしか感じられなかった。
ようやくその男は、俺達の正面までやってきた。
そして振り向く。
「点呼」
冷え冷えする声で、そっと言う。静まり返った空間の中で、それはうつろに響いた。
兵士達は、震える声で、自分の番号を叫ぶ。
これは、恐怖だ。彼らは、目の前の男を恐れている。
俺は、そっと指揮官らしき、その男をじっと見つめた。
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ルースレス・フィルシー (22)
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク6、男性、22歳)
・スキル フォレス語 6レベル
・スキル 指揮 4レベル
・スキル 管理 2レベル
・スキル 剣術 6レベル
・スキル 格闘術 3レベル
・スキル 暗器 5レベル
・スキル 軽業 3レベル
・スキル 隠密 4レベル
・スキル 罠 4レベル
・スキル 薬調合 5レベル
空き(12)
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……これは。
危険人物だ。
名前からすると、あのティンティナブラム伯の縁者だろうか? だが、貴族の称号がない。ということは、少なくとも実子ではない。
能力は高い。この世界では、第一線に立てる人物だ。のっぺりした顔をしているが、剣の達人で、指揮能力もそれなりにある。ここまで荒れた伯爵領をなんとか維持できているのは、きっと彼の力あってのことだ。
だが、なんといっても気になるのは、暗器のスキルだ。こんなの、初めて見た。隠密や罠、薬調合のレベルの高さと合わせてみると、とにかく不吉なイメージしか浮かばない。
「第三班、総員百名。全員この場におります」
報告を受けて、ルースレスは鷹揚に頷いてみせた。
「諸君」
その声色だけで、なんだか毒の爪が体に食い込んでいくようだ。
「日々の鍛錬、大変に結構だ。武芸は、常に実戦を意識しなければ、身につかない」
俺達の顔を見回しながら、彼は続ける。
「ただ……残念なことに、諸君らの中には、努力を怠る者もいるようだが」
一瞬、ギクッとする。
いや、俺がサボっているわけではない。この肉体の元の持ち主が、怠けていたのだ。だが、そのせいで、ルースレスに睨まれていたとしたら、まずい。
「それは、指揮官たるこの私の怠慢ゆえだろうな。この若さというのもある。本当に済まないと思うのだが、どうやら諸君らを退屈させてしまっているようだ」
その一言、一言に、兵士達は息を呑む。
誰もが不吉な何かを感じ取っている。
「今日は、きっと楽しめよう。普段は滅多にいらっしゃらない師範が、わざわざ、ここに来てくださるのだからな」
その言葉に、またも空気が変わった。
誰も声を出さない。だが、確かに今、俺はざわめきを聞いたように感じた。
師範。
こいつがそう呼ぶほどの達人……心当たりは、一人しかいない。
離れたところで、砂を踏みしめる音。
遠目でも、一瞬でわかった。
以前、そいつとは会ったことがある。言葉をかわしてはいないし、傍にいたのはきっと三分以下だ。だが、決して忘れない。忘れられない。
アネロス・ククバン。
俺を一度殺した男が、そこに立っていた。
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