ある晴れた日の出来事

 今朝も快晴だった。木の窓を押し開けると、外の澄んだ空気が流れ込んでくる。

 レンガの壁に覆われたこの小屋は、暖炉の熱を一晩中、逃がさなかった。毎晩凍えて、明け方には寒さで目が覚めるのがここ最近、いつものことだったから、これはありがたい。ただ、狭い小屋の中で一夜を過ごすと、どうしても空気が濁ってしまう。

 目に痛い青空。窓枠に切り取られたかのように浮かび上がっている。日差しは真四角に差し込み、それがちょうどジョイスの顔を照らす。


「う……ん? ああ」


 狭い寝床の上で身を縮める二人が、小刻みに動き出し、身を縮めたり、伸ばしたりしている。

 今朝はかなり寝坊してしまったようだ。なに、たまにはこういうのもいいだろう。


 先に目が覚めてしまったので、俺はもう、上着をかぶっている。眠そうな二人には構わず、俺は扉を開けた。

 するとすぐ足元、建物の土台の石の上に、バスケットに入ったパンと、布で覆われた鍋がある。覆いを取り除いてみると、小さな鍋が、大きな容器の中に納まっていた。容器の中には温かい湯と、熱した石が入っている。なるほど、すぐ冷めないようにと気を使ってくれたようだ。


「二人とも……スープが冷めちゃいますよ」


 俺はそれらを部屋に持ち込み、小さなテーブルに置く。

 二人はようやく体を起こしたところだった。天井近くの窓を改めて見上げると、室内に舞う小さな塵が、朝の光にきらめいていた。

 俺は構わず、食事の準備を続ける。水をコップに取り、スープをそれぞれの皿に取り分ける。それで二人もベッドから這い出してきた。


「め、飯っ」


 寝惚けていたジョイスだが、そこにちゃんとした食事があると認識して、俄かに元気になる。無理もない。シュガ村にいた頃は、火の通ったものなんて、ずっと食べられなかったのだ。


「いただきましょう、ほら、イーパさんも」

「んー……」


 低血圧なのか、本当に眠そうにしている。ボサボサになった茶色の髪の毛の下、彼は目を細めたまま、だるそうにしていた。


 さて。俺はパンを一口、齧りながら、今日の予定を考える。

 いろいろ計算外の状況にあるようだ。


 俺の仕事は何か?

 まず、伯爵に密書を届けることだ。だが、これは表向きの任務。


 あの手紙には、実は大したことは書いてない。中身を直接読んだりはしていないが、イフロースから説明を受けているので、だいたい知っている。

 ありきたりのお話で、まず、現在のピュリス総督としての地位の保全に協力して欲しいということ。それから、他ならぬ「投票権」の獲得のために運動して欲しいこと。できれば、サフィスの陞爵が現実味を帯びてきているので、これにも協力して欲しいこと。

 見返りに、伯爵に対しては、子爵家からいくばくかの資金援助を。また、ピュリスの商会にも、ティンティナブリア開発への投資を呼びかけるとしている。王都の学院に在学中である彼の息子のために、就職活動、つまり官職を得るための運動に協力もするという。

 密約といえば密約なのだが、そこまで重大な内容ではない。だいたい、ついこの前、伯爵がピュリスを訪ねてきているのだ。両者が比較的、良好な関係にあるだろうことは、第三者にもわかってしまっている。


「うーん、やっぱここのスープはうまいなぁ」

「うん、うめぇ」

「はぁー、早く結婚したい……」


 ……だから、わざわざイフロースが俺を派遣した理由は、もう一つの任務にこそある。伯爵の身辺調査だ。


 ティンティナブラム伯が太子派に組するとの立場を明確にしたのは、つい最近だ。今は経済的に困窮しているとはいえ、領地の広さからいっても、彼は国内有数の大貴族である。投票権だって持っている。だから、これは吉報といえた。

 しかし、なんといっても伯爵は評判の良くない人物だ。陰謀好きで卑劣な男。策謀を好む貴族という連中の間でも、そんな風に評価されることが多いのだ。

 だいたい、伯爵はいつも領内に引き篭もっている。およそ二十年前から、ずっとそうだ。サフィスのように、王室の仕事を引き受けたりもしていない。確かにそれも、フォンケーノ侯に匹敵する広大な領地を持つ貴族であれば、不自然ではないのだが。しかしそれゆえに、彼の動向を詳しく知る人間がいない。これでは、仲間だからと安易に信用するわけにもいかない。


 この前の夏の襲撃事件。子爵を狙う暗殺者がいるとすれば、それは長子派の仕業に違いない。そしてイフロースは、伯爵がその手引きをした可能性を考えていた。しかし、このところは伯爵領に出入りする商人も極端に少なく、情報はいつも不足気味。これでは白とも黒とも判断がつかない。


 だから、俺に割り当てられた仕事というのは、伯爵家の内部調査……の下準備だった。

 そう、いきなり調査なんて、できるはずもない。今から立ち入りますよ、他の貴族とやり取りした手紙も見せてくださいね……なんて都合よくはいかないのだ。だから、まずは地道な、だが確実性の高い仕事をする。

 俺はただ、城下町の宿屋に泊まり、そこで豪華なランチを食べ、或いはまた、夜の酒場に繰り出して、そこに屯する市民に酒を奢ればよかった。一つには、今、地域で広く知られているニュースや主要な関心事、常識などを収集する。そしてできれば、ある種の要職を占める人物とお近づきになる。別に城詰めの警備隊員と仲良くなれという話ではない。そうではなく、城内に品物を卸す商人辺りが狙い目だ。

 子供のくせに? だが、俺はピュリス名物、子供店長だ。そして、グルービーのお気に入りでもある。表向きは、イーパと一緒に、商売のタネを探しにきただけに過ぎない。

 そういう立場で、少しずつ「友人」を増やす。伯爵のお膝元に、トヴィーティ子爵のシンパを増やせば、それで任務は達成だった。


「結婚してねぇのかよ? もうオッサンだろ?」

「ま、まだ二十代だよ! 仕事が忙しいんだよ」

「モテねぇだけじゃねぇの? 仕事のせいにするとか、みっともねぇな」

「こっ、この……!」


 ……ところが、だ。

 その作戦は、見事に破綻してしまった。

 イフロースも、ティンティナブリアが不景気なのは知っていた。だから、現地の商人相手には、金銭的にはこちらが損をしてもいいから、好ましい条件での取引を提案してやれ、との指示も受けていた。

 だが、まさかここまで状況が悪化しているとは。


 ちなみに、城下町がほぼ完全に無人化したのは、今年の夏の終わり頃かららしい。あそこにいた兵士はずっと前から、と言っていたが……

 昨年末に税率が跳ね上がり、拠点を引き上げる商人が出始めた。それまでもティンティナブリアに来る商人は減り続けていたのだが、それもあって税収が減ってきたので、伯爵が課税額を殺人的な水準にまで引き上げたのだ。

 きっかけは、伯爵の、あの外遊だった。王都に向かい、帰りにピュリスに立ち寄った。主のいぬ間になんとやら。なにせ減税を願い出たリンガ村を焼き討ちするくらいだから、彼がいるうちに悪目立ちすると、どんな目に遭うか、知れたものではない。逃げるなら今だ、と人々は考えた。

 で、土地も建物も捨てて、領地の外に出て行く商人達を見て、伯爵は怒り狂ったらしい。それならそれでいい、但し、勝手に戻ることはまかりならん……放棄された不動産は、伯爵個人の私有地として接収された。今では城下町全体が、彼の持ち物になった。もっとも、それらには既に、何の経済的価値もないのだが。

 現在、道路以外の立ち入りが禁止されているのはそれが理由だ。そして、そこにホームレス……ティック庄の付近にスラムを形成している人々……が勝手に入り込まないよう、ゴロツキ同然の兵士を派遣している。


 一応、現時点でも収穫がないわけではない。まず、伯爵領がここまで貧窮しているという事実そのもの。村人の間でも、既にリンガ村での虐殺が広く知られ始めていること。どうも伯爵は、あの事件を隠すより、領内の引き締めに使うほうを選んだようだ。それがピュリスで広く知られていないのは、そもそもティンティナブリアから来る人が少ないからだろう。

 それから、どういうわけか、伯爵は兵士を増やしているらしい。昨夜も、ここの家主が言っていたが、流民の中から壮健な男を選んで、兵士に仕立てているのだとか。金もなければ戦争もないのに、どうしてそんな真似をするのか。領民の多くは、これも結局は、農奴達を脅す道具を増やすためと捉えている。


 しかし、現地に子爵家の友達を増やす件については、かなり難しいといわざるを得ない。一応、伯爵の返事を待つ意味でも、最低三日はこの辺にいる予定だが……


「グルービーって、あれだろ? 聞いてたぜ。大商人で、女をいっぱい囲ってるんだろ? 一人くらい、分けてもらえよ」

「それができれば、苦労しないよ!」

「あー、つまり、その程度っつうことだな」

「どういう意味だよ?」

「期待されてるかってこと。チョコスは、ずーっとグルービーから、しつこく、誰か一人くらいもらってくれって言われ続けてたってさ。な?」


 物思いに耽りながら、最後の一切れを口に運びつつ、俺は生返事をした。


「あ? ああ、うん」

「なんだってぇ!?」


 気付くと、血相を変えたイーパと、面白がって煽るジョイスとが、俺をじっと見ていた。


「もうさ、スラム街で買っちゃえよ。カッコつけないで」

「バ、バカ! いいか、僕はちゃんとした奥さんと、ちゃんとした結婚をだな……」


 あー……これは。


「ジョイス」

「うん?」

「そこまでだ」

「お、おう」


 この馬鹿。イーパの心を読めるからって、痛いところをついて、からかってるな。

 せっかくの神通力なんだから、もうちょっとマシな使い方をしろよ。


 食事を終え、外に出て新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、少し日向ぼっこしてから、俺達は村の中心を貫く道路へと、彷徨い出た。

 今の俺達は、休暇中ということになっている。ここまでの旅の疲れを癒す。またピュリスに引き返すまで、のんびり過ごすのだ。そして、俺の秘密の任務については、イーパもジョイスも知らない。


「とりあえず、散歩しましょうか」

「そうだね、他にやることもないし」


 俺達三人は、かなり奇妙なパワーバランスの上にある。俺はイーパには敬語を使うが、ジョイスには命令口調だ。一度、武力で捻じ伏せた相手でもあり、また彼が、きつく言わないと服従しない、衝動的な子供だからでもある。ところが、ジョイスは俺には従順なのに、イーパにはあからさまにナメた態度をとる。こうして、まるでジャンケンのように、誰が一番偉いかわからない、循環型の関係性ができあがってしまった。

 今はといえば、とりあえずゆっくり起きたものの、この後やることがなくて暇、という点では、意見と立場が一致している。だから、ただ漠然と散歩しようという俺の提案が、すんなり受け入れられた。


 それでなんとなく、街道に沿って歩き始めた。ほどなくティック庄とスラムの境界線を踏み越える。

 正直、ここらを歩きたくはないのだが、俺の目的からすると、どうしても現地の人との接触が必要だ。特に、この近辺にいる売春婦達……金で転ぶなら、それでもいい。城にいる兵士達の様子を教えてくれるなら。彼らが寝物語に漏らした噂話を、ぜひとも聞かせて欲しいものだ。


 俺達が通りを歩くと、何人かの女達がこちらを向いた。まだ午前中ということもあり、商売モードに切り替わっていないのが少なくない。彼女らの色気が目当てではないのだから、それはそれでありがたいのだが、こうなると、話しかけるきっかけが掴みにくい。とはいえ、どうせ同じことか。彼女らの客になれるのは、イーパだけだろうから。

 さて、どうしたものか。金をちらつかせるのは簡単だ。だが、俺達が金をバラ撒いていることを知られるのは、得策ではない。情報収集しています、という情報を垂れ流すわけにはいかないからだ。何かいい方法があれば……


 だが、俺の思考は騒音に中断された。突然、道の向こうから、悲鳴が聞こえてきたのだ。それに男の怒鳴り声も。周囲の女達が、一斉にそちらに視線を向ける。何事だろうか?


「こんのババァ! 俺がなんだって? え!?」

「お、お許しを! ただ」

「うるせぇ!」


 駆け寄ってみると、そこには数人の兵士がいた。それを遠巻きにするように、スラム中の女達が立っている。その騒ぎの中心には、老婆がいた。昨日、イーパに声をかけてきた、あの老婆だ。


「た、ただ、わしら、もう二日も食べてないんで、せめて」

「知るかよ、そんなの」

「銅貨でなくても、パンのきれっぱしでもいいんで、どうか」

「ふざけんな!」


 兵士は、老婆を蹴倒しながら、怒鳴りつけた。


「まるで俺が金を踏み倒したみてぇに言うんじゃねぇ!」

「でも、確かにうちのリディアを」

「知らねぇっつってんだろうが! てめぇんとこのブスなんざ、誰が抱くか!」


 これは。

 察するに、老婆のしつこい勧誘に、そこの兵士が応じたのだろう。だが、いざ、ことが終わってから、彼は銅貨をケチった。

 どうしてわかるのか? 彼の顔だ。鼻の横に痣ができている。昨日、ジョイスの突きを浴びたからだ。なるほど、このみみっちいやり口、実に彼らしい。


 兵士の身勝手な言い分に、老婆も我慢できなくなったようだ。しおらしい態度を捨て、急に怒りを表情に浮かべて、怒鳴りつけた。


「それでも、楽しんだんじゃないかい!」

「しつけぇな、失せろ」

「なんだい、あんたはお城でお給料、もらってるんだろ! たった銅貨四枚じゃないか!」


 彼女を怒りに駆り立てるものは何だろうか? 飢えか。それとも、僅かばかりのプライドか。孫娘に売春させてまで得ようとした、ほんの少しの食い扶持。なのに、それすらも裏切られ、拒まれるとなれば。これ以上の搾取に、黙っていることができなくなったのか。

 だが、兵士はそこで、急に無言になった。黙ったまま、つかつかと老婆に歩み寄る。


「な、なんだい」


 ここに至って老婆は、剣呑な雰囲気を漂わせる兵士に対する恐怖を思い出したらしい。だが、それは少しばかり、遅すぎた。

 すぐに拳が顔面に叩きつけられる。よろめいて、街道の石畳に倒れこむ。そこへ馬乗りになり、兵士は一度、二度、三度と拳を振り下ろす。一瞬にして、老婆の顔は血塗れになった。

 これ以上は危険……


「やい!」


 誰より先に飛び出したのは、やはりジョイスだった。


「この嘘つき野郎、全然懲りてねぇじゃねぇか!」


 喚くと同時に駆け出して、手にした棒を勢いよく突き出す。腰を下ろして老婆を殴っていた兵士は、咄嗟に受けることも叶わず、顔に一撃を浴びてしまう。


「俺達から金貨をむしりとったくせに! やることがセコいぞ!」

「な……なんだと? またかっ! こ、このガキ!」


 顔を抑えながら、兵士はフラフラと立ち上がる。怒りと屈辱に顔を真っ赤にしながら、そいつは怒鳴りつけた。


「ぶっ殺されたくなけりゃ、今すぐ消えろ!」

「そりゃあこっちのセリフだ! このドチンピラ!」


 売り言葉に買い言葉、これでは。

 だが、イーパは既に、動き出していた。


「ちょ、ちょっと。旦那……」


 卑屈な笑みを浮かべつつ、彼はそっと兵士の手に、金貨を握らせようとする。だが、彼は振り向こうともせず、そのままイーパの顔面に拳を打ち下ろした。その一撃に、イーパはよろめいて、その場でひっくり返ってしまう。

 俺は息を呑む。これはもう、ただでは済まない。


「勘違いしやがって、このガキ」


 男の目が据わっている。不意に剣を抜き放った。これに危険を感じた女達が、短い悲鳴をあげて、一斉に後ろに飛びのいた。


「今すぐ土下座すりゃあ、腕へし折るだけで許してやる」

「ハッ!」


 ジョイスが引き下がるはずがない。


「てめぇこそ! 今まで騙し取った金を置いていけ! じゃなきゃ、こいつをてめぇのケツの穴にブチこんでやる!」


 これはもう、戦いは不可避だ。だが、これは困った。

 念のため、帯剣してはいる。しかし、確かにこの兵士はろくでもない奴だが、さすがにここで殺害してしまうわけにはいかない。


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 シトール・ダーマ (27)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク5、男性、27歳)

・スキル フォレス語 5レベル

・スキル 槍術    3レベル

・スキル 剣術    3レベル

・スキル 盾術    3レベル

・スキル 農業    3レベル

・スキル 商取引   2レベル

・スキル 料理    1レベル

・スキル 裁縫    1レベル


 空き(19)

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 能力的には、そこまで手強い相手ではない。装備にしても、今は兜もかぶっていないし、盾も槍もない。鋲の打たれた革の鎧は着用しているが、それだけだ。しかも、覆われているのは上半身だけ。

 だが、彼が手にしているのは、抜き身の剣なのだ。この事実を甘く見てはいけない。ただの木の棒を持っているだけのジョイスには、相手の命を一撃で奪えるだけの攻撃力がない。だが、この兵士にはそれがあるのだ。


「ジョイス」

「なんだよ! 俺は、やめねぇぞ! こんな奴、ぶっ飛ばせばいいんだ!」


 今回ばかりは、頭ごなしにダメだとは言えないか。正直、気分が悪いのは、俺も同じだ。


「死ぬな。殺すな。あとは好きにしていい」

「おう!」


 いつの間にか、人垣ができていた。その中央には、兵士とジョイス。既に二人とも臨戦態勢で、それぞれの得物を構えて向かい合いながら、ゆっくりと円を描いていた。

 そこから少し離れたところに、イーパと、転がされたままの老婆がいる。俺は人垣に近い辺りで、二人をちゃんと視認できる位置をキープしていた。


 棒を向けるジョイス相手に、兵士はじりじりと迫る。と、大袈裟に体を揺らした。


「……おぅら! うぉい!」


 相手を子供と見て、侮っているのだ。なるほど、昨日、打撃を浴びたのも、ついさっき殴られたのも、全部不意討ちだった。だから、ちゃんと戦えば、負けるはずはないと考えている。それに普通の子供なら、何よりこの剣を恐れるはずだ。

 そう考えてシトールは、ジョイスの注意が過剰に向けられるであろう剣を見せつけて、恐怖心を煽ろうとしている。ちょっとしたフェイントにも、大きく反応して後ろに下がってくれるから、簡単に追い詰めることができる。


 ……これは面白い。なかなかやるじゃないか、ジョイスは。

 心が読めるから、兵士の仕草が全部フェイントだとはわかっている。自分を侮っているとも。だから、それらを無視してどっしり構えてもよかったはずなのだ。

 それなのに。怒りで頭に血がのぼっているはずなのに、ジョイスはいちいち体を強張らせては、後ろに身を引いている。あれは……多分、わざとだ。


 シトールは、繰り返されたフェイントの結果、ジョイスがもう、充分に硬直しているものと判断した。ただでさえ防御は攻撃より難しい。戦いは主導権を握ったほうが有利だ。それなのに、恐怖心でガチガチに固まった心と体で、余裕をもって繰り出される一撃を避けられるはずがない。

 彼は剣を振り上げ、踏み込もうとした……ところで、膝が変な方向に曲がった。同時に、顔面を棒の先端が打つ。


 あくまで保険だ。今回の喧嘩は、ジョイスに分がある。それに、まだ彼を妹に会わせていない。こんなところで死なせては、恩返しにならない。だから、ここからこっそり『行動阻害』の呪文でサポートしたのだ。

 だが、必要なかったらしい。ジョイスはしっかり相手を見て、本気の攻撃を捌きつつ、きれいに反撃してみせた。


「このぉ……っ!」


 怒りに我を失ったシトールは、顔を真っ赤にしながら、大振りに剣を切り下ろした。そんな見え見えの攻撃、心を読めるジョイスに当たるわけがない。まして、危険と思えば、俺が後ろから邪魔をするのだ。

 剣を振るたびに顔面に一撃。一歩進むたびにまた一撃。右に避けても、左に避けても一撃。リズミカルに、心地よい音を立てながら、棒の一撃がシトールの顔をへこませていく。


「ホイ!」


 そのうちに、掛け声がかかり始めた。周囲のスラムの住人だ。


「ホイ!」


 手拍子も。最初は一人、二人だったのに、すぐにみんなが真似をするようになった。

 シトールが剣を振り上げると、みんな手を叩こうと身構える。ちょうど拍手の音が鳴り響くと同じくらいに、ジョイスの攻撃が顔面にヒットする。


「ホイ! ホイ! ホイ!」


 もう、手伝う必要がなかった。

 顔面を打たれ続けた兵士は、もうよろめいている。ジョイスは集中力を切らしていない。戦う前にはあれだけ挑発したのに、いざとなれば、そんな無駄なことは一切頭にない。これはいい素質を持っている。

 ……俺と戦った時にも、これだけしっかりしていたら。もう少しいい勝負になったのだろうに。


「ぐるぁああぁっ!」


 自暴自棄になったシトールが、前も見ずに、力任せに剣を振り回した。その瞬間、金属音が鳴り響いた。その手から剣が撥ね飛ばされたのだ。

 驚いて、シトールが振り返る。その顎先に、下から振り上げた棒の先端が叩きつけられた。顎先は跳ね上がり、彼は力を失って、その場に膝をつく。途端に周囲から、拍手喝采が降り注いだ。

 どうやら、城の兵士達は、ティック庄の村民だけでなく、スラムの住民にも、実は嫌われているらしい。まぁ、当然か。


 相手を下したジョイスは、棒を地面に突き立て、仁王立ちした。


「今日はこれで勘弁してやる! とっとと失せろ!」


 そう言われて、シトールは歯を食いしばる。だが、立ち上がろうとして、二度、三度、よろめいては地面に手をつく。近くにいた仲間の兵士が彼を助け起こす。ようやく立ち上がると、自分を支える手を振り払い、よろよろと歩き出す。さっき戦いで取り落とした剣。それを拾おうとしているのだ。

 なんとかそれを掴み、足を引き摺りながら、人垣の外へと出ようとした、その時。

 ジョイスが叫んだ。


「あ……ダメだ! やめろ!」


 逆手に持った剣。それがシトールの足元に突き立てられた。そこには、いまださっきの老婆が横たわっていたのに。

 途端に悲鳴が広がる。


「ひっ……ぐっ……!」


 なんてことを!?

 さすがに俺も、血相を変えて駆け寄ろうとする。だが、シトールはいきなり振り返った。


「ぐうぉわああああっ! おらぁぁあっ!」


 武器を振り回して、喚き散らす。それだけで、周囲に立つ女達は恐怖に駆られて、後ろに飛びのく。中には、その場に尻餅をついているのもいる。

 そのまま、兵士達は去っていこうとした。


「ま、待て!」


 だが、俺はジョイスの手を掴んだ。これ以上はまずい。今、あれを追いかけたら、今度は全員でかかってくる。そうなったら俺は、ジョイスを見殺しにするか……あの兵士達全員をこの場で殺すしかなくなる。


「お婆ちゃん! お婆ちゃん!」


 二人の少女が老婆のすぐ横にしゃがみこんで、体を揺すっている。その後ろに、少し年上の少女が、一番幼い子を抱きかかえて立っている。

 兵士が剣を突き立てたのは、老婆の胸のちょうど中心だった。既にして呼吸音がおかしい。ゴホッと咳をしたかと思うと、皺だらけの口元から、赤い筋が垂れてきた。


「あ、あう、い、医者、医者」


 修羅場に戸惑うイーパが、わけもわからず空中をかきむしって、とりあえず手に持っていた金貨を差し出した。

 それを見た少女の一人が、やにわにそれを叩き落した。鈍い音を立てて、地面に転がる。


 生き死にの際なのだ。金をもらっても仕方がない。こんなことになってから金貨なんか。

 目に涙を溜めた少女の顔には、言い尽くせない怒りが浮かんでいた。


 だが。

 音に気付いた老婆は、首だけ起こす。それだけでまた、血を霧のように吹いた。


 そのまま、音のしたほうを向く。そこには青空の下、太陽に照らされて輝く金貨があった。

 動かない体を動かして、ただ左腕を伸ばして、固い地面を引っかく。その節くれだった指が、ついに金貨を引っかける。

 すべてがスローモーションのようだった。長い長い時間をかけて、老婆は金貨を引き寄せた。その震える指先で摘み上げ、それをそっと、さっきの少女の掌に握らせた。


 その瞬間、老婆の首から力が抜けた。

 少女達の、息を呑む音が聞こえた。

 それだけだった。周囲は静まり返っていた。


 空はこんなに青いのに。

 渡る風はこんなにも清々しいのに。


 日差しは暖かで。

 すぐ傍を流れる川は、泡立つ黄土色の水を豊かにたたえ。

 頭上から番の鳥が一瞬、影を落とし。


 そんな場所で。

 少女達は、老婆の亡骸に取り縋って、いつまでもすすり泣いていた。

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