これがホテル? いいえ、ただの空室です
断続的な、大きな揺れ。さっきから、馬車は無数の小石に足を取られ続けている。
苛立ちが収まらない。なんと不愉快な旅路だろう。
結局、シュガ村では、仮眠を取っただけだった。翌朝、村長にナイススを突き出し、ジョイスを引き取る旨を伝えると、勝手に連れて行ってくれと言われた。どうやら親子揃って、村の鼻つまみ者だったらしい。
疲労感を残したまま、フガ村を目指して馬車を走らせた。元気だったのは、ジョイスだけだ。生まれて初めて、他の村に行くらしい。だから、はしゃぐのも無理はないのだが、あのキンキン声、そして落ち着きのなさのおかげで、俺もイーパもぐったりしてしまった。
夕暮れ時にやっと到着したフガ村。だが、そこもシュガ村と大差なかった。村民は貧しく、無愛想で、不親切だった。四日ぶりにやっとお湯とタオルを借りられたのはよかったが、夕食に出てきたものとなると、これはもう、比較できる料理があるとすれば、以前の子爵家のスープくらいのものだ。芋がいくつか浮いているだけ、塩をきっちり節約した、およそ食べる喜びというものがどこにも見出せない代物だった。これと湯桶と寝る場所、三人分で金貨一枚。信じられない。
翌朝から、いよいよティンティナブラム城へと移動を開始した。ところがどうだ。道路事情は一向に改善されない。いったい、ここを隊商が通ったのは、いつが最後なのだろう? そう尋ねずにはいられないほどの状態だった。
いつもは愛想笑いを浮かべるイーパも、今は無言で黙りこくっている。
さすがにジョイスも空気を読んで、我慢して黙って座っている。だが、一日中じっとしているのに耐えられないらしく、貧乏揺すりが止まらない。
だが、もうすぐだ。
以前、本で読んで知っている。この坂道。南からティンティナブラム城に至るルートでは、必ず通る隘路。左右を岩壁に挟まれるここを登り切れば、城下町を一望できる場所に出られる。
ほう、と一息ついて、イーパが馬車を止める。途端に揺れが収まる。
「フェイ君、ジョイス。見てごらん」
ちょうど昼頃。青空には、白い雲がぽつぽつと浮いている。
そしてその下には。
「あれがティンティナブラム城だ」
盆地の中央、やや北寄りに聳え立つ、巨大な城砦が見えた。
一千年の歴史を誇る、難攻不落の要塞。それがティンティナブラム城だ。
古くはギシアン・チーレムの世界統一戦争の際の最前線基地として。またその後は、物流基地として。諸国戦争時にも、重要拠点であり続けた。
盆地の西半分は、森林だ。そして、城の南側に、扇形の城下町が広がっている。そこからしばらく草原が広がり、南東に村落がある。
この土地への入口は限られている。まず、今、俺達が駆け上がってきた南方ルート。それから、ピュリスや王都に繋がる南西ルート。エキセー地方や、ロージス古道に繋がる、川沿いの南東ルート。そして最後に、セリパシア方面に繋がる北方ルート。あとは切り立った山々に遮られているので、人馬での移動は難しい。
かつてのこの地は、東西の陸上交通の要衝だった。ロージス古道が機能しなくなって以降は、アルディニアへの玄関口として、またエスタ=フォレスティア王国の東部と中央を繋ぐ役目を、一応果たすのみだ。
しかし、人にとっての役割は小さくなっても、水にとってのそれは、まったく変わることがない。この盆地の西から北西にかけて、複数の川の流れが、城へと流れてきている。そう、ティンティナブラム城は、エキセー川の合流地点に建てられているのだ。そして川はそのまま、南東方向へと抜けていく。
では、シュガ村付近に流れていたのは? エキセー川の水源地から枝分かれした水の一部が、ここ盆地の内側にではなく、もっと南側に向かった支流が、それなのだ。
この川の水質は、かなり変化に富んでいる。リンガ村を含む水源地では、ほとんど透明といっていいほど澄み切っている。シュガ村付近でも、まだ透明度が高い。ところが、ティンティナブラム城の真下を流れる辺りでは、カフェオレのような濁流になってしまっている。これが不思議なことに、もっと下流になると、なぜか逆に透明度が上がっていく。
濁流の真上、特にそこだけ川幅の広い地点に腰を据えているのが、フォレスティアでも屈指の名城だ。
目を引くのは、なんといっても、城の中央部にそそり立つ塔だ。ただの石組みだけでよくぞというほどの高さ。地上百メートルくらいはあるだろう。屋根はなく、せいぜい数人が立てる程度の広さしかない丸い屋上。装飾がなくて地味に見えるかもしれないが、有事の際には、ここに大きな旗を掲げるのだそうだ。
もっとも、それを囲む周囲の城壁も、相当な高さがある。ざっと見て、一番低いところでも二十メートルくらいだ。しかも、低い位置には窓すらないのだ。その上、壁は反り返っていて、足場になりにくい作りとなっている。
全体としては、がっしりした印象を与えるこの城だが、曲線と直線が入り混じっている。その理由は、水流だ。
諸国戦争時に、一度この城は、大きな被害を受けている。アルディニア方面から水路を堰きとめ、水が溜まったところで一気にそれを解放したのだ。結果、増設された城壁部分が大きく損傷し、その戦いでは陥落している。
その時の反省もあって、上流側には、水の勢いを逸らせるようにと、鋭角に突き出た防衛塔が、いくつも迫り出している。一方、下流側には、単純に堅牢さを追求して、丸い防衛塔が並んでいる。
しかし、城の基礎部分が破壊されたことはない。そもそも、こんな川の上にどうしてこうも立派な城砦が建つのか。
川底は固い岩盤でできているという。それが城の周囲、対岸まで続いているので、見た目でいうならば、巨大な石でできたお椀のようなものだ。しかし普通に考えて、石は水流に削られる。それにこの城の真下には、地下水の噴出するポイントがあるらしい。単に工事を進めるだけでも大変に違いないのに、それが一千年経っても崩れずにいる。常識ではあり得ない。
一説には、女神達がギシアン・チーレムに手助けして築城したから、こんなに丈夫になったのだという。『念力』の女神が岩を次々運んできた、なんて伝説もある。
そういう与太話を真に受けてもおかしくないくらいに、とにかくこの城はよくできている。
この城のもう一つの特徴、それは一階部分だ。南西、南、南東、北の各方向に通じる通商路だが、そのすべては、この城の一階……とは言いながらも、その高さが十メートル以上もある、広々とした広間……を通過するように引かれている。途中は川だが、あちこちに石の足場が突き出ているので、そこを基礎にして、木造の頑丈な橋がかけられているのだ。ゆえに、この城は関所も兼ねている。
この城の北西方向には、かなり高い位置にしか、窓がない。また、水流による被害を受けにくいところに設備を集中したいのか、城の敷地を上から見ると、北東部分がやけに膨れた形になっている。そちら側でも、高さ二十メートル以下の位置には、やはり窓がない。
見たことはないが、ミルークの収容所で読んで覚えた限りでは、この北東区画に中庭があるらしい。高さは通商路と変わらない一階部分だが、入り込むには、一度四階まで上がってから下りるしかないのだとか。かなり日当たりが悪そうだ。
遠くから見ると、ティンティナブラム城は、無骨な灰色の塊だ。昔、誰かが『うずくまる大男』のようだと表現したそうだが、確かにそんな雰囲気はある。
「うっ……うぉおおおぉっ!」
興奮したジョイスの声で、我に返った。
「すっげぇな! あれ!」
感動に浸る余地もくれないのか、とも思ったが、これは仕方ない。遠目に見ても、立派な城砦だ。
そこから少し離れたところに広がる市街地も、なかなかいい感じに見える。三階建てくらいの高さの石造りの家が、整然と並んでいる。南西、南、南東の各通商路に沿って、大きな道路が広がっている。それらは半円形の広場で合流するが、そこにある一際目立つ建物が、いわゆる市庁舎だ。
南側の三つの通商路から来た馬車は、一度ここですべて合流する。それが城の南門から入って、手続きをする。そしてここでぐるりと回って、それぞれの出口に送られるのだ。但し、南西と南東に向かう場合は、もう市街地を経由しない。南側に向かう場合だけ、市庁舎のほうに引き返す。交通量が増えても渋滞しないように、よく考えられている。
「四年ぶりだけど、やっぱりいいね」
イーパも、さっきまでの仏頂面が嘘のように、笑みを浮かべている。
「今日は、城下町で宿を取ろう! 思い切って、バスタブのある高級ホテルに入ろうよ。旅費はもらってきたからさ」
グルービーのくれた経費で贅沢を……だが、みみっちいなどとは言うまい。俺も大賛成だ。
「ホテル? ホテルって、なんだ?」
ジョイスが、田舎者丸出しの質問を投げかける。
「うーんと、部屋がたくさんあって」
「部屋? たくさん? じゃ、そんなにいっぱい人が住んでるのか?」
「住んでるわけじゃない。空き部屋なんだよ」
「はぁ? そんなの、何のために作ったんだよ?」
「行けばわかるよ!」
イーパは上機嫌で、馬に鞭を入れる。
また馬車は走り出した。
斜面を降りきって、盆地の中を進む。さすがに馬車の揺れもおとなしくなった。さっきは遠くに見えた市街地が、徐々に近付いてくる。
ああ、風呂だ。バスタイムだ。とにかく、それが楽しみでならない。
ミルークの収容所にいた頃は、数日に一度しか入れなかったし、それを我慢もできたのだが、今ではもう、なしでは済まない。贅沢になったものだ。ムスタムに行った時は? 真水は貴重だったが、海水を浴びるくらいならできた。だいたい、船乗りは海水で洗濯をする。だが陸上の旅となると、それすら難しい。
これは弱った。俺はいつか、不老不死を求めて冒険に出なければいけないのに。でも、一番風呂は譲れない。もしジョイスが邪魔してきたら、剣を突きつけて脅してやろう。
そんなことばかり考えて、ぼーっとしていると、横でジョイスが甲高い声をあげた。
「な、なんだぁ、ありゃあ!?」
「えっ?」
大声にびっくりして、俺は周囲を見回し、それからジョイスの視線が向けられているほうを見つめた。
何もない。
強いて言えば、もう目前に迫った市街地が見えるだけだ。
「……どうした? 何かあった?」
「何かあったも何もっ……なんだぁ、あの街は」
「ハハハハハ」
驚いて目を剥くジョイスに、イーパは笑いかける。
「こんな立派な街を見るのは、初めてかい?」
そういって、またすぐ、前を向いてしまう。
だが、ジョイスの表情は、まだ強張ったままだ。まさか。
俺はそっと耳打ちした。
「……まさか、変なものが『見える』のか?」
ジョイスには、恐るべき神通力が備わっている。高ランクの読心術、そして透視能力だ。まさに心も体もガラス張り。なぜか俺には通用しないらしいが、普通の人からすれば、反則と言いたくなるほどの能力、まさにチートだ。俺の持つピアシング・ハンドほどではないにせよ、これだけの力があれば、大抵の問題は解決できてしまうだろう。しかし、それを扱う本人の知性が、あまりに残念すぎる。何せ思ったことはすぐに口に出してしまう性質なのだ。
そして、こんな危険な能力を持つ子供を、誰が放置しておこうと思うだろう? 彼の才能を人が知れば、媚びるか、利用しようとするか、恐れて殺そうとするか……何れにせよ、ろくな結果にならない。だから俺は厳命した。絶対に誰にも、神通力のことを話してはいけない、と。また、見境なく人の心を読むのも禁止した。
「……逆だ。何にも見えないんだ。それに、聞こえない」
「何も?」
「あの街、本当に人が住んでんのかよ?」
「なんだって?」
どうやら、人間の心の声も聞こえず、姿も見えないらしい。
これはただ事ではない。
「詳しく」
「だから。どの家も、見える範囲じゃ、カラッポだっての。おかしいだろ?」
どうしよう。
これは、イーパに伝えたほうがいいか?
でも、説明しようがない。
「……おっ?」
「どうした?」
「なんか、広場? の近くに、何人かいる」
「どれくらい?」
「十人くらいかなぁ? 鎧着て、武器持ってる」
「はぁ!?」
おいおい、どういう状況だ?
まさか山賊? 追い剥ぎ? 物騒極まりない。
どうしようかと思って迷っているうちに、馬車は市街地の入り口に差し掛かった。
「ほら、あれがホテル……」
指をさして言いかけたところで、イーパも異変に気付いた。
だが、初めて街を見るジョイスは、そのまま理解した。つまり、イーパの心を読まなかったがゆえなのだが。
「なるほどな、これがホテルか! 確かに、こんなに家があるのに、誰もいねぇ! 好きなところに入って寝ていいんだな? さっすが都会だぜ!」
俺は都市というものを理解したぞ! といわんばかりに、彼は得意げな顔をして周囲を見回した。
だが、俺とイーパは、ただただ戸惑うばかりだ。
「これ、無人ですよ、イーパさん、どうなってるんですか」
「い、いや、四年前は、普通の街だったんだけど」
今は人っ子一人いない。
いや。
市庁舎付近には、数人の男達がいるはずだ。武装しているらしいが。
「とりあえず……市庁舎まで行きましょう」
「あっ、ああ、そうだな。外から来たんだし、ジョイスの手続きもしないといけないからな」
ジョイスは、ここティンティナブリアの領民だ。よって、許可なく領外には出られない。その許可を取得するためにも、どうせ城まで出向かなければいけないのだ。もちろん、一番大事な仕事はそれではなくて、子爵からの密書を、あの不潔な伯爵に渡すことなのだが。
馬車はそのまま直進し、市庁舎前のロータリーに踏み込んだ。
俺達以外、外から来たと思しき人間はいない。だが、そこに武装した十人くらいの男達が屯していた。
パッと見ただけでも、なんとも寒々しい雰囲気だ。市庁舎前の広場にいるのは彼らだけ。かつては動いていたであろう噴水も、今では水が涸れている。足元の石畳も、あまりメンテナンスされていないのだろう。あちこち磨耗しているのが見て取れる。
そこに兵士達だ。武装が統一されている。全員が銀色のサレットをかぶり、鋲の打ち込まれた革の鎧を着込み、剣を手挟んで、槍を手にしていた。山賊では、こうはいくまい。となれば、彼らは城から派遣されているのだろう。
馬車を見かけると、彼らはゆっくりと歩み寄ってきた。それでイーパは馬車を止める。
その判断は、まったく妥当だ。無人の街。そこに居座る兵士達。事情を知っているに違いないと思うのは、自然だろう。
だが、俺の内心では、警戒心が膨らむばかりだった。なんといっても、こいつらだ。リンガ村から逃げ出した俺を串刺しにしたのは。顔はちゃんと覚えていないが、きっと連中の仲間に違いない。
「おい」
兵士達がすぐ近くにくると、馬車も完全に止まった。
「何かあったんですか?」
イーパが先に尋ねる。
「何もないさ。ただ、どこへ行くつもりだ?」
「何もないって……街の中が、もぬけの殻じゃないですか」
抗議するようにイーパが言うが、兵士にとっては、これが日常らしい。
「そんなもん、ずっと前からこのままだ」
「ええっ!? 知りませんでした! いったい、何があったんですか」
「知るかよ。他所で説明してもらえ」
「まいったなぁ……全然知らなかった。このところ、ずーっと南のほうにいたから」
イーパ……グルービーはきっと知ってたと思うぞ。
お前の情報収集力の低さを思い知らせるために、あえて黙っていたんじゃないかな。まぁ、人のことは言えない。俺も、まさかここまでひどい状況とは、知らなかったんだから。
なるほど、ピュリスの酒場で、こっち方面の情報をぱったり聞かなくなったのも、この辺が理由なのか。そもそも、人自体が住まなくなったから、ここを通る人もいなくなる。
「それより、ここは勝手に通っていい場所じゃないんだがな」
「あ、ええ。わかってますよ。通行税ですよね。お城に用もあるので、このまま、進もうかと思います。えっと、前と同じで、整理券とか配ってます?」
「それなんだがな」
兵士達の中でも、隊長格の男が、ずいと身を乗り出して、すらすらと言った。
「ちょっとルールが変わったんだ。通行税はまず、ここで払う」
「あ、はい、じゃあ早速……」
だが、イーパが財布に手を伸ばした途端、俺の後ろで足音が響いた。
「やい! この野郎!」
棒を片手に、ジョイスが飛び出した。馬車の上から、兵士に向かって踊りかかる。
「いてぇっ! なっ、このガキ!」
「ちょっ……待て! やめろ、ジョイス!」
一瞬で彼は、周囲の三人の兵士に、激しい打突を浴びせまくっていた。
「この野郎! この嘘つき! 俺を騙そうったって」
「うるせぇっ!」
所詮は子供の腕力。得物もただの棒切れだ。重さもなければ鋭さもない。我に返った兵士達は、手にした槍をひっくり返し、石突の部分でジョイスを叩きのめし、そのまま押さえつけた。
真っ先に頬を打たれた隊長が、俺達を睨みつける。
「お前ら……! ただで済むと思っちゃいないだろうな!?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます