第十一章 故郷
冬の夜の定番
「……そろそろいいですよ」
「えれぇ手間かけるなぁ、おい」
いつもの酒場で、俺は新作料理を試そうとしていた。前世の俺の味覚は、こちらの世界で、どこまで受け入れられるものだろうか?
昨夜遅くから今まで、店の人と交替で、ずっと寸胴鍋に火をかけ続けていた。ただ、微妙な加減など必要なく、ひたすら沸騰させ続けるだけなので、管理そのものは難しくなかったのだが。
「その代わり、材料費は安いですよ?」
「そりゃあな、骨なんか、普通は食わねぇし、捨てる場所に困るだけだしな」
何時間も煮沸され続けたスープはいまや白濁し、特有の香りを発している。
「で、そっちは」
「今、できます」
シャッ、シャッと湯切りをする。麺をスープの中に投入し、輪切りにしたチャーシューをそっと添える。最後にネギを細切れにしたのを散らして、さぁ、できあがり。
「どうぞ」
「おう」
店長は、器を受け取ると、箸ではなく、木のフォークでヌードルに挑みかかった。
「むおっ!?」
「いかがですか?」
「なんだ、なんつうか、これ」
話しながらも食べ続けている。
「変な甘さっつうか」
表現する言葉が見つからないのだろう。それはそうだ。強いて言うなら、それはトンコツ味だ。
「こんなの、食ったことないぞ!」
「だと思いますよ」
「どこでこんなの、習ったんだ」
「……それより、お店で出せそうですか?」
このトンコツラーメン、厳密には未完成というしかない。前世と違い、手に入りにくい素材もあるのだ。それでも、紅生姜だけは自作したが。
一通り食べ終わってから、店長はやっと答えた。
「味は悪くないな。名物になりそうだ」
「それなら」
「今日は出すけどよ……こんなの、毎回作るのは、ちょっとキツいぜ」
無理もない。手間隙かかりすぎる。
とはいえ、季節はもうすぐ冬。夜が長く、寒くなる。となれば、ラーメンは外せない。これを食べながら酒を一杯……ハマる人は、絶対出てくるはずだ。っていうか、店長が世界に広めてくれれば、俺が自分で作らなくても食えるようになる。そのうち、醤油味とか味噌味とか、自然発生してくれると、なお嬉しい。無理だろうけど。
ここの酒場にも、随分と世話になった。もし俺がいなくなっても稼ぎを減らさずに済むように、名物になるレシピの一つや二つは、残していきたい。
今は藍玉の月。あと十日ほどで、藍玉の市が開かれる。フォレスティア各地の商人にとっては、お祭りだ。それが終わったら、暦の上ではもう、冬となる。
明日、カーンの隊商が、そのためにコラプトに向かう。そこに俺も便乗する。だが、行き先はその向こうにもある。今回は長旅だ。
「なんか、喉が渇くな」
「お酒を飲みたくなるでしょう?」
「ははっ、そういうことか。お前も商売上手になってきたな」
俺だって、お上品な皿ばかり出すわけではない。トンコツラーメンが下品だとは思わないが。
ただ、こういう店では、繊細さよりも、ガッツリ食べたという満足感の方が、受け入れられやすいだろう。
そっと窓の外を窺う。通りの向かい側の家々が、真っ赤な背景の下、黒いシルエットになって立ち並んでいる。そろそろだ。
「よぉーっすぅ……ふぁーっ、寒ぃな……エール三つ!」
吊り下げられたベルが、カランコロンと鳴る。
出入り口の扉を押して入ってきたのは、ガッシュ達だった。
「おかえりなさい」
「おう、フェイか? あれ?」
「どうしました?」
俺の顔を見ながら、ガッシュは首を捻っている。
横から出てきたドロルが、見下ろしながら言う。
「お前、出発は明日じゃなかったか?」
「そうですよ?」
「おいおい、大丈夫かよ」
「荷造りは済んでますし」
後ろから声が飛ぶ。
「フェイ!」
店長がカウンターに、ドン! と木のジョッキを三つ、置いた。それで、ガッシュ達も席に着く。
ユミが来るまでは四人組で行動していた彼らだが、いまや彼女を加えて、合計五人で依頼を受けるようになった。強力な射手が二人になったことで作戦の幅も広がり、攻撃的な戦術を選べるようにもなった。しかもユミは刀まで使う。だから、最近は景気がいいらしい。
「今日はいろいろありますよ!」
ジョッキを並べながら、俺は笑顔で言う。
準備したのはラーメンだけではない。可能な限り、多くの料理を作らせてもらった。しばらく留守にするのだから、ご挨拶も込みだ。
「どこまで行かれる予定でしたか」
ハリが、いつも通り、丁寧な言葉遣いで俺に尋ねる。
「まずはコラプト、その後、ティンティナブラム城まで行ってくるつもりですよ」
「すると、往復で考えれば、丸々一ヶ月はかかりますね」
今回の旅行は、いろいろな目的が積み重なって成立したものだ。
一つ。俺がグルービーに呼ばれていること。今年中に一度、挨拶に来るようにと言われている。約束は果たさなければならない。
二つ。子爵家の仕事。イフロースの密命で、ティンティナブラム伯に手紙を届けなければいけない。
そういう手紙なら、カーンが届ければいい? 普通の連絡ならばそれが筋だが、今回のものは、プライベート寄りというか、どちらかというと、表沙汰にしたくない性質のものだ。ゆえにカーンは、俺をコラプトまで届けた後は、現地で藍玉の市に参加する。そこから抜け出した奴隷の子供になど、誰も注目しない。
しかも、俺には他の使命もある。
三つ。ティンティナブラム伯の裏切りの可能性を探れ。
無茶振りもいいところだ。
ティンティナブラム伯は、太子派だとされている。だが、決して評判のいい人物ではないし、信用もできない。
実は長子派とも裏で繋がっているのではないか? ……可能であれば、という条件付きだが、俺はその判断材料を探しにいかねばならない。
これで危険度が、ぐっと高まった。
冗談ではない。アネロス・ククバンが出てきたら、俺は真っ二つだ。下手な潜入工作など、できるわけがない。
ただ、奴は俺の顔すら知らないはず。殺人狂のアネロスとて、無駄に自分の居場所を知られたくはないだろうから、無用な戦闘はおろか、姿を見られるのさえ嫌うはずだ。こちらが素性を把握している事実を悟られなければ、滅多なことはしてこないだろう。
実際には、別に城に忍び込む必要などない。そんなのは常識的に考えて、不可能だ。俺が言い含められているのは、城内に物資を提供するような商人と仲良くなって、彼らを子爵家の側に取り込むことだ。
だから、情報の取得も急がなくていい。少しずつ親しくなればいいし、ある程度やり取りしたら、あとはイフロースか、彼が選んだ別の人に引き継げばいい。
ただ……この辺り、自信がない。実はこの半年というもの、ティンティナブリアの情報が、ほとんどピュリスに流れてこないのだ。あの地域を経由してやってくる商人が極端に減っており、こうして酒場でアルバイトをしていても、噂話を聞く機会すらない。
なお、決して楽とはいえない任務ではあるが、それなりのニンジンも、ぶら下げられている。得られた成果次第では、奴隷身分からの解放も視野に入れる、とイフロースに言われているのだ。
もっとも、これが俺に対する純粋な恩情だと考えるのは、甘すぎる。奴隷のままでは任せられない仕事、立たせられない場所というのがある。俺をもっと活用したいのであれば、どうあれ、自由民の身分に戻す必要があるのだ。
なお、周囲の人達には、行き先しか伝えていない。一応、グルービーに挨拶してくる、とは言ってある。ティンティナブラム城に行くのは、子爵家の仕事だとも。でも、詳細は伏せてある。
「そうなんですよね。でも、縞瑪瑙の月になる頃には、まず間違いなく戻ってきますよ」
「店のほうは、大丈夫?」
ウィーが俺を見上げながら、心配そうに尋ねる。
「大丈夫ですよ、今回はもう、アイビィだけじゃないんですし」
「でも、サディスちゃんも、まだ小さいから」
「品物は作り置きしてありますし、まぁ、なんとかなりますよ」
サディスはあれから、俺の店で仕事をするようになった。
セリパス教会からの通いだ。うちの空室においてもよかったのだが、そこはリンが譲らなかった。
それにしても、無口な女の子だ。何かに興味関心を持つと目を見開くのだが、そうじゃないと、ずーっと一人遊びをしていたりする。なんだか、その姿から、シュガ村にいた頃の生活がどんなものか、透けて見えてきそうで、ちょっと胸が痛む。
俺はまたカウンターに戻り、ウィーとユミの分のミルクを持って戻る。
「今日は、新作料理がありますよ」
「おっ、マジか」
「軽く食事をして、お酒を飲んだ後のシメの一品として、オススメしたいです」
「へへっ、楽しみだな」
と、そこでまた、出入り口の扉にぶら下げられたベルが鳴る。
「はい、いらっしゃ……あー」
「あー、じゃない。お客様の前ですよ、フェイ君」
珍しい。アイビィがやってくるとは。
「何しにきたの?」
「外食」
「なんでまた」
「だって」
その場で我が身を掻き抱き、身をくねらせながら、アイビィは嘆き悲しんでみせた。
「私のフェイ君が、私のフェイ君が、私を捨てて一ヶ月も」
「グルービーが呼んだんだよ?」
すると今度は、拳を握り締めて仁王立ち。
「あのデブ! よくも! きっとかわいい女の子ばっかり集めて、フェイ君を篭絡するつもりなんだわ!」
「ないない。七歳児にそんなことしないよ」
「そうだフェイ君、風邪を引きましょう、それがいいです」
「なんで。子爵家にも迷惑かかっちゃうよ」
「はいよ、姉ちゃん」
そこへ店長が割って入ってくれた。
「飯食うんだったら、その辺座ってくれや」
「おー、アイビィさん、こっちこっち」
店に迷惑をかけるつもりはないらしく、それで彼女も腰を落ち着けた。
「だってー、最後の夜くらい、フェイ君と食卓を共にしたかったのにー」
「あー……」
そこをドロルがなだめる。
「まぁまぁ。アイビィさん、ここにはフェイもいれば、フェイの料理もあるんだし」
「うー」
テーブルに突っ伏しながら、アイビィは不満げに唸り声をあげる。
それだけでは納得すまい。
家でのびのびと、二人きりの時間を過ごしたい、とかぬかしそうだ。
「一緒がいいのに」
「いや、一緒に出かけたら、店を管理できないでしょうに」
「一緒にお風呂に入りたいのに」
ぶっ!
頼むから、やめてくれ。
「へぇー」
ウィーがニタニタしながら俺を見ている。いいじゃないか、俺は子供なんだし。なんだよ。
あ、そうか。子供だからか。まだまだ甘えん坊の子供をからかいたい気持ち。わかるけど。
ハリがいきなり叫びだした。
「いけません! フェイ君、ちょっとそこの床に正座しなさい」
暴走している。アイビィのことはとっくに諦めたんじゃないのか。
「誤解しないでくださいよ! 僕はいつも、一人で入ろうとしているんです!」
「ってことは、いつも一緒に入ってるんだ」
「違います! でも、捕まると、振り解けないんですよ」
「まぁなぁ」
ドロルが溜息交じりに言う。
「アイビィさん、やたらと強いもんなぁ……夏に戦ってるところ見るまでは、全然わかんなかったけど」
「い、一応、その、フェイ君の護衛ですからっ」
監視係でもあるんだけどな。そこはさすがに口にはできないか。
彼女からすると、たまったものではなかっただろう。せっかく実力を隠して俺に近付いたつもりが、とっくに見抜かれていて、マオ・フーにもバレて、挙句の果てに大勢の人にも戦っているところを目撃されてしまった。忍者としては、もはや任務失敗といってもいい。
「私には、わかっていましたよ」
「ん? ハリ、なんでだ?」
「あの……乱暴な客に浴びせた膝蹴り……」
昨年末の特売日に殴りこんできた馬鹿な薬屋がいたっけ。ちなみに、あれから一ヶ月後には閉店して、また岳峰兵団に再就職したらしい。
ハリは、あの時の容赦ない一撃を思い出して、青くなっていた。
「あ、あ、あの、店長! 何か食べるものをください!」
慌ててアイビィが叫んだ。自分のことを、これ以上、探られたくないのだろう。
「あいよ」
彼女はあまり量を食べる人ではない。ゆえに、何皿も出すわけにはいかない。
そう判断して、店長は早速、トンコツラーメンを出すことにしたらしい。
「おい、フェイ、麺の茹で方にまだ自信がねぇんだ。やってくんねぇか」
「はい」
厨房に戻って、麺を茹でる。やや固めなくらいで湯切りをして、スープの中に入れる。具を散りばめて、お盆に載せて持っていく。
「お待ちどうさまです。新作料理『トンコツラーメン』ですよ!」
「おおお!?」
男達が身を乗り出して、丼の中を覗きこむ。
「わぁ、いただきます」
フォークを掴んで、アイビィは一口食べた。
「んっ」
「どうかな?」
咀嚼し終わってから、彼女はものすごい勢いで振り返った。
「これ、もしかして! フェイ君、これ」
「うん?」
「アルディニアの麺料理? どこで習ったの?」
「えっ、そうなんだ。僕はそっちのほうは知らないけど……」
本で読んだ限りでは、昔からアルディニアの麺料理の主流は、汁なしなのだそうだ。
あのアルデン帝のお気に入り、チャル・メーラは、そこにスープヌードルという新基軸を打ち出して、彼の胃袋を掴んだ。けれども、彼女の死後、だんだんとそのレシピは廃れていったらしい。
理由はいろいろある。何よりまず、のびやすいという問題だ。コシのあるおいしい麺というのは、表面に充分な水分が含まれており、奥にはあまり浸透していない状態において成立する。しかし、特にスープの中に浸かったままだと、どんどん周囲の水分にやられて、簡単にブヨブヨになってしまう。
貴族の食事は、昔から時間をかけて、いろんなものをゆっくり食べるのが普通だ。ましてやパーティーともなれば、料理そっちのけで長話をしたりもする。パスタでさえ時間経過で劣化するのに、もっとダメになりやすいスープヌードルなど、上流社会で生き残れるはずもなかった。そういうわけで、今の料理人達は、むしろ焼き麺の技術を磨いているのだとか。
「一度食べてみたかったのに、まさかこんなところで」
さて。どこで習ったのか? 前世です、とは言えない。
あれこれ言い訳を考えているうちにも、アイビィは麺にがっついている。
「お、うまそうだな」
「フェイ、俺達にもくれ」
返事をしようとした瞬間、また出入口のベルが鳴った。
「おいーっす!」
口調は男でも、女の声だ。
ゾロゾロと連れ立って店内に入ってくる。途端に香水の匂いが、トンコツラーメンのそれと混ざり合う。
「ほら、やっぱりいたよ」
「料理。食べにきた」
やってきたのは、俺所有の奴隷達だった。
最初の一声がガリナで、次がエディマとリーアだ。
「なんかうまそうなもん、食ってんじゃねぇか。あたしらにもくれよ。あと、エール!」
どかっ、と乱暴に腰掛けると、粗野な声でそう注文する。
「お、おい、フェイ」
店長は、一気に殺到した注文に、表情を強張らせる。
「大丈夫ですよ。こういう時、この料理は簡単に出せるからいいんです」
麺を茹でるのに、一人分ずつやる必要はない。タイミングさえ覚えれば、五人でも六人でも、同時にやれる。
瞬く間に全員分のトンコツラーメンを用意して、配膳を済ませる。
「おー、酒と合う合う! けど、今日が食い納めかぁ……明日からはオヤジの飯になるんだよな」
遠慮のない物言いに、店長の額に青筋が立つ。
「悪かったな」
「ガリナ、失礼」
彼女らの様子を見つめるハリが、ぼそっと言った。
「随分と景気がよさそうですね」
小声だったのに、ガリナにはきっちり聞こえたらしい。
「そーなんだよ! フェイさまさまだね。言う通りにしたら、客が結構来るんだ。不思議でしょうがねぇんだけど、なぁ、フェイ」
「は、はい?」
「いったい、どこであんなエロいアイディアを思いついたんだ?」
また返答に困る質問が。
しかも、こんなところで大声で尋ねないで欲しい。ほら、ウィーとユミの視線が。
「でも、調子に乗らないほうがいいよ、ガリナ」
「ん? なんでだ?」
「ちょっと前まで、当局の締め付けが厳しかったから、今はその反動で客が多いんだよ。でも、そのうちに飽きられたら」
「んー、そういうことか……」
最近までは、夜の街にも、警備兵がウロウロしていた。お遊び厳禁、とまではいかないが、物々しい雰囲気の中で、ゆったりと遊ぼうと思う人は少ないだろう。
理由は簡単だ。あの夜、子爵か伯爵か、どっちを狙ったのかはわからないが、とにかく『復讐の矢』が向けられたからだ。あの後、街全体に捜査網が敷かれたが、結局、犯人を見つけることはできなかった。
あれ以来、どこかに襲撃犯が潜んでいるのではないかと、兵士が巡回するようになったのだ。その厳戒態勢が、つい最近、解除された。もちろん、屋敷内では以前にも増して警備が強化されているのだが。
イフロースが俺に、伯爵の身辺を探って欲しいなどと無茶を言うのも、この辺りが理由だったりする。あの襲撃が子爵を狙ったものだとするなら。疑われにくいのは、被害者だ。わざと子爵のもとを尋ねて、暗殺させる……あり得ないことでもないらしい。
もっとも、それすら可能性の一つでしかない。狙われたのが子爵か、伯爵か、イフロースか、わかったものではないのだ。そもそも、あの復讐の矢が実はただの見せかけで、子爵と伯爵の関係を悪化させるための長子派の離間の策、というのも充分に考えられる。
「ふーん」
テーブルの向こうから、ウィーがジト目で見つめてくる。
「すっかり『子供店長』なんだねー」
「ち、違うよ! 僕が店長をやってるのは薬屋だけ! あっちのお店は、完全に手放したんだから!」
「その分だと、アイビィさんとお風呂に入ってる時にもー」
「誤解ですっ! だいたい、僕、あっちの店からは、銅貨一枚、利益を取ってないんですよ!」
そこでリーアが俺の肩を叩く。
「お風呂なら、今度、一緒に入る」
「は?」
ガリナも声をあげる。
「あたしらの持ち主は、まだフェイだもんな。言ってくれりゃあ、なんだってするぜ!」
やめろ。話がややこしくなる。
そこへアイビィが割って入った。
「だめです」
ほっと一息つく。そうそう、俺の護衛なら、ここは立派な保護者の役目を果たして欲しい。
口論っていうのは、自分でやっちゃダメなんだ。誰かにやってもらったほうが、ずっとうまくいく……
「フェイ君は私のものです。一緒にお風呂に入っていいのも、私だけです」
おい。これ以上かきまわして、どういうつもりだ。
けれども、俺が事態を収拾しようと身構える前に、背中に圧し掛かる感触が。
「えへっ、抱きついちゃった」
悪ノリしたエディマが、俺の背中に胸を押し付けてきている。出会った当初を思えば、すっかり明るくなった点については、本当に微笑ましく思えるのだが。
「離れなさいっ」
アイビィが、俺の胴体にしがみつき、頬擦りしてくる。すると、じりじりと近寄ってきたリーアやディーが、面白半分に俺の手や足を掴んでくる。四人がかりで拘束されて、まったく身動きができなくなってしまう。
「わー、モテモテだねー」
ウィーの棒読みな声が遠くから聞こえてくる。
ガッシュも呆れて、笑っている。
「こいつは将来、絶対に女泣かせになるな」
そこへ、また出入り口のベルが鳴った。
「へい、らっしゃい!」
客のオモチャになっている俺の代わりに、店長が声をかけた。だが、来客はそこで足を止め、こちらをじっと見る。
灰色の帽子から、亜麻色のロングヘアが流れている。すらっとした体つきを、同じく灰色のロングコートが覆っている。片手で、金髪の少女の手を握った女性だ。その視線が、俺に突き刺さる。
「あ……あ……あ……」
面倒な奴に、嫌なところを見られてしまった。
「この色魔! やはりあなたはっ、悪魔の申し子です! フェイ!」
お忍び姿でも、やっぱりセリパス教徒はセリパス教徒か。リンはほとんど、反射的に叫んでいた。
手を握られたサディスは、俺に駆け寄ろうとして、リンに引き戻されている。
「い、いいから、助けて、ください……」
そんな俺の呻き声を無視して、リン達は、少し離れた場所に腰掛けた。
「今日のお勧めをください」
「はいよっ」
店長も助けてくれない。注文をとると、腕まくりしながら「今度は自分で茹でるかぁ」とか言ってる。
トンコツラーメンの麺は、長時間は茹でない。あっという間に準備が済み、あとはお盆に載せて、席まで運ぶだけ、というところで、また出入口に客がやってきた。
「へい、らっしゃい!」
「お邪魔するよ」
数人の男達が、どかどかと店内に踏み込んできた。その先頭に立つ彼。頼れるナイスガイの姿に、俺は思わず叫びだした。
「フリュミーさん!」
「やぁ、フェイ君。……何やってるんだい?」
質問がおかしい。何をやっている、ではなくて、何をされているか、だ。
「もてあそばれています」
「はははは! それはよかったね」
そう言って笑うと、彼は店長のほうに向き直り、注文した。
「全員にエールを!」
「はい、承知しましたっ」
商売用の声で、元気よく返事する。
俺はこの機を逃さず、女達を振り解く。
「ほら! 仕事だから!」
そうしてカウンターに戻り、ジョッキを掴んでは、テーブルとの間を往復する。
最後にフリュミーの前にドンと置き、声をかけた。
「いらっしゃるとは思いませんでした」
「いや、前から聞いていたんだ、セーン料理長にね。どうせだから、噂のフェイ君の料理を食べてみたくて」
「そうなんですか、ありがとうございます」
そう言いながら、周囲に視線を向ける。彼の後ろにいる男達。見知ったのもいれば、そうでないのもいる。
「ああ、みんなは、明日、一緒に出航するんだ。カーンと同じさ。藍玉の市に間に合うようにね。それでせっかくだから、誘ったんだよ」
「そうですか。ちょうど、今日は新作料理もあるんですよ」
「おっ! いいね。任せるから、どんどん出してよ。みんな、ものすごく食べるからね」
俺は喜び勇んで、厨房へと駆け戻った。
「……で、これが今日の新作です。シメにどうぞ」
あれから一時間近く、俺は料理を作ったり配膳したりで、動き回っていた。さすがにもう、クタクタだ。
そんな様子を見かねてか、ドロルが声をかけてくる。
「おいおい、大丈夫か」
「ああ、平気ですよ。どうせ明日からは、ずーっと馬車の中で座ってるだけですし」
疲れはしないが、尻が痛いことだろう。それを思うと、今から頭が痛い。
「……ふむ」
フリュミーが、フォークを置いて、真面目な顔をしている。
「どうしました?」
「いや……」
難しい顔をしたまま、何か言い出そうとしては、また口を閉じてしまう。言葉を捜しているようだ。
ややあって、また続きを話し始めた。
「少し、頑張りすぎなんじゃないかな?」
「え?」
「ずっと君を見ているわけじゃないから、なんとも言えないんだけど」
確かに、やたらと働きまくってはいる。薬屋の仕事にしても、今回の遠征のために、作り置きの作業が大量にあった。合間には、イフロースやガッシュ達相手に剣術の練習もする。魔術の理論も、日夜勉強中だ。おかげで夜は、グッタリしてよく眠れる。
「そんなに気を張っていると……いつかプツンといくよ」
「そんなものですか」
「ああ。どこかでのんびりしたほうがいい。そうだな、今回の旅が終わったら、しばらく休養でもとったらいい」
傍から見ると、そんなにせわしなく見えるのか。確かに、夏からずっとワーカホリック気味ではある。これも前世が日本人だったゆえなのか。
「でも、店もありますし」
「……うん、そうなんだけど……」
そこへハリやガッシュも加わる。
「確かに、話だけ聞いても、大人でも大変な仕事量をこなしていると思います。本当に休まれたほうがいいかもしれません」
「まぁなぁ……不安が半端ないんだろ。なにせグルービーの店を預かってるようなもんだしなぁ」
気付けばウィーも心配そうな顔をしていた。
「これから会うんだよね。ラスプ・グルービーって、いい噂は聞かないよね……大物ではあるけど、かなり強引で、汚いやり方もする人らしいし」
そうだろう。どうしても思い通りにならない相手は、きっと精神操作魔術か何かで支配したりもしているのかもしれない。そんな男の呼び出しだ。心してかからねばならない。
「子爵様も、よくあんなのと付き合うよな。気が知れねぇよ」
ドロルが吐き捨てるように言う。
イフロースらの必死の努力により、サフィス・エンバイオ・トヴィーティなる人物は、庶民の間では、立派な貴公子で、有能で、人格者だと思われている。そんな素晴らしい人物が、フォレスティア南部の汚点のような人物と接点があるのが、不思議でならないというわけだ。実情を知っている俺は苦笑するしかないのだが。
現に今も、少し離れたテーブルでは、ずっとリンが「いやらしい」とか呟き続けている。グルービーとは、つまりはそういう人物だと周知されているのだ。
「あのう」
珍しく力のない声で、アイビィが話に割り込んできた。
「一応、雇い主なんですけど……」
この一言で、さっと酒場の中が静かになる。
「あっ」
「いえ、だいたい、皆さんの言ってる通りなんですけど」
弁護、しないのか。
一瞬、みんな拍子抜けした顔をしている。
「でも、それだけじゃないんですよ」
「というと?」
「確かに、悪人ですし、金に汚いですし、やたらとスケベですし、デブですし、臭いですけど。それだけじゃないんです」
ドロルは首を傾げている。
「わっかんねぇなぁ……じゃ、信用できるってことか?」
「それはある意味……でも、そうですね、信じないほうがいいとは思いますけど」
「じゃ、どうしてアイビィさんはそんな奴に」
「おい、やめろよ」
ガッシュが質問を遮った。
それ以上はさすがに失礼だし、アイビィの個人的な事情にも立ち入ることになる。
「っと、そうだな、悪かった」
「いいえ」
アイビィは、いつもの冗談めいた笑顔ではなく、真顔で微笑んで返事をした。
だが、ハリは顎に手を当ててじっと考えていた。ふと顔をあげて、彼女に尋ねる。
「では、アイビィさん」
「はい?」
「どんな用事でグルービーさんがフェイ君を呼ぶかはわかりませんが……アイビィさんとしては、どうしたいですか? どうなって欲しいですか?」
この質問に、彼女は一瞬、陰のある表情を浮かべた。だが、それを見咎めるまもなく、いつも通りの笑顔に戻って、返事を済ませた。
「もちろん、今まで通り、フェイ君と二人きりで暮らしたいです」
そこで、ガリナが声をあげた。
「まぁ、心配するなよ。もし、グルービーに捕まったりしたら、あたしらが助けに行くからよ」
勇ましいことだが、それは無理だし、しないほうがいい。
案の定、リーアが早速、突っ込みをいれている。
「できない」
「なんでだよ! 薄情だな、お前」
「奴隷は許可なく街から出られない」
「ばぁろぉ、そんなもん、無視して行くんだよ!」
できればやめて欲しい。かなりの確率で死ぬことになる。
アネロスの潜むティンティナブラム城も危険だが、コラプトも負けず劣らずだ。グルービー子飼いの忍者や護衛がアイビィしかいないなんて、あり得ない。ろくな戦闘力を持たないガリナ達ではもちろんのこと、ガッシュ達でも生還は難しそうだ。
……出発前に、新作料理を伝えておこうと思ったのも、それなりの危険を感じているから、だったりする。
フリュミーが、静かな、しかしよく通る声で、言った。
「フェイ君」
「はい」
「いざとなったら、全部捨てるんだ。とにかく、全部。安全だけ、生きることを考える。いいね」
自分のことを気にかけてくれる人が、こんなにもいる。ありがたいことだ。
「はい」
今回の旅、心してかからなくては。
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