故郷の貴族

 この仕事。本当に久しぶりだ。じっとしているのがこんなにつらいなんて。

 夏も盛りが過ぎて、今は紫水晶の月。残暑厳しい中、俺は分厚いスーツを身につけて、ナギアと並んで立っている。

 ただ、それでも俺にとって、この仕事は外せないものだった。なんといっても、迎える客は、あのティンティナブラム伯。その顔を見て、絶対に覚えてやろうと思った。


 別に今は殺そうとは思っていない。

 確かに、奴のせいでリンガ村は壊滅したのだし、俺も死ぬところだった。しかも奴の悪事はそれに留まらない。うちのディーが強姦されたことからもわかる通り、常に非道の限りを尽くしているに違いない。

 だが、ここで奴を殺すとなると、手段は一つしかない。ピアシング・ハンドをこんな理由で使うのか、と言われると……ピュリス総督官邸で、伯爵が行方不明、だなんてことになったら、他の人間はいざ知らず、イフロースはまず俺を疑うだろう。

 それにまた、ピアシング・ハンドによる死は、肉体の損傷をまったく伴わない。しかも、まったく予期できない。つまり、苦痛も恐怖もない。復讐の手段としては、あまり意味がないのだ。

 何より。俺は直接に伯爵を見たことがない。リンガ村の殺戮についても、いろいろな情報からの総合的な判断で理解したのだし、俺を直接、斬殺したのはアネロス・ククバンだ。つまり、知識としては悪い人間とわかっていても、感情がそれに追いついていない。


 今日、奴を迎えるのは、芍薬の間だ。一応、貴族としての格式は向こうのが上だが、別に国王からの勅使とか、そういう名目でここに来るわけではない。そうなると、この地では総督としての立場がある子爵の方が、上に立つべきなのだ。

 それにトヴィーティ子爵は、元はフォンケーノ侯爵家の分家でもあり、つまりは独立貴族という出自である。伯爵は王家の臣下の血筋だから、家格としても一概に格下であるとは言い切れない。

 昼下がりの一番蒸し暑い時間帯。既に伯爵は控室で休んでいる。俺とナギアは、かつてグルービーを迎えたのと同じように、香りにむせ返る花々の間に直立して、客の到来を待ち構えている。


 ややあって、かすかな音が聞こえた。控えの間の扉が開いたのだ。そして足音。何やら話をしている。相手を務めるのは、一家で主人の次に高い地位にある人物、つまり執事だ。


「ほォ、では、サフィス殿は、いまだに妻はお一人のまま、と」

「なにぶんにも、閣下は奥方様を深く愛しておられますゆえ」

「それはそれは。いや、お気持ち、お察し致しますぞォ。なかなか窮屈な思いをなさっていらっしゃるに違いないィ」


 ねとつく中年男の、鼻につく声。こう、噛んでる途中のガムを、ベトッと擦り付けられるような不快感が、耳にへばりつく。


「とはいえ、ピュリスの総督ですからなァ。さぞかし、華やかな暮らしをなさっているかと思いましたがなァ」

「トヴィーティのエンバイオ家は、先代フィル様からの家訓もございまして、必要以上の華美を排しておりますもので」

「いやいやァ、なかなか立派なものでございますぞォ」


 角を曲がって、こちらに二人の姿が見える。

 ティンティナブラム伯の第一印象。一言でまとめるなら『不潔感あふれるハゲ』だった。


 頭頂部がハゲて、テカテカしている。ところが、少しでも髪の毛を失いたくないのか、その周辺の髪の毛をきれいに切り揃えるでもなく、モジャモジャのまま、その空き地の周辺に寄せている。髪の毛の質だってよくはない。縮れている上に、ごま塩といっていいほど、白髪が増えてきている。

 顔のほうも、たいがいだ。生まれつきの造形の美醜をどうこう言うつもりはないが、刻まれた皺と表情からくる雰囲気は、およそこの男の爛れた生活を想像させるのに充分だった。皮膚も荒れており、頬はだらしなく垂れ下がっている。目は濁り、口はだらしなく開けられている。

 体格は、やや背が低いというだけだった。但し、下腹部だけがポッコリと突き出ている。対照的に、手足は細かった。それがまた、醜悪さを引き立てている。こうなると、彼が身につけている上質な茶色のスーツも、なんだか泥の中とか、肥溜めから出てきたようにしか見えない。


「おほォ」


 その不潔感あふれる男が、こちらを見た。

 視線は、すぐにナギアに固定された。


「なかなか……いや、なかなかに、閣下もいいご趣味をしておいでですなァ」

「おそれいります」


 趣味、というところに変なアクセントがついていた。それで俺は察する。このオッサン、ナギアのことを、子爵の愛人とみなしたのだ。

 俺が勘付くくらいだから、イフロースにだって、意味は通じているだろう。だが、あえて知らぬ振りを決め込んでいる。

 そっと右側に立つ彼女を見た。案の定、笑顔のままだが、鳥肌が立っている。


「……あの、閣下?」


 イフロースが、やや戸惑っている。珍しい。

 伯爵が足を止めたまま、歩き出そうとしないからだ。その視線は、ナギアにロックされたままだ。


「あァ、これはこれは、ついつい、見入ってしまって」

「ピュリスには、珍しい南国の花がたくさんございますから」

「そうそう、そうですなァ、実にいい花だ」


 うーわー……


 花、という単語が何を指しているのか。わからないはずがない。イフロースはただ、伯爵に、立ち止まった理由を与えるためだけにそう言ったのだが、奴はそれを、あえて曲解しやがった。つくづくいやらしい奴だ。それこそリンにでも引き合わせてやりたい。

 欲望垂れ流し系の人間だな、これ。何より、客先にいるのに、遠慮ってものがない。


「では、先に進みましょうかなァ」

「はい」


 俺とナギアは、上辺だけの笑顔を浮かべたまま、なんとか伯爵をやり過ごした。

 彼の帰宅時間は夕食後となるので、俺達はいったん、召使用の休憩室に引き上げる。


「なんなのよ、あれ……」


 珍しくナギアが、自身を抱きすくめるようにしながら、嫌悪感を丸出しにしていた。


「なにって、伯爵じゃない?」

「そんなの、わかってるわよ!」


 怒鳴りながらも元気がない。


「気持ち悪すぎるんだけど。信じられない」

「……前にグルービーが来た時も、そんなこと言ってなかった?」

「あれもキモいけど! なんかわかんないけど、今回のがもっとイヤ!」


 そうなのか。だとすれば、ナギアには、思った以上に人を見る目がある。

 グルービーも、確かに醜悪さでは、比類ない。オマケに、体臭をごまかすためなのか、鼻が曲がりそうになるくらい、いろんな薬品を体に塗りつけていた。普段の行いだって、決して誉められたものではない。コラプトでは売春宿の親玉をやっているのだから。

 しかし、なんといっても彼には知性があった。声こそ聞き苦しく、不快そのものではあったが。オブジェになりきって立っている召使に話しかけるという非常識もあったが。言葉そのものには礼を失するような要素はなかった。

 ところが、伯爵はどうか。ただの下種だ。ナギアを見ては欲情し、更にはサフィスの愛人なのだと邪推し。歩きながらもずーっと下の話ばかりだ。鼻につくあの喋り方も、まったくもって気色悪い。


「気をつけたほうがいいよ?」

「なにが?」

「幼女が好きらしいんだ」

「はぁ!?」

「これは本当のことだから。ティンティナブリア出身の女の子……当時、十歳の子供がね、あの男に」

「嘘でしょ!?」

「で、奥さんにバレたか何かで、都合が悪くなって、その子を犯罪奴隷にして厄介払い」


 ナギアは絶句している。

 だが、これは作り話ではない。俺の手元にいる、ディー・アスリックという不幸な少女の実話だ。


「うえぇ……近寄りたくない。ちょっと、マジで?」

「どうしたの? ナギア」


 ちょっと悪戯心がわいてきた。


「彼は貴族だよ?」

「だから何よ」

「いっそ、ご主人様に直訴して、ティンティナブリアに送ってもらえば」

「冗談じゃないわよ!」

「貴族の奥さんになれるんだけど?」

「それでもアレはイヤ!」


 本気で嫌がっている。

 ま、からかうのはこの辺にしておくか。いつかの意趣返しにしても、これで充分だろう。


 それから、ナギアはその場に腰を下ろした。憮然とした表情のまま。

 俺は、そんな彼女を放置して、今見たものについて、思考を巡らせる。


 噂に違わない、まさしく不潔な貴族そのものだった。

 ティンティナブラム伯は、いわゆる在地貴族だ。つまり、官職を得て、王室の仕事を引き受けている貴族ではない。ということは、彼の収入は基本的に、領地の収益に依存する。

 だが、その領地の状況はどうか。リンガ村の貧しさは、ここピュリスからでは想像もつかない。他の村だって、大同小異だ。サディスは実の父の手によって売り飛ばされたのだし、ガリナだって夫によって売却される予定だった。しかも、そんな状況にありながら、あの腐れ貴族は、そこから搾取することしか考えていなかったのだ。


 だが、どうしてそこまで貧しくなったのか。


 ティンティナブリアは、そもそも広大な範囲を指す地名だった。本来の領域は、実は大陸東岸まで延びる広い陸地全体なのだ。そもそもこの地が、ギシアン・チーレムの幕僚で、兵站を担ったロージスの所領だったからだ。彼は、今ではチーレム島と呼ばれる本拠地から、対セリパシア帝国の最前線に至るまでの補給路を構築し、これを守った。この時、建設された道は、ロージス古道と呼ばれている。

 だから、その後の三百年間は、大陸北部の物流の中心は、このロージス古道だったのだ。東岸からまっすぐ西に、そしてかつて最前線の要塞だったティンティナブラム城を経由して、北西方向に伸びる道がセリパシアに、南西方向に伸びる道がピュリスやフォンケニアに、そして南はコラプトに繋がっていた。森林と河川にも恵まれ、農業も盛んだったのだが、何より商業によって富み栄えていたのだ。

 しかし、諸国戦争によってインフラが破壊され、物流が寸断されると、事情は一変した。ロージス古道沿いの古い村々は、次第に放棄されていった。エスタ=フォレスティア王国が今の版図を得る頃には、実質、ティンティナブリアと呼ばれる地域は、かつての三分の一程度にまで縮小していた。もはや、物流の拠点としての存在価値をほとんど失い、わずかにフォレスティアから東部セリパシアに繋がる中継地としての役目だけが残された。


 それでも。それでもだ。ティンティナブラム城の真下を流れるエキセー川は、流域に多大な恵みをもたらしている。そして、現在のティンティナブリアも、エスタ=フォレスティア王国の実効支配地域全体からすれば、なんと一割弱にもなるほどの広さがあるのだ。所領の広さだけで見れば、フォンケーノ侯などの大貴族に匹敵する。国内の貴族としては、領地の面積では、五指に入るくらいなのだから。

 ゆえに農業生産だけでも、それなりの富があったはずなのだ。だが、恐らく圧政が続いたために、農民の流出が続いたのだろう。それなのにあの伯爵は、より富を得ようと、ただでさえ貧しい人々に、更なる苦しみを背負わせている。


 ドアがノックされた。


「フェイ、ナギア」


 顔を出したのは、接遇担当の裏方を務める青年だった。


「今、連絡が上がってきた。今日の夕食だが、配膳その他の手伝いは、お前達がするように」

「ええっ」


 ここは軽く驚くところだ。

 貴族、それもサフィスのような見栄っ張りの場合、料理人や配膳担当には、男性を使う。それも、美青年を選んで起用するのが普通だ。そのほうが給料の分だけ、コストは高くなるのだが、見栄えがいいとされる。

 で、普通はそのような立場で働けるようになる前の少年が、俺みたいにオブジェになったり、他の仕事にまわされたりする。修業を積んで、やっと客の前に出せるようになるわけだ。

 ところが、伯爵は、そうした常識を踏み破ってきたらしい。会話の最中に、出迎えた少年少女の容姿を褒め称え、ぜひとも給仕役を務めさせて欲しいと希望を述べたのだとか。


「信じらんない……」


 ナギアが絶句している。


「また呼びに来る。それまでここで休憩しているように」


 そう告げて、青年は去っていった。


「完全に狙われてるね」


 俺がそう呟くと、ナギアは本気で嫌がって、恐怖に顔を歪ませていた。


「どうしよう……」

「真面目にいうと、心配要らないと思うよ?」

「どうしてよ」

「何かあったら、それこそお父さんが助けにくるよ」


 ぶっちゃけ、サフィスはアテにできない。召使を守るなんて発想はないから、伯爵に「譲ってくれ」とか言われたら、ホイホイ差し出すかもしれない。イフロースあたりは、絶対にいい顔をしないだろうが。

 しかし、フリュミーは違う。子爵家と縁が切れても、いっそ追われる身になろうとも、家族を取る男だ。ただ……

 後ろ盾なしにティンティナブラム城に乗り込むのは、危険すぎるか。俺以外、誰もその存在を知らないが、もしアネロスが出てきたら、一瞬で首が飛ぶ。


「でも……」


 そう。今、フリュミーはここにいない。遠い海の向こうだ。戻ってくるのは何週間後だろう?

 どんな犠牲を払っても娘を救いにくるという点においては疑いがないが、そもそも危機そのものに気付くのが遅すぎる。

 ……仕方ないか。


「ま、なんとかなるよ」


 ナギアにはそう言っておいた。

 フリュミーには一度、救われている。ほんの気持ちだけ、恩返しさせてもらおう。

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