重荷を背負って生きる少女
日没後、間もない頃。
俺は、こじんまりとしたダイニングに席を占めていた。右隣にはサフィス、向かいにはウィムで、その隣にはエレイアラ。以前にジビエの水煮を持ち込んだのと同じ部屋だ。
「では、食前の祈りを」
「女神様、今日の糧をありがとうございます」
女神の神殿は、一般の信徒には、食前の祈りなど、義務付けてはいない。これも、どちらかといえばセリパス教徒の習慣だ。
どうでもいいけど、この家、本当にカカァ天下だよなぁ……尻に敷かれているというか。家具から作法から、セリパシア風、つまりは夫人の実家の趣味に染まってる辺りが、なんとも。
やがて、男性の召使が、食事を給仕する。昼に食べたものより、手の込み具合の違うものが出てくる。さすがに味がいいのだが、ここで食べ過ぎないよう、気をつける。この体はもうすぐ、リリアーナに返却するのだ。しかもその後、すぐに寝てもらわないといけない。胃もたれさせるわけにはいかないから。今頃、無事に部屋まで戻ってきてくれているはずなのだが。気がかりだ。
「そういえば、エレイアラ」
サフィスが魚をナイフで切り分けながら話し始める。
「もうすぐ、また大きなお客がくる」
「まあ。どなたでしょう?」
問いかけに対し、サフィスは食べ終わるまで返事をしなかった。さすがに子爵家の当主だ。一口を少しずつにして、下品な結果を避けるようにしている。
「ティンティナブラム伯爵だ」
「まあ」
なに?
今、なんて言った?
ティンティナブラム伯爵。
俺の出身地の支配者だった男。顔も知らない。年齢すらも。だけど、何をしてきたかなら、よく知っている。
貧しいリンガ村に兵士を派遣して、皆殺しにした。まだ幼かったディー・アスリックを誘拐して、強姦した。
どう考えても、クズ野郎だ。
俺は、夫人の顔色を窺う。声のトーンが一段、低くなったのは、聞き間違いではないと思う。
「太子派の仲間だからな。無視するわけにはいかないさ」
「あなた……」
彼女の顔には、嫌悪感が滲み出ていた。
「肩入れもほどほどになさっては」
「今更、どうやって? それに、安全なところにいて、どうやって勝利を手にするんだ?」
女が政治の話に嘴を突っ込むな。お前が偉そうにしていいのは、この家の中だけだ。
彼の声色は穏やかだったが、そう言っているように聞こえた。
「勝利なら、既に得ているではありませんか。あとは、それを失わずにいることが大切なのでは」
「また、それか」
エレイアラの言わんとするところは、よくわかる。
既に、先代当主が太子に働きかけて、ここピュリスの総督に収まった。その地位を継承できているだけで、充分とするべきなのだ。これより高い地位に昇ろうとすれば、確かにそれも不可能ではないが、リスクも高まる。
このまま、この地における支配力を増大させていくだけでも、子爵家の将来は明るいのだ。ならば、今、手の中にあるものをしっかりと守ることが肝要で、それ以上を望むべきではない。少なくとも、危険に身を曝すほどの価値はない。
「そういうところが、女の女たる所以だな」
そう言って、サフィスは肩をすくめる。
リスクを取って、成功を手にしようというのか。だが、これ以上となると、何が欲しいのか? 総督の地位で満足できないなら、次はもう、財務大臣とか? だがそのポストは、先代があえて捨てた出世ルートだ。確かに名誉も収入も高いとはいえ、それがなかなか安定しないゆえに。
そこまで登り詰めれば、陞爵だってあるかもしれないが、称号に実権は伴わない。さすがに大臣の地位は世襲できないから、結局、エンバイオ家の末永い成功と繁栄を考えるなら、むしろマイナスのが大きい気がする。
「ま、いい。それで、ティンティナブラム伯爵には、息子が一人、いてな」
「ええ」
「ひょっとしたら、ひょっとするかもな」
それって、まさか。
エレイアラの顔も引き攣っている。
「あなた、でも、確か」
「そうなんだ。確か、年はもう、二十歳近かったかな」
「それでしたら、他にいいご縁がおありでは?」
「そうかもな」
これは、リリアーナが聞いても、やっぱりゾッとするような案件だったろう。先日の、ナギアへの『フェイとの結婚』口撃よりずっとキツいしヤバい。だってあっちは半分冗談だし、実現したところで召使同士の普通の結婚に収まる範囲の話だけど、これは……
貴族だから、年の差婚もあり得ないわけではない。とはいえ、あのクソ貴族の義理の娘になるとしたら。
だいたい、二十歳前後なら、もう普通に結婚する年齢だろう? なら、適齢期の女性と結ばれればいいじゃないか。これが四十歳まで売れ残って、その時点でたまたま二十歳前後の娘と結婚しました、というのなら、まだわかるのだが。リリアーナは六歳だぞ? 今から予約する相手じゃないだろう? よっぽど他に良縁がないのか? ないとしたら、なぜなんだ?
一つには、金がないのかもしれない。なにしろ所領をあれだけ搾取しまくっているのだ。多分、台所事情が火の車なんだろう。
「だがな、エレイアラ」
しかし、夢を見始めた男の語りは、止まらない。
「噂で聞いた限りでは、伯爵のご子息は病弱というからな」
「尚更よくありませんね」
手元にあるグラスの水を、この場で全部、サフィスの顔にぶちまけてやりたい。やらないけど。
娘を早々に後家にして、代わりに領地をせしめようってか。確かに、ティンティナブリアは広大な領地ではあるが……それにしたって、こんな下品な話を、本人の前で。子供だから、わからないと思って。
「どうだ、リリアーナ」
不意に話がこちらに向けられた。
「お前は将来、何をしたいんだったっけな?」
どうしよう?
俺は今のリリアーナの夢なんか、知らない。
「お父様、いきなりそんなことを言われましても」
「ははは、前は、お嫁さんになりたいとか言っていたのにな」
あっ、今、血管切れそうになった。
笑いながら、こいつ、よくも。無自覚なのか。人を、自分の娘であっても、欲のために使い捨てることに、違和感を覚えないのか。
前世にも、そういえば、そんな奴がいたっけ。自分が幸せだから、周囲も幸せなはずだと、なんとなく考える。で、当たり前のように、途方もなく利己的な行動を取る奴が。なぜかそういう奴は大抵、名声とか他人の評価には敏感だ。
今となってはよくわかる。前にリリアーナが「お嫁さんになりたい」などと答えたのだとすれば、それはなぜか。
なんのことはない。少しでも早く、ここを出て行きたいだけなんだよ!
「あなた」
「なんだ」
「リリアーナも貴族の娘ですから。まずは帝都の学園に通わせませんと」
「ああ」
水を差されて、サフィスはあからさまに不機嫌になった。
帝都パドマの学園は、十五歳入学、十八歳卒業だ。さすがに伯爵の息子を十年以上待たせる縁談など、成立し得ない。
「学ぶうちに、やりたいことが見つかるかもしれませんからね」
「余計な知恵がつくだけじゃないのか?」
トゲのある口調で、彼はそう吐き捨てた。
「本分を忘れて、官僚を目指す娘達もいるそうだからな」
「結構ではありませんか」
「貴族としての自覚が足りないというのだ。だいたい、本家を守らずして何の貴族だ?」
「家を守るのが貴族の務めだというのであれば、そのお言葉、そっくりそのまま、お返ししますわ」
「どういう意味だ!」
怒声と共に、彼はテーブルをドンと叩いた。食器が跳ねる。
「うわぁぁあぁん!」
ウィムが、叫び声をあげた。
「まぁ」
奥から飛び出してきたのは、乳母のランだ。
「坊ちゃま、大丈夫でございますよ、ランめがここにおります」
だが、三歳児はなかなか泣き止まない。周囲の大人の険悪な雰囲気に、今まで恐怖を溜め込んできたのだ。抗議するかのように、派手に泣き喚いた。
「お父様、お母様」
我慢の限界だ。
俺はすっと席を立つ。
「今日は少し疲れましたので、早めに横になりたいと思います。失礼してもよろしいでしょうか」
「あ、ああ」
「おやすみなさい、リリアーナ」
サフィスは、やや気まずそうな顔で、エレイアラは冷え冷えする表情で、返事をした。
自室に帰り着く頃には、とっぷりと日が暮れていた。
鍵のかかった扉を開けて、中に入る。ベッドの上には……
いた。小さな目が、暗がりに光っている。ちゃんと前もって決めた通り、ベッドの上から動かない、というルールに従って行動しているようだ。
あとは……ちゃんと「元に戻る」という意識まで、維持できているかどうか。
俺は鳥の姿に変身し、意識を集中する。肉体を彼女に返すことはできた。次は……
「クェェ」
小さな声で、彼女に聞こえるように鳴く。大声で喚くと、部屋の中の異変に気付かれるから、それはしない。
これもまた、事前に取り決めた合図だ。夜になったら部屋に戻る。自分が誰だかわからなくなったら部屋に戻る。そして、鳥の鳴き声を聞いたら、人間に戻る。
俺は意識を集中して……一瞬の後、巨鳥は少女になった。
ふう、一安心だ。
と思って見ていたら。
リリアーナは、俺を見たまま、首を傾げている。これは……まずいパターンな気が。明らかに知能が低下している。
とりあえず、このまま部屋の外に出られたりとかしたら、困る。それよりもっと怖いのが、まだ飛べると思って、窓から飛び降りることだ。
仕方ない。
全裸の少年の姿に変身する。
「さ、寝るんだ」
無理やりでもいいから、とにかくベッドに寝かしつける。動かずにいてくれれば、それでいい。時間さえ経てば……
ところが。
「あー」
やはり。
言葉をまた忘れている。
そして、俺に笑顔を見せながら、縋り付いてくる。
「ちょっ」
「あー」
だから、絵図としてまずいんだってば。裸で抱き合うお嬢様とフェイ。これ、死ぬから。俺が。
外に誰かいないよな?
「ね、寝て。寝てください」
「あー」
俺が押さえつけると、おとなしく横になる、だが、手を離すと、起き上がろうとする。そしてまた、俺にしがみつこうとする。
とりあえず、下手に動かれると困る。
「わ、わかりましたから、ほら」
もう、ヤケクソだ。
自分からベッドに入って、横たわる。すると、リリアーナも逆らわず、布団の中にもぐりこんできた。そして、俺をしっかり捕まえる。
時間は、それほど必要なかった。
充分食べたリリアーナの肉体は、疲れきってもいたのだ。ほどなく彼女の腕からは力が抜け、突っ伏した髪の毛の向こう側からは、寝息が聞こえてきた。俺はそっと体を離す。
再び意識を集中して、翼を広げる。窓枠に足をかけ、振り返る。
この小さな少女に、なんという重荷が背負わされていることか。
雲の多い暗い夜空に向かって、俺は羽ばたいた。
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