お嬢様の日常・下
建物の外に出て、敷地の北東部、秘書達のいる指令棟に向かう。あそこなら筆記用具くらい、あるはずだ。
「あっ、お嬢様」
背後の足音に気付いて振り返ると、そこにはナギアがいた。
「こんなところまで、どのようなご用件でしょうか」
俺をまじまじと見ながら、そう尋ねてくる。
あまりよくない状況だ。そうか、リリアーナは、わざわざ外出しないのか。普段は、この時間には疲れきっているはずだから、自室でぐったりしているのかもしれない。
「ちょっと筆記用具を借りたくて」
「ええ? それなら、館のほうにもあったかと思うんですが」
「えっと、うん、ちょっと手元になくて」
正直、ナギアとは接点を作りたくない。他の人間も避けたいのだが、特にリリアーナの傍にいる人間は。いつもとの違いに、すぐ気付くだろうからだ。それに、人に会えば会うほど、本人に報告すべきことが増える。
「はぁ」
「まぁ、いいわ。自分でもらってくるから、気にしないで」
なるべく女言葉を使って、適当に距離を取ろうとする。だが、そこでナギアが詰め寄ってきた。
「お嬢様」
「は、はい?」
「差し出がましいとは思うのですが」
「なんでし……なにかな」
なるべく澄ました顔をして、その場で自然体を取り繕う。
危なかった。さっきまでのメイド相手の言葉遣いのまま、接するところだった。よく思い出せ。俺の目の前で、ナギアに砕けた口調で喋っていたじゃないか。
「あまりよからぬことには、首を突っ込まないほうがいいかと」
「よからぬ……こと?」
はて?
リリアーナが何か、悪巧みをしているとか、そんな話は本人からも聞いたことがない。
「なんのことだか、さっぱりわからないんだけど」
「ええと……じゃあ、はっきり申し上げます。フェイのことです」
「フェイ? フェイがどうかしたの?」
このガキ。
俺のいないところでも、俺の悪口を言いふらしてやがるのか。
「どうかと言いますか……あれは、私が思うに、よからぬ者です」
「どうして?」
単にナギアが、俺を嫌っているだけでこんなことを言うのであれば、あとで痛い目をみせてやろう。だが、ここまで言うからには、何らかの根拠があるはずだ。
「お嬢様は、おかしいと思いませんか」
「どんなことが?」
「子爵家に買われてきた奴隷の分際で、数々の事件を起こしてきました。お嬢様はご存じないかもしれませんが、今では怪しげな商売まで始めているとか」
怪しげって、どんな? と尋ねようとして、やめた。
俺プロデュース、グルービー後援の風俗店のことだ。具体的に説明せよ、と言われても、ナギアの口からは無理だろう。
しかし、こうなると、ナギアの俺嫌いの背景には、誰か大人がいるな? 無論、彼女自身も俺を嫌っているのだろうが、更に俺を嫌うような情報を流している人物がいる。でなければ、ナギアが売春宿のことを知ったり、理解できたりするはずがない。
で、まだ八歳の彼女にそんなことを吹き込む人物といえば……そういうことか。
「それに、先日、見てしまったんです」
「何を?」
「イフロース様と、剣で戦う様子を」
……あれか。
いきなりの練習試合だった。ああいうのは、突然に人前で、というのであれば、もう御免蒙りたい。
「お嬢様、私は剣術などわかりませんが、あれは普通の子供の動きではありませんでした」
うん、まあ。
十年以上の修業を積んだのと同じレベルの剣技だから、素人目にも、凄さが伝わってしまう。
「しかも、その、あれは果し合いでもなく、ただイフロース様が戯れに稽古をつけてやっているだけだというのに……あのフェイめは、卑怯にも! 足元の砂を投げつけて、目潰しにして、ただただイフロース様を傷つけようとしたのです!」
あー……
確かにやった。でも、あれはああいう訓練で、試合なんだ。
イフロースは、俺に騎士の剣を授けようとしているんじゃない。強ければいい。戦えればいい。そういう実戦の剣を教えてくれようとしたのだから。きっとイフロース自身は、これっぽっちも気分を悪くしてはいない。
だけど、ナギアには理解できないだろう。
「あの狂暴な戦いっぷり。確かに、父と共に海賊と渡り合ったとの噂も、きっと事実なのでしょう。相手の寝首を掻くような卑怯なやり口で、賊どもを捕らえていったに違いありません。それはそれで、その場では役立つやり方だったのかもしれませんが」
だんだんわかってきた。
ナギアは、俺を嫌うだけではなく、恐れ始めている。実際に俺の目の前では、そんな素振りはまったく見せなかったのに。
「お嬢様、お気をつけください。あの者の近くには、きっと災厄があります。現に父は海賊に襲われました。ついこの前も、よりによってこのピュリスにて、大勢の賊がのさばっていた事実が明らかになりました。そのどちらの出来事にも、フェイが関わっているのです」
言われてみると、その通りだったりする。
俺、本当に七歳児か? ってレベルで、何度も死に掛けている。凄まじい不運が取り付いているとしか思えないくらいに。
なるべく周囲を巻き込まないようにしないといけない。
「そっか」
あえて逆らわずに、肯定してみせる。
ナギアのこの話も、ちゃんとリリアーナに伝えないとな。
「考えておく。わざわざありがとう」
「お嬢様」
立ち去ろうとする俺に、彼女は言った。
「いざとなれば、私がお嬢様の盾となります。ですが、なにとぞご自身でも、充分にご注意を」
そう言うと、ナギアは頭を下げた。
俺は軽く手を振って、指令棟に足を踏み入れる。
だが、頭の中では、ナギアへの評価を変えていた。
俺のことを悪く思っているのを別にすると。子爵家やリリアーナに対する忠誠心には、確かなものがある。八歳という年齢でこの覚悟。盾になると、はっきり言い切った。いろいろ歪んでいるとはいえ、彼女は、使用人の中でも、やはり主人に忠実な、組織の中核になるべき人物なのだろう。
きっと俺への悪意も、主人への忠誠心も、彼女の母、つまりウィムの乳母が仕込んだものに違いないのだが。
そう、乳母だ。名前をランとかいったな。あの無表情な女。確か、セリパス教徒だったか。それも、子爵夫人みたいな、セリパス教徒か女神の信者か、区別がつかないような感じじゃなくて、ハッキリとセリパス教に入信している人間だったはず。だとすれば、風俗店の経営というだけで、吐き気がするのかもしれない。
子爵家の中枢にいる彼女からすれば、俺は目障りな人間に違いない。彼女は代々エンバイオ家に仕えてきた一族の出身だから、生え抜きだ。一年前にリリアーナの傍仕えから、田舎の農園送りになった連中も、同じく。
で、俺は……新参者のイフロースが買い求めてきた、つまりは子爵家内部の新興勢力。なんてこった。要するに、派閥争いか。旧来の連中がお嬢様の眼前から消え去り、外様のくせに我が物顔で屋敷の中を歩き回るイフロースが、こともあろうに不潔な奴隷をお嬢様のお傍近くに……
面倒だな。
ただ、ナギアについては不憫といえなくもない。子供の頃から、それとはっきり理解できもしないうちに、そういう揉め事に深く関わってしまっている。
しかも、彼女の母は旧来の勢力の代表格なのに、父はといえば、どちら側でもないのだ。騎士の腕輪を嵌めたのに、そもそも子爵家から浮いてしまっている。だが、うまくやっていれば、きっとディンは、執事側の一人に数えられてしまっていたはずだ。その辺、詳しいことを、彼女は聞かされてなどいないだろう。まさか家庭内が、派閥争いの余波でボロボロとか。
……今度会ったら、ちょっとだけ親切にしてやろう。
そう思った。
指令棟の上層階に向かって歩く。
誰か見知った顔があれば、声をかけて……と二階に登ったところで、早速、イフロースと鉢合わせた。
「お嬢様? こんなところへ、どのような」
「ああ、イ……じいや」
いかんいかん。
俺、演技の素質がないな。
「何か、その、紙とペンを借りたいの」
「おお、そのようなことで」
イフロースの表情は、かつて見たことがないほど、優しげだった。それこそ、孫を見るおじいちゃん、といった雰囲気だ。
「少々お待ちを」
そう言うと、彼は近くにいた秘書課の男に声をかけた。
「私の部屋に行き、適当なペンと、メモ用紙を数枚、取ってくるように」
「はっ」
目の前の人物の身分を悟り、男は早足に去っていった。
「ただ、筆記用具でしたら、館のほうにもあったはずですが」
「ああ、うん、そうなんだけど」
あのメイド達を見たら、とても声をかけられなかった。あの雑談の中に割って入ったら、きっとギョッとした顔を見せてくれただろうが。
「ふむ」
「明日にはちゃんと返します」
リリアーナの事前情報によると、イフロース相手には、くだけたような、くだけていないような言葉遣いをするのが普通だ、とのことだった。よくわからない説明だ。ただ、俺の目の前では、甘えた話し方をしていたな。とはいえ、あれがいつもというわけでもないのだろう。だから、丁寧ながらも微妙に上位の人間らしく話すよう、注意している。
「お手紙ですかな? いや、失礼。下僕の分際で尋ねることではありませんな」
その口調からは、詮索されているような、嫌な感じはなかった。むしろ、彼は首を突っ込みたくてたまらないのだが、立場があるから我慢している、といった印象だ。どうやら俺、じゃなくてリリアーナの相手をするのを、本当に楽しみにしているように見える。
「ないしょ、です」
あえて、そう言ってやった。
「ははは、内緒ですか」
俺には見せたことのない、優しそうな顔。確かにこれなら、じいやと呼んでもいいかもしれない。
だが、彼の立場は、他の召使と変わらないはずだ。守旧派と革新派の違いはあるとはいえ、どちらにとっても、リリアーナはただの駒でしかない。他の貴族との政略結婚に使われるだけの。
普段、あれほど忠勤に励んでいるのに……サフィスに対して、実はさほど敬意を抱いていない彼。ならば、リリアーナやウィムに対しては、どうなのだろうか?
「ねぇ、じいや」
リリアーナには悪いが、この機会を逃す手はない。
「じいやはどうして、この屋敷にいるの?」
「ふむ?」
「昔は、有名な傭兵だったんでしょう? やりたいことがあれば、どこででも頑張れると思うのに」
一瞬、真顔に戻りかけた彼だが、顎に手を置き、少し考えるようにして、答えを捻り出した。
「そうですなぁ……今となっては、あまり考えなくなりましたが。私にしてみれば、ここが我が家のようなものですからな」
「子爵家が、ですか」
「そうですな」
彼もやはり、子爵家、エンバイオ家の栄光のために働いているのだ。
その向こうに、彼の栄達もある、というわけか。
だが、それにしては。しっくりこない。今まで目にした彼の姿には、欲のようなものが見当たらなかった。
「私は、ここでお仕えさせていただけて、本当に幸せ者でございます。それだけでは、いけませんか」
優等生的な回答過ぎて、どう受け止めたらいいのだろうか。
わからない。
彼の考えていることが。
「……じゃあ」
わからないのは、俺の課した設問が、不適切だったからだ。
だから、別の質問をしてみる。
「もし、じいやに何か一つだけ、どんな願いでもかなえてあげるって言ったら、何がいい?」
「ほう……むむむっ、難しい質問ですなぁ」
改めて腕組みして、顎に手を当てて、彼は考え込む。
「私じゃなくても、お父様とか、国王様とか……ひょっとしたら、女神様が願いをかなえてくれるとしたら?」
リリアーナがかなえてあげられる願いなんて、たかが知れているからな。
「つまり、何でもかなえてもらえる、と?」
「そうです」
「ははぁ、なるほど」
何か、納得したような顔をした彼は、そこからは一切迷わず、言い切った。
「それはもちろん、お嬢様に、ウィム様、それにお二人のお父様、お母様が、毎日元気に、楽しく暮らしてくださることですかな」
「え……」
なんというきれいごと。肩透かしをされた気分だ。
「他にはないの?」
「ございませんとも」
「だったら、どうして」
そこで言葉を切る。
イフロースの戦略なら、理解している。彼は、エンバイオ家によるピュリスの実効支配を推し進めている。今はたくさんの人間を送り込んで、子爵家中心の金の流れを確保しようとしている。要するに、すべてをコネまみれにしようとしているのだ。
だが、今、彼が言ったように、一家の幸せを願っているというのなら。何もこんな街を支配する必要なんかない。高位の貴族になればなるほど幸福というのでもあるまい。田舎のトヴィーティアでのんびり暮らしたっていいはずだ。そうすれば、少なくともリリアーナが誘拐されるような事件は起きなかった。
しかし。そんな質問を、まだ六歳のリリアーナがするのは、おかしい。いくら彼女が聡明だといってもだ。
「おつらいですか」
だが、イフロースはイフロースで、こんな質問を投げかけるリリアーナの心情を推測する。どうやら、踏み込みすぎたらしい。
彼は、俺の目の前にしゃがみこんで視線の高さを合わせた。
「ですが、立派な淑女になれば、将来もひらけてまいります。お嬢様ご自身の幸せのためにも、今は努力なさいませ」
「淑女に育てば、他の家に嫁げるから?」
ポロッと呟いてしまった。
結局はそこか。やはり、駒。
俺の一言に、彼は目を見開いた。次に、前後左右を慌しく見回し、そっと耳元に口を寄せてきた。
「ここだけのお話ですぞ、お嬢様」
なんだ?
「正直、そんなことはどうでもよろしい」
「えっ?」
「もし、将来、ウィム様と、お嬢様が、身分も領地も、何もかもを捨てて遠くに旅立つというのであれば。もしそうなっても、私はついていってお仕えするだけでございます」
意外なようで、しっくりくる一言だった。
何も難しいことはない。一年前の誘拐事件の後始末でも、自分をボケ老人役にして、子爵の名声を守ったりもしている。彼は欲得で動いてはいないのだ。
しかし、それはまた、どうしてなのだろう?
「お嬢様」
目の前には、穏やかな顔をした老人が跪いていた。
「我慢も苦労も覚えてみるものですよ。ですが、肝心のところでは、誰も何も気にすることはありません。好きなようになさいませ」
今度は、俺が目を見開く番だった。
なぜだ?
内心が叫んでいる。これは混じりけのない忠誠心に違いない。だが、どうしてそんな気持ちになったのか?
すぐに思考を物音が打ち消した。ペンとメモ用紙を取りにいった男が、やっとここまで戻ってきたのだ。
「ご苦労」
いつもの執事の顔を取り戻して、イフロースはそれらを俺に手渡す。
「では、確かに」
俺はそれを受け取り……頭の中を整理できないままに、なんとか言葉を搾り出した。
「ありがとう」
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