お嬢様の日常・中

 ……やっと終わった。

 二時間もずーっと基礎練習。これは堪えた。しかも、リリアーナの体はあまり鍛えられていない。まだ六歳の、それも貴族の娘なのだから、仕方がないと思うのだが。とにかく、やたらと疲れた。

 これ、いつもどうやって彼女は切り抜けているんだろうか。俺は馬鹿正直に言われる通りにしてしまったのだが、本人なら、きっとうまくやり過ごしていたに違いない。狡猾さというのは習慣であり、才能でもある。まだ六歳の彼女に備わっているのに、前世含め何十年もの人生経験があっても、俺にはない。


 ともあれ、やっと自由になった。とりあえず、ゆっくり横になりたいのだが。さっきの自室に戻り、俺は喉の奥から息を吐く。


「お嬢様」


 後ろから声がかかる。ビクッとした。

 普段のリリアーナならしないような仕草、特に品がないと思われるような挙動は、極力避けなくては。注意しないと、どうしたって男臭さが出る。


「お食事の用意が整いました」


 えっ……

 嬉しくない。今は空腹感があんまりないし。第一、汗だくでベトベトして気持ち悪い。水浴びしたい。その後、せめて一時間くらい寝たいのに。

 だが、メイドは構わず先に立って歩こうとする。それこそ、後ろを振り返りもせず、ズンズンと。仕方なく、トボトボとついていく。


 案内された先は、中庭を見下ろすテラスだった。こざっぱりとしてきれいな場所ではある。頭上に日傘があるおかげで日差しも防げるし、風も通る。居心地は悪くない。

 ただ、なんだろう。釈然としないというか。


 俺は、周囲を見回した。まっすぐ行った先に、テーブルが一つ、椅子が一つ。

 そのテラスに出るまでの廊下に、メイド達が並んでいる。やけに物々しい雰囲気だ。

 ……見張り?


「あの?」


 少しの言葉で、俺の疑問を表現してみる。あまりたくさん喋りたくない。ボロが出るから。

 でも、この様子には、少し違和感がある。こんなにジロジロ見られながら、どうやって食えというんだ。


 俺の様子に、メイドの一人が、目を伏せつつ、やっと言った。


「本日は、お父様もお戻りにはなれません。お母様は、お客様とご歓談中です」


 ああ、そういうことか。

 そうだよな。まだリリアーナは六歳だ。そんな子供が、自宅にいるのに、親と食事を共にしない。それだけでも、結構、異常な状態に違いない。

 ん? でも待てよ?


「その……ウィムは?」


 口に出すべきかどうか、かなり迷った。

 普通、それなら、せめて姉と弟を一緒にして、食事をさせるだろうに。

 なぜそれを尋ねるか迷ったかというと、これが子爵家の普段の常識かもしれないからだ。


「……別室でお食事をなさっているかと思いますが?」


 少し言いにくそうにしていたが、答えてもらえた。


 そうなると。

 リリアーナはいつも、こんな風景の中、食事をしているのか。

 六歳の子供が、たくさんの大人に見張られながら。家族も友達もいないところで……


 モヤッとしたものを感じたが、俺は構わずテラスへと進んだ。


 決して広くないテラスは、それなりに飾り立てられていた。ベランダの柵には花が飾られ、隅のほうには丈の低い木が、植木鉢に収まっていた。白地に金の装飾のついたテーブルが置かれ、そこに白磁の皿が置かれている。

 そして、俺が近くにやってくると、メイドがそっと椅子を引いた。当たり前のように座ろうとして……座席の斜め後ろに立つ女に気がついた。


 その女は、左手にボードのようなものを持っていた。その影に、ペンを持つ右手が隠れている。

 一瞬、視線が重なったが、すぐに目を伏せてきた。


 マジか。今、本気で食欲がなくなった。

 これはリリアーナから聞いている。たまに食事のマナーを採点されることがあるそうだ。貴族の娘として、恥ずかしからぬ振る舞いを身につけるため。とはいえ、厳しすぎやしないか。こんな環境で、誰とも話もせず、ただ気を張って、目の前のものを口に運ぶのか。


 ややあって、スープが運ばれてくる。俺は、極力音を立てないよう、静かに口に運んだ。それを、後ろに並ぶ五人ほどのメイドと、お目付け役の女が、黙って見張っている。

 味は……悪くもないが、そこまでよくもない。俺の舌が厳しすぎるのはわかっている。残念なことに、俺はこの料理がどんなプロセスで作られたのか、わかってしまうのだ。


 来客中ということは、子爵夫人とそのお客の食べるものを、カイ・セーンが自ら手がけているはずだ。こちらは失敗が許されない場面だからだ。となると、お嬢様と御曹司の口にするものは、若干、手抜きにせざるを得ない。

 まず、最初のスープは、料理長の下で一番腕のいい見習いが作ったものだ。育ってきているとはいえ、そこは所詮、修行中の身。さすがにグラグラに煮立てたスープを出してきたりはしないのだが……それでも温度と味の絶妙な関係がわかっていない。どれくらいの温度で、どの程度、味を感じるのか。例えば、前世では、ぬるくなると甘すぎる飲み物が多かった。微糖の缶コーヒーは、冷えてないと微糖とはいえなくなる。料理には、食べるタイミングと、食べ終えるまでの時間があるのだ。

 メインディッシュは、さすがに料理長の手によるものだ。しかし、これはもともと冷えている。そういうものを作り置きして出しているのだ。本当はもっとおいしくできるのに……

 素材はいいものばかりだし、料理長にせよ、他の厨房のスタッフにせよ、与えられた条件の中では、彼らにできる全力で仕事をしている。それはわかるのだが、なんというか、この環境も相俟って、何かとチグハグな印象を受けてしまった。


 食べ終わり、俺はなるべく品よくその場を後にした。胃の中に何か重たい石でも転がっているような気分だった。


 部屋に帰る途中、廊下でかすかな物音を耳にした。広さの割りに人の少ない屋敷の中。メイドの数は少なくないが、侍女として傍で働く者達を除けば、あとは目に付くところにはいない。当たり前だが、大量の洗濯物を抱えてバタバタ走り回るメイドの姿など、見苦しいので、主人の生活空間の中には出てこないのだ。

 だから、廊下はいつも静かで、余計な物音などしないはずなのだ。それなのに、人の声? あれは、女達の話し声だ。しかし……


「あっ、お嬢様?」


 後ろで呼び止める声がしたが、気にせずそちらに向かう。

 この屋敷、主人の暮らす領域で私的な雑談をする女達などいない。密談ならいざ知らず、少なくともこんな大声では。もちろん、まったく話をしないわけではないし、そこまで厳格でもないのだが、そういうリラックスした時間が欲しいなら、ちゃんと別のスペースがあるのだ。ということは……

 廊下の角に立ち止まり、そっと向こう側を窺う。


 開け放された扉の向こうに、数人の侍女が見える。みんな、顔に笑顔を貼り付けている。その真ん中に、丸々とした三歳児が腰を据えていた。

 テーブルの上には、皿と……いろいろなオモチャ。侍女達が、必死でウィムのご機嫌をとっている。


「お嬢様」


 声を潜めて、背後のメイドが退去を促す。

 なるほど、そういうことか。


 俺自身は子育てをしたことがないが、前世の兄には子供がいた。三歳というのは難しい時期で、食欲がなくなったり、好き嫌いが激しくなったりするらしい。どの家庭でも、躾には苦労するそうだ。

 だからといって、メイドの立場では「食べなさい!」と怒鳴りつけたりするわけにもいかない。まぁ、実の親でも、それをしたら、子供が食事そのものを恐れるようになったりするんだけれども。だからああして、頑張って気を逸らして、その間に少しずつでも食べさせるようにしているのだ。


 俺にはその理屈がわかるから、スルーできる状況だ。

 しかし、リリアーナ本人には、どう映るだろうか?


「お嬢様、午後の予定でございますが」


 その場を離れて、自室に向かう途中、後ろに立つメイドが話しかけてきた。


「今日は、礼儀作法と、読み書きの授業がございます」


 うえっ。

 午後も休ませてくれないのか。


 四時間後。俺は今度こそくたびれて、自室のベッドに突っ伏していた。

 なんなんだ、この生活は。六歳児にとっては、デタラメにハードじゃないか?

 朝、二時間も楽器の演奏をさせられた。昼食は採点されながら。午後はそれぞれ一時間半の授業。授業中に十分ほど、間に三十分の休憩が入るとはいえ、これ、集中力が切れるだろうに。

 彼女は、毎日こんな時間を過ごしているのだろうか。


 だが、休むのもほどほどにしないといけない。今日、俺がどんな行動をとったか。授業で何を学び、浴びせられた質問にどう答えたか。それをメモして引き渡さなくては。でないと、戻ってきた彼女には、空白の一日を埋め合わせる手段がなくなってしまう。

 この部屋、椅子も机もある。だが、見ると筆記用具がなかった。仕方ない、もらいにいかないと。


 そっと廊下に出る。薄暗くなりかけた中を、俺は音もなく歩く。隠れているわけではないのだが、お嬢様たるもの、ドタドタと走り回るわけにはいかない。俺の前では結構、好き放題していた彼女だが、実際には、普段はかなり我慢して暮らしていたに違いないのだ。

 とある扉から、光が漏れているのを見つけた。灯りがあるということは、人がいるということ。メイドの一人にでも声をかければ、筆記用具くらい、運んできてもらえるだろう。だが、そこで俺は足を止めた。


「……そうなのよ、本当にね」


 ひそひそ声で話をしている。ねとつく女の声だ。


「去年のアレがいけなかったのよ」

「正直、近寄りたくないわねー」


 なんだ?

 何の話だ? 声色から察するに、なんだかすごく気持ちが悪い感じがするのだが。

 去年? アレ? ということは、まさか。


「本当にさぁ、うまいこと話が通ってよかったわよねー、警備は増やして、メイドは減らすとか」

「あれ、お嬢様が自分で、人は少しでいいとか言ったらしいわよ?」

「助かる助かるー。だってさぁ、なんかあって責任とかになったら、コトじゃない?」

「いっつも抜け出したりとかしてたしさぁ……もしお傍仕えとかになったら、気が抜けないよねー」


 これは……

 息が詰まりそうになった。


 去年の今頃、リリアーナは誘拐された。無事、戻ってきたわけだが、あれから彼女の身辺は一新された。彼女の傍仕えのメイドは全員、トヴィーティア送り。その代わりは、いまだに置かれていないのだ。

 理由は? 彼女自身が望まなかったからだが、それだけではなかった。メイド達としても、そういう我儘なら、願ったり叶ったりだったのだ。

 本来、主人の傍仕えとなれば、その権威を借りて好き勝手ができる。ところが、リリアーナときたら、しょっちゅう屋敷を抜け出したりするような問題児だった。周囲の立場からすれば、かなり苦労させられたのではなかろうか。

 それに、リリアーナは長男ではなく、長女だ。いつかは他所に嫁に出される身分。嫁ぎ先が貴族でなければ、自身も貴族でなくなってしまう。次期当主の地位が約束されたウィムに仕えるのに比べたら、旨みが少ないのだ。

 だから、召使達にとってのリリアーナとは、ある意味、見捨てられた存在だ。どうせ嫁に出すのだから、そこまで大事にしなくてもいい。ただ、巻き込まれないようにすれば。躾ができていないと、売れ残ってしまうから、それだけはやらねばならない。時間が経てば、どうせ屋敷内の社会からは、縁が切れる。


 甘かった。

 彼女の周囲は、ほとんど何も変わっていなかったのだ。

 そして、実は聡い彼女のこと。メイド達の態度だけでも、その気持ちを見抜いたに違いない。こうして会話を盗み聞きしたことだって、あるかもしれない。しかも、彼女の記憶力のよさは、真似できないほどのものだ。一度耳にした悪意の言葉を、彼女は決して忘れない。忘れられない。


 俺は、薄暗い廊下へと引き返した。

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