お嬢様の日常・上
鼻を麻痺させる香水の渦の中を踏み越えて、俺は今、ドアをノックしていた。
「はぁい……あ、フェイさん?」
出迎えてくれたのは、エディマだった。顔の腫れもすっかり引いて、生来の愛嬌のある顔つきが戻ってきた。
「ごめん、ちょっと場所を借りたいんだ」
「ど、どうしたんですか?」
「大したことじゃない、今日一日だけ、四階の部屋を一つだけ、借りるから。出入りするけど、気にしないで」
「は、はぁ」
返事を待たず、ずかずかと踏み込む。
周囲を見回すと、俺がいない間も、決められた訓練を繰り返しているのがわかる。頻繁に取り替えられる備品。使用済みのタオルが籠の中に積み上げられている。この調子でいけば、来月にはオープンできるかもしれない。まぁ、そうしないと、俺の資金が本気で尽きる。
「いい? 部屋には入らないでね?」
「は、はい」
エディマがそう言うのを確認すると、俺は階段を早足で駆け上がった。
四階の一室に飛び込む。普段は木の板で塞がれている。扉すら設置していないのだ。その板をずらして中に入り、また元に戻す。見上げると、大人でも手の届かないような場所に、窓が一つ。
「さて……」
今は朝十時頃。いろいろ準備していたら、この時間になってしまったのだ。あまり遅くなると、間に合わなくなると言われている。
背中からリュックを下ろす。中には、大きな肉片が入っている。
そして……その場で精神を集中する。
一瞬の後、俺は巨大な鳥の姿になっていた。久しぶりだ。この感覚。
しかし、今日、大空を満喫するのは、俺ではない。
ささっと駆け寄り、足元に落ちたリュックを拾い上げる。足で掴むと、無理やり羽ばたいて、窓まで這い上がる。この肉は、俺のじゃない。ほぼ半日、外で遊ぶ彼女のためのものだ。
充分に持ち上げられる重さと判断して、俺は一気に滑空する。この建物から距離をとるまでは、派手に羽ばたきたくない。目立つのは避けたいのだ。せっかく自宅から飛ぶのをやめたのに、こんなところで見咎められては、意味がなくなる。
街の東側から西側へ。俺はさほどの注意を集めることもなく、飛び渡る。やがて、丘の頂上に広い面積を占める子爵家の敷地が目に入ってきた。
目的地は、もうわかっている。しかもそこには、協力者……というか、今回の主犯が、人払いをして、窓を開けて、今か今かと待ち構えているのだ。一気に俺は、大きく開いた窓へと飛び込んだ。
「わぁ!」
嬉しそうな声が耳に届く。
くそっ。人の気も知らないで。
俺は姿勢を整えると、そっと床に着地する。そして、リュックを下ろす。リリアーナがそこから肉を取り出す。すべては事前にこっそり打ち合わせておいた。いちいちこの場で話したりはしない。俺が人間の体に戻った場合、全裸で出現することになる。そんな格好を見られるのはごめんだし、そうでなくても、お嬢様の部屋から男の声がするのは、大変によろしくない。
いまや彼女は、ワクワクしながら、その場に立っている。その瞬間を待ちわびているのだ。俺は、彼女に向けて意識を集中する。
次の瞬間、肉体の片方を失った彼女は、自然と巨鳥の姿に変身する。ちなみに、これを実行するための枠を空けるために、商取引のスキルは、屋上で育てている薬草に移してきた。あの草が枯れたり、捨てられたりしたら、俺の5レベルの商取引スキルは、永遠に失われてしまう。
ここで一つ、打ち合わせた手筈がある。鳥になったら、まず、時計回りに三回まわって、それから翼を広げて仰向けになれ、と言っておいたのだ。なんでそんな無駄なことをするのか? 俺が一番恐れているのは、人間の形態を失うことによる知能低下だからだ。もし、変身直後にこの程度の言いつけも実行できないようなら、飛び始める前に、即座に取り押さえるつもりだった。
だが、彼女はちゃんと言われた通りにした。一安心だ。
俺は嘴で、そっと肉の塊を押しやる。鳥になった彼女は、それをガツガツと食べる。できれば、あまり興奮しすぎないで欲しい。意識が飛びやすいのは、そういう瞬間なのだから。
けれども、彼女は案外、うまくやったようだ。今日の食事を済ませると、元気にベッドの上に飛び乗り、そこで俺に向かって翼を広げ、挨拶してみせた。それから背を向け、大空へと舞っていったのだ。
大丈夫かな……ああ、心配だ。気が気でない、といったほうがいいくらいだ。
途中で頭の中が完全に鳥になってしまったら。もう、連れ戻す手段がない。その場合は、フェイかリリアーナか、どちらかの人生が、完全に消滅することになる。
まぁ、とにかく、心配しても仕方がない。それに、意識をなくしかけたら、屋敷に戻ると決めてある。不思議なことに、変身する前に決めたルールは、意識が吹っ飛んでも、なぜか実行する。最初に虫に変身した時から、そうだった。
さて、俺は俺で、やらなければいけないことがある。まず、鳥の姿から、人間に変身する。但し、いつものほうじゃない。
『これ、いろいろ問題あるよなぁ……』
思わず、日本語でぼやいてしまう。
そう言いたくもなる。俺は今、フェイではない。リリアーナその人に成り代わったのだ。当然、全裸の状態で。
このままで召使に見つかるのもまずいので、俺は急いで衣服を拾い上げる。と同時に、外から足音が迫ってくるのが聞こえる。急がないと……!
「お嬢様? お嬢様!」
鍵をかけておいてくれてよかった。
「開けてください、どうなさったのですか」
外から、焦ったメイドの声が聞こえてくる。
「どうもしないよ? どうしたの?」
そう声を張り上げつつ、俺は足元のリュックをベッドの下に追いやる。そうしながら、衣服に無理やり袖を通す。
「先ほど、警備の者から連絡が! お嬢様の部屋から、怪しい影が見えたとのこと! 開けてください」
飛び出していく際に、目にとまってしまったらしい。
なんとでもごまかせばいい。服も着終わった。一度深呼吸して気持ちを落ち着かせると、俺は静かに扉を開けた。
「慌てすぎなんじゃないの?」
呆れた、と言わんばかりの声で、俺はメイドを見上げる。
「ほら、何もいないでしょ?」
汗の雫を頬に残しつつ、二人のメイドは部屋の中を見回す。だが、怪しい影など、どこにも見当たらない。
「それじゃあ、ぼ……私は、まだ休むから……」
そういって、二人を追い出そうとする。今日は一日、体調が悪いということにして、寝て過ごすつもりなのだ。これも計画のうち。リリアーナが普段、何をしているかを詳しく調べ上げたわけではない。重要なポイントだけは教えてもらっているが、そんな程度の情報では、きっとボロが出る。だから、なるべく行動しない。
「お待ちください」
肩に手を置かれる。
「今日は確か、午前中にヴィオールの先生がいらっしゃるはずですが」
「ヴィオール?」
って、それって確か。しまった。いきなりピンチだ。
「貴族の子女ならば、音楽くらい、嗜みませんと」
「今、時間は」
「大変、そろそろじゃないかしら?」
ヴィオール。
あれだ、ヴァイオリンの前身になった楽器で、確か弦が六つもあるやつだ。もっとも、この世界のヴィオールだから、少しは形が違うのかもしれないが。
練習も打ち合わせも事前情報もない中、いきなり楽器?
ああ、どうすれば。
「あ、あの、私、体調が」
「ダメですよ。しっかりやることをやりませんと」
俺の、いや、リリアーナの小さな腕が、左右から掴まれる。
逃げ場はないようだ。
「さぁ、参りましょう、お嬢様」
ううう。
どうしろっていうんだ……!
引き摺られていった先は、音のよく響く明るい部屋だった。木の匂いがする。普段なら、気持ちの落ち着く空間だと感じたことだろう。少々埃っぽいが。
しかし、今はそこに、いかにも厳格そうな女性が立っていた。見たところ、二十代後半か。ねずみ色のスーツにタイトスカートといった服装で、髪の毛を後頭部でお団子にしている。この世界の女性としては珍しいが、眼鏡をかけている。その奥に光る眼光に、俺は身をすくめた。
「遅刻です、お嬢様」
お嬢様、と言いながら、声色には何の敬意もこもっていない。
「練習曲は、ちゃんとおさらいしてきましたか」
「は……ええっと」
どうする? どうしよう?
リアルなリリアーナなら、どっちだろう?
どっちでも同じか。今の俺は、他人の能力を奪取できない。丸一日のクール時間の最中だ。つまり、今の俺自身の実力で、楽器の演奏をしなくてはならない。
「じゃあ、早速、やってみてください」
「は、はい」
俺はそう答えると、後ろに立つメイドが、楽器ケースを差し出してくる。しぶしぶ受け取り、開けてみる。中には五弦の、子供向けのサイズとみられるヴァイオリンもどきが納められていた。
こんなの、弾けるわけない! 前世で何か楽器の経験を積んでおけばよかった!
楽器を出したはいいが、このままでは何もできない。肩当てらしきものがあるので、それは適当に楽器に噛み合わせる。これでなんとか、肩で支えることができそうだ。知識でしか知らないのだが、この手の楽器は、手先で支えるのではなく、首と肩で挟み込んで姿勢を維持するらしい。
だが、問題は……
「はい、始めて」
「えっと」
俺はいったん楽器を下ろし、あたふたと探し物を始める。
「何をしているのですか」
「えっと、楽譜を」
「楽譜!? 暗譜してこなかったんですか!」
ひいい!
怖い。なんだかやたらと怖い。どうしよう?
いや、落ち着け。落ち着くんだ。きっと大丈夫。
だって、ほら。
リリアーナにはまだ、楽器スキルが生えてなかった。つまり、もともと彼女は、真面目に音楽に取り組んでこなかったのだ。ということは、俺が上手にやれなくても、そこまで違和感はないはず。
「ご、ごめんなさい」
「いいから、始めなさい」
メイドが譜面台の上に、それらしき楽譜を置いてくれた。
うん、全然、読めない。意味がわからない。
これは、スキルを奪っても無駄だ。だって、知識そのものがないんだから。
う……どうしよう。
下手なのはいいんだ。サボってた、ってことにすればいい。
だけど、問題はそこじゃない。俺は、何をすべきかということ自体、知らない。
「まだ何か? 早くしなさい」
ああ、もう、どうとでもなれ、だ。
俺は、ヤケクソになって、あらん限りの力を右手にかけて、ぐっと弓で弦をこすった。
ガリッ! ギュリギュリギュイィン……ザリザリザリッ。
あ、あれ?
弓が、途中で動かなくなった。
ええと。ええと。松脂を塗ってるはずだから、弓は弦に粘着して、ええと。
……我に返って、前方を見上げる。
耳を塞いで縮こまる音楽教師の姿が見えた。
肩で息をしている。
「……寿命が縮まるかと思ったわ」
こっちも、そんな気がする。
今回は、不毛な授業はお休みにしたほうがいいと思うんだ。
「どうやら、基本から思い出してもらわないといけないようね」
おっ?
「ボーイングから。はい、左手はそのまま、動かさない! 無駄な力を抜いて、上から下まで……」
ら……
ラッキー!?
よかった。基礎練習になった。単に弓を動かすだけ。一つの弦の上で。弓を動かすからボーイングなんだよな。
何がいいって、知識が不要なのが助かる。
「ほら、そこ! 肘、手首。ああ、また」
女教師は、小石を取り出して、俺の右手の甲に乗せる。
「それを落とさないように弓を動かしなさい」
おっと。それはなかなか難しい。
「まっすぐ! 垂直に! 弓と弦に変な角度がつくと」
ギュリッ、カスカスッ。
「あぁあっ、もう!」
なんていうか、ヒステリックな女だな。
まぁ、この騒音に耐えなきゃいけないんだし、気持ちがわからないでもない。俺と違って、音楽に生きてきた人間なら、尚更だろうし。
「これじゃ、奥方様に報告できないわ」
えっ。
「きれいな音が出るまで、何時間でも付き合っていただきますからね!」
そんな!
いきなりハードルが上がったよ!
どうすればいいんだろう?
本物のお嬢様は、こういう時、どうやって切り抜けていたのか。ってか、なんでこんな重要な情報を事前に伝えておいてくれなかったんだ。
……もしかして、このレッスンがイヤで、うまく俺に押し付けやがったな? 畜生!
いや、本来の予定では、一日寝込んだままでいる予定だったから、必要ないはずだったんだけれども。
それから二時間。
俺はずーっとボーイングの基礎練習を続けた。
昼食の時間ギリギリになって、ようやく解放されたのだ。
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